昨日に引き続いて、試験問題の解説の3回目(最終回)です。今日は、このカバーに貼られている切手について説明するよう求めた問題を考えて見ましょう。 なお、試験の問題では、切手と消印の部分のみを使いましたが、せっかくですので、このブログではカバーの全体像をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、イラン・イラク戦争の停戦翌年の1989年にイランが発行した切手のカバーで、切手と同図案の記念印が押されています。切手の額面は国内書状料金の20リアルですから、今回のようにアメリカ宛の郵便物の場合、他の切手(1989年のパリ国際切手展の記念切手)も貼り合せて料金を充当しています。
1980年に勃発したイラン・イラク戦争の本質は、イスラム革命の混乱に乗じてイラクのサダム・フセイン政権が発動した侵略戦争でした。しかし、イスラム革命の波及を恐れる国際社会は、反イランの一点で団結し、イラクの敗戦を防ごうとします。このため、戦争は長期化し、膠着状態に陥りました。こうした状況の中で、1987年7月、国連安保理はイラン・イラク戦争の停戦決議(安保理決議598)を採択しました。
この安保理決議598は、受諾を拒否する国に対しては、制裁などの措置を行いうるとして受諾圧力をかけた上で、停戦とともに双方が占領地域から撤退することを掲げていました。これは、一見、公平なようにも見えますが、イラン領内に占領地を持たないイラクにとっては有利で、イラク領内に占領地を有していたイランにとっては不利な内容です。このため、イラン国内では、この決議は、イランが拒否することを見越して、対イラン制裁措置を導き出そうとするアメリカの意図に沿って作成されたものと受け止められていました。
しかし、1987年7月22日に安保理決議598が成立すると、イラクは最後の大攻勢をかけて被占領地を奪回しはじめ、1988年6月までに作戦をほぼ完了させました。このため、もはや泥沼の長期戦を続けていくだけの余力を完全になくしたイランは、ついに停戦決議の受諾を決定。1988年8月、イラン・イラク戦争は勝者なきまま、ようやく終結しました。なお、戦争終結に際して、イラク側は大々的に勝利を喧伝しましたが、イランではそうした声は聞かれず、ホメイニーは停戦「毒を飲むより辛い」と評しています。
今回取り上げた切手も、そうしたイラン国内の空気を反映して発行されたもので、安保理決議598の文面にイラク国旗の鉛筆で大きく?を記しているデザインが目を引きます。また、右上には、鉄条網に覆われたイラン地図の中で苦しむ人物と鳩が描かれており、国際社会の押し付けた“停戦”の内容に対するイランの不満が表現されています。
試験の答案としては、イラン・イラク戦争に際してのイラン包囲網のことについて触れた上で、イランが安保理決議598に強い不満を持ちながらもそれを受諾せざるを得なかった状況を説明してくれればOKです。
さて、今回の試験では、この3日間でご紹介した問題のほかに、“ハマス”や“アラブ首長国連邦”について説明する問題も設けましたが、これらについては、wikipedia等で検索することも可能ですから、僕のブログではあえて解説しません。
なお、明日(30日付)からは通常通りの内容に戻ります。僕の授業の試験を受けているわけでもないのに、お付き合いいただいた皆様、お疲れ様でございました。