2007-10-19 Fri 09:59
1956年の映画『王様と私』でユル・ブリンナー(王様役)とともに主役(家庭教師アンナ役)を務めたデボラ・カーが、昨日(18日)、亡くなりました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1991年の“文化遺産保護の日”に発行された切手の1枚で、タイ・シルクが取り上げられています。 映画『王様と私』やその元になったミュージカルは、ラーマ四世と彼の子弟の家庭教師であったアンナ・レノーウェンズをモデルとするとされていますが、国王の描き方が不敬であるとして、タイ国内では上演・上映が禁じられています。しかし、そうした『王様と私』の衣装として採用されたことで、タイ・シルクが世界的に認知されるようになったという、ポジティブな面もあることは指摘しておいても良いと思います。 タイの伝統産業といわれることの多いタイ・シルクですが、現在のような製品の歴史は第二次大戦以降に始まったものでしかありません。 もともとタイにおける絹織物の歴史は古く、東南アジア最古の文明といわれるバーンチェン遺跡(ラオスとの国境に近い東北部のウドンターニー県にある)からも、絹織物の断片が出土しています。 しかし、野生の蚕の繭をつむいでいることから地厚でごわごわする感じ(それが魅力の一つでもあるのですが)のタイ・シルクは、しだいによりしなやかな中国の絹織物に押されて衰退。さらに、産業革命以降は諸外国の機械織製品に押されて、19世紀末には北部や東北部の一部地域で細々と生産されるだけになっていました。 タイ近代化の最大の立役者とされるラーマ5世は、“お雇い外国人”として多くの日本人の専門家を招きましたが、日本の富国強兵を支えているのが生糸の輸出であることにも注目。1902年には東京帝国大学農科大学助教授だった外山亀太郎を政府の蚕業顧問技師として雇い入れ、タイの伝統的な絹産業の復興・近代化に乗り出します。 外山は3年間にわたってタイに滞在しましたが、その間、養蚕から製糸にいたる各分野の専門家を呼び、タイ農務省に蚕業課を設置。バンコクとナコーンラーチャシーマー(コラート)に養蚕試験場を設けて、蚕の改良と飼育の指導にあたりました。また、外山はカイコの交配実験からカイコの一代交雑蚕種が生産に有利であることを発見し、世界の養蚕業界に大きな功績を残しましたが、養蚕試験場そのものはさしたる成果を得られぬまま、外山の帰国後しばらくして閉鎖されてしまいます。 こうして、タイの絹蚕業はすっかり忘れられた存在になっていましたが、第2次大戦の終結後まもない1945年8月、OSS(現在のCIAの前身)の諜報員としてバンコクに入ったジェイムズ・トンプソンは、任務のかたわら、バンコクを離れてしばしばタイとラオスの国境地帯を訪れるうち、この地にかろうじて残っていた伝統的な絹織物に魅せられ、1948年にタイ・シルク商会を設立。トンプソンは同社の専務でしたが、実質的な経営者として自らを“タイ・シルク王”とPRし、従来の植物染料を褪色しない化学染料に変えたほか、どちらかといえば渋い感じの色彩であった従来の製品に代えてヨーロッパ人好みの鮮やかな色彩の商品を売り出しました。 こうした戦略が当たって、“色の魔術師”との異名をほしいままにしたトンプソンのタイ・シルクは欧米で評判となり、1956年の映画『王様と私』で世界的なファッション・ブランド治しての地位を確立します。こうして、トンプソンの名声は揺るぎないものになりましたが、彼自身は、1967年3月、マレーシアの避暑地で忽然と姿を消し、現在なお、その生死は不明とされています。 その後、トンプソンの成功を受けて、雨後の筍のようにタイ・シルクの製造・販売業者がタイ国内にあふれかえるようになり、現在では、タイ政府も自国の“伝統産業”としてタイ・シルクをアピールすることに余念がありません。今回ご紹介の切手も、その一環として発行されたものといってよいでしょう。 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』では、今回の切手をはじめ、タイの切手に取り上げられた織物や陶器などの雑貨・民芸品についても、いろいろと薀蓄を傾けてみました。刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
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