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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 海の日
2019-07-15 Mon 07:07
 きょうは“海の日”です。というわけで、現在開催中の全日本切手展2019(以下、全日展)の特別展示の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      皇太子(明仁)御帰朝・不採用1

 これは、1953年に行われた“皇太子殿下御外遊”の記念切手の図案公募の応募作品のうちの1点で、朝日を背景に大海原を疾走する船と、皇太子・明仁親王(現在の上皇陛下)の肖像が描かれています。

 今回の全日展では、平成から令和への御代がわりにちなんで、郵政博物館から“皇太子殿下御外遊”の記念切手の図案公募の応募作品19点を特別展示していただきましたが、もともと、海の日は、1876年7月20日、明治天皇がはじめて灯台巡視の汽船“明治丸”で東北巡幸から横浜港へと帰港したことにちなむ祝日ですので、今回は、そのイメージに近い1点を取り上げてみました。

 さて、明仁親王の立太子礼直前の1952年11月8日、宮内庁は、翌1953年6月2日にロンドンのウェストミンスター寺院で行われるエリザベス女王の戴冠式に、昭和天皇の名代として明仁親王が出席することを発表しました。

 皇太子の外遊は、1921年、裕仁親王のヨーロッパ歴訪以来のことで、今回の明仁親王の外遊も、裕仁親王が外遊を通じて人間的に大きく成長したのと同様の“教育的効果”が期待されていたものと考えてよいでしょう。

 さて、皇太子(以下、原則として明仁親王を指す)は1953年3月30日、アメリカン・プレジデント・ラインズ社のプレジデント・ウィルソン号で横浜を出航。いったん、サンフランシスコへ入り、カナダを経由してニューヨークへ寄った後、海路、英国に渡りました。

 皇太子の旅程がわざわざ米国経由で設定されたのは、おそらく、最初の寄港地を米国とすることで、現実の外交関係のうえで日英関係よりも日米関係を重視していることを示す意図が政府部内にあったためでしょう。あるいは、実現しなかったものの、皇太子をアメリカに留学させたかったという昭和天皇夫妻の意向が反映された結果かもしれません。

 この時期の英国は、日本を敵国として戦った大戦の終結からまだ日も浅かったため、一般国民の対日感情は、決して良好とはいえず、皇太子もエリザベス女王に謁見するために1週間以上も待たされたり、戦争捕虜協会や労働組合の抗議により予定されていた歓迎行事が中止に追い込まれたりする等の体験をしています。

 それでも、無難に公務をこなし、日本の若きプリンスとして国際デビューを果した皇太子は、戴冠式への出席後、ヨーロッパ諸国を歴訪。それから、今度は空路、米国へ渡り、約1ヶ月間、米国に滞在した後、パン・アメリカン航空で10月12日に帰国しています。

 さて、皇太子の外遊が発表されると、郵政省は、これを、宮内庁の妨害により立太子礼の際に皇太子の肖像切手を発行できなかった雪辱を果たす絶好の機会ととらえ、“御外遊”の記念切手を発行することを計画。1952年12月18日の郵政審議会・郵便切手図案審査専門委員会(以下、図案審査専門委員会)において、外遊の最大の目的であるエリザベス2世の戴冠式が行われる6月2日に、記念切手を発行することを決定します。

 もっとも、前回同様、切手に皇太子の肖像を入れることの是非をストレートに宮内庁に問えば、今回も拒否の回答が帰ってくることは目に見えていました。このため、郵政サイドは一計を案じ、外遊の記念切手を発行することを決定した上で、そのデザインに関しては、一般からの公募を行うという方式がとられています。

 当時の一般国民の認識では、皇太子御外遊の記念切手が発行されるとしたら、皇太子の肖像が切手上に描かれるのは当然で、それがどのようなものとなるのか、といった点に関心が集まっていました。それゆえ、図案を公募すれば、応募作品の多くは皇太子の肖像を取り上げることであろうことは、ほぼ確実でした。そして、郵政省は、その中の優秀作品を切手の原画として採用することによって、“国民世論”の反映という錦の御旗を掲げ、宮内庁の反対を押し切って肖像切手を発行することができると考えたのです。

 こうして、全日本切手展の開催などを通じて、郵政省との協力体制が整っていた毎日新聞社が、1953年1月から、毎日新聞社主催・郵政省協賛という形式で切手図案の公募を開始。6月2日の切手発行予定日から逆算して、3月10日が応募の〆切とされました。

 はたして、『毎日新聞』紙上で告知された募集要項には、図案の内容については「大英帝國の戴冠式に御參列の皇太子殿下の御渡歐を慶祝するにふさわしい圖案(または寫真)で新かつ迫力あるもの」との文言しかありませんでしたが、寄せられた2611点もの作品のうち、8割以上がなんらかのかたちで皇太子の肖像を取り上げたものでした。

 このなかから、3月20日に行われた審査の結果、ロンドン塔や自由の女神など、訪問地の建物をバックに皇太子の肖像を描いた山野内孝夫の作品と、世界地図をバックにした皇太子の肖像を描いた大野射水の作品の2点が特選(賞金10万円)に選ばれ、郵政省はこの両作品を元にした切手の制作を開始。また、これと前後して、印刷局では、早くも郵政省から原画が回ってこないうちから、3人の凹版彫刻家が皇太子の肖像部分の彫刻を始めています。

 当然、郵政省はこの2作品を原画として記念切手を発行する予定で、宮内庁との交渉を開始しました。

 しかし、なんとしても肖像切手の発行を阻止したい宮内庁は、郵政省との交渉で時間を稼ぎ、肖像切手の発行を時間切れに追い込もうとする戦術を取ります。実際、郵政大臣・高瀬荘太郎が宮内庁長官・田島道治を訪ねた際も、宮内庁側は言を左右にして、高瀬との交渉にまともに応じようとはしなかったといわれています。

 こうして、6月上旬の切手発行に間に合わせるためのデッドラインとなった4月上旬になると、しびれを切らした郵政省は、ついに、宮内庁に対して公文書で期限付きの回答を要求。これに対して、宮内庁側は、従前通り、“拒否”の回答を郵政省に送付します。その文面は非公開のため、詳細は不明ですが、実質的には恫喝といってよいほどのものだったようで、4月10日に開かれた図案審査専門委員会では、それまでとは雰囲気が一転。ただちに、切手への肖像の使用を見合わせることが決定されています。

 ちなみに、郵政省と毎日新聞社による切手図案募集の企画を聞いた秩父宮は、「(非常に良いアイディアだが)宮内庁がなかなか難かしいだろうな」と語っており、皇族でさえも宮内庁の頑迷固陋さには頭を抱えていたことがうかがわれます。

 なお、切手図案の懸賞公募を取り仕切った毎日新聞社は、当初こそ、肖像切手を発行しないという郵政省の決定に不満を示していたものの、ある時期から、突如、この件について完全に沈黙してしまいます。関係方面からのさまざまな圧力があったのか、あるいは、今後の皇室取材に関して支障が出ることを怖れた会社の上層部が“自粛”を関係部署に命じたのか、現在となっては、真相は薮の中ですが、このこともまた、今回の切手に関して後味の悪い印象を残すことになりました。
 
 こうして、肖像切手の発行が中止となって緊張の糸が途切れた郵政省に対して、宮内庁は追い討ちをかけ、立太子礼の記念切手同様、今回の記念切手に関しても発行までの主導権を握ろうとします。

 すなわち、宮内庁側は、エリザベス女王の戴冠式にあわせて記念切手を発行することは、女王の戴冠式を記念するような印象を与えるので好ましくない、と突如、強硬に主張。そのうえで、“皇太子”にまつわる記念切手である限り、発行の名目を“御外遊”とすることも認められないとして、記念名称の変更まで要求したのです。

 結局、郵政省側は、宮内庁に押し切られるかたちで、彼らの主張をことごとく受け入れ、皇太子が欧米歴訪を終えて日本に帰国された10月12日に“御帰朝”の記念切手を発行することで決着がはかられました。

 また、これに伴い、山野内孝夫と大野射水の作品は切手の原画としてはお蔵入りとなり、代わって、“御外遊”記念切手の図案として毎日新聞社に寄せられた作品の中から、中尾龍作の「鳳凰」と前川治朗の「鶴」が切手の原画として採用されることになりました。

 あいつぐ宮内庁からの無理難題に対して、すっかり今回の記念切手発行への意欲を失った郵政省は、その後、暑中見舞葉書や通常切手の制作に追われていたこともあって、しばらく作業を中断。その後、6月中旬になって、「鳳凰」を久野実が、「鶴」を渡辺三郎が、それぞれ、切手の原画として構成しています。

 その後、8月10日には、試刷の第1回目の回校()となりましたが、その時の様子について、“郵務局管理課切手係同人(中村宗文か?)”は『切手』紙上に「(5円の)製版は少し細か過ぎて思つた程凹版のよさが出なかつたが、これは全部をやり直しても、こちらの望む程の出来栄は六ヶ敷しいと思つたので、そのままで進むことになつた」と記しています。こうしたところからも、“御帰朝”の記念切手に対する郵政省の投げやりな姿勢が見て取れるように思われます。ちなみに、今回の特別展示では、この時の試刷も展示されていますが、その画像も下に貼っておきます。

      皇太子(明仁)御帰朝試刷

      皇太子(明仁)御帰朝試刷10円

 以上のような経緯を経て、御帰朝当日の10月12日に発行された記念切手については、当初、皇太子の肖像が入った切手が発行されるものとの期待が大きかっただけに、それが裏切られたことに対する失望感は相当なもので、著名な収集家であった荒井国太郎が『切手趣味』誌に「皇太子殿下御帰朝記念切手に失望す」と題する文章を寄せたのをはじめ、多数の収集家がさまざまな郵趣誌(紙)上で不満と失望を述べています。

 また、漫画家の横山泰三が、切手発行からまもなくの『サンデー毎日』11月1日号の連載漫画「ミス・ガンコ」で取り上げ、登場人物に「コノ切手ノ鳥ハホントニイルノ」と言わせるなど、今回の一連の騒動での宮内庁の対応が、収集家だけでなく、広く一般の国民からも批判の的になっていたことがうかがえます。また、この切手のデザインに関しては、背景に描かれている瑞雲が、鳳凰の糞または放屁のように見えるとして、主として小中学生の間では揶揄の対象とされていたことも報じられています。

 さて、はやいもので、13日から始まった全日展も本日が最終日となりました。本日は通常より1時間早く、16時の閉場となっておりますが、1人でも多くの皆様の御来場を心よりお待ち申しております。


★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月13-15日(土-月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにポーランド切手展が開催されます。全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2019ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


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