「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
「一強」というアメリカの自覚
冷戦が終了してからは「散乱の時代」が続いてきたわけですが、21世紀に入ってから起こったのが、ニューヨークの9・11であり、イラク戦争の勃発でした。この二つの事件が、「冷戦以後の時代」にまた新たな変化を与えつつあります。
いま世界では新たな歴史的大転換が起こっており、密かに新たな形が形成されつつあります。現代のアメリカの動向について、「ローマ帝国の再現」というような文学的表現をあえて使いましたが、その新たな形というのは、一言で言って、「一強多元世界」が出現しつつあるといの観測です。
「一強多元世界」とは、アメリカが「一強」という自覚をもって、自らが信じる理想や正義を力をもって世界的に拡大していく。その中で、他のさまざまな国々が多元的なパワーゲームを展開しているという構図です。
一方、イラク戦争直前の段階で、フランス、ドイツ、ロシアが、国連の手続きがまだ済んでいない、武力行使を実行するには、以前の国連決議の中身では弱いなどといって、武力行使には反対の姿勢をとりました。しかしアメリカ側からすると、それらの国々が政治ゲームに走って、事態を意図的に遅延させようとしていると見えたでしょう。四月に入ると、砂嵐の季節が来て、軍事力でイラクを打倒するチャンスを失うかもしれず、さらに一年伸びるとなると、2004年の11月には米大統領選があるので、年初めからは選挙運動をしなければならず、戦争のタイミングを失ってしまいます。そういう情勢分析をもとに、ブッシュ大統領は、2003年3月にイラク戦争を決断したのだと思います。
私はこの種の国際的大問題を処理するにあたり、国家や政治家は次の三つの点を考慮する必要があると言ってきました。一、国際法はもちろん考慮されるべきものですが、万能ではない。二、世界的、歴史的意義と結果への評価を目測する。21世紀はテロとの闘いの世紀です。ある政治決断が、臨床的判断では否定的に評価されがちでも、歴史的結果的には有意義なものであることが少なくありません。三、国益を考慮する。イラクの場合は北朝鮮への効果と米国の成否が日本に甚大な影響を与えます。この判断から私はアメリカを支持したのです。
ポストイラク戦争の世界が「一強多元世界」になっていく中で、いくつかの変化が生まれてくると考えられますが、特に、三つの変化に注目すべきだと思います。
第一は、湾岸地域の政治地図が変わってくる可能性です。イラク暫定政府に関しては、2004年6月末に、イラク人に主権を委譲することになっていますが、現状から言えば、その後もアメリカ軍は長期的にイラクに駐留することになるとみられます。仮に首都バグダットや他の都市からアメリカ軍が引き上げても、航空基地および飛行場周辺は確保して長期的に利用することになる可能性大です。当分はテロ対策のため殆どの要所に兵力を配置する必要があるでしょう。
中世の十字軍以来、キリスト教徒の進出に対して、この地域の回教徒は警戒心と反感を持っています。ましてや、典型的なキリスト教国で、しかもユダヤ人勢力がかなり支配的な力を持っているアメリカが湾岸地域に鎮座することには非常に強い危機感を持つのも当然です。
だからこそ、イラク占領統治を成功させるためには、イスラエルとパレスチナの独立国家共存体制を実現しなければならないのです。
湾岸地域で何か紛争や問題が起きた時に、乗り出して調整役を果たせるのは、むしろ日本です。なぜなら、日本はあの地域では割合に過去に傷がなく、しかもこれまでも経済協力を熱心にやってきたという歴史があるからです。
したがって、イラク戦争後の湾岸諸国の政治については、日本はアメリカと協力しながら、そしてときにはアメリカに忠言しながら、あの地域の安定化に協力していくべきです。
第二に考えるべきは、中東全体の石油政策に変化が起こる可能性です。
イラク戦争の結果、アメリカがイラクの石油にかなりの支配力を持ち、日産で約三百万バーレルもの原油が得られるようになりました。基本的にアメリカは湾岸の石油の値上がりを嫌う傾向が強いのです。このこと自体は、中東への石油依存度が高い日本にとって決して悪くはないことです。石油価格には不安定要因がこれからもつきものですが、アメリカがイラクの石油をある程度支配して、原油価格や生産体制などに強い発言権を持つようになると、OPEC(石油輸出国機構)との関係にも変化が生ずるかもしれません。
第三は、戦争の体系そのものが変化するかもしれないという問題です。
対イラク戦争ではコンピューターを駆使した精密誘導兵器、衛星、航空母艦といったものを有機的に結合させた最先端兵器が使用されたのです。こうした軍事技術の著しい進展によって、アメリカの戦争のやり方そのものが大きく変わったといえます。可能な限りアメリカ兵を殺さないで戦争をする形に変わってきたのです。そして、さらに軍事技術が進歩すれば、その方法が攻撃する相手国の市民をあまり殺傷させない戦争形態に変わってゆくでしょう。
戦争形態の変化は、発展途上国や普通の国力の国にはあまり大きな影響は出ないかもしれませんが、G8の国々への影響は多大なものになるにちがいありません。いずれも自国の防衛体系や戦争体系を再点検して、彼我の国民は出来る限り殺傷しないで、重要な軍事ポイントだけを長距離から攻撃するような先進軍事技術体系に転換することになるでしょう。この点は、当然、わが防衛庁も考慮しなければなりません。
>>一強のアメリカとの連携を強化しつつアジアの安定に貢献することが必要だ
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
漂流する日本と小泉政権の登場
「散乱の時代」が到来して、90年代は各国・各地域がアイデンティティの確立に邁進する中で、日本だけがアイデンティティの確立を怠って、国家の方向性が定まらず、漂流を続けていたのです。90年代は、バブル経済が崩壊して、経済的に低迷した「失われた十年」とよく言われますが、単に経済的な意味だけでなく、日本は国家として喪失状態の十年間を漂ってきたわけです。
日本にとって「冷戦期」はある意味でいい時代でした。アメリカに協力して、高度経済成長を実現して、私が総理を務めた80年代に入ると、国際的な発言権もかなり回復していました。
しかし、やがて国家としての金属疲労が出てきて、私の言う「三つのバブル」が崩壊した。第一が「政治のバブル」の崩壊です。いわゆる「金丸問題」に代表される政治の腐敗が出てきて、自民党が分裂。その後は十年間に総理大臣が十人も入れ替わり立ち代り登場する連立内閣の政治の漂流がありました。第二が「経済のバブル」の崩壊です。大蔵省が主導する護送船団方式が批判され、金融機関の不良債権問題が表面化し、経済全体が不況に陥った。第三が「社会のバブル」の崩壊という問題です。犯罪が増加して、学級崩壊といわれるほど教育が崩壊してしまったのです。
こういう「三つのバブル」の崩壊があって、日本は漂流し始めたわけですが、その事態を収拾しようという意味もあって、小泉内閣が登場します。しかしその登場のやり方が、これまでの自民党政治家とは大いに変わっていて、いわゆる自民党内の既成勢力に依存するのではなく、国民大衆からの支持を基に、既成勢力だった自民党と対決するというジェスチャーを小泉君は取ったのです。総裁選では「自民党をぶっ壊す」とセンセーショナルに宣言して、党内支持ではなく、国民からの支持も得て、総裁選に勝ち抜きます。そして、政権発足当初は世論調査で80%もの支持率まで獲得したのです。まさにそれはポピュリズムの手法でした。小泉君はいまもその延長でやっており、大統領的首相を満喫しているといえましょう。
小泉君はいわば「変人首相」ですが、日本全体が「変人社会」になったから、「変人首相」が出てくることができたという面があります。というのも、「冷戦期」の自民党政治を基盤としていた相対的安定が金属疲労を起こして、それを乗り越える新しい政治の体系を国民が要求したからです。換言すれば既成勢力、既成秩序からの脱皮です。そうした流れに、小泉君は「自民党をぶっ壊す」という表現でうまく乗っかり、これまでの自民党の既成勢力は、“抵抗勢力”だと言い放って、「われは白、向こうは黒」という対決方式で、国民の支持を得たのです。
冷戦期の自民党時代というのは、相対的に安定した政治社会体制が出来上がっていたので、ある意味で、国民自体が“粘土”のような存在だったと思います。ところが90年代に入り、世界全体が「散乱の時代」に入り、各国が自らのアイデンティティを模索したように、日本国民もおのれのアイデンティティを探して、自己主張を持つようになり、かくして、国民は“粘土”から“砂”に変わったのです。小泉君は、その砂に乗っかる戦略をうまく成功させたのです。
>>漂流する日本から脱出することを安倍政権に期待する
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
戦後の日本をスポイルした教育基本法
平気で凶悪な殺人を犯す少年、警察官や裁判官の汚職、こうした一連の事件は、浅く薄い時代の表層から来ているのではなく、何か戦後を貫いてきた太い源流、太い芯が腐って堕落してきたという印象です。この太い芯とは、倫理、道徳を教える教育です。そういう原点から、もう一度教育というものを見直さなければいけない時代になったのです。
今の教育基本法は、平和とか人権、人格、民主主義、そういう要素がちりばめられていて、世界的に見て類例がないほどいいこと尽くめが書いてあります。しかしながら、自分の国の伝統とか文化、共同体、国とか国家、責任義務、そうした縦を貫く背景はほとんど持っていないのです。
平和的国家という文言はあっても、それでは国家とは何かという問題意識を持って、日本という国家の本質を捉えられはしないのです。形容詞としての国家はあっても、国家の本質を捉えようとする姿勢はありません。ことほどさように、日本社会に底流してきたエスプリというものが欠落しています。言い換えれば、蒸留水のようなものです。世界のどこへ持っていっても、ブラジルでもエジプトでも通用するといった体のものです。とても日本的な水とはいえない代物です。日本的な要素が入らなくては、とても教育にはならないのです。
子どもには、学校の各段階に応じてどういう教育を目指していくかを明確にしておくことも必要です。小学生なら、ディシプリンと日常生活を送る心構えを具体的に覚えていかせることが必要です、家庭や社会の中の行儀の基本の型です。中学生になると、社会や国家と個人の関係というものが非常に大切になってきます。高校生にもなると、「志」というものを持たせることが肝要です。これを、どのようにして持たせるか。大学生には、「使命感」というものを与える。社会的使命感、世界的使命感です。それ以上になると、今度は専門研究の段階です。
端的にいうなら、各段階における涵養すべき精神軸、教育の目標点、精神的目標点。これらを教師もしっかり体得しなくてはならないし、学校での行程表の中にもそれを織り込むようにしなければなりません。今の教育の現場を見ていると、そういう要素は全然見当たりません。各段階における技術的なことに終始して、まるで帳場をどう張ろうかという話と大差ないのです。それでは教育になりません。
私は、かつての「旧制高校」のような段階を教育のなかに入れなければと考えています。私は、旧制静岡高校の卒業ですが、昔の旧制高校は、そこにいったん入ればどこかの大学に入学は出来ました。たいてい文句さえいわなければ、帝大系統にはどこでも入れたのです。そういう状況でしたから、高校の三年間は余裕がありました。この間は、自分で考え、自分で生きてみて、将来に伸びゆく精神的母体をつくることに懸命になりえた三年間だと思います。恐らく旧制高校を出た人は、ノスタルジアを今でも持っていて、教育体系に入れたいと念じているはずです。高校という多感な時期に、思想的、哲学的な時間を与えられたことは、私にとって幸いでした。人生観とか人間のあり方の基本を考えるスタートに旧制高校があったのです。
そういう段階を経た者が、近代の日本をつくってきました。とくに教育改革の面で偉かったと思うのは原敬です。彼は、それまでナンバー・スクール(一高から八高)しかなかった旧制高校を一気に大幅に増やしたのです。弘前から台北高校まで、静岡とか福岡など各地域ブロックにひとつずつくらい新設します。これが、日本中の有為な人材を集め、養成することになりました。その後の日本をつくったという意味でも、原敬は偉いと思うのです。総理大臣に、そういう見識のある人間が必要だということです。
いずれにせよ、教育改革を私の政権時代に実現できなかったことは、最大の悔みと思っています。
>>倫理、道徳、国家とは何か等を教える教育を是非とも取り戻したい。
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
国鉄分割民営化を断行する
「中曽根内閣」といえば、業績の大きな柱として、国鉄の改革・分割民営化、税制改革、教育改革、行政改革は、大きく語られ記憶されてよいと考えています。
もともと「仕事師内閣」を標榜して発足した政権だったことは、すでに述べました。戦後政治の総決算は、まさにこれら懸案の処理にかかっていたのです。
なかでも、国鉄の分割民営化は、国労の崩壊、総評の衰退、社会党の退潮に拍車をかけて、五五年体制を終末に導く大きな役割を果たしたのです。
第二臨調の答申にはさまざまありました。大きな柱として三公社の民有化があります。若い方には聞きなれないこの「三公社」とは、日本国有鉄道(国鉄)、日本専売公社、日本電信電話公社のことです。これらの中でも最も大きな目玉が国鉄分割民営化でした。
この課題を具現化したのが、中曽根内閣でした。1982年の11月19日に国鉄再建推進臨時措置法案を閣議決定して、27日に中曽根内閣がスタートし、12月7日に国鉄再建対策推進本部を設置、現実化してゆき、翌年の6月には国鉄再建管理委員会が発足しました。
そして、86年3月に鉄道事業法案と国鉄改革法案を国会に提出して、7月の衆参ダブル選挙に打って出たのです。あの選挙は、「国鉄民有分割、是か非か」を問う選挙でもありました。それが、304議席で圧勝したのですから、国労は足腰が立たなくなってしまい、鉄労(鉄道労働組合)が勢力を得て逆転したのです。
その状況下で、法案の成立もスムーズに運んだのです。
自民党が304議席を獲得したことで、国民の意思が明確になり、もはや歯向かう力がなくなって、国労からの脱退者が相次ぎました。それ以後、法案の成立は比較的スムーズにいくようになりました。
それにしても、あのとき、三塚君はほんとうに一生懸命でした。彼は、運輸大臣になるつもりだったかもしれませんが、私はいろいろ考えたすえ、橋本龍太郎君を運輸大臣にしました。
橋本君は行財政調査会長をしていたから、いきさつをよく知っていたわけで、臨調とも上手くやっていけると判断した結果でした。もうひとつの橋本君の特徴は、行政面で長けているところでした。緻密で、先手先手と手を打つことを知っており、それに、国会での答弁にもそつがありませんでした。
追い風に乗って一気に法案を成立させる、これを仕上げられる男は誰かといえばやはり橋本君しかいなかったのです。国鉄分割民営化法案は、86年10月に衆院を通過します。
>>改革につきものの「抵抗勢力」を如何に排除するかがポイントだ
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
政権の命はスタートダッシュ
いまひとつの案件は、武器技術供与の問題でした。1981年、鈴木内閣のときに大村防衛庁長官が訪米して、ワインバーガー国防長官から要請されて、前向きに検討すると返答していたのです。それ以前、佐藤内閣のときに、共産圏向けの場合や国連決議によって武器輸出が禁止されている場合、それに国際紛争当事国あるいはその恐れがある国に対する場合は、武器輸出を原則的に認めない武器輸出三原則を表明していました。
さらに、三木内閣時代には、それ以外の地域についても憲法・外国為替・外国貿易管理法の精神に則って武器輸出は慎む、また、武器製造関連設備については「武器」に準じて取り扱うと強化しています。
そうした流れの中で、鈴木内閣は、アメリカの要請をないがしろにして、武器技術供与の改正に積極的に取り組む姿勢を見せなかったので、アメリカを相当苛立たせ、その苛立ちは不信感に高じていました。
私は、日米関係を修復するためにも、この問題を最初に取り上げて解決しておこうと考えていました。
そこで、官房長官と法制局長官を呼んでこう切り出しました。「集団的自衛権に触れるという従来の解釈は、日米安保条約を優先させない普通の国との武器輸出の解釈である。日米安保条約によって同盟国であるアメリカから、F4にせよF104にせよF15にせよ、日本はすでに国内でライセンス生産して武器技術供与を受けている。同盟国に対しては武器を生産して販売することはできないが、技術供与の範囲にとどまるなら、通常業務における技術知識の交換であって、生産された武器自体の移転にはならない。したがって、安保条約を優先させると、同盟国たるアメリカに対して技術供与することは何ら問題にならない」
法制局長官は、私の指示をさまざまな角度から議論したようです。しかし、すぐに解釈を覆すことはできなかったと見えて、従来の解釈に固執したのです。
私は、一計を案じ、二案を同時に提出するように求めました。従来通りの解釈と、私の新しい解釈の二つの案です。それを読んで、私が選択するというまったく強引といえるやり方です。
もちろん、私は自分が示した案を採用して、それで押し切りました。その後で、この方針にほかの諸体系を適合させるように指示しました。かなり大掛かりな作業になりましたが、結局、ことは上手く運んだのです。
この二つの事例はいずれも、内閣のスタートダッシュが、その後の成果を占う重要な指標になるという例証でした。官僚というものは、はじめのうち、総理大臣や政治家を軽視するものです。彼らのプライドが、そうさせるのです。しかし、総理が毅然たる態度と気迫をもって、高い見識を示して接すれば、官僚も専門的な知識で応えてくれるようになるものです。
>>指導者が毅然とした態度と気迫をもって何に注力すべきかを決定することが重要だ
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
政権の命はスタートダッシュ
1983年1月、私は首相として初めての訪米の途につき、このときには、防衛費の増加と武器技術供与の件がありました。
まず、防衛予算の問題では、当時、東西冷戦下にあってソ連に対抗する必要から、毎年NATO諸国は平均3%以上、アメリカは6~7%の防衛費増加を掲げていましたが、そうした中、アメリカは日本にも7%程度の防衛費の増加を要求していました。それで、12月の予算編成では防衛庁長官と大蔵大臣に、とくに私から直接頼んでおいたのです。
しかし、それにもかかわらず、暮れの29日の夜に各省折衝が終わって、山口(光秀)主計局長が官邸に報告にやってきたので数字を見てみると、5.1%でしかありません。すぐに6.5%に改めるよう指示したところ、主計局長は「各省折衝もすべて終わっているので、もう動かせない」と難色を示したのです。
そのときは思わず大声で怒鳴っていました。
「国家予算というものは、総理大臣が対外関係や防衛戦略を考慮して決めるものであって、大蔵省の数字の操作で決めるものではない。とにかく6.5%にしなければ、この予算は認めない。帰ってもう一度竹下君と相談しろ」
このときの背景には、予算は主計局がつくるもので、官邸が干渉できるものではないとする大蔵省側の通念がありました。その誤った認識を頭ごと粉砕してやったのです。
私の在任中、予算方針は土光臨調(第二次臨時行政調査会=会長・土光敏夫)が毎年つくっていましたから、予算編成権を大蔵省から取り上げたようなものでした。もちろん、私も自らつくりました。
このケースが嚆矢となりましたが、各省が私の指示に従って、特別な功績を挙げた場合、官邸にストックしてある外賓接待用の極上ワインを一ダース贈って労をねぎらうようにしたのです。
>>国家予算は当然官僚主導ではなく、総理大臣主導であるべきなのは自明だ
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
中曽根流政治手法とは
中曽根内閣が達成した政治的業績を振り返って、具体的なエピソードを取り上げながら首相のリーダーシップのありかたを説明します。これは私の指導者論です。
現在の憲法下においては、日本の首相はアメリカの大統領と英国の首相のちょうど中間に位置する存在です。どちらかといえば、アメリカ大統領に近い存在といえるでしょう。戦前の明治憲法下の首相に比べると、天皇が元首から象徴になったぶん、首相の権限は強化されています。戦前の首相は、プリマス・インター・パレスすなわち同輩中の主席という立場で、国務大臣を任命することも罷免することもできませんでした。
しかし、現憲法はかなり大きな力を首相に託しています。アメリカの憲法、英国の憲法、それぞれの美点を併せ持った内容です。たとえば、首相は内閣の首長として行政各部を指揮監督して、国務大臣を任免し、自衛隊の最高司令官となり、また、内閣の名において天皇に任命される最高裁長官を指名する権限をもっています。
これだけ明瞭に強力な権限があるにもかかわらず、戦前までの消極性を帯びた首相像を払拭できずにいます。これは、大東亜戦争敗戦の反動で、強力な政治家、指導力ある首相にジャーナリズムや学者がアレルギーを持っているためです。
私の政治手法を一言で表現するなら「指令政治=ディレクティブ・ポリティックス」です。ある仕事を始めようとする場合、その半年くらい前に、大筋の構想を紙に書いて、担当の大臣や党の幹部に、「これを半年後に始めたいから、良く研究しておいて欲しい」と事前に指示しておきます。しかるべき時期が来たら、「あれをしよう」と命じます。こうして、上からの指示でほとんどの懸案にあたりました。このトップダウンという手法は、単に直感だけでできるものではありません。さまざまなスタッフと相談して、「これをやらなくてはいけない」と自分で掴み出しておく必要があるのです。
私の政治哲学は「政治家は実績であり、内閣は仕事である」に尽きます。恰好だけの内閣を作っても、仕事の実績をあげられなければ、すぐに不評をこうむって消え去るのが落ちです。
そして、その政権がどれだけのことを達成し得るかは、成立したときのスタートダッシュの勢いで決るものです。いったん政権の座についたら、困難だが重要な二、三の問題を就任当初の短時日に片付けてしまって、その実行能力を国民や反対勢力に示さなくてはなりません。これは外交に関してもいえることで、政権が交代したときには、新たな視点に立って国家間の困難な問題を解決する絶好のチャンスでもあるのです。
>>リーダーシップによるスタート・ダッシュの意味ある実績が肝要だ
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
第一次中曽根内閣の誕生
11月24日、予備選に勝利をおさめた私は、翌日の臨時党大会に臨み総裁に就任しました。予備選の最終的な確定得票は、①中曽根=55万9673(57.6%)、②河本=26万5078(27.3%)、③安倍=8万443(8.3%)、中川=6万6041(6.8%)でした。翌々日の臨時国会で首相に指名されましたが、第一次中曽根内閣の組閣作業は、誰にも相談することなく自分ひとりで原案を揃えました。
翌日、総理に指名された直後に官邸に入り、二階堂さんを読んで幹事長をお願いして、組閣名簿の原案を見せました。それに目を走らせた二階堂さんは吃驚して絶句してしまいました。彼は私の顔を見て「本当にこれでやるんですか」と訊ねたほどです。
田中派が非常に多かったことは確かですが、なにより官房長官と幹事長という要職に後藤田、二階堂君を据えたことが大きく、しかも、ロッキード裁判の判決をひかえた法務大臣に秦野章君、国土庁長官に灰色高官と言われた加藤六月君。これにはマスコミ、特に朝日新聞が黙っていないだろうし、世論と党内の反主流派の重鎮を考えると、とてももたないというわけです。当初、金丸信君など、「半年も、もたんだろう」と言ったくらいでした。
しかし、私にすれば「仕事師内閣」を目論んだところ、結果としてこうなったというに過ぎなかったのです。中曽根政権の船出は最初から危機的状況の荒海への航海でした。「ノーダン満塁のピンチに臨むピッチャー」が、私でした。仕事に適材と確信した人を当て、最強の内閣を作るしか打開の道はありません。
まず仕事を決め、それに合う人間を持ってくる。仕事ができる人間は、大派閥の田中派にたくさん集っていました。結果的に組閣名簿のようになっただけです。その代わり、中曽根派は極力減らしました。本来、四人出てもおかしくないところを二人にしたのです。これに党内からは異論など聞かれず、それどころか良くまとまって賛同してくれました。更にひとつの新しい試みは、秘書官の格上げです。秘書官は使い方によっては閣僚に敗けない仕事をします。そこで従来の課長クラスの人材から局長寸前の人材を取ることに変えたのです。選抜も役所委せにはせず、川島廣守君に頼んで人材を集めました。これも大きな効果を発揮しました。
組閣が終わってから、私は名簿に名前が挙がった閣僚一人一人を自分の執務室に呼んで、当三役・官房長官立会いのもと、二点を確認しました。一点は「行財政改革に全面的に協力して、首相の指示に従ってこれを行うか」ということ。二点目は、資産の公開です。それまで、組閣前の予備懇談で政策的条件をつけた総理大臣は一人もいなかったのです。あえてこれを行ったのは、行革が中曽根内閣の最大の使命だと印象づける必要があったからで、旗幟を鮮明にし、内閣の気迫が違うという印象を与えるためです。
総理大臣の一念は「一種の狂気だ」と常々私は言っています。憲法上も事実上もそうなのです。総理の座にある以上、真剣に本気になってやらなければいけない。いったんやろうと決心して火の玉のようになれば、おおかたのことはやれる。必死になってやれば、その気迫が物事を成就へと導いてくれるものです。
だからこそ同時に、首相たるもの「権力の魔性を自戒せよ」と自覚しなければならないのです。権力は決して至上ではありません。権力、とくに政治権力は、本来、文化に奉仕するものです。文化発展のため、文化創造のためのサーバント(奉仕者)なのです。私が「魔性」と言うのは、政治家を独善的な道に走らせる麻薬的効果が権力にはあるが、それを警戒しなくてはならない、という戒めの言葉です。
予備選に敗れて反主流的な態度を示していた安倍晋太郎君を外務大臣に据えて、竹下登君を大蔵大臣に持ってくれば安倍君もやらざるを得ない。実際二人とも大臣を二期続けて、ニューリーダーとして確固たる足場を作ったのです。わが政権にとって、内外に安定感をアピールできる、人事の要だったといえるでしょう。
大蔵大臣の竹下君は調整役で、それほど財政というものに通じていたとは思えません。しかし、器用な人で独特の気配りで大蔵官僚を味方につけて一生懸命務めました。
一方、外務大臣としての安倍晋太郎君は、遠見のきく人でした。私とコンビを組んで、中曽根外交に精を出してくれました。包容力を備えていたし、決断力のある大器の資質を持つ抜きん出た政治家でした。器からいうなら、三人の中でいちばん兼ね備えていたかもしれません。志半ばで亡くなったのが惜しまれます。安倍君の岳父に当たる岸信介さんが、私の防衛政策を「自分ができなかったことを中曽根がやっている」と、ずいぶん支持してくれ、安部君にも「中曽根を支援しろ」と助言したようです。岸さんは、節目節目で私への支持を表明してくれました。
>>仕事を決め、それに合う人間を持ってきて、必死になってやれば物事は成就できるに違いない
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
わが政権を回想する
中曽根政権誕生前夜
1982年の夏を境に、鈴木政権は急速に求心力を失い、失速していきました。中国との教科書問題、アメリカとのシーレーンをめぐる防衛問題で迷走を繰り返し、混迷の度を深めたのです。
10月5日の閣議前に、鈴木さんは私に、総裁選には出馬しないからその用意をしておくようにと胸中を初めて打ち明けたのです。当時、行政管理庁長官を務めていた私は、この日、閣議前に二十分ほど鈴木首相に会い、行革推進において9月末までに出揃った各省庁改革案を説明したのです。続けて、電電・専売の打開策を両公社の首脳人事を含む断行方法として進言して、最後に鈴木総理再選に対する私の考えは変わらないと申し上げました。
鈴木さんは、「自分は今の心境でこれ以上やる気はない。難問山積の折り、あえて世評の悪い中に乗り出す愚かさはない。次は君がやってくれ。君以外に人はいない。よく助けてくれたことに感謝している。私も協力する。鈴木派にも話していないので、これから説得せねばならない。ついては、田中角栄君が大切だ。その方面も抜かりなくやっておいてくれ」と、一気に胸中を私に吐露されたのです。その段階で善幸さんは、まだ田中角栄氏に辞任のことを伝えていませんでした。私に初めて話した、このことはまだ黙っていて欲しいと言いました。
私が政権の座を勝ち取る経緯で、畏友・田中六助という類稀な政治家がいたことは一般の方々に案外知られていません。この思想家として秀でていた一人の政治家が、私に終始篤い友情を寄せてくれたことにどれほど勇気づけられたことか、筆舌に尽くしがたいものがあります。そのエピソードをまじえながら、9月に始まったポスト鈴木の胎動から、中曽根政権誕生までの曲折を述べてみます。
鈴木総理が私に辞意を漏らした10月5日から遡ること半月ほどの9月18日、私が鈴木さんと閣議前のひと時を行革について語り合った折りに首相を激励しようと、「私は鈴木内閣を守っていく覚悟です。首相は悠々とおやりなさい。健康にも十分注意してください」と申し上げました。鈴木さんは、顔をわずかに紅潮させて「長官も私の後に替れるように、用意なさってください」と答えました。鈴木首相は迷っている。私は、そのとき改めて鈴木さんの苦悩の深さを垣間見た気がしました。
9月25日の夜八時半、私は目白に田中角栄氏を訪ねます。この頃、田中氏が私に不信感を抱いているとの風評が人を介して伝わっていました。私は、田中発言の真意を確かめようと考えたのです。単刀直入、中曽根不信の有無を質すと、田中氏は全くの誤解であると言下に答えました。中曽根支援は従来どおりだというのです。
この時点で田中氏は、目前の総裁選での鈴木政権支持に少しの迷いも見せず、党内に逆風が吹こうが、田中、鈴木、中曽根の三派体制がしっかりしていれば再選は堅いと考えていました。その口ぶりには、鈴木さんをあたかも道具として利用しようという意図が明確でした。鈴木首相再選の後、次の選挙は来年6月がよいと手帳のカレンダーを睨み、その暁には私の副総理と大蔵大臣への就任を約諾するというのです。
田中氏はさらに、福田赳夫氏に再び首相への野心がみえる、そう言葉を継ぎ、私の眼をじっと見詰めて、「岸と福田は薄情だ」といつもの独特の声を絞り出します。私が、その点に同意すると、田中氏は、「軽井沢で中川一郎君に言った『飛び出せば、スルメになって干されるぞ』は、中川のことではなく、実は福田を指していったのだ」というのです。田中氏は、硬い表情で「福田とは妥協しない。干してやる」と言い切りました。
その席ではいつも内政、外交について、国家戦略がテーマとなり二人ともあたかも書生に戻ったかのように議論に熱中したものです。田中君から、彼の代名詞である「金権体質」を匂わすような話題が出たことは一度もありません。私との間ではひたすら政治談議に終始したのです。
鈴木さんから辞意を告げられた二日後の10月7日、田中六助君から電話があり、会いたいと言うのです。
田中六助君は、「鈴木善幸さんはすでに決心を固め、天皇への内奏でも明らかにした。自分は退陣の声明を頼まれ、応諾した。鈴木首相は連休明けの12日に鈴木派の幹部に初めて話すとのこと」と伝えてくれたのです。
さらにこの日、田中六助君が田中角栄氏に「鈴木は辞職する決心である。天皇にも内奏した。自分には辞職声明を依頼した」と明かしたところ、角栄氏は、「そんなことはありえない」と金切り声を上げたという。「いや、中曽根にも鈴木は話した」と六助君。「そんなはずはない。鈴木は就任したとき、朝の四時に目白に来ておれに頼んだくらいなのだ」と角栄氏。「次は、誰がいいか」と六助君が二の矢を放つと、「二階堂だ」と返す角栄氏に六助君は「絶対、反対です」と一歩もひかない構え。
六助君の話によると、角栄氏はひとしきり声高にわめいた後で、やがて落ち着きを取り戻し静まって、「岸も中曽根を推していた。ただ、12日に鈴木派の斎藤(邦吉)や宮沢に話すことは中止させてくれ」と言って折れたといいます。
「そんな力は自分にはありません」と六助君が突っぱねると、「それでは、止むを得ないな」と収めたので、「角さんの裁判は、1月か2月に求刑、3月、4月に弁論、秋口の判決予定です。自分は裁判に最も詳しい。私に任せて欲しい」と、さらに懐柔したと言うのです。
角栄氏は、「明日、岸に話をするので待て」と言い、最後に「二階堂は諦める。今日の話はよく考えてみる」と引き取って、話は終わりました。
翌日、10月8日、朝6持43分に、田中角栄氏から電話が入りました。新潟行きの飛行機に搭乗する前だというのです。「今回の政変では、君を絶対に支持する。中川、園田たちとは融和などするな。これから自分は新潟に行き、10日夜軽井沢に行く。10日夜、もしくは11日夜に会いたい。それまでは誰にも会わないでくれ。ゴルフでもやって平然としていてくれ」とのことでした。
私は、応諾しました。
六助君は、その日の午後に岸信介元首相に会談を申し込み、その席で、「もし万一、鈴木が辞めるようなときに後継を誰にするか。田中角栄氏は中曽根を推している。ついては、岸氏にも賛成していただきたい」と切り込んだところ、岸さんは「とにかく、鈴木君を辞めさせてくれ。それからの話だ」とにべもない。「もう一度、福田赳夫氏が首相になる可能性はありますか」と問い質すと、岸氏は言下に「それはない」と言うので、六助君が「それならば、中曽根、河本しかいないはず。早く時代を進めて、安倍晋太郎君の政権をつくるには、中曽根に世代交代をさせ、若返らせて、次に安倍を持ってくるのがいちばんの早道でしょう」と重ねて訊くと、岸氏は「とにかく、君の努力は多とする。確実に最高顧問会議前に鈴木君を辞めさせてくれ。今日の話は、大筋で了承する」と言い置いて、席を立ったのだそうです。
同じ日の夜、私は後藤田正晴氏と会い、いざという時の協力を依頼しました。後藤田氏に官房長官を任せるという私の腹案は、すでにこのとき固まっていたといって良いでしょう。
10月10日、私は「新政権政策メモ」を作成し、自らの政治理念を反芻しました。その中から、終りの部分を抜粋します。
政治の究極の目的は文化に奉仕するにあり、自由を尊び、宗教や学問に対して越権があってはならない。
人格主義、人間主義は私の基本信条である。東洋では「大学」の道であり、西洋ではカントの「天なる星」の名言に尽きる。(略)
鈴木首相が、「辞職のことは当分厳秘にして10月12日頃、組閣や党運営の人事、如何なる政策を実行するかなどについて、密かに一人で検討を開始しました。大体の政策は私が三十年来、内政・外交等の政策について時折書き綴った三十数冊のノートや、それを集大成し、1978年10月に出版した私の著書『新しい保守の論理』等を参照して考え抜きました。
政策の重点は、第一は私が鈴木内閣の行管庁長官として政治生命をかけて推進し、国民も日本の最大課題として受け取ってきた行財政改革の断行であり、第二には最悪となった日米関係および日韓関係の思い切った修復と改善、日本の外交方向を確立、そして第三には教育、先端科学技術、労働運動の画期的改革でした。
約束どおり、11日の夕方六時、九段の「喜京」で会った角栄さんは、例の調子で感情の起伏が見られましたが、この日、先に会っていた六助君に諭されたのか、私を支持するという大筋ではもはや逡巡は見られませんでした。
早々に、「五十名で政権を取るのだから、あまり注文は出すなかれ」と言われては、私も苦笑せざるを得ません。「二階堂は総理候補だから、幹事長に留任させてくれ」と言うので、こちらからは「後藤田官房長官」を依頼し、それを田中君は了承して「敵と味方とのメリハリをつけること」と注文してきました。「福田・中川を許さず。河本が妥協すれば協議に応ずる」というのです。それぐらい福田さんには敵意を燃やしていました。
そして、いかにも角さんらしいと感じ入ったことは、この時点ですでに、「六月ダブル選挙」の注文をつけてきたことでした。田中角栄という政治家は、とにかく年がら年中、選挙と政局のことを考えていました。結局、私はこの要望は最後まで撥ね付けて、受け入れませんでした。
この夜の相談のために役立てようと、田中氏が自分で作成し持参してきた資料も、文字通り田中角栄の真骨頂と呼ぶべきものでした。衆参両院に渡った各派閥別の周到な資料で、これを見ながら、どの派閥はどういう状態で、どういう人間がいて、と組閣あるいはこれからの党運営をするさまざまな情報を携えてきたのです。
ともかくこれで、話し合いによる調整などでなく、予備選に勝って総理・総裁の座を手にする方針はいっそう確固たるものになったのです。
>>中曽根政権誕生に至る田中角栄の影響力の大きさに愕然とする
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
大平正芳--官僚的秩序のなかの叩き上げ
大平正芳君は哲人的要素のある政治家でした。そして、自分は「枯れ木も山の賑わい」だと自覚していた政治家でもあります。派手なパフォーマンスで表に出ることを好まなかったし、そういうスタイルを見せることにも無頓着だった。その代わり、演出家のような要素は強く持っていました。学者を集めて研究会を作って、ブレーン政治を行うのが好みでした。
しかし結局のところ、外交政策や経済政策などにおいても、所詮は池田勇人、佐藤栄作が引いた路線以上には出ませんでした。大平君の正確で多勢の専門家を集めて、教育、文化、政治、経済、安全保障などに関する研究を行わせ、その答申を得て、実行に移す考えの様でしたが、その先に逝かれてしまったので実現は無かったのです。
残念ながら、私と大平君との接点は長い間ほとんどありませんでした。親密に話をするようになるのは、彼が病気で倒れる直前ですから、内閣不信任案で追い詰められた頃でした。
議員になりたての頃、大平正芳君はほんとうに冴えない政治家でした。国会の委員会の委員長や政務次官を経ずに総理大臣になったのは、私と福田赳夫君と三木武夫さんくらいですが、大平君は地方行政院長をはじめとして実にさまざまな役職についています。これは宮沢喜一君も同じです。つまり、大平君も宮沢君も官僚的序列のなかの優勝者であったのです。
大平君は池田勇人首相の秘書官になった時から、同じく秘書官を務めていた宮沢君と比較されながら、のし上がってきた。大平君は人間の幅が広くて、人付き合いもよかったから、一般の評価は高かったわけです。もちろん、池田さんの信頼も厚かったことは確かです。
よく「三角大福中」という表現がされましたが、たとえば佐藤栄作さんは、自分の後継者の一人として大平君を考えたことなどなかったと思います。
佐藤政権が終わる頃には、大平君は派閥を前尾繁三郎さんに反逆して奪い取って、しだいに人間的な幅なり重なりが出てきたのでしょう。人を惹きつけるものを修練で得ていたわけです。今の若い人たちには、そういう「何か」がありません。この差は大きいのです。しかし、人間的には深みがあり、魅力と底力のある大物の政治家でありました。
>>専門家の答申を得て実行に移すことができなかった大平首相の急逝が悔やまれる
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
田中角栄--永遠の競争相手
田中角栄君にはじめてあったのは、1947年、お互い衆議院議員に初当選を果たした時です。その時の田中君の出で立ちがずいぶん変わっていた。確か、ニッカーポッカーの半ズボンにハンチングを被ってきていた。「粋なアンちゃんだなあ」と思ったことを覚えています。将来これほど力をつける人とは思いもしなかった、というのが正直なところです。田中君は、民主党の幹部だった大麻唯男さんに接近して、その大麻さんの引きがあって、私と同じ民主党に入ってきたのです。
衆議院同期生でしたし、お互いに競争相手として意識していました。彼は陸軍、おれは海軍。そんな意識もあってか、他の同期生や代議士に比べて、田中君には敬意を評していました。
当時は敗戦直後で、政界では自由党、民主党、社会党、共産党が対立する形になっていました。戦中の政党の流れを維持した幣原喜重郎氏の進歩党が解散総選挙を行い、その結果、片山社会党が第一党、吉田自由党が第二党、進歩党の後継の民主党が第三党となったのです。
田中君は大変な闘士で、私とはよく大論争をやったものです。あの頃の民主党は、毎日のように、代議士会で論戦に明け暮れていたものです。
論戦のひとつのテーマは総裁問題で、総裁を幣原喜重郎さんにすべきか、芦田均さんにするべきかで、党内の意見が分れました。私は芦田さんを推し、田中君は幣原さんを支持して、大論戦を繰り広げたのです。あの頃の民主党は、終戦直後で年寄りの政治家は萎縮し、われわれ新進の復員軍人が巾をきかしていて、いわば下克上の様相を呈していて、われわれ若手は何でも好きなようにやっていました。
もうひとつのテーマは、1947年の石炭国家管理法問題でした。当時、民主党は社会党と組んで、石炭国家管理法案を提出していました。戦後すぐのことで、日本の産業は疲弊して、生産力はゼロに近い窮状でした。これをなんとかしなければ、国民の生活は立ち行かない。日本経済の息を吹き返すためには、まず石炭を急増産する以外に手がなかった。そのためにはある程度、石炭を国家管理しなければと私たちは考えたのです。経済再建のための一種のカンフル剤です。すべてを石炭業者に任せるのでなく、炭鉱の国家管理をして、政府が金も出すし、労務手配もしっかり行い増産に結びつける。そういう集中管理政策を講じなければ、危機を克服できないと考えたわけです。いわば修正資本主義に立脚するこの法案に私は賛成しました。
一方、田中角栄君は自由主義の立場から反対の急先鋒にたった。かくして代議士会で一年生議員同士の大激論を行ったのですが、他の民主党の年寄りたちはみんな面白がって、われわれ二人の論戦をじっと聞いていました。若い元気な私たちに一目置いて、遠慮していたわけです。それだけに、私や田中君が飛び出していって、思い切った言動で政策を訴え、国民への説得も行うことができました。
私が「青年将校」の異名を取ったのもこの頃です。私のグループにいた桜内義雄君、園田直君もそう呼ばれていたものです。そういう時代だったのです。ただなぜか、田中君は「青年将校」とは呼ばれませんでした。
結局、大論戦の末、われわれの方の意見が通り、炭鉱の国家管理を断行するという方向へと進むことになります。芦田さんが民主党総裁として、社会党との連立政権を持っていたので、与党として国家管理法案を通すことにしたのです。
ことここに至って、田中君ら反対派は分裂して民主党を去り、吉田茂率いる自由党のもとに走ります。自由党に移ったのは田中角栄君、小坂善太郎君、原健三郎君たちです。私はそれを自由党の力と結束に迎合していったという思いで見ていました。逆に田中君は、私を社会主義に染ったと見ていたわけでしょう。
このような経緯から、私と田中君の関係はスタートします。それから昭和30年代半ばまで、60年安保闘争が吹き荒れて、その後に収束するくらいまでは、田中角栄君よりも私の方が政治の表舞台では先んじていたと思います。
田中角栄君が政治の表舞台に出てきたのは、池田内閣のときで自民党政調会長になってからです。池田勇人さんと彼は姻戚関係になりました。
その後、田中君は佐藤内閣を通じて、大蔵大臣、幹事長、通産大臣と日のあたる道を歩んでいくのですが、実態としては、池田、佐藤の背後で、ある種の汚れ役を演じていた面が否めません。党内工作や野党の国会対策で活躍していたのです。その独特の才覚で、池田さんに重用され、佐藤さんの意にも通じるといったふうでした。要するに、田中君は池田と佐藤の二つの椅子を上手く並べて両方に足をかけて上り、のし上がっていったのです。あの頃になると、田中君の方が私よりはるかに頭角を現していました。
特に大きかったのは、佐藤内閣で党の幹事長を任されたことです。佐藤さんにしてみれば、田中君は汚れ役にはもってこいだし、資金集めにも長けていたので、さぞかし重宝したことでしょう。これ以後、急速に力をつけ、佐藤派のナンバーワンにのし上がります。
それにしても、池田勇人さんと佐藤栄作さんの両方とも良い関係を保ったのは田中君しかいませんでした。この一事をもってしても、田中君が非常に世故に長けた、処世に器用な人だったことがわかります。私は池田さんの経済至上政策に嫌悪感があったし、福田赳夫君なども反池田で旗色が鮮明でした。池田・佐藤の両方とうまくやる田中君のやり方はオーソドックスではないにせよ、苦労人らしく鮮やかなものだと見ていました。
1972年に福田君と総裁の椅子を争った時も、田中君の勝負師ぶりは遺憾なく発揮されます。
佐藤さんは、福田君と田中君の二人に「どっちが総理になっても喧嘩はするな」とあらかじめ諭していた。つまり、総裁選の第一回投票で一位になった者が過半数を取れなくても総裁になって、二位以下の者は譲れということです。当初、これに二人は同意していました。
ところが後になって、田中君は佐藤さんに「あの時の話はなかったことにして欲しい」と頼みにいくのです。つまり、他の候補者である大平君と三木武夫さんと組めば、たとえ第一回目の投票では福田君に敗れても、第二回目の決選投票に持ち込めば、勝てると計算していたのです。佐藤さんはそれ以上詮索せずに、好きなようにさせたのだと思います。
田中君は戦いというものの「目的」と「手段」を心得ていた。だからこそ、ここ一番の勝負には強かった。
そのうちに、「大平君は田中君の援軍に回る。では中曽根はどちらにつくのか」と周囲から注視されるようになってきました。
どう決断したものか。この時私は、中国との国交回復が論点になると考えていました。すでに述べた通り、私が佐藤政権で総務会長についた直後の国連総会で、中国の国連復帰が決り、台湾が脱退するという結果が出ていました。こうなった以上、いよいよ日本は中国と国交を開く道を模索すべき時期に来ていました。そのためには、田中君がいいのか、福田君がいいのか。
福田君は台湾派の岸信介さんの子分でしたから、彼では日米国交回復はなかなか進まないだろうと思われました。一方の田中君の場合は、環境さえ整えば日中国交回復に踏み切るだろうと、私は睨んだのです。
そこで一月の末頃、派の幹部を集めて、「日中国交回復が大問題だ。これをできるのは田中の方だ。田中で行こう」と決めました。田中支持で派内を取りまとめた後、いよいよ煮詰まってきてから、私は直接、田中君に対して、「私は立候補しないから、日中国交回復をやりなさい。三木武夫君と大平正芳君と三人で話し合って、君が日中回復をやらなきゃ、応援はしない」と突きつけたのです。田中君はいやいやながら、「やる」といいました。
日中国交回復は、田中君が喜んでやったように思われていますが、事実はそうではありません。田中君が変心して積極的に「やる」と言い出すのは、その後、田川誠一君や公明党の竹入義勝君が中国を訪問して、「周恩来が『必ず保証する』と言っている」という話を持ち帰ってからでした。
いずれにせよ、こうした経緯で私が総裁選への立候補を取りやめると、福田陣営からは「中曽根は田中に買収された」とずいぶんと批判されることになりました。それ以前に、佐藤さんからは「福田君を推さないと、選挙区で群馬県民の反感を買うよ」と言われたこともあります。私は「は、そうですか」と聞き流していましたが、ほんとうに佐藤さんの言う通りでした。
総裁選の第一回目の投票の結果は、田中が156票、福田が150票、大平が101票、三木が69票でした。勝った田中君はとにかく喜んで、「いずれ恩を返す」と言っていました。それは、十年後に私が自民党総裁になるときに実行されたのです。
田中政権が発足して二年目の1973年秋、第四次中東戦争をきっかけとしてオイル・ショックが起きます。10月17日、ペルシャ湾岸の石油産出国六カ国は石油価格を21%引き上げ、OPEC十カ国石油担当相会議がアメリカなどイスラエル支持国(つまり、アラブ非友好国)に対して、5%の石油輸出削減を決めたわけです。仮に日本への石油輸出が毎月5%削減された場合、日本経済は翌年三月には立ち行かなくなることが目に見えていました。その事態が誰の目にもはっきりしてくる1月頃には、社会不安が起こることも考えられました。何としても、その年の十二月中には石油を入れなくてはなりません。
何とか日本がアラブ友好国に入れてもらうためにはどうしたらいいか、必死で考えました。私は通産大臣を務めていて、ちょうと折も折り、アラビア石油社長の水野惣平君が「これからサウジアラビアに行く」と私を訪ねてきました。そこで、「私のメッセージを持っていってくれ」と、ファイサル国王への親書を託しました。
「わが国が苦しむのは、ある程度仕方ないが、石油が来ないと、インドネシアやインドなど途上国向けの肥料生産が止まってしまう。すると途上国の国民が餓死するではないか。だからその分の石油だけでも按配してもらえないか」。そういう内容の親書です。
サウジアラビアのファイサル国王は、日本が立たされた状態をほとんど知りませんでした。水野君はファイサル国王に信頼が厚かったので、「日本が親アラブ政策に転換することを声明文で表明すれば、直ちに友好国と認めて石油供給を増やす」との言質を取って帰国しました。水野君は通産省の官房長と協議して、声明文の文案を持って私の家に駆け込んできました。11月20日の夜のことでした。
私はその声明文を若干手直しして、田中首相に電話で「これは呑まなくては」と伝えました。田中君は「おれは賛成だが、大平を説得してくれ」という。すぐに大平外務大臣に電話したところ、彼はすぐに応えず、「検討する」というのです。
そんなこともあろうかと思って、事前に声明文は外務省にも回しておきました。翌日、衆議院の商工委員会に出席して、一生懸命に答弁に務めていると、外務省官房長の鹿取泰衛君がここを修正してくれと何度もやってくるので、そのつど断りました。それでも、しつこくやって来るので、私もさすがに頭に来て、「そんな修正案を明日の閣議に出してみろ。みんなの前で破ってやると大平君に言え」と怒鳴りつけたところ、ようやく向こうも承知しました。私も瀬戸際に立っていて、必死の思いでした。
11月21日、声明文が二階堂進官房長官の談話として発表されました。イスラエル兵力の全占領地からの撤退支持、パレスチナへの自治権付与といった親アラブの中東政策への転換を受け、アラブ諸国は日本への石油の増量を決定したのです。
12月20日頃になると、タンカーが次々に入ってきました。しかしこの問題は、田中角栄君の政治生命に暗い影を落としました。オイル・ショックの前後、田中君は日本独自の石油開発に積極的な姿勢を表わし、アラブ諸国から日本が直に買い付けてくる「日の丸原油」にも色気を見せたのです。これが、アメリカの石油メジャーを刺激したことは間違いありません。
さらに彼はヨーロッパに行った時、イギリスの北海油田からも日本に原油を入れたいと発言。また、ソ連のムルマンスクの天然ガスにも関心を示すなど、独自の資源取得外交を展開しようとしました。これが結果として、アメリカの虎の尾を踏むことになったのではないかと思います。世界を支配している石油メジャーの力は絶大です。このことが淵源となり、間接的に影響して「ロッキード事件」が引き起こされたのではないかと想像するところがあります。
ずいぶん経ってから、キッシンジャーとハワイで会った時に、彼は「ロッキード事件は間違いだった」と密かに私に言ったことがあります。キッシンジャーは事件の真相について、かなり知っていた様子です。
>>石油メジャーを含めたアメリカの恐さを田中角栄が失脚した「ロッキード事件」の背後に見る
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
佐藤栄作--沖縄返還に賭けた長州型政治家
1966年12月、佐藤栄作さんの総裁選をめぐり、春秋会(河野派)は、抜き差しならぬ内部対立に直面します。佐藤につくか、あくまで反佐藤か、この局面で河野派は分裂したのです。重政誠之氏や園田直君ら十八人が佐藤支持で主流派に流れ、河野派の活路を開こうとした。
それに対し、私や野田武夫、中村梅吉、山中貞則、稲葉修君などは、河野さんの遺志をついで反佐藤の立場を貫こうとします。それで、藤山愛一郎さんを支持することにしたのです。
もちろん、藤山さんでは負けるとは思っていました。しかし、大義名分があり、主義主張が鮮明であれば、負け戦に加担することも政治にはあるのです。時には、華々しい感じさえそこには備わるものなのです。
河野さんが無念の死を遂げたので、「さあ、すぐに路線変更だ。佐藤を支持しよう」とは行きません。ここは頑固者で行こうと、まなじりを決したわけです。
それが、新政同志会、すなわち中曽根派の発足でした。私が代表に推された。総勢二十六人。中村梅吉、野田武夫、唐沢俊樹、桜内義雄、稲葉修、大石武一、山中貞則、渡辺美智雄、佐藤孝行君らがいました。私は四十八歳。史上最年少の派閥リーダーでした。
そしてある晩、一本の電話が入りました。声の主は保利茂官房長官。「佐藤総理があなたに会いたがっている」。なんとも単刀直入です。
その足で、夜の九時過ぎに佐藤邸に行くと、驚いたことに、佐藤さんは羽織袴で玄関で迎えてくれました。
二階に上がって向かい合い、いろいろ話を始めましたが、佐藤さんは寡黙な人です。そのうち肝心な話をはじめるのだろうと、ゆっくり構えていると、やがて居住まいを正して、佐藤さんはこう切り出します。
「沖縄返還には命がけで取り組みたい。ついてはあなたに助けて欲しい。これさえできれば総理などいつ辞めてもいい。沖縄をやるためには、少なくとも保守陣営は一体にならんとまずい。アメリカに対しても力を示す必要があるし、挙党一致の態勢を示す必要がある。だから、助けて欲しい」
「ほんとうに、やるつもりですか」
「ほんとにやるつもりなんだ。だから、あんたにこうして来てもらって、おれは会っている」
なるほど、羽織袴でいるところを見ると、志を示したのでしょう。「あなたが本気になってやると言うのなら、これは国家的問題です。私は野にあっても協力する」と言って別れました。
あの晩の印象は今も鮮明です。はじめて佐藤栄作という人物が見えた気がしました。「黒佐藤」とか「正直にものを言わない二重底」とか言われていましたが、根は純情で不器用な人でした。
彼は長州人で、伊藤博文、山県有朋といった長州型の政治的素養の体系を身につけていたと思います。これが、佐藤さんを官僚出身でありながら、単に官僚肌にとどまらない政治家にしていました。七年半という、あれだけの長期政権をやってのけた裏には、山県有朋や伊藤博文のように人使いが上手かったこと、状況適応主義で時代に合わせて進みながら時期を見計らって、適宜、問題を設定して勝負をかける勇猛さも持ち合わせていた。そこから、沖縄返還も日韓国交回復も生まれたのです。
その後の改造内閣で、私は運輸大臣に指名されることになりました。私は野田武夫君を推薦したのですが、佐藤さんは頑として聞き入れなかったのです。
しかし運輸大臣になってみると、これがすこぶる評判が悪い。「風見鶏」と言われたわけです。藤山愛一郎を応援して佐藤栄作を批判していたのに、大臣をもらって佐藤と一緒になってと、党内主流とジャーナリズムの合作で、そこら中で痛打の声です。また左翼陣営、保守陣営の両方からも「変節漢」「風見鶏」と避難されました。
しかし、そんなことは気にもとめず「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」と嘯いていました。はっきりと、将来、総理を目指すための派閥戦略をもっていたつもりです。派閥のためにポストも確保して、政務次官五人、副幹事長、政調副会長などのポストに人材を送り込むこともできたのですから、何を憂える必要があるでしょう。実際、現実に重要な沖縄問題があったのです。
佐藤さんは総理に就任早々、沖縄に行って、「沖縄の本土復帰が実現しない限り、戦後は終わらない」と発言しました。私は心底、この発言には感銘を受けたものです。度胸の据わった発言であり、政治家としての佐藤さんの見識には敬意さえ抱きました。
「守りの佐藤」「待ちの佐藤」と言われた人でしたから、そうした勇断を振るった積極的な発言で、国民に訴えかけるとは予想できなかった。私は大いに驚きました。
いろいろな選択肢を確保して、一つ一つトライしてみて、最終決断を自分で下す、というスタイルです。そうして「核抜き本土並み返還」にまで持っていったのは実にたいしたものでした。
あまり目立ちませんが、佐藤さんのもう一つの功績は、日中国交回復の軌道を敷いたことです。
あの頃、佐藤さんは、香港経由で中国に密使を送っていました。その仕事は、江鬮真比古という人物に委ねられていました。佐藤さんは江鬮氏に、「おまえがいままで中国とやってきたことは次の時代の総理候補の三人に直接教えておけ」と命じていたようで、彼は田中角栄君と福田赳夫君、そして私に話をしてくれました。当時、大平正芳君は佐藤さんの眼中にはなかったのです。
余談ですが、私が防衛庁長官に志願してなって以来、佐藤さんは私を非常に評価してくれるようになりました。将来の総理候補の一人として、考えてくれていた形跡があります。ご子息の佐藤信二さんや佐藤さんと親しかった浅利慶太氏からよくそういう話を聞きました。
佐藤政権の間、私は運輸大臣、防衛庁長官、自民党総務会長を務めますが、私を総務会長につけたのは、まず格を上げておいて、宰相学、総裁学というものをそばで見ておれという意味があったのではないかと思うのです。
当時、国連での中国の代表権問題が国連で大詰めを迎えていた頃、佐藤さんはあえて時代の流れに逆行して、台湾への信義を優先させました。その時、私は総務会長になったばかりでしたが、「アルバニアが出した決議案が勝つ」と常々言っていました。アルバニア案とは、台湾と中国を入れ替えるという案です。ところが、佐藤さんは「いや、それはわからん」と言って聞かなかった。台湾が勝つかもしれないと佐藤さんは本気で思っていた感がありました。
私は総務会長という立場上、「日本の国家としての運命に関する大事なポイントでもあるし、この際、政策を転換してはどうか」と、二度ほど提言したことがあります。佐藤さんは、「いや、そういうわけにはいかん。台湾を切り捨てることなど、信義の上からもそう簡単にできるものじゃない。それに、負けるとは限ってないよ」と話をされたものです。
まもなく、1971年10月25日の国連総会で、中国の国連復帰が決定し、台湾が国連から脱退するという結果が出ます。台湾は負けたわけですが、しかし佐藤さんはやはり最後まで、たとえ損をしても台湾を助けよう、最後の一国になっても肩入れしようと心に決めていたのでしょう。佐藤さんにとっては、もはや勝敗の問題ではなかった。国家としての道義の問題だったのです。彼も、岸さん同様、長州人でした。彼のそうした心情を私は評価しています。
中国との国交回復の千載一遇のチャンスを逃したことで、野党や世論からは「佐藤は栄作ではなく、無策である」と批判されていました。しかしその裏で、佐藤さんは江鬮真比古という人物を密使に立てて、前述したような布石を打っていたわけです。「待ちの佐藤」の意外に豪胆な一面を垣間見た気がしたものです。
それだけに、佐藤さんは総理を辞任しなければならなかったことが無念だったでしょう。辞任からわずか三カ月後に、田中角栄君が訪中して日中国交回復の共同声明に調印します。しかし、国交樹立の下準備は佐藤時代に出来ていたともいえるわけです。
佐藤さんのエピソードについては、後継者問題を書いて締めくくることにしましょう。
田中角栄君と福田赳夫君の間で佐藤後継をめぐる闘いが、始まるだろうということははっきりしていました。
ポスト佐藤に備えて、私を福田君の方に引っ張り込んでおこうという思惑が佐藤さんにあったことは確かです。しかし不思議なことに、佐藤さんが陰で強く福田君をサポートしたかといえば、必ずしもそうではなかった。外遊先のカリフォルニアで、佐藤さんが田中君(当時通産大臣)と福田君(当時外務大臣)に会った時、福田君は、佐藤さんが田中君に引導を渡してくれるものと思っていたようです。しかし、佐藤さんはそうはしなかった。これは明らかに人事のミスでした。
ほかにも、佐藤さんは人事で重大なミスを犯しています。第三次佐藤改造内閣の時、田中君を官房長官に捕まえ損なって、通産大臣に逃がしてしまったことです。佐藤政権の幹事長として力を養ってきた田中君を、官房長官として官邸に閉じ込めておかずに、野に放ってしまったからです。
当時、懸案になっていた日米繊維交渉をまとめられるのは田中君をおいてほかにいなかったことは事実ですが、田中君の方でも「おれがまとめて見せる」と喧伝して通産大臣の座を獲得した。佐藤さんも田中君の辣腕に頼らざるを得なかったのです。
しかし、これで福田君の優位はなくなってしまった。人事というのは恐ろしいものです。「人事の佐藤」といわれた人も、長期政権の疲れで最後には緻密さを欠くことになったのかもしれません。
それにしても、時の流れは速いものでした。佐藤政権の幕開けの頃は、まだ河野一郎、池田勇人、大野伴睦など、自民党創設以来の大物がいましたが、佐藤内閣の終わる頃には、皆亡くなっていたのです。
佐藤さんは孤独な人でした。奥様の佐藤寛子さんが書いておられます。夏休みに信介は一高生として帰ってくる、栄作は五高生として帰ってくる。親戚が集った座の中心になるのはいつも兄の信介の方で、栄作は裏の小川に行って一人しょんぼりしていた、かわいそうでならなかった、と。
孤独でさびしがり屋で、人見知りする性格。その裏返しとしての倣岸さ。それらが複雑に織り成す佐藤栄作という独特のパーソナリティは、積み重ねた政治の実績ほどにはジャーナリズムからは評価されず、国民には親しまれなかったようです。
佐藤家は儒学を重んじた家系なのか、宰相学というものをしっかりと身につけていました。私の知る総理大臣で、宰相学を本当に身につけていたのは岸信介、佐藤栄作のお二人だけです。安岡正篤氏などの国家主義者の影響があったのかもしれません。
私は、政党人としてのあり方は河野一郎さんや松村謙三さんから教わりましたが、宰相学は佐藤栄作さんから教わったと思っています。
>>沖縄返還と日中国交回復への軌道を敷いた佐藤栄作の大甥である安倍晋三の外交手版に期待したい
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
岸信介--直入正直型の長州人
岸信介と弟の佐藤栄作を対比して見ると、岸さんは、直入正直型の長州人だと感じます。同時に、権力を手にした革新派官僚であり、政治家としては発散公開型だった。私もこのタイプに属しています。これに対して佐藤さんは、狡いズルシャモ型長州人とでも呼べましょう。しかし二人とも武士の風格を持っていました。
岸さんの政治は、明らかに吉田政治からの脱却を図ろうとしていた。
すでに述べたように、戦後、吉田政権は、池田勇人、佐藤栄作らの戦後派官僚出身者たちを傘下に従え、財界、主要なジャーナリズムも従えるかたちで強大な力を持っていました。これに対抗するには、岸さんらの追放解除を認めさせ、保守合同を実現するしかないと、私は考えていました。マッカーサー司令部に「彼らの追放を解除してくれ」と談判に行った記憶があります。
岸政権と私との関わりでどうしても書き記しておきたいのは、日米安全保障条約の改定問題です。
1959年6月18日、私は第二次岸改造内閣で国務大臣として初入閣し、科学技術庁長官を務めました。
私は、安保条約の改正案の内容は非常に正しいと考えていました。これは、早く成立させるべきだと思っていたのです。
1952年に始まった安保条約には有効期限が設定されていなかったので、十年という期限をつける必要性も感じていました。さらにもう一点。もし日本に内乱が起きたときには在日米軍が出動するという、いわば内乱条項を削除することの重要性も痛感していました。内乱に際して米軍が出動するなどということは、国家の恥辱以外のなにものでもありません。それでは独立国家ではありません。論外です。
そのように私は安保条約改定が必要と思っていましたが、残念ながら、改定の方法、手続きが稚拙でした。そのために無用な反対と混乱を惹き起こすことになってしまった。特に、偶然か意図的か、国会での批准承認を、アイゼンハワー大統領来日の日に合わせてしまったために反対運動を盛り上げさせてしまった。これは、政府の過失でした。
デモ隊の国会突入(1960年6月15日)が起こった時、運輸相の楢橋渡、経済企画庁長官の菅野和太郎と私の三人で夕食をとりながら、今後どうすべきかを相談したことを覚えています。危機感は相当ありましたが一面において、政治家として、こういう問題は最終的にどう収拾すればよいのか、同じようなことが将来起きた場合、どのように処理すればよいかを考えていました。私としては「結局、アイゼンハワーの来日は断って肩透かしをかけるが、状況によっては岸内閣は総辞職せざるを得ないだろう」と断念しました。当時のメモにそのように書き付けましたが、実際その通りになりました。
6月17日には、新聞7社が「暴力を排し、議会主義を守れ」と共同宣言を出すにいたります。これには目を開かされた思いがしたものです。「あっ、こういうやり方もあったのか」と、安堵の胸をなでおろした。救われた気がしたのです。将来、こうした問題が起きた際には、新聞の良識で国民を動かさないといけない時がある。そう、胸にたたんでおきました。
この安保騒動について、もうひとつ記しておきたいことがあります。自衛隊動員問題です。実際、自衛隊を出動させるという動きはありました。驚いたことに、当時、通産大臣だった池田勇人さんが閣議で、「自衛隊を動員して、徹底的に暴徒を取り締まれ」と提言したのです。
池田さんは、なぜ、ああいう強硬論を出張したのか。今になって考えてみれば、国家と同時に自分の戦略を考えたのかもしれません。この後、岸内閣が倒れて池田内閣ができるわけですが、そのとたんに池田さんは百八十度転換して、きわめて融和的な内閣を作った。「忍耐と寛容」を掲げ、そして「憲法改正はいたしません」と宣言します。この姿勢はきわめて軟弱な感じがしたものです。側近だった大平正芳君の入れ知恵かもしれませんが、とにかく池田さんについては、「人間というのは、戦略とはいえ、こうまで変わっていいものか」と感じました。
天皇陛下の御前で、「岸さんを正二位大勲位に奏請いたします。よろしくお願いいたします。」と言って、功績調書を読み上げました。天皇陛下はやや時間をかけてお考えになられて、「そういうことであるならば承認する」とおっしゃいました。
「そういうことであるならば」という表現が印象に残りました。陛下はそうした感情を刻むような表現をあえて取られたのかなと後で思いました。陛下はとても潔癖であられるので、岸さんの弟である佐藤栄作さんが占領下の吉田内閣で官房長官になった時も、これでマッカーサー司令部はいいのかとご心配なさったそうです。
同じようなことが近衛文麿元首相に対してもありました。1984年のロンドン・サミットから帰ってきた時でした。陛下に内奏して廊下に出てきたら、富田朝彦宮内庁長官が追いかけてきたのです。何かと思ったら、「この間、猪木正道氏が近衛のことを書いた本を出したが、あれは正確であると中曽根に伝えよ」と陛下がおっしゃっているというのです。その猪木さんの著書『評伝 吉田茂』を読んでみると、猪木さんは松岡洋右と近衛文麿をかなり厳しく批判しています。陛下は、将来の歴史評価の一環として、ご自身の感想を内密に私に伝えられようとしたのだな、と思いました。
>>吉田政治からの脱却を図った岸信介の孫である安倍晋三の手腕に期待したい
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
鳩山一郎--党人派の元祖
戦後の日本政治の中で、いちばん華やかで燦然と輝いていた権力をめぐる政党の闘いと党人政治家の活躍の時代というのは、吉田内閣を倒して、鳩山内閣を作ったあの昭和二十年代末期の政争劇の時代でしょう。
三木武吉、大野伴睦、鳩山一郎、緒方竹虎、重光葵、岸信介、河野一郎、石橋湛山といった屈強な古武士たちが政界に登場して、秘策と秘術の限りを尽くして攻防戦を繰り広げたわけですから。
その代表格である鳩山一郎は吉田茂のアンチテーゼであって、吉田が官僚派の元祖なら、党人派の元祖であるといえるでしょう。鳩山は、いわば坊ちゃん式の大衆路線で、脱官僚政治を志し、憲法改正と日ソ交渉という象徴的な政策を掲げて、昭和二十九年の選挙に勝ったわけです。
鳩山内閣というのは非常に短命だったため、歴史的な存在感がわりあいに希薄かもしれません。しかし私は長い間、それは間違いだと言ってきました。なぜならば、鳩山さんは占領政策を転換して、独立日本へと前進させようという意識を明確にもって、ある程度の路線も示しえた政治家だからです。いわば政治路線転換の転轍手の役目を果たしました。鳩山さんが主張した憲法改正や日ソ交渉などは、そうした例にあげられます。憲法改正というものは内政上の自主独立路線であり、日ソ交渉というのは、外交上の自主独立路線なのです。
残念ながら、鳩山内閣発足以後、自民党の長期政権となって、社会党との論戦はしだいにマンネリズムに陥っていきます。冷戦が続いて、世界は米国体系、ロシア体系、インドなど第三勢力体系に分かれ、日本は米国体系の温室の中で経済主義と国権回復に専心し、ロシア体系と思われた社会党は万年野党で、冷戦終結の1993年まで自民党政権が続きましたが、冷戦下の日本の政争は政権獲得が中心でなく、政策論争にも既成パターンのようなものが出来てしまっていて、熱情は感じられなくなっていくのです。
ですから、昭和27年から30年の頃は、日本の政治史上においても非常に輝かしい時代だと私は回想しています。今を生きる日本人が、あのころの国会の議事録というものを、もう一度虚心に読んでみれば、いくつもの国家像についての知恵が数多く入っていることに気付くはずです。あの時代の政治史こそ、究める必要があると思います。
鳩山さんや、安保条約改正をうたい、憲法調査会を発足させた岸信介さんは、占領政策の下請けをやった吉田政治の打倒、独立国家体制整備を志した、いわば列車の側線を替えた転轍手の役目を行ったと思います。
>>自民党結党により政策論争に熱情がなくなりマンネリ化したのは間違いない
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
吉田茂--英国仕込み、貴族趣味のプラグマティスト
吉田茂さんに対しては、私が若かった頃と現在の評価は異なります。当時は、やはりたいした政治家だと思っていました。
一言で言って、吉田さんという総理大臣は、占領軍最高司令官マッカーサーの非常に良き相手役でした。その役を十分にこなしていたという面があります。結局彼は、英国流、英国仕込みのプラグマティスト、あるいは淡白と共に策略も充分に持ったスタイリストでもあった。
当時、私は野党でしたが、われわれ野党側の芦田均、三木武夫、苫米地義三、重光葵などの諸先輩も、どうあがいたって吉田さんにはかなわないと思っていました。
ふてぶてしいというか、ひじょうに豪快で無欲の面も見せた。しかも、パフォーマンスがうまい。「バカヤロー」と新聞記者に水をぶっかけたり、紋付き羽織袴に白足袋で国会に出たり、マッカーサー司令部にもときどき怒鳴り込むポーズまで見せたりする。本当にやったのかどうかは知りませんが、そうした伝説的なイメージを上手につくり上げていった。
あの人は大物のように見えて、実は意外に太刀を使わないで短刀を使う、つまり小技を弄するところがありました。たとえば当初は、自衛隊の創設については否定したり、前身の警察予備隊を作った時は「戦力なき軍隊」などと安直なレトリックでごまかしていた。そういうやり方に、私は腹が立って仕方がなかったものです。今でも思いますが、もしあのとき吉田さんがいずれ将来、“与えられた憲法”の改正や自前で日本の安全保障を担当する自衛軍の必要性、教育基本法の改正などを訴え、堂々と「国は自分で守り、米軍は早く帰す」と、国家の重要性や日本の将来のあり方、国際責任や愛国心や教育についてまっとうな議論をやっていたならば、今日これほどひどい後遺症は残らなかったと思います。
しかし彼は、重光さんや鳩山さんが自主防衛とそのための憲法改正を主張すると、それに対抗するために、反対の方向に走り、選挙に勝った当時の左翼的雰囲気に迎合して安易な方向に行った。たしかに、一見したところ吉田さんは一国平和主義者と思われたでしょう。実際のところは、むしろ吉田さんの本質は、政治的にはオポチュニスト、便宜主義者でした。国家の前途とか日本の運命よりは、その場その場の政争に勝てばいいという官僚的現実主義者の傾向が強く、その狡さに私は嫌悪感を持っていました。
私から見れば、占領終了期の大切な時に、吉田さんは戦後の経済復興にのみ目を奪われて、日本の基軸となる長期的基本的国家観を示すことができなかった。そして、戦後政治家の官僚派の元祖となったわけです。
我々が予算委員会などで教育論や憲法改正論などを主張すると、鼻にもかけないような様子がよく見られたものです。与野党の攻防の場面ですから、余計にそうした面が強調されたところがあるとは思いますが、やはり彼自身が英国流のプラグマティズム、合理主義者的要素を色濃く持っていたことから、憲法典とか威儀を正した教育基本法よりも、慣習法を尊重するという英国流儀に染まっていたと、私は想像しています。事態が起きて、それに合わせその場その場で即応していくという形の状況適応主義、そういう習性が非常に強く彼にはあったといえます。
後に首相となった池田勇人氏も、こういうところは似ていた。国家理念の柱を打ち立てるなどということには、さほどの関心はなかった。所得倍増、経済中心主義でした。その点、精神主義を大事にしていた我々、あるいは鳩山一郎、岸信介のラインとは全く異なっていた。我々が吉田茂や池田勇人氏を最も攻撃した面もそこにあったのです。
>>吉田茂が自衛軍の必要性や教育基本法の改正をまっとうに議論していたらもっとまともな国になっていたに違いない
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
天皇退位問題
1952年1月31日、衆議院予算委員会で、私は天皇について質問しました。
このときは、対日講和条約の発効を目前にして、一度は質しておく必要があるだろうと思い、吉田茂首相に質問したのです。その論旨はこうでした。
「過般の戦争について天皇には責任はない。しかし、人間天皇として、心の痛みを感じ道徳的呵責を感じておられるかもしれない。そういう場合、内閣はその天皇の自然な人間性の発露を抑えてはいけない。もし天皇が退位を考えておられるなら、内閣はそれを抑えるべきではない。天皇の退位という問題は、あくまで天皇が自ら考え自ら行動されるべきものではあるが、もしそのようなご決断が万一あれば国民や戦争遺族は感涙し、天皇制の道徳的基礎はさらに強まり、天皇制の永続性も強化されるであろう」
すると、吉田さんは、
「昭和天皇はこのままぜひ仕事を続け、日本再建に努力していただきたい。天皇の退位を言うものは非国民であります」
こう答えたのです。マッカーサー元帥が占領成功のために天皇退位に反対で、首相自身も昭和天皇擁護論であったため、吉田さんは、退位論が人の口に上ることさえ嫌がったのです。私も、それ以上、議論を続けることは避けました。
その頃、元内大臣の木戸幸一や東大総長の南原繁などが、やはり天皇退位を唱えています。それ以前には、高松宮か三笠宮も、退位を進言したようです。天皇は、非常に悩んでおられたと思います。
私は、大臣として、また総理にもなって、昭和天皇に長いことお仕えする立場に身を置きましたが、人間的な深み、責任感と思慮の深さという点で、百二十四代続いていた天皇家のなかでも最高の天皇だったと思います。天皇学、帝王学というものを完全に会得した本当に立派な天皇でした。もう、こういう天皇は出ないかもしれない、そんな印象すら抱いたものです。
ですから、若い時分に、天皇退位に関して行った私の質問は後々、再点検するところとなりました。首相になって天皇に内奏申し上げ、親しくお人柄に接したときには、あの質問は必要なかったと強く感じたものです。
政権が汚職で倒れても、日本には超越的存在としての天皇がおられます。俗界の飛沫は天皇には及ばない。否、及ぼさせてはならないのです。この二重構造によって、日本の伝統と民主主義との調和があり、求心力と遠心力の均衡、いわば歴史的知恵の作用で、日本の自由民主主義は維持されていることを認識すべきなのです。
ひとつ、陛下のエピソードを記しておきます。私が第二次佐藤改造内閣の運輸大臣に就任したのが、1967年11月。まもなくして、職務の内奏で、宮中に出向いたことがあります。一通り、話も終わったところで、私は年来、陛下に確かめたく思っていたことをどうしても抑えることが出来ませんでした。
「陛下、たいへん失礼とは存じますが、年来お聞きしたいと思っていたことがあるんでございます。お尋ねしてもよろしゅうございますか」
直接、天皇陛下に質問することは、禁を破るようなものです。通常、首相でも、天皇からのお尋ねに答えるだけです。当時、私は四十九歳。思い切ったまねをしたものです。
昭和天皇は、
「ああ、いいよ」
と応じられました。
「実は、司馬遼太郎が書いた『殉死』という本がございます。その中で、学習院長だった乃木希典大将が殉死される前日、宮中で皇孫殿下三人を集めてお別れをやりました。しかし、お別れなど言わないで、山鹿素行の『中朝事実』の話をしましたが、難しいものですから、秩父宮と高松宮はプイと表へ飛び出してしまわれた。陛下だけが我慢して最後までお聞きになった、と書いてあります。たいへん恐れ多いことですが、そういうことはあったのでございましょうか」
天皇は、
「記憶が定かではないけれども、もしそういうことが書いてあるならば、あったのかもしれない」
と、答えられました。私は、持参した『殉死』を「この本でございます」と差し上げて、おいとましました。『中朝事実』にはところどころ乃木希典の朱注が入っていたとも書かれているので、その後富田朝彦宮内庁長官に、その本はあるかと訊ねてみたことがあります。調べたところ、宮中の書陵部にあったとのことです。
乃木大将がやろうとしたことは「帝王学」でした。幼いお二人はその場を逃げ出したのも当然です。昭和天皇だけがじっとお聞きになったのです。たいへんな我慢強さ、聡明さといわざるを得ません。
昭和天皇は、どちらかというと不器用なお人柄で、国民もそれを良く承知していました。同時に、誠実で純潔なお人柄も良く理解していたのです。
帝王学を完璧に体得されていて、個人的意思表示は徹底して避けておられました。ただし、食事に入るときには、「皆の者、食事にしよう」といわれました。今上天皇なら、「みなさん」と言われるでしょう。
>>昭和天皇のことを知らない国民が増えているのは残念でならない
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
徳富蘇峰先生との邂逅
非常に驚いたのは、あのお歳になっても非常に柔軟性のある発想力を持っていらしたことです。「勝海舟の言に『天の勢に従う』というのがある。政治家は救世軍の士官ではないのだから、イデオロギーや既成概念に固執する必要はない。これからの時代は流動するから、大局さえ失わないなら、大いに妥協しなさい。西郷南州くらい妥協の好きな男はいなかった。中曽根さんも見習いなさいよ。毛沢東は、チトーみたいになる。いつまでもソ連に服従している中国民族ではない。必ずチトーみたいにスターリンに対して反逆児になる。中国民族は独自性を回復してくる。中国文化とはそういうものだ」あのころの中国共産党、中共は、マルキシズム全盛の時代、スターリンに跪いていました。徳富先生の観察は、世界を良く知っているし、良く見ている。これに最も感銘しました。
アメリカについては、「提携して仲良くしなさい」という持論でした。「しかし、アメリカも判断を謝ること、間違えることはよくあります。それはわきまえて、時には忠告したほうがよろしい」。これを、戦後まもなく指摘していたのです。
アメリカの占領政策自体については、どちらかといえば、冷笑的でせせら笑っていました。要するに、植民地政策を知らないアメリカ人が日本へやってきて、千五百年以上の歴史を持つこの民族を統治して押さえつけようとすることに、片腹痛い思いでいたのでしょう。GHQのやり方を良く見ていらした。「ソ連という強大な共産国家が、やがて出てくる。だから、日本をいつまでもこんなふうにしておくものか。日本を利用するに違いない」。この予測は、その通りになりました。
国内の政局で印象的な言葉があります。
1950年に自由党ができたとき、民主党が分裂して小坂善太郎くんらが自由党に走るのですが、そのとき、徳富さんはこういったのです。
「中曽根さん、今の政治は満員列車と同じでね、小坂君みたいに腰を上げると、すぐ人が座っちゃう。だから、こういうときは我慢して座っているんですよ」
伊豆山での一日、当時の政治家についての人物月旦をお願いしたことがあります。
緒方竹虎=悪いところがないのが悪いという男。引っ張る力はないが、押せば進む。この点、中野正剛よりあてになる。カネにもきれいで、人物は緒方と松村謙三だろう。大きな太鼓のようで、大きくたたけば大きく鳴り、小さくたたけば小さく鳴るよ。
重光葵=長い間ロンドンにいたので、霧がかかっていて晴れだか曇りだか分からん。外交文書を書かせておくには最適任。官僚で気が小さいから、あまりいじめなさんな。
吉田茂=黒白をはっきりさせる男だが、近頃は灰色になって存在を失った。もう歳だね。
鳩山一郎=父の時代からの自由主義者。温室のお坊ちゃんのほうが皮が厚い。根が善人で人にだまされる。
三木武吉=大野伴睦が弁護士になったような男。一世の勝負師だ。性は善。大麻唯男と同じで、敵を崩したり、足がらみをやったりするのに没頭する。君はそんなことはやらずに、専門家に任せておきなさい。
大麻忠男=茶坊主第一等。手をたたけば最初にお茶を持ってくる。ウナギのようにどこかへもぐりこんで、ひょっと頭の上の石垣の穴から顔を出す。喧嘩をとめたり、人のやりくりに適任。カネに近いが、カネにきれいで蓄えない。苦手な相手のところに飛び込んでくるから、中曽根さんあたりも狙われるよ。
>>大局を失わずに大いに妥協する道を目指してみたい
「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より
日米開戦の真相
アメリカはヨーロッパ戦線に参入する大義名分がありませんから、ルーズヴェルト大統領は、ヒトラーのドイツを破るため、まず日本を叩くことを考えます。日本を追い詰め、日米間に戦争を誘発させて、その勢いで全体主義撲滅を大義名分として欧州戦線に参戦する。ファシズム化したドイツ、日本、イタリアを粉砕する思惑があったのです。
1941年11月26日のハル=ノートを見ても、あれでは日本ならずとも、どの国でも戦争に至らざるを得なかったと思います。外交で日本は失策を重ねたことは事実です。しかし、ハル=ノートから導かれるあの局面の結論は「自存自衛」です。ですから、日米戦争は19世紀に欧州で起こった様な普通の戦争なのです。
「日本が勝てるという見通しがあるのか。ドイツが勝つというのは早計だ。こういう場合は自重して、最後の最後になるまで様子を見て、積極的に出ないほうが賢明だ。今はまだその時期ではない」。この私の考え方に対して反対意見が数多く表明されました。とくに海軍兵学校出の少尉や中尉たちからは、「そんな暢気なことを言っている場合ではない」という意見が多く聞かれました。この船には、変わった主計中尉がいる、ほとんどの者がそう思ったに違いありません。
当時の雰囲気の中で、しかも殺気立った猛訓練中の巡洋艦の甲板で、開戦反対を口にすることは、かなり勇気が要りました。しかし私には、戦争になれば日本は負けて滅亡するという予感がありました。
私なりに大東亜戦争を総括するなら、次の五点に集約されます。
一、昔の皇国史観には賛成しない。
二、東京裁判史観は正当ではない。
三、大東亜戦争は複合的で、対米英、対中国、対アジアのそれぞれの局面で性格が異なるため認識を区別しなければならない。
四、しかし、動員された大多数の国民は祖国防衛のために戦ったし、一部は反植民地主義・アジア開放のために戦ったと認識している。
五、英米仏蘭に対しては普通の戦争だったが、アジアに対しては侵略的性格のある戦争であった。
>>自存自衛、祖国防衛のために戦った英霊に心から感謝申し上げる
「艦長たちの太平洋戦争」(佐藤和正著、光人社NF文庫)より
孫子の兵法<戦艦「大和」艦長・松田千秋少将の証言>
「山本長官のやった戦さは、あれは素人の戦さですよ」
二千年前、孫子が、「彼を知らず、己を知らずして戦う者は百戦百敗す」と教えた不動の大原則を無視した痴人の空想か、さもなければ、何万分の一かの成算を願望する大博打作戦と断定しても過言ではないでしょうね。
私はかねてから、真珠湾攻撃は日本の敗戦の端緒であると主張してきたんだが、その理由はこういうことなんだ。
まず、開戦のとき、真珠湾を奇襲して敵の戦艦多数を沈座させたことが、大戦果であるかのように宣伝されていますね。あれば、あくまで沈座であって撃沈ではないということです。大戦果どころか、事実はまったくこれに反し、予想されていた太平洋戦争の様相を一変させて、日本の敗戦の最大原因となったんだな。その理由を逐一、あげてみましょうか。
まず第一は、宣戦なき奇襲によって米海軍のトラの子戦艦の多数が大破されたことは、全アメリカ国民を憤激させて、「リメンバー・パールハーバー」という標語のもとに、ただちに総力戦体制に立ち上がらせたことです。これに反して日本国民ならびに戦争当事者は、この見かけだけの大戦果と、南方海域での若干の戦果に酔って、「米英くみしやすし」という安易な気持になったことだね。そして総力戦体制にうつったのは、戦況がようやく厳しさを増してきた一年以後だったということです。
第二は、沈座したアメリカの戦艦は、まもなく浮上修理され、戦力を回復して戦線で活躍できたこと。
第三は、日本海軍が、もっとも重視しなければならなかった敵空母に、一指も触れなかったということ。
第四は、飛行機では戦艦に致命傷をあたえることができない、とする米海軍伝統の思想を一変させ、「航空戦で海上作戦は決定できる」ことをアメリカ側に教えてやったことだね。このことは、民間航空機の生産能力と、民間パイロットの数が日本の十倍もある米国の思うツボにはまったものになったわけだよ。民間パイロットは、短期間の軍事訓練で、ただちに軍用機パイロットに転化できるからね。
以上の結果、太平洋戦争を航空戦としたのは、じつに真珠湾攻撃に、その原因があるといわねばならんのだ。したがって、「大和」以下主力艦を中核として、放水雷航空の総合戦力により、制空権下の艦隊決戦を企図していた日本海軍伝統の作戦計画が、一朝のうちに瓦解してしまったんだな。しかも、これに基づいて永年にわたって巨額の国費を投じ、苦心して整備してきた必勝軍備も、連年の猛訓練で鍛えあげた戦闘術も、まったく発揮することができなくなってしまったわけですよ。
「大和」以下の強力な戦艦は無用の長物と化したし、新鋭空母は敵機の餌食に終わったし、水雷戦力を誇る駆逐艦は局地戦用の砲艦となったり、潜水艦もまったくその活動を封じられて、輸送船による海上輸送、とくに南方と内地との間の戦争必需物資が完全に途絶してしまったのも、元といえば、真珠湾攻撃が根本的な原因であったといえるわけだ。
>>山本連合艦隊司令長官の真珠湾攻撃は素人の大博打だったのだろうか
「艦長たちの太平洋戦争」(佐藤和正著、光人社NF文庫)より
孫子の兵法<戦艦「大和」艦長・松田千秋少将の証言>
フィリピン沖海戦では、私は「日向」に乗艦して「伊勢」を率いて出撃したんだが、二十四日に栗田艦隊がシブヤン海で苦闘して、いちじ西方に避退したんだが、これが小沢機動部隊とひじょうに関係があるんだ。
栗田さんが避退する前にね、フィリピン基地航空隊が敵艦をやっつけて、われわれの前方に傷ついた敵の戦艦が三隻残っているから、「伊勢」「日向」は残敵を追いかけて、大砲でこれを撃破すべしという命令が出たんだ。そこで私は駆逐艦四隻をともなって、前衛部隊として、「瑞鶴」など空母部隊の本体から離れて南進したんだ。私はね、これは命がけだけれど、いい機会だと思ったんだ。栗田部隊も出る。「伊勢」「日向」も北から出るとなると、米機動部隊を南北からはさみ打ちにすることになり、ますます成功の公算が強くなるわけです。
それでどんどん南下していくと、水平線上に盛んに光芒がひらめいているんだ。これは友軍機が夜間攻撃をやっているものだと、私は考えたんですよ。しかし、このまま突っこんでいくと、夜中ですから、友軍機と同士打ちをやる可能性があるので、夜明けを待とうと思い、南進から東進に進路を変えたんです。
ところが、栗田さんは、こっちが突撃の態勢をとっているとき、反転の電報を打ってきたんだね。それで小沢長官は、栗田部隊が反転したのに、松田部隊だけが進撃しても意味がないということで、私の部隊に反転して、主隊に合同せよと命令を出されたんです。それで私は、突入をあきらめて北進するわけです。
ところが、まもなく栗田部隊は、シブヤン海で再反転して進撃を再開したでしょ。この再反転という電報を小沢部隊はうけてないんだ。それをうけていたら、また話が違ってきたんだ。この戦いが終わったあとで小沢長官は、栗田部隊が再反転してレイテ湾に向かって突撃していることを知らなかった、と言ってましたよ--」
これは重大な証言である。
栗田部隊がシブヤン海で大空襲をうけ、戦艦「武蔵」が撃沈されるほどの猛襲に耐えかねて、進撃路とは反対の針路をとって反転したのは十五時三十分だった。そして、反転したことを大本営や連合艦隊司令部、機動部隊などに通報電を打ったのが十六時である。小沢機動部隊本体が、この反転電をうけとったのが二十時であった。
このとき小沢長官は迷った。栗田部隊が反転してから、すでに四時間を経過している。それなのに、それ以後なんの連絡もない。そのまま退却したのか、それとも再反転するのか、情報はまったくない。ところが、その間に、連合艦隊司令部が十八時十三分発電で、「天佑を確信し全軍突撃せよ」という伝令を下している。とすると、栗田長官は、この伝令をうけて再反転し、再突撃するかもしれない。米軍にしても、栗田部隊は脅威のはずだ。かりにそのまま退却したとしても、明二十五日には、米軍は総力をあげて栗田部隊を追撃することが予想される。それなら機動部隊本隊としては、たとえ自隊の存亡を賭しても、あくまで牽制作戦に出るできであろう。
小沢長官はそう判断した。そして、栗田部隊の再反転を期待していたが、いつまで待っても、栗田長官から再反転を知らせる電報が届かない。そこで小沢長官は、栗田部隊は退却したものと判断せざるを得なかった。それなら自隊と栗田部隊とは相当の距離を逆方向に進んでいることになり、機動部隊本隊がこのまま進撃をつづけるなら孤立することになる。そこで小沢長官は、艦隊をいちじ反転北上させることにし、二十一時二十七分、松田部隊にたいして、「前衛は速やかに北方に離脱せよ」と電令したのである。この電令を松田司令官が、「日向」の艦橋でうけとったのが二十二時十六分であった。
松田司令官はこの電令をうけて、ちょっととまどったが、栗田部隊が突入を断念してすでに反転しつつあることでもあり、作戦は米軍の反撃によって阻止されたとみなさざるを得ない。おそらく機動部隊としては、明日の戦闘に備えるために態勢を立てなおすのであろうと判断、二十二時三十分に進撃を中止、針路を北へ向けたのであった。
まさにちょうとその頃、米機動部隊のシャーマン隊(空母レキシントン、エセックス基幹、軽空母二、戦艦二、軽巡三
駆逐艦十六、このうち軽空母プリンストンは特攻機の命令で沈没)が、松田部隊の南方、至近距離にたっしていた。しかし、両軍とも、これにまったく気がつかなかった。
『--おたがいにまったく知らなかったわけで、もしあのまま突っ込んでいたら、私の周りは敵だらけで、おそらく全滅していたでしょうね。戦後、米軍側は、松田隊が、なぜ東進したか理由がわからない、と戦史に書いていますけど、友軍機の夜間攻撃だと思った光は、じつはイナズマだったんですね。これは私の判断が誤ったものだったんです。そいういう事件が米軍側ではわからないから、私の行動がナゾに思えたんでしょうね。
北上しはじめて間もなく、夜が明けたんですが、水平線場で、敵機が空母に着艦しているのが見えましたよ、眼鏡で。だから、すぐそばにいたんですよね。ですから、栗田さんが反転の電報を打たなければ、私はそのまま突っ込んでいたわけです。これは私としては悪運ですよ。だから戦さというものは、ほんとうに面白いものだと思いますね--』
こうして、小沢部隊は、栗田部隊が反転した以上、単独で戦闘することの愚を避け、戦場から避退しはじめたわけである。ところが、事実は、栗田部隊は十七時十四分に、シブヤン海上で再反転、ふたたび進撃を開始していたのであった。
この栗田部隊の再反転を知らせる電報は、なぜか打たれていなかった。なぜ栗田長官は再反転したことを、連合艦隊司令部および関係部隊に知らせなかったのか。これは重大なミスといわねばなるまい。この作戦は、栗田部隊と小沢部隊との連携作戦であった。しかも、松田部隊が本隊から先行して進撃していることを、栗田長官は知っていたはずだ。この松田部隊突撃の知らせは、「大和」に十七時十五分に着電している。それならなおさらのこと、再反転したことを、栗田長官は知らせるべきではなかったか。大きなナゾの部分であるといえよう。
栗田長官が、進撃を再開したことを知らせる電報を打ったのは十九時三十九分、ミンドロ島サンホセ基地に派遣してあった自隊の水上偵察機の指揮官に、「第一遊撃部隊進撃中、レガスピー東方およびレイテ湾総合敵情速報せよ」と打った電報である。この電文で再反転したことがわかるが、連合艦隊司令部にも、小沢機動部隊にも到達しなかった。それがはじめてわかったのは、二十一時十五分に、スリガオ海峡に向かっている西村部隊に発電された命令である。
「第一遊撃部隊主力は二十五日○一○○サンベルナルジノ海峡進出、サマール島東方接岸南下、同日一一○○レイテ泊地突入の予定・・・・・・」
この電報は、連合艦隊司令部では受信されたが、小沢部隊までは受信されなかった。したがって、いぜんとして小沢長官は、栗田部隊の行動を把握できないまま、二十五日の敵空襲をうけることになったのである。
今日、問題とされていることは、小沢部隊がハルゼーの機動部隊を北方に吊り上げることに成功し、その報告電を打ったにもかかわらず、栗田長官座乗の「大和」に無電が届かなかった、ということである。小沢長官は、二十五日の午前七時三十二分に、米軍機の触接を打電し、つづいて八時十五分に、「敵艦上機約八十機来襲・・・・・・」と第二報を打電した。以後、「瑞鶴」は被弾したため送信不能となったが、この二つの電報は、ともに栗田長官のところには届いていない。
電報の不達原因は、今日なお、不明で問題になるところだが、しかし、小沢長官にとっては、栗田部隊はすでに退却したと思っているのだから、積極的に、敵部隊の吸収を報ずる必要がなかったといえる。したがって、電文もきわめて短いものだし、二報しか打電していない。第一報から第二報まで四十三分もの間がある。もし、栗田部隊に敵誘致成功を知らせるのなら、もっと多くの情報を打電してしかるべきだろう。自艦が通信不能になったのなら、「大和」や「日向」に、送信を代行させるのがオトリとしての責務であろう。そうしなかったところをみても、小沢長官が、栗田部隊の再反転を知らなかったことの信憑性がうかがわれる。
栗田長官が、敵情を得られぬまま、暗中模索の進撃をし、レイテ湾を指呼の間に見ながら反転し、幻の敵機動部隊を追って北上するという錯誤をおかしたのも、原因はシブヤン海での再反転を通報しなかったという、作戦要務の処理場のミスにかかっていると考えられる。これは、ひとり栗田長官だけでなく、第二艦隊司令部の不手際といわねばならない。
さて、松田部隊は二十五日午前七時、主隊と合同した。小沢機動部隊は、針路を零度にとった。このまま小沢部隊も敵情を得られなかったら、内地へ帰還するコースである。ところが、まもなく敵機に捕捉され、熾烈な海戦が展開されることになった。
>>栗田部隊の反転からの再反転と松田部隊の北進に通報の重要性を見る
「艦長たちの太平洋戦争」(佐藤和正著、光人社NF文庫)より
孫子の兵法<戦艦「大和」艦長・松田千秋少将の証言>
「それから、もっと大事な問題として国家間の戦争が、総力戦、つまり国力戦によって決定されることが、第一次世界大戦で実証されていたことだね。戦争の勝敗は、昔のように陸海軍の武力間の戦闘--いわゆる武力戦だけでは片づかないということなんだ。
さらに経済戦、敵国の経済力、とくに軍需生産力の破壊が必要であり、反対に、わが国の生産力の増強保全が必要なんだ。また、思想戦。敵国民の戦意を破砕し、わが国民の戦意を高揚すること。さらには外交戦。つまり、わが国に対する友好国、協力国を獲得拡充すること。そして、敵側友好国や同盟国を離反させ、敵を孤立化させる外交化させる外交戦も大事です。そしてまた、兵力となる国民の動員力の問題など、これらの総合によって戦争の勝敗が決定されるというわけなんだ。
ところが、実際はどうか。いずれは、強大なソ連の参戦を予期しなければならない太平洋戦争が、日・独・伊の三国同盟の効果を過信して、二大強国である米英を同時に敵として開戦したことは、総力戦の要素のいずれから見ても日本に勝算のないことは、総力戦研究の結果をみなくても明白なんだよ。
ただ、海軍作戦だけは、軍令部伝統の作戦計画を実施するかぎり、一時的には米艦隊を撃破することは可能であったと考えられるけど、日露戦争の場合のように、これによって講話の端緒を求めるということは、とうてい望めなかったですね。なぜかというと、かつての日本海海戦での大戦果は、当時の友好大国であったアメリカの仲裁を可能にしたけれど、今次の対米英、そしてソ連を敵にまわす戦争では、仲裁に出る友好大国はなかったからだね。したがって、太平洋戦争はとうぜんのことながら、長期の総力戦と国力戦となることを覚悟しなければならなかったわけだ。
それからもう一つ、戦争が大義名分に基づく正義の戦さでなければ、勝利を得がたいということです。これは多くの史実が証明しているところだね。たとえば日露戦争が、露軍の南進を阻止して日本の存立を確保するため、やむにやまれず立ち上がった正義の戦争だったからこそ、全国民は奮起したし、列国の同情を得て勝利に結びつけることができたんだ。ところが、太平洋戦争は、日本の中国侵略を阻止するために米英がとった対日輸出制限に対抗して、日本が武力行使したものであって、大義名分は、むしろ米英側にあるわけだ。
しかもこのような成算なき戦争を回避する方策はあったんだよ。きわめて簡単なことなんだ。つまり、成算と名分の立たない中国侵略から、手を引くことだったんだ。しかし、当時の軍当局や為政者が、断固この措置に出なかったのは、かえすがえすも遺憾にたえませんね--」
>>経済戦、思想戦、外交戦、総力戦、大義名分に基づく正義、これらを欠けては勝利を得がたい
「影法師」(百田尚樹著、講談社文庫)より
「もしや、あの時の上意討ち」
彰蔵は絞り出すように言った。「彦四郎はわざと--」
大坊潟で二人を斬ったのも彦四郎に違いない。
「立派な田がいくつもできたと言うと、彦の奴は--嬉しそうに笑った」
「やがて、雨が激しくなり、奴は儂を倒すことを諦めた。そして刀を鞘に納めると、こう言った--名倉勘一は茅島藩になくてはならぬ男、滝本主税はいずれ失脚する、と。男はそれだけ言うと、坂本宿の方に去って行った」
「貴公は、あの男の申す通りの男だった。奴が言った言葉--名倉勘一は茅島藩になくてはならぬ男、という意味がようやくわかった。儂は生涯のほとんどを影のように生き、人を殺めてきた。奴もまた影のように生きた。しかし奴は儂と違い、人を生かした。磯貝彦四郎--あれほどの男はおらぬ」
「磯貝彦四郎ほどの男が命を懸けて守った男を、この手にかけることはできぬ」
自分は二十二年後の今もまた、彦四郎に守られたのだと思った。
「侍は新田の中にある小さな丘の上に座り、大坊潟の新田を見つめていた。駕籠かきの人足に聞くと、その高台は試干拓の堰の跡の一部だということだった。儂は駕籠を止め、遠くから侍の姿を見やった。歳の頃は四十の半ば、蓬髪で身なりはみすぼらしかった。侍はまるで自分の屋敷の庭のように、沈む夕陽を受けて光る稲穂の波をいつまでも眺めておった--」
「遠目でしかも横顔しか見ておらぬ。風貌は変わっていたが、儂はあの男だと確信した」
>>影法師として支え続けた彦四郎を彰蔵が気付いて救われた
「死神の精度」(伊坂幸太郎著、文藝春秋)より
「生まれてくる前のことを覚えているのか?」と質問をした。「生まれてくる前、怖かったか?痛かったか?」
「いや」
「死ぬというのは、そういうことだろ。生まれる前の状態に戻るだけだ。怖くないし、痛くもない」
人の死には意味がなくて、価値もない。つまり逆に考えれば、誰の死も等価値だということになる。だから私は、どの人間がいつ死のうが、興味がないのだ。けれど、それにもかかわらず私は今日も、人の死を見定めるためにわざわざ出向いてくる。
なぜか?仕事だからだ。
「こういう台詞があったんですよ。『誤りと嘘に大した違いはない。五時に来ると言って来ないのはトリックだ。微妙な嘘というのは、ほとんど誤りに近い』って」
「何だそれは」
「たぶん、僕がついたのは嘘というよりは、誤りに近いんですよ」
「初日に行ったら、除外品だったんですけど、店員さんが、『最終日には値が下がっているかもしれませんよ』って教えてくれたんです。行ったら本当に安くなっていて、ラッキーでした」
「それは幸運だったな」私は無感情に言いながら、真相を想像する。荻原は、彼女のためにその服の代金の一部を自分で払ったのかもしれない。そして、最終日、彼女が来たのを見計らい、安くなった値札をつけた。違うだろうか。それが彼の言っていた、「嘘」の正体か。「なるほど」と私はつぶやく。「誤りに近い」
「何ですか?」
「いや。で、その店員さんの顔、覚えているかい?」
「いえ」彼女はあっさりと首を振る。「わたし、あまり人の顔を覚えるのは得意じゃないんです」
その台詞には聞き覚えがあった。自分の記憶をいくぶんか過去へと巻き戻し、サイド、老女の姿を上から下へと見つめ、彼女とは昔もあったことがあったんだな、とようやく気がついた。「もしかするとさっきの、ジャケット」と私は訊ねている。「あの古いジャケットは、昔、バーゲンで買ったものか?」
何十年か前に私が調査を担当していた男が、ブティックに勤めていた。その時のことを思い返した。「ずっと持っていたのか」
「気に入っていたからね」老女は答えながらも、海をずっと見ていた。
>>映画と原作の面白さの違いが面白い
「限界集落株式会社」(星野伸一著、小学館)より
「じゃあお前がここで新鮮な野菜を作る。それをおれが売る。うまく売って稼ぐ方法を考えてやる。こういうのはどうだ。その代わり、お前は最高の野菜を作んなきゃいけないぞ」
ショウゴが優を振り向いた。
「おれ、それやって欲しい。おじさん、克己じいちゃんの家族だろ。おれ、知ってる、じいちゃん。うちのじいちゃんと同じ位うまいトマト作ってた。おじさんちだって、元々百姓なんだ。だけどおじさん、都会に出稼ぎに行ってたんだよな。ばあちゃんが言ってた。それで、いろいろ儲けることとか勉強して田舎に戻って来たんだろ。じゃあ売ってくれよ。村が作る野菜と米。一杯売ってくれたらまた一杯作って、村がどんどん大きくなって、きっと都会みたいになるよ」
「村が大きくなって欲しいのか」
「そりゃそうだよ。おれの生まれた村だもん。おじさんだって、ご先祖がいる村だろ。だから戻って来たんだろ」
「・・・・・・まあな」
やってやるか。少年の無邪気な笑顔を見て、優は思った。
「農業は今まで多岐川さんが関わった事業とは多分、まるで違うから」
「その通りだ。でも一番大きな違いは、直接携わっているということだよ。経営者を気取っていた銀行員時代は、実は単なる金貸しに過ぎなかったんだ。だが今は違う。自ら経営責任を負っている。営農組織の代表だ。営農組織の代表は、農家をリストラするためにいるんじゃない。復興させるために采配を振るんだ。そのために、意識改革をしなけりゃいけなかったのに、おれはずっとそれを怠ってきた。暫くの間は、銀行員の多岐川優のままだった。このことに気付いたのは、今年の夏ごろからだ。お前が諦めず、しつこくおれに意見してくれたおかげだよ」
「だが、いつまで経っても損益分岐点が現れない。赤字垂れ流しの状態に陥ったしまうことだって十分考えられるんだ。この場合は儲かるどころか、続ければ続けるほど損をする。世間から批判されている国や地方自治体の箱物行政は、だいたいそんな状況だ」
「でも、それでも中止しないケースがほとんどじゃないの」
「そりゃ責任逃れのために、もう少し待てばいずれ儲かると、根拠もなく言い張る連中がいるからさ。そういうやつらは、土地の時価上昇を期待しているんだな。損益分岐点というのはフローの話だが、土地というのはキャピタルの話だ。フローとキャピタルは別の経済原理で動いている。だから事業そのものが儲かってなくても、箱物が建っている土地の時価が上がるなんてこともまま起きたりする」
「そういう連中が沢山いたから、二十年前バブルが起きて、そして崩壊したんだよ。それからの日本は、まさにがたがたの状態だ」
止村は元気だ。
山奥の寒村などとは、もう誰にも呼ばせない。
限界集落という汚名も、いずれ近いうちに返上できるに違いない。
>>将来、優のようなビジネスにトライしてみたい
「漂えど沈まず 新・病葉流れて」(白川道著、幻冬舎)より
私同様、この昭和四十四年という年は、年の初めからいろいろなことがあった。
大学改革をスローガンにした東大闘争では、安田講堂を占拠した学生を相手に機動隊が導入されて、そのテレビ実況に国民の目は釘付けになった。しかし、学生たちのそのスローガンは、やがて、既成の秩序総体との永続的な対決の色合いを帯びはじめて、学生運動はしだいに勢いを失ってゆく。
五月になると、東名高速道路が全線開通して、日本の経済成長の速度は益々加速し、その翌月、経済企画庁は、日本のGNPはアメリカに次いで、世界第二位になったと発表した。終戦からわずか二十年余で、日本は自他共に認める経済大国になったのだ。
こうした経済の躍進を背景に、企業で働く社員には、「企業戦士」なる呼称が与えられて、テレビでは、その活躍にエールを送るような「オー、モーレツ」なるCMが大流行した。広告費は、経済成長率とほぼ同じく、毎年二十パーセントの伸び率を示して、チャールズ・ブロンソンやオードリー・ヘップバーン、アラン・ドロンなどの大物外国俳優の起用もあり、広告業界は我が世の春を謳歌しはじめた。
そしてアメリカは、七月に「アポロ11号」で人類史上初めての月面着陸を成功させて狂喜し、その一方で、ベトナムからの撤兵も益々加速させている。
経済大国第一位の国は、地球の片隅で人々を殺す戦争を行いながら、月にロケットを飛ばし、経済大国第二位の国の学生たちは、既成の秩序に抵抗する反面、この肥大化する経済社会に乗り遅れまいとする。
つまりは矛盾と混沌の年、それが昭和四十四年、という年だった。そして、私はその只中にいた。
「俺は、今年一年の、自分へのご褒美をやるつもりだよ。自分でも驚くほどに、真面目に仕事をしたからね」
「ご褒美って?」
「博打ざんまいさ。麻雀に競輪。このところ、ずっと封印してたからね。俺の身体の半分は、博打体質になっている。時々は、水をやらないと、俺という人間が枯れてしまうだろ」
「そんなに、ギャンブルが好きなの?」
「ああ、好きだね。人生はギャンブルだ、みたいなありきたりの言葉を使うつもりはないけど、先が見えない世界にドップリと浸かっていると、なぜか落ち着くんだ」
「やめよう、とおもったことはないの?」
「ないね。俺は、この世の中にあるものは、すべて肯定する主義なんだ。だって、不必要なものは、自然と消滅していくんだし、残っているということは、なにがしかの意味があるとおもっている。立派とか、立派でない、とかいう意見は、俺には不用だから、俺を諭そうとしたって、それは無理だよ」
高校生のころは、もっぱら外国の小説ばかり呼んでいたが、大学に入学して、酒や博打事に興味を覚えて以来、カタカナの名前の主人公に対して、まったくと言っていいほど、シンパシーを感じなくなってしまったのだ。
「今、話したように、梨田クンには、こぢんまりとまとまった、ちっちゃな男になんてなってほしくないの。わたしは、わたしで、将来、会社を興そうという夢を持っている。だから、結婚なんて、今は現実的ではないの。四、五年も経ったら、梨田クンは、すてきな大人の男性になっている、と言ったけど、それはわたしも同じよ」
「ビートルズ解散。最後のレコード、『レット・イット・ビー』」とある。
メンバーのひとり、ポール・マッカートニーの脱退で、この四月十日に、ビートルズが解散したことは、スポーツ新聞を読んで知っている。
人間というのは、どんなに仲が良くても、我に目覚めたら、それぞれが別の道に歩みだすのだ。
>>梨田の波乱に満ちた男らしい生き様に憧れる
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 平成5年8月4日
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
【松本浩史の政界走り書き】
「河野談話」見直しをめぐる政府の珍説にはあきれる
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140314/plc14031416540014-n2.htm
それなのに、あろうことか首相ご本人が14日の参院予算委員会で、「安倍内閣で見直すことは考えていない」と述べ、明確に否定したから開いた口がふさがらない。検証と見直しは直結しないとの考えを示してきた菅氏の姿勢に追随した形だ。
「談話見直しを求める首相の支持層はもちろん、『日本はやはり弱腰』というメッセージを国際社会に送ったようなものだ。首相の腹は『見直し』なのに、どういうことだ」
ある自民党関係者はこう語る。首相らの心象を察するに、このような風景が浮かび上がってくる。米国は、北朝鮮情勢や中国の動向をにらみ、日韓関係の改善を求めており、オバマ大統領が4月下旬に両国を訪問するまでに波風を立ててはいけない。24、25両日にオランダ・ハーグで開かれる核安全保障サミットで、日米韓首脳会談を開催する可能性もある。見直し一辺倒では、日本が孤立しかねない-。
>>国際情勢を背景とした流れの方向性が残念でならない
村山内閣総理大臣談話
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html より
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話) 平成7年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
昭和26(1951)年5月、アメリカ上院の軍事外交合同委員会でのマッカーサーの発言
"There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.
Their purpose, therefore in going to war was laragely dictated by security."
>>日本国民として、改めてマッカーサー発言「Their purpose, therefore in going to war was laragely dictated by security.」と村山談話の比較をする必要がある時期だと思う
「あるキング」(伊坂幸太郎著、徳間書店)より
五年前、アメリカのマイナーリーグからやってきた、フランクリン・ルーズベルトという打者がいる。第三二代大統領と同姓同名の彼は、ろくな記録も残さぬまま帰国したが、その直前、「仙醍キングスにこれ以上いると、悟りを開いてしまう」と言い残した。
半分は皮肉だったろうが、残りの半分は本心だったに違いない。仙醍キングスはチーム創立以来、今シーズンに至るまで、一度も日本一になったことがなく、リーグ優勝すらも経験していない。それどころか、大半が最下位なのだ。ひたすら敗戦に耐えることが日常的に続くため、何らかの悟りの境地に至ってもおかしくはない。そのアメリカ人選手は、「私たちが恐るべきは、負けることではなく、負けることを恐れなくなっていることだ」と、まさにルーズベルト大統領の演説のアレンジとも言える台詞を残した。
王求という名前をつけたのは、おまえの父親だ。
産院のベッドで横になり、母乳を飲み終えて眠るおまえを眺めながら、母親は閃いた。「将来、この子は仙醍キングスで活躍をする男になるのだから、王という漢字がつかないのはおかしいと思ったの」でもなければ、「王という漢字を使うのはどうかしら」でもなく、「つかないのは、世の摂理としておかしい」という言い方だった。
おまえの父親もすぐに賛同した。「それならば、将来、キングスに求められる存在なのだから、王に求められる、と書いて、王求はどうだろう」と提案した。
「王が求める、という意味でもいいよね」
「王が求め、王に求められる。凄くいい」
おまえの両親の気持ちは盛り上がり、悩むことなく、その名を決定した。おまえの父親は区役所に出向き、出生届を記入したが、その時、王求と横書きではじめて書いた瞬間、その文字の並びが、「球」という漢字を間延びさせたようにも見えることを発見した。
フランクリン・ルーズベルトは、「わたしたちが恐れなくてはいけない唯一のことは、恐れることそのものだ」と言った。仙醍キングスに在籍したことのある、あるアメリカ人選手ではない。同姓同名の第三二代大統領の演説の言葉だ。おまえの母親はその言葉を肝に銘じていた。
何かを恐れてうろたえることが、もっとも恐ろしい。
そしてその言葉は、おまえの両親が心酔していた選手、あえて客観性を補うために名前で呼べば、南雲慎平太が、現役時代に残した台詞とも重なり合う。雑誌「月間野球チーム」に掲載された、それはそれは小さなインタビュー記事の台詞だ。「まわりが、おまえたちのチームは弱すぎる、最低だ、って罵ってくるとね、必死に自分に言い聞かせるんです。恐れちゃいけないって。プレイをしているのは俺だから。俺は俺のプレイを、俺の野球をやらなくてはいけないって。俺の野球人生に代打は送れないですしね」
恐れてはいけない、正気を失って取り乱してはならない、とおまえの母親は分かっていた。まわりの雑音や攻撃に流され、山田桐子の人生を失ってはいけない。山田王求の母親の人生を生きなくてはいけない。母親に代打は送れない。そう考えると自然、落ち着くことができた。
倉知巳緒は、おまえの母親の横顔を、その真剣な面持ちを見る。普段は、明るく穏やかな表情豊かな、年齢の割にずっと若く見受けられるおまえの母親は、テレビでおまえを見つめる時だけは、尋常ならざる顔になる。魂の目のようなものを駆使し、おまえの一挙手一投足を確かめるかのような形相になる。倉知巳緒もその表情を目の当たりにしたばかりの時は、恐ろしさを感じ、ひるんでしまうところがあったが、だんだんと理解もできるようになった。おまえの、その、人並みはずれた精神力と威風の源泉が、この異常ともいえるほどの母親の感心、庇護にあるのだとすれば、それはさほど奇妙なこととは思えず、むしろ、腑に落ちた。必要とあらば誰かの首を斬ることもためらわない、冷淡で神聖な王、それを支えるのは歴史の力強さ、引き継がれる血の魔力に違いない。倉知巳緒はそう思う。マクベスには妻がいたが、山田王求にはこの親がいる。
「本とも」連載中はとにかく、「自分が読みたい物語を自由に書きたい」と思っていました。が、書き上げてみると、当初の思惑よりは、自由に書いていなかったのではないか、と不安になり、単行本化にあたって書き直しを行ったのですが、すると、本筋は同じであるもののまるで違う様子の物語になりました。もちろん、いつもの僕の小説とも雰囲気の異るものになりました。あたたかく後押ししてくださった、徳間書店の編集者さんたちにもお礼を申し上げます。
【初出】
「本とも」2008年4月号~2009年3月号
単行本化にあたり、大幅に加筆・修正しました。
>>恐れてうろたえることがないよう精進したい
「時代を変換した男たち」(監修:会田雄次、PHP研究所)より
真田幸村
大坂夏の陣、決死の幸村隊は家康の本陣へ突撃し、「真田日本一の兵」と称賛される奮戦の後、戦死した。威勢を誇った徳川勢はほとんど敗戦をしらなかったが、真田勢に対してはそれまでにも三度、真田戦法の奇策に大損害をこうむっていた。
真田幸村は永禄十年(1567)、武田信玄の近習武藤喜兵衛昌幸の二男として生まれた。武田氏滅亡後、真田家は独立。徳川・北条・上杉の三強にはさまれた苦境の途を、卓越した外交手腕と調略で生き抜いた昌幸・幸村父子は、やがて豊臣家と深いかかわりを持つようになる。
“六文銭”は真田の家紋であるが、人間が死後、三途の川を渡るのに六文の金が必要ということから、常に死を覚悟して戦いに臨んだ心意気がわかる。
死の美学
幸村は勝てると信じて西軍についたのだろうか。
前日の手紙、「必死に相極候間、此世にての面談は有間敷候」(私は死ぬ覚悟ですので、この世でお会いすることはないでしょう)からも察せられるとおり、勝てるとは思っていなかったのである。
それなのになぜ、幸村は秀頼の誘いに応じたのか。
彼は死に場所を求めたのだ。
エリートだった男が、十四年もの間、田舎に追いやられる。彼は、中央で活躍している連中よりずっと能力があると内心思っているし、周囲もそう認めている。だが、再び花を咲かせるチャンスはほとんどないのだ。オレもここで一生を終えるのか--そうあきらめかけていたところへ突然、国家的事業に加担しないかと誘われる。
彼の冷静な判断力は成功する見込みのないことをみてとるが、しかし、ここでうずもれるよりは名をあげて花と散るほうがずっといい--幸村は、だからこそもっとも危険でありながらもっとも重要な地に出丸をつくり、特攻隊的な散り方を夢みたといえる。
彼の胸中をのぞくと、身につまされる現代ビジネスマン諸氏も多いのではないだろうか。
窓際に甘んじるか、死に花を咲かせるか。幸村は死に花を選び、名を残した。
ご同輩なら何を残されるか?
(幸村の名は本当は信繁であるが、ここでは通俗の名の幸村を用いた)
>>窓際に甘んじることなく、死に花を咲かせたい
「時代を変換した男たち」(監修:会田雄次、PHP研究所)より
千利休
利休は大永二年(1522)、堺の納屋衆の一家千与兵衛の長男として生まれた。名は与四郎。早くから堺の町人の社交機関であった茶の湯を学び、十六歳のときには京で茶会を開き、二十四歳にして宗易と名乗り、ひとかどの茶人として世間から認められるほどになっていた。
織田信長が上洛すると、宗易はその茶頭として仕え、本能寺に信長が横死した後は、天下人となった豊臣秀吉の茶頭となった。天正一三年(1585)禁中で茶会が開かれたとき、宗易は正親町天皇より利休居士の号を下賜され、天下一の茶人としての地位を獲得する。そして秀吉の政治的ブレーンとして隠然たる勢力を持ったが、天正一九年(1591)、突如秀吉から切腹を命じられた。享年七十歳であった。
利休の最期
堺に追放されて蟄居している利休のもとへ、前田家からの使者がやって来て、
「大政所と北政所を通じて命乞いをされれば、関白さまのお許しも出るかもしれぬ」とすすめたが、利休は、
「天下に名を知られた自分が、命惜しさに婦女子を頼るというのは無念」といって断った。
秀吉のほうは詫びてくれば許そうと思っていたらしいが、利休のほうにその気配がないので、かえって怒り心頭に発し、ついに切腹の命をくだした。
二月二十六日、利休は京の利休屋敷に呼びもどされた。利休の弟子の大名たちが利休を奪いに来るのを警戒して、上杉景勝の軍勢が屋敷のまわりを囲んだ。
そして二十八日、利休は三人の検使を迎え、従容として腹を切った。
『利休居士伝書』によると、座敷の床に腰をかけ、釜の湯のたぎる音を聞きながら、まず腹一文字に切り、腸をつかみ出してから十文字に切るという豪快な最期だったという。
この日、京は大雨が降り、雷が鳴りひびき、大雹が降った。
>>権威などは認めないという利休の気概にあやかりたい