「ハドリアヌス帝の回想」
「ハドリアヌス帝の回想」(マルグリット・ユルスナール著、多田智満子訳、白水社)より
ユルスナールをめぐって
ほほえみの粉――1951年8月の出来事 堀江敏幸
緊迫した精神史を感じさせる「作者による覚え書き」のなかで、ユルスナールはこう記している。
「いずれにせよ、わたしは若すぎた。四十歳を過ぎるまではあえて着手してはならぬ類の著書というものがある。その年齢に達するまでは、人と人、世紀とを隔てる偉大な自然の国境を誤認し、人間存在の無限の多様性を見誤る危険がある。あるいは反対に、単なる行政区画や、税関や、守備隊の哨舎などに、重きをおきすぎるおそれがある。皇帝とわたしとの距離を計算することを学ぶために、わたしにはそれだけの歳月が必要だったのだ。」
ハドリアヌスが帝位につくのは四十代になってからで、これが歴史上遅いのかはやいのか私はつまびらかにしないけれど、彼自身述べているように、皇帝たらんとすることをトラヤヌス帝の晩年にはすでに意識し、その静かだが強烈な野心の火を消さないようながい心の準備をしていたという事実が、六十歳を迎えた皇帝によるこの回想のトーンの、語りの現在における落ち着きを生むのに大きな役割を果たしている。皇帝となった後の、いわば駆け出しのころの迷いがこの長大な手紙にはほとんど感じられないばかりか、政策上の失敗をもふくめたすべての事跡を思いつくままに語って、政治家にありがちな首尾整った回想録の体裁には拘泥しない自然さがあふれているのである。
>>ある年齢に達するまで分からないことはいろいろある