宇多田ヒカルの歌詞のフィクション性?
【 宇多田ヒカル:座談会(その1) 】
今日は、「宇多田ヒカル 小袋成彬 酒井一途 座談会」から。(その1)
ー「真実の追求が根底にあってね。ただただ綺麗で整ってたら、真実じゃない」
http://www.utadahikaru.jp/zadankai/s1.html
この気まずさはいつまで続くんだろう、どうなっちゃうんだろう、また離婚するのかな、って思っていても、いつの間にか音楽が始まって、「お腹すいたね、なに食べる?」って日常に戻るの。音楽がなかったら、成立しない日常だった。
「えっ」って思った瞬間、人間は無防備になるじゃない。その瞬間がいちばんニュートラルで、変な考えも何もないふわふわした状態になれるときのはずだから。そのふわっとした感じを聴き手のなかに作れれば、心にすっと入っていけるのかなと思って、意識的にやってるところはあるよ。
ー「急に、地獄の蓋が開いたようになって。歌いながら泣いて、床でティッシュに囲まれながら、鼻水と涙を拭いて」
http://www.utadahikaru.jp/zadankai/s3.html
特に『Fantôme』からは、個人的な体験と直接的に結びついた歌詞になればなるほど、歌詞のフィクション性が高まってる。
むちゃくちゃ私の、個人的な体験から来てることなのに、歌詞にキャラ設定が生じたりする。五十代くらいの女性が、こういう過去の体験をもって、今こういう風景を見ながら、こういうことを思っている、という設定が同時に出てきたり。
「真夏の通り雨」もそうだし。「花束を君に」もすごくパーソナルなところから来ているのに、娘の結婚式で感動してる父親、という設定もあったりして。そういうのって、フィクション性だと思う。なんでだろう、不思議だよね。相反するものに思えるのに。
私は曲を作るという作業、音楽作るということがなかったら、こんなにいっぱいいろんなものがたまってることに気づかずに、病気とかしてるだろうな。音楽という場があって、本当に救われてるんだなって思う。
(構成・編集:酒井一途.2018年5月22日採録)
<感想>
音楽がなかったら、成立しない日常。
個人的な体験と直接的に結びついた歌詞になればなるほど、フィクション性が高まる歌詞。
病気から救われるための音楽。
私には、宇多田ヒカル自身、とても奥が深い存在のように思われる。
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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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