2020-05-12 Tue 01:35
看護師の祖とされるフローレンス・ナイチンゲールが1820年5月12日に生まれてから、ちょうど200年周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
![]() これは、1970年に英国が発行したナイチンゲール生誕150年の記念切手で、野戦病院でのナイチンゲールのイメージが描かれています。 フローレンス・ナイチンゲールは、1820年5月12日、2年間に及ぶ両親の新婚旅行中にフィレンツェで生まれました。名前のフローレンスは、出生地、フィレンツェの英語読みです。生家は英国の裕福な地主で、幼少期から幅広い教育を受けましたが、慈善訪問で貧しい農民の生活に接したことで、1844年以後、医療施設に強い関心をもち、ヨーロッパ各地やエジプトなどを見学して回りました。 1851年、精神を病んだ姉の看護をするという名目で、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し、看護師としての教育を受け、1853年、ロンドン淑女病院看護師長になります。当時の看護婦は病人の世話をする召使という位置づけで、特に専門知識必要ないとみなされていましたが、ナイチンゲールは英国各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴えました。 1854年にクリミア戦争が勃発し、前線における負傷兵の悲惨な状況が報じられると、ナイチンゲールは看護婦として従軍する決意を固め、シスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いてイスタンブールのスクタリの野戦病院に 赴任。当初、兵舎病院は極めて不衛生なうえ、現地のホール軍医長官らは看護婦団の従軍を拒否するなどの困難に見舞われましたが、ヴィクトリア女王の支援を受け、スクタリ野戦病院の看護婦の総責任者として活躍。病院内を衛生的に保つことを命令し、患者の死亡率を3ヵ月間で42%から5%に激減させることに成功したほか、看護婦の職制の確立、医療補給の集中管理、汚水処理などによって医療効率を一新するなどの実績を挙げ、“クリミアの天使”とも呼ばれました。看護婦を「白衣の天使」と呼ぶのは彼女に由来する表現で、夜回りを欠かさなかったことから、“ランプの貴婦人”とも呼ばれています。 1856年にクリミア戦争が終結すると英国に帰国し、同年11月、クリミアで活動を共にした同志らとともにバーリントンホテルを拠点として病院の状況分析を開始。数々の統計資料を作成し、死亡原因ごとの死者数をひと目で分かるように工夫した多角形のグラフ“レーダー・チャート”を考案し、1859年には王立統計学会初の女性メンバーに選ばれました。 彼女の活動に感化されたアンリ・デュナンは、1863年、ジュネーヴで国際赤十字の元になる国際負傷軍人救護常置委員会を設置しましたが、ナイチンゲールは、構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしないとの信念から「犠牲なき献身こそ真の奉仕」と主張。デュナンらの無償ボランティアによる活動には反対していました。1910年8月13日没。その死に際しては、国葬を打診されたが遺族が辞退しています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 5月15日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ ![]() 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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