2011-01-18 Tue 12:14
きのう(17日)のお昼ごろ、カウンターが80万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。というわけで、今日は額面“80”のこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
![]() これは、1985年に中国が発行した「鄭和の西洋渡航580年」と題する4種セットの記念切手のうち、“航海史の業績”と題する80分切手です。 鄭和は1371年、雲南でムスリムの家に生まれました。宦官として燕王だった朱棣に献上されましたが、朱棣が1399-1402年の靖難の変で帝位を奪って永楽帝として即位すると、その際の功績を評価され、永楽帝より鄭の姓を下賜され、宦官の最高職である太監となりました。 1405年7月、永楽帝の命を受けた鄭和は62隻・2万7800名の大船団を率いて蘇州を出発。以後、チャンパ、スマトラ、パレンバン、マラッカ、セイロンを経て、1407年初にカリカットへ到達。明と東南アジアとの交易の端緒を開いています。その後も、計7回の大航海を行い、その船団はカリカットを超えて、ペルシャ湾のホルムズやアラビア半島のアデン、アフリカ大陸東岸のマリンディにまで到達。7回目の航海から帰国後の1433年7月に亡くなりました。 鄭和の死後、莫大な費用がかかることもあって中国船による大航海は行われなくなりましたが、鄭和の大航海はスペインやポルトガルよりも70年ほど先んじていたことから、後に、鄭和は『史記』の作者・司馬遷、紙の発明者とされる蔡倫とならび、三宝太監(宦官の三大英雄)の一人に挙げられています。 さて、今回ご紹介の切手が、580年という半端な年周りで発行された背景には、当時の中国の海洋政策の大きな転換があったと見るのが妥当でしょう。 1949年に中華人民共和国の建国が宣言された当初、中国は海軍力をそれほど重要視していませんでした。 中国の事実上の国軍である中国人民解放軍(正確には中国共産党の軍事部門)は、その名のとおり、人民戦争、すなわちゲリラ戦争理論を背景としています。したがって、当初の人民解放軍はあくまでも陸軍が中心であり、海軍はあくまでも海軍を補佐し、本土を防備するためのものという位置づけでした。実際、1970年代までは、建国直後の1950年8月に開かれた海軍建軍会議で定められた「海軍の主たる任務は地上軍との協力であり、 このため多数の軽快小型艦艇を装備する」との方針が忠実に守られていたため、中国海軍は外国の沿岸警備隊程度と揶揄されていました。当然のことながら、この時代の中国には海洋進出という発想はほとんどありません。 中国が海洋進出を意識するようになったのは、1969年、東シナ海に海底油田があることが判明してからのことで、ベトナム戦争末期の1974年1月、中国は海洋進出の手始めとして、西沙群島西半分(東半分は1956年以来、中国が支配下に置いていました)の南ベトナム軍を排除し、諸島全体を占領しています。 1976年、毛沢東が亡くなり、文化大革命が完全に終結すると、華国鋒は「解放前、 帝国主義は何度も海からわが国に侵入した。 現在祖国の神聖な領土台湾を解放し、 南沙群島などの島嶼を取り戻すわれわれの願いはいまだに実現していない。 ソ連覇権主義国は狂気のように砲艦外交を推し進め死にもの狂いになって海上覇権を争っている。 わが国を滅ぼそうとしているソ連修正主義者の野望は消えていない。 これらすべての事態に直面して、 我が海軍は一層発展し強大にならなければならず(以下略)」と述べ、海軍を強化する方針を明らかにしました。この方針に沿って、中国海軍を沿岸海軍から外洋海軍へと脱皮させる新ドクトリンが示されたのが、今回ご紹介の切手が発行された1985年だったというわけです。当然のことながら、この切手にも、鄭和の先例に倣って本格的な海洋進出を行っていこうという国家の意図が込められているのは明らかでしょう。なお、1987年に就役した中国海軍の練習艦が「鄭和」と命名されていることも付記しておきます。 その後、改革開放路線の進展とともに中国経済が急成長を遂げるようになると、石油などの海底資源や漁業資源を獲得し、諸外国との交易のための海上交通路を確保するという経済的な動機も重要になったことから、中国は、わが国の海上自衛隊や在日米軍、台湾の海軍をにらむ東海艦隊、ロシア海軍を主たる仮想敵とする北の北海艦隊、ベトナム、インドネシアなど東南アジア諸国との対抗に備える南の南海艦隊という中国海軍の3大主力部隊を中心に、外洋進出を活発化させています。 その一環として、1992年2月に発表された「中華人民共和国領海・接続水域法」第2条では「中国大陸及び沿岸諸島、台湾及び魚釣島を含む付属島嶼、膨湖列島、東沙群島、西沙群島、南沙群島、その台湾の中国に属する島嶼が含まれる」との条項が明記されました。ここに挙げられている魚釣島はわが国の領土である尖閣諸島に属していますが、1958年9月の人民代表大会で採択された「中華人民共和国領海に関する声明」には記載されていなかったにもかかわらず、1992年以降、新たに“中国領”と主張されたものです。 以後、中国は約300万平方キロの管轄海域を一方的に主張し、わが国を含む周辺諸国とのトラブルを起こし続けていることは周知のとおりですが、こうした“海洋強国”路線を邁進するにあたって、国民を鼓舞するための偶像として近年、鄭和はますます重要な意味をもつようになりました。 なお、鄭和はマカオとは全く無関係の人物ですが、媽閣廟の向かい側の澳門海事博物館には、鄭和に関する大々的な展示コーナーがあり、中国のプロパガンダ政策の一端がうかがえます。このあたりの事情については、拙著『マカオ紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ ![]() マカオ紀行:世界遺産と歴史を歩く 彩流社(本体2850円+税) マカオはこんなに面白い! 30の世界遺産がひしめき合う街マカオ。 カジノ抜きでも楽しめる、マカオ歴史散歩の決定版! 歴史歩きの達人“郵便学者”内藤陽介がご案内。 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、boox store、coneco.net、DMM.com、HMV、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、カラメル、紀伊国屋書店BookWeb、ゲオEショップ、ジュンク堂、セブンネットショッピング、丸善、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
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