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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 テト攻勢50周年で式典
2018-02-01 Thu 17:49
 ヴェトナム戦争中の1968年1月末に行われたテト攻勢から50周年ということで、昨日(31日)、ヴェトナム・ホーチミン(旧サイゴン)市で記念式典が行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      北ヴェトナム・テト攻勢での勝利

 これは、1969年7月に北ヴェトナム(ヴェトナム民主共和国)が発行した“テト攻勢の勝利”を宣伝する切手です。

 “テト”は漢字では“節”と書き、旧正月を意味するヴェトナム語の“節元旦(テト・グエン・ダン)”の冒頭にある語として、テトのみでも旧正月の意で用いられます。

 ヴェトナム戦争下の南北ヴェトナムでは、1967年までは、テト休暇の期間中は暗黙のうちに休戦期間とする慣例がありました。その隙を突くかたちで、北ヴェトナムと南ヴェトナム解放民族戦線(いわゆるヴェトコン)は周到な準備の後、19681月30日未明、6万人以上の兵力を動員し、南ヴェトナム全土で一斉に蜂起。首都サイゴンでは市街戦が展開され、共産側の特攻隊が米国大使館を一時的に占拠しました。

 純粋に軍事的な面からいうと、米軍と南ヴェトナム軍はすぐに共産側に占拠された各地の拠点を奪還したほか、解放戦線側がテト攻勢により一週間で4万人もの死者を出したのに対して、米軍・南ヴェトナム軍の軍事的な被害は最小限に留まっており、解放戦線側は決して勝利を得たとは言いがたいのが実情です。ちなみに、赤いナポレオンと称された北ヴェトナム軍総司令官、ヴォー・グエン・ザップは、軍事的には成功の見込みが少ないとして、テト攻勢には最後まで反対の立場を取っていました。

 また、解放戦線の占領地域では、南ヴェトナム政府の関係者(とみなされた人々)が“路上裁判”で次々に処刑されており、南ヴェトナム国民の解放戦線に対する恐怖と不信感は抜きがたいものとなりました。

 しかし、米国大使館の占拠をテレビで報道させるなど、共産側は自らの“勝利”を世界に印象付けることに成功したことで、政治的には大きな収穫を得ます。

 じっさい、テト攻勢で米国が“敗北”したというイメージが流布したことで、米国の威信は大きく傷つき、米本土ではヴェトナム反戦運動が高揚。1968年3月にはロンドン自由市場で金が暴騰し、米国はこれに金売りで対抗したことから、1967年末の時点で121億ドルだった米国の金準備高は、1968年3月には107億ドルにまで急落し、第二次大戦後の金・ドル本位制による国際通貨体制も大きく揺らぐことになります。そして、同年3月31日のテレビ演説で、リンドン・ジョンソン大統領は、これまでのヴェトナム政策を劇的に転換し、北ヴェトナムへの北爆を部分的に停止(完全停止は10月)して無条件で北ヴェトナムとの対話を呼びかけるとともに、次期大統領選挙への不出馬を表明せざるを得なくなりました。


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