2008-03-25 Tue 15:13
今日(25日)から、東京・上野の東京国立博物館で「国宝 薬師寺展」が始まりました。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年2月1日に「(第一次)国宝シリーズ」の第2集(奈良時代)の1枚として発行された「薬師寺吉祥天」です。 「薬師寺吉祥天」は、正式には“麻布著色吉祥天像”の名で国宝に指定されています。麻布に描かれた独立画像としては日本最古の彩色画で、一見、通常の美人画のようにも見えますが、頭部の背後に光背(後光)があることから仏画であることがわかります。 吉祥天は福徳豊穣の守護神として崇敬され、その前で年中の罪業を懺悔し、除災招福を祈る、いわゆる吉祥悔過の本尊として祀られるものです。薬師寺では毎年1月1日から15日までの間、切手に取り上げられた絵が、本尊として金堂薬師三尊像の御宝前に祀られています。 画像のモデルは、聖武天皇の皇后であった光明皇后とされているようですが、その聖武天皇の時代の出来事として『日本霊異記』には、和泉の国の山寺の僧、優婆塞は吉祥天とセツクスした夢をみて、目が覚めて像を仰ぐと、自分の精液が染み付いていたという物語が採録されています。まぁ、この像にはそうしたシミは付いていませんが…。 ところで、「薬師寺吉祥天」のモデルとされる光明皇后は施薬院(病者に薬を施す施設)や悲田院(貧窮者の救済施設)などの福祉事業で功績を残したことで知られていますが、このことは、明治以降の近代日本において彼女の歴史的価値を大いに高めることになりました。 すなわち、幕末から明治初期かけては、歴代の皇后の中では神功皇后が文明開化と富国強兵のシンボルとして重要視され、紙幣にも取り上げられていましたが、明治20年代以降、対外戦争が現実のものとなり、看護婦の活動が脚光を浴びるようになると、女性でありながら自ら出征した神功皇后に代わって、光明皇后が重要視されるようになります。これは、福祉事業で名を残した光明皇后の物語に、戦時下において赤十字活動に従事し、国民に仁慈を与える存在としての、現実の皇后の姿が投影された結果と見ることができます。 ちなみに、日清・日露戦争の時代、傷病兵と接する看護婦の選考基準には、性的なトラブルへの危惧から、“美貌ナラザル者”という一項が入っていました。“美貌ナラザル”の判断は個人の好みに左右されるとはいえ、現実に、兵士たちが接することのできる看護婦たちが“美貌ナラザル者”である以上、傷病兵の慰問に訪れる皇后以下貴婦人たちの姿は、彼女たちの“美貌”を際立たせることになります。このことは、軍隊という男だけの社会の中で無聊を慰めるだけでなく、単純素朴な皇室への憧れを彼らの中に植えつける上でも、重要な役割を果たすことになっているわけですが、その意味でも、天平時代最高の美女と謳われた光明皇后と現実の皇后をだぶらせて語ることは効果的といえそうです。 なお、明治以降の社会状況の中で、シンボルとしての神功皇后と光明皇后がどのような意味を持っていたのかという点については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析してみました。また、今回ご紹介の「薬師寺吉祥天」を含む「(第1次)国宝シリーズ」に関しては、同じく拙著『一億総切手狂の時代』でご説明しております。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
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