2019-07-07 Sun 10:53
ボサノヴァの生みの親の一人で、歌手・ギタリストのジョアン・ジルベルトさんが、6日(現地時間)、リオデジャネイロ(以下、リオ)の自宅で亡くなりました。享年88歳。というわけで、ジルベルトさんの御冥福をお祈りしつつ、彼の代表作の一つ、「イパネマの娘」にちなんで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます。以下、敬称略)
これは、1992年、翌1993年にリオで開催の国際切手展<BRASILIANA 93>の事前プロモーションと観光宣伝を兼ねて発行された切手シートのうち、イパネマ海岸を取り上げた切手の部分です。ちなみに、シートの全体は、上部にイパネマ海岸、下部にポン・ヂ・アスーカルの組み合わせで、こんな感じになっています。 「イパネマの娘」の舞台となったイパネマ海岸は、コパカバーナ海岸の南端から西へ500mほど行ったところからはじまる海岸とその周辺の高級住宅街を指す地名で、行政上は“リオデジャネイロ市イパネマ区”となっています。 イパネマという言葉は、先住民のトゥピ語で“嫌な臭いのする(upaba)湖(nem)”または“悪い水(y:水+panema:悪い)が語源と考えられていますが、リオのイパネマ区の地名の由来は、帝政末期の1885年に“イパネマ男爵”を襲爵した不動産王、ジョゼ・アントニオ・モレイラ・フィーリョが周辺一帯を開発したことによるものです。ちなみに、この爵位は、彼の父親、ジョゼ・アントニオ・モレイラが、サンパウロの西96キロに位置するソロカーバの地のイパネマ川(この川は本当にもともと水質が悪かったようです)沿いにイパネマ製鉄所を建設した功績に対して与えられたものでした。 さて、イパネマの海岸通りから、ヴィニシウス・ヂ・モライス通りを北に歩いて最初の角には、“ガロッタ・ヂ・イパネマ(イパネマの娘)”という名のショッペリア(生ビールを出すバー)がありますが、もともと、この店は“ヴェローゾ”というバール(食事をしてコーヒーを飲み、さらに酒ができる庶民の食事処。ただし、ビールに関しては瓶ビール:セルヴェージャしか出ません)で、1960年代初頭は、ヴィニシウス・ヂ・モライスやアントニオ・カルロスジョビンらボサノヴァ関係者のたまり場となっていました。 ボサノヴァは、もともとは、“新しい傾向”を意味するポルトガル語ですが、音楽のジャンルとしては、1959年に発表された「想いあふれて」がルーツとされています。ジルベルトがボサノヴァの生みの親の一人とされるのは、このためです。 もともと、「想いあふれて」は、“サンバ・カンサォンの女王”、“ブラジル音楽の至宝”と呼ばれていた女性歌手、エリゼッチ・カルドーゾが1958年にリリースしたアルバム『愛しすぎた者の歌』の収録曲で、ジルベルトはこの曲にギタリストとして参加していました。 ジルベルトのギターは、ジャズのコードを駆使して、1本のギターでバチーダ(サンバのリズム)を刻むという独創的なものだったことにくわえ、彼のささやくような歌い方は、当時としてはかなり斬新で、その音楽性にほれ込んだジョビンは、2ヶ月後、ジルベルトのために「想いあふれて」をアレンジしてレコーディングし、1959年にリリース。これが、ボサノヴァの歴史の原点となったのです。 ジルベルトの「想いあふれて」がリリースされた後、ボサノヴァはブラジルの都市部の学生を中心に人気を集めるようになります。 そうした中で、ジルベルトやジョビン、ヂ・モライスらボサノヴァ関係者のたまり場となっていたヴェローゾには、近所に住むエロイーザ・エネイダ・メネーゼス・パエズ・ピントという少女が母親のお使いで、ちょくちょく煙草を買いに来ていました。 1945年生まれのエロイーザは、1962年の時点で17歳。身長170センチのすらっとした美少女で、ヂ・モライスとジョビンは彼女の歩く姿を見て「イパネマの娘」のインスピレーションを得たといわれています。 ただし、一部でいわれているように、この曲の歌詞はヂ・モライスがほぼ即興で仕上げたというわけではなく、入念な準備と推敲を重ね、2通りのバージョンを作った上で現在の歌詞のほうを選び、それにジョビンが曲をつけたという、難産の末の作品でした。 そうしたことを頭において、「イパネマの娘」の冒頭の歌詞をご覧ください。 見てごらん。なんて可愛い女の子だろう 優雅さに満ち溢れていて 甘い揺れのなかで やって来ては 海辺を歩いていくよ。 ここでいう“甘い揺れ(doce balanco)”というのは、日本語に直訳するとわかりづらいのですが、歩きながらお尻がプリッと揺れるようすのことです。ブラジルでは、男女ともに、お尻こそがセックス・アピールのポイントで、このあたりは、胸が重要視される日本とは事情が異なっています。 ところで、「イパネマの娘」には英語版もあるのですが(というよりも、世界的には英語版の方が有名)、この英語の歌詞はオリジナルとかなり内容が変わってしまっていて、 オリジナルを知る者の間ではきわめて不評です。ちなみに、上に引用した歌の冒頭の部分は、英語の歌詞だとこんな感じになります。 背が高くて日に焼けて若くて素敵な イパネマの娘が通りすぎると 誰もが「ああ」とため息をつく こうした改変が行われたのは、この曲を米国でヒットさせたいというレコード会社側の思惑があったためです。 すなわち、ボサノヴァという新ジャンルが注目を集める中、1963年の年の終り頃、作曲者のジョビンと歌手でギタリストのジルベルトらは渡米してコンサートを行い、白人サックス・プレイヤーのスタン・ゲッツとのレコーディングにも参加。レコーディングに際して、当時、ジルベルトの妻だったアストラッドは自分にも歌わせてほしいと言い出しました。もともと、彼女には歌手になりたいという夢があったのですが、夫のジョアンは、プロのミュージシャンとして、素人のレコーディングなんてもってのほかと猛反対。 このため、間にはいったジョビンは、彼女がそこまでいうのだから、とりあえず別トラックで録音しておいて、拙かったら編集の作業で外せばいいという妥協案を出してその場を収め、米国向けに用意してあった英語の歌詞を彼女に歌わせました。 その後、完成したマスター・テープにはジョアンの歌とアストラッドの歌が別のトラックに記録されており、アルバム『ゲッツ/ジルベルト』に収められたヴァージョンでは、1番をジョアンがポルトガル語で、2番と3番をアストラッドが英語で歌い、間奏にスタン・ゲッツのサックスとアントニオ・カルロス・ジョビンのピアノが入るという形式となっています。ちなみに、ギターはジョアンの演奏です。 後に明らかになったところによると、レコーディング時の雰囲気は最悪で、ブラジル人をボサノヴァを“色物”とみなして傲慢な態度をとるゲッツに対して、英語がわからないながらも馬鹿にされていることを肌で感じていたジョアンは「あの白人の馬鹿をどうにかしろ」と悪態をついていたとか。板挟みになったジョビン(彼は英語がわかります)は、ポルトガル語のわからないゲッツの通訳もさせられて精神的に疲労困憊してしまい、追い打ちをかけるように、ゲッツは「(素人の)アストラッドにはギャラを出す必要はない」とまで言いだしたそうです。 それでも、アルバム『ゲッツ/ジルベルト』の音楽性は高く評価され、グラミー賞で3部門を受賞。翌1964年、「イパネマの娘」はシングル・カットされることになりましたが、その際、シングルに収まらないという理由から、ジョアンのポルトガル語の歌はカットされ、アストラッドの英語の歌だけになりました。 この英語版のみの「イパネマの娘」は、結果的に200万枚もの大ヒットとなり、ビルボードのヒットチャートに96週間連続ランクインして、グラミー賞最優秀レコード賞も受賞しますが、こうなると、面白くないのはジョアンです。 結局、ジョビンとジョアンはその後、活動を共にすることはなくなり、ジョアンとアストラッドも離婚。ただし、彼女はこれを機に歌手としての精進に努め、やがては「ボサノヴァの女王」と言われるまでになるのですが…。 なお、このあたりの事情については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月13-15日(土-月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにポーランド切手展が開催されます。全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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