2019-03-01 Fri 05:15
1919年3月1日、日本統治下の朝鮮で三・一独立運動が起きてから、今日で100周年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年に韓国で発行された“三一節”の記念切手です。 切手が発行された1950年は、1919年の三・一独立運動から起算すると31周年という半端な年回りですが、このタイミングで記念切手が発行されたのは、1949年に独立運動の記念日である3月1日が“三一節”として国慶日(国民の休日)に指定されてから最初の年が1950年だったことによるものです。 1948年7月に公布された大韓民国憲法(1948年憲法)は、その前文で、「悠久の歴史及び伝統に光輝く我が大韓国民は、己未三・一運動で大韓民国を建立して世界に宣布した偉大な独立精神を継承し、これから民主独立国家を再建する(以下略)」とうたっており、三一独立運動を経て、独立運動家が上海に樹立した“大韓民国臨時政府”が現在の大韓民国のルーツであるとの歴史認識を示しています。 その後、憲法は何度か改正されていますが、いわゆる民主化以降の1988年2月に施行された現行の『大韓民国憲法』でも、その前文の冒頭で「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統及び、不義に抗拒した四・一九民主理念を継承し(以下略)」と明示されていますので、三・一運動が建国の原点であるという立場は維持されています。 ところで、第二次大戦以前の世界では、大韓民国臨時政府を国際法上の正規の“亡命政府”として承認した国は中国、フランス(ドゴール政府)、ポーランド(ロンドンの亡命政権)ぐらいしかありませんでした。ちなみに、実質的に日本の属国ないしは傀儡政権とみなされていた満洲国でさえ、ドイツ、イタリア、スペイン、バチカンなど23ヵ国から国家承認を受けていましたから、臨時政府の国際的なプレゼンスはかなりお寒い状況だったといってよいでしょう。 こうしたこともあって、日本の敗戦後、朝鮮半島の38度線以南に進駐した米軍は(そもそも、国際社会が朝鮮を戦勝国と認知しているなら、朝鮮半島を米ソ両軍が分割占領することはありえません)、臨時政府の正統性を正式に否定していますし、1948年の大韓民国成立後、大統領の李承晩が出した対日講和会議に“戦勝国”として参加したいという要求も米英によって一蹴されています。 そして、全世界の標準的な理解では、現在の大韓民国は、1948年5月に国連の監視下で行われた第1回総選挙を経て、制憲国会が開会し、憲法公布、初代大統領の選出を経て、同年8月15日に正式に成立したものと認識されています。 したがって、客観的に見ると、三・一独立運動とその後の臨時政府樹立から起算して、ことしが“建国100周年”とする文在寅政権の主張にはかなり無理があるのですが、彼らがそう主張せざるを得ないのは、韓国ならではの“保守”と“革新”のねじれた関係があります。 すなわち、現在の大韓民国は、朝鮮の歴史が始まって以来、(少なくとも経済的には)最も繁栄した体制となったわけですが、彼らがそうした成功を勝ち得たのは、李承晩から朴正煕を経て全斗煥にいたるまで、中国大陸と絶縁していたことが非常に大きな要因だったと思います。 歴史的に中国の圧倒的な影響下に置かれてきた朝鮮では、朝鮮風に“純化”された朱子学の発想法が社会の全体を覆いつくしており、現在でもその影響はぬぐいがたく残っています。たとえば、かつて共働きの女性に「ご主人が失業した場合、あなたはどうしますか」というアンケートを取ったところ、一番多い回答は「自分も仕事を辞める」というものでした。その理由は、「一家の長である夫よりも自分の収入が多いのは申し訳がたたない」というのだそうで、実利ではなく“朱子学的(といっていいのかどうかは分かりませんが)”な名分や“秩序”を重要視する彼らでなければ出てこない発想だと言ってよいでしょう。(まぁ、実際には、夫が失業したら、妻が働いて家計を支えるというケースが多いのでしょうけど) また、歴史的に見ると、朝鮮半島を侵略し続けてきたのは中国中央政府であって、日本の支配はわずか36年でしかないわけですが、それでも、日本統治時代のほうが彼らにとって不愉快な記憶として語り継がれているのは、それが歴史的に直近の出来事であるということもさることながら、彼らの脳内に染み付いた華夷秩序に照らして、日本は自分たちよりも劣っていた(いる)という暗黙の世界観があるのではないかとの指摘もしばしば行われています。 ところが、第二次大戦後、朝鮮は南北に分断され、韓国は敵国としての北朝鮮をはさんで中国から切り離され、大陸ではなく、海洋方面に目を向けて日本や米国と協調せざるを得なくなりました。この結果、伝統的な華夷秩序の意識が国民の精神構造から払拭されたわけではないにせよ、国家としては、そこから解放され、東西冷戦という国際環境に対応してより実利的ないしは合理的な判断が可能となり、そのことが漢江の軌跡とよばれる高度経済成長をもたらしたとみることができます。その意味では、韓国保守政治の象徴とされる朴正煕こそ、実は、朝鮮史の長い伝統の中では極めて革新的な人物だったといえるわけです。 これに対して、かつて、韓国の民主化闘争の中軸を担っていた左翼運動の本質は、ある意味で、そうした朴正煕的な“革新”に異議を唱えるものでした。言い換えるなら、朴正煕らによって“ゆがめられた”(と彼らが認識する)国家のあり方を、元のあるべき姿に戻すこと、これこそが、正しい行いだと彼らは考えたのです。非常に単純化してしまうなら、1948年に成立した、38度線以南のみを領土とする“大韓民国”という枠組みを否定することこそが正当な行為だということになります。こうした姿勢は、結果的に北朝鮮に宥和的な“従北”につながっていくわけですが、必ずしも、金王朝そのものを礼賛することとイコールになるとは限りません。 また、朴正煕や全斗煥に対する批判が、彼らが「大統領として何をやったか」ということ以上に、彼らがクーデターという不法な手段で政権を握ったという点に向けられるのも、興味深い現象です。本来、政治は結果責任のはずですが、こうした批判では、政権の結果よりも出自が問題とされているわけで、名分を過度に重視するという意味で、朝鮮儒学の発想が色濃く残っているといえます。韓国人による金日成への批判が、金日成の政策的な失敗よりも、彼がニセモノ(伝説の抗日英雄の名を騙ったソ連軍将校)であったことに向けられがちなのも同様の発想ですし、法の不遡及という近代法の大原則がしばしば無視されるのも、そうした“出自”に対する(我々の目から見ると)異様なこだわりの故と考えると腑に落ちるのではないでしょうか。 したがって、仮に“保守”を伝統的な価値観・思考方法に忠実なこととするなら、盧武鉉や文在寅の左派政権というのは、朝鮮史の文脈に照らしてきわめて“保守”的な政権と見ることも可能でしょう。 現在、2014年に刊行した拙著『朝鮮戦争』の続編として、朴正煕の時代を中心にした韓国現代史の制作作業を進めているのですが、同書では、このあたりの事情についても、可能な限り、盛り込んでいきたいと思っています。具体的なことが見えてきましたら、このブログでもご案内していきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 第10回テーマティク研究会切手展 3月1-3日(金ー日) 於・切手の博物館(東京・目白) テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回は、僕じしんは作品を出品していませんが、最終日・3日の15:00より、国際切手展審査員の目から見た作品の解説・批評会を行います。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
|
||
管理者だけに閲覧 | ||
|
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|