さよなら渓谷
「さよなら渓谷」(吉田修一著、新潮社)より
「・・・・・・幸せになりそうだったんですよ」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からず、渡辺は訊き返した。
「だから、俺と彼女、幸せになりそうだったんです」
「だ、だったら、なればいいじゃないですか!」
思わず上げた渡辺の声が、暗い渓谷に響き渡る。その声に、尾崎が小さく笑う。
「・・・・・・無理ですよ。一緒に不幸になるって約束したんです。そう約束したから、一緒にいられたんです」
「でも」と言いかけて、渡辺は言葉を呑んだ。
インタビューの最後で、かなこの呟いた言葉がふと蘇る。
「私がいなくなれば、私は、あなたを許したことになってしまうから」
彼女は尾崎にそう言ったのだ。
姿を消せば、許したことになる。一緒にいれば、幸せになってしまう。「さよなら」と書き置きしたかなこの言葉が、渡辺の胸に重く伸しかかる。
「でもそれでいいんですか?それじゃ、あまりにも・・・・・・」
渡辺の掠れた声に、尾崎が大きく息を吐く。
「俺は・・・・・・」
大きく息を吐いた尾崎が、川面で揺れる青い月に目を向ける。
「・・・・・・俺は、探し出しますよ。どんなことをしても、彼女を見つけ出します」
尾崎の頬で月明かりが揺れている。
「・・・・・・俺は彼女にとんでもないことをしてしまったんです。彼女は、俺を許す必要なんかないんです」
>>二人はまた一緒になれたのだろうか