2021-02-01 Mon 01:43
英国政府は、30日夜(日本時間31日朝)、環太平洋経済連携協定(TPP)に正式に加盟申請すると発表しました。TPPには地理的な参加要件はなく、環太平洋以外の国でも参加は可能なのですが、せっかくなので、英国の“環太平洋諸国”としての側面を示すものとして、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1940年に英領ピトケアン諸島で発行された普通切手のうち、同諸島の位置を示す地図を描く3ペンス切手です。 ピトケアン諸島は、南太平洋東部に位置する群島で、中心地アダムズタウンがある主島のピトケアン島をはじめ、デュシー島、オエノ島、サンディ島、ヘンダーソン島の5島で構成されていますが、一番東のデュシー島から一番西のオエノ島まで500 キロ以上離れています。また、人間が定住しているのはピトケアン島のみで、西隣のマンガレヴァ島(仏領ポリネシア)から約700キロ、東隣のイースター島からは2000キロ余り離れています。 1766年4月22日、英国海軍のフィリップ・カートレットを艦長とするスワロー号が僚船ドルフィン号とともに世界一周探検航海に出帆。一行は、同年末にマゼラン海峡を通過して太平洋に出た後、互いに相手を見失って二手に分かれます。このうち、スワロー号は北西方向に進み、1767年2月、地図にない島(ただし、1606年にスペインの探検家、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスがすでに“発見”してはいましたが)を再発見し、同島を目視で確認した士官候補のロバート・ピトケアンにちなんで、ピトケアン島と命名しました。 1789年4月4日、英海軍の武装船、バウンティ号はタヒチ島を出航し、喜望峰経由で西インド諸島を目指すため西に向かっていましたが、4月28日、トンガのフレンドリー諸島で反乱が発生。反乱側は艦長とその支持者を追放した後、いったんタヒチに戻ります。そこから、一部はタヒチに残りましたが、フレッチャー・クリスチャンらはさらに太平洋を東進して1790年1月にピトケアン島に流れ着き、同島で自給自足の生活を始めました。現在のピトケアン島の住民はその子孫です。 しかし、反乱者とタヒチから連行してきた者との間でトラブルが起き、生き残った反乱者4人の間でも殺人が発生。1808年、たまたまピトケアン島の近海を通った米国の捕鯨船が島に停泊し、反乱者の最後の一人ジョン・アダムズと9人のタヒチ女性、19人の子どもが暮らしていることを発見。さらに、1814年に英国船が同島を訪れ、反乱の参加者がピトケアン島に落ち延びてきたことを確認します。その後、1829年にピトケアン諸島は英国による領有宣言を経て、正式に英領植民地となりました。 第二次大戦以前の英国は太平洋上に多くの領土を有していましたが、戦後、その大半は独立し、太平洋における英国の海外領土はピトケアン諸島のみになっています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 2月5日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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