新・地政学 「第三次世界大戦」を読み解く(山内昌之+佐藤優、中公新書ラクレ)より
歴史の転換点に「弱い政権」を戴いた不幸
山内 やはり、冷戦終結を単なる国際政治のエポックとして見るだけでは不十分なのです。歴史を変えるうねりがつくられた基盤にある政治哲学、シー・チェンジ(大変貌)というべき大きな時代の変動をとらえる時代認識を、世界史と日本史を結合させながら共有できる政治家--。そんな人物があの冷戦終結時に、惜しいかな、政府与党のトップにいなかった。政治家としての脂質と気力をかけた乾坤一擲の勝負をするどころか、土俵にも上がれなかったわけです。その結果、世紀に一度あるかないかの絶好のチャンスを逸していましました。本当に残念でしたね。
世界を見渡せば、冷戦終結前後の時期、英国にはサッチャー、フランスにはミッテラン、アメリカにはレーガンや父ブッシュという巨大な存在がいました。しかるに、日本では・・・・・・。歴史家として、「冷戦終結」と聞くといまだに去来するのは、その痛恨の思いなんですよ。
地政学を欠く「地理」の罪
山内 地政学的に考察すれば、そこは古代から、「乾燥地帯でありながら東西交易になくてはならない要地」だったということになります。この地理の要因こそ、中東が現在に至るまで常に不安定な政情に置かれる宿命を背負わされた一因になったことは、間違いないと思うのです。こうして培われた不安定構造に、エネルギー、安全保障という要素が付加されたことにより、ますます戦略的な重要性を高めているのが現代の中東なのですね。
古代以来の地政学的な位置と、現代の産油地プラス国際テロや戦争の震源地というファクターを多元的に結びつける視点が、「中東複合危機」を読み解くうえでは必要になるのではないでしょうか。
高校教育の地理と歴史の総合認識あたりから変えていかないと、日本はますます国際政治において「蚊帳の外」の存在に貶められてしまうでしょう。
>>大きな時代の変動をとらえる時代認識を、世界史と日本史を結合させながら共有できる政治家の誕生が望まれる
新・地政学 「第三次世界大戦」を読み解く(山内昌之+佐藤優、中公新書ラクレ)より
ベルリンの壁崩壊がソ連崩壊の入口だとは、気づかなかった
佐藤 前の年に、ソ連の日本大使館勤務になっていたのですが、その日は同僚の書記官が「大変だ、BBCの国際放送でベルリンの壁を群衆が乗り越えているのを放送している」と言うのを聞いて、慌ててテレビに駆け寄ったことを覚えています。ただ、ソ連の中では、そこからソビエト体制の崩壊を連想した人間は誰もいませんでしたよ。正直、私もそうだった。
ロシア人の感覚では、これからロシアがコアになりつつ、バルトであるとかカフカースであるとか、あるいはウクライナの西部あたりにはある程度の自由さを認め、「新東欧」として残す。そういう形で刷新されたソ連邦は縮小するが、代わりなく維持されていくんだ――とみんな楽観してドイツを眺めていたわけです。
本当に衝撃的だったのは、むしろ今はほとんど忘れ去られた感のある、ベルリンの壁崩壊の翌月に行われた米大統領ジョージ・ブッシュ(父)とソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフによる「マルタ会談」ですよ。44年前の「ヤルタ会談」に端を発する東西冷戦の終結を、いきなり宣言してしまったのだから。
山内 当時は、「ヤルタからマルタへ」という標語がはやりましたね。私が今でも不思議に思うのは、東西両ドイツの統一を、ソ連がなぜあんなにあっさり認めたのかということなんですよ。仮に強力な統一ドイツができることを米英仏が承認しても、ソ連は頑として拒否するだろうというのが当時の「常識」でした。現にゴルバチョフより前のソ連共産党首脳は、絶対反対のスタンスでしたよね。
佐藤 当時私が聞いた話では、重要な役割を演じたのが西ドイツ首相のヘルムート・コールでした。
1990年7月、ゴルバチョフとの会談に臨んだ時、大統領の横に軍の幹部やKGBなどの人間がいて言いたいことが言えない。そこでゴルバチョフに、「あなたの故郷の別荘に連れて行ってくらないか」と頼んだ。快諾したゴルバチョフと、スタヴロポリの別荘で“差し”で向かい合ったんですね。その時コールが語ったのは、ソ連史でした。その話にゴルバチョフがいたく感銘を受けて、これは信頼のおける人物だと確信した。そのことが、NATOに留まったままでのドイツ統一にゴーサインを出すことにつながっていった――。この話は真実だと思うのですよ。
ちなみに、われわれがこのやり方を真似て演出したのが、97年11月の「クラスノヤルスク会談」でした。ボリス・エリツィン大統領と橋本龍太郎首相に、エニセイ川の戦場で胸襟を開いて話し合ってもらった。
>>歴史が大きく動く際には、人と人との信頼関係が必要であるに違いない
新・地政学 「第三次世界大戦」を読み解く(山内昌之+佐藤優、中公新書ラクレ)より
第1章 「第二次冷戦」から「第三次世界大戦」へ
「第二次冷戦」を定義する
佐藤 かつての冷戦は、資本主義、自由主義陣営と社会主義陣営との「イデオロギー対立」を背景としたものでした。プラス私は、「ブロック対立」であるか否かが重要なファクターだと理解しているのです。ソ連の一国社会主義の時代には、誰も冷戦などと言わなかったわけでしょう。両陣営がブロックとして対峙したからこそ、冷戦構造になりえたわけです。
実はソビエトができたのは1917年のロシア革命の段階ではなくて、1922年にソビエト連邦という国家が成立しました。1919年には全世界に共産主義を広める組織・コミンテルン(共産主義インターナショナル)がつくられました。ソビエトが安定するまでの間は、国家なんていうものは暫定的なものだったのです。当初はとにかく革命を成功させちゃえという勢いだったのですが、二本立てになるわけです。つまり、ソビエトという国家は国際法を守るし、各国と大使の交換もする。しかしコミンテルンでは世界革命を継続する。
ISは今この両者が渾然一体としたような、ソ連の原型に近いような状況にあります。すると、周辺諸国は認知しないと言いながらも、事実上認知せざるをえなくなります。
山内 それはいわゆる「未承認国家」ということですね。不承不承、交渉もしなければならないし、プラグマティックに公益をすることもあるという消極的な形です。イギリスはロシアとのあいだに1921年に英ソ通商協定を結びました。すなわち、国交は結ばないけれども貿易はするという関係であり、まず通商代表部を認知するところから始めて外交関係を広げていったのです。
佐藤 満州国とソ連の関係も参考になります。ソ連は満州国を国家としては認めていませんでしたが、しかし自国民の保護という名目ではお互いの領事を交換していました。ソ連の領事館はハルビンなどあちこちにありました。逆に満州国の領事館をソ連に置いていたのです。
サウジとイラクの断交は「第三次世界大戦」を招くのか
佐藤 ISもスンナ派に属しています。日本から見ているとISはヨーロッパ、アメリカ、イスラエルを相手に喧嘩をしているように見えますが、実は最初に考えているのはシーア派をやっつけなくてはいけないということです。これはいわば「内ゲバ」の論理、つまり一昔前の日本の新左翼と同じ状況なのです。本当の革命をやるためにはまず最初に敵対する他の新左翼グループをやっつけなくてはならないという論理なのです。ですから、イランとしてはISと本気で戦わざるをえません。
山内先生がご指摘の通り、そこにアメリカが目をつけたのです。「敵の敵は見方」という理屈で、イランならばIS対策を本気で取り組んでくれそうだと考えたアメリカは、2015年7月、「ウィーン最終合意」でいらんの核開発を事実上、容認しました。これは核開発能力を維持してもよいということであり、大きな譲歩です。
それを見ていたサウジは、アメリカに裏切られたと受け止めました。シーア派はバハレーン、イエメン、あるいはサウジの東部にも少なからず住んでいる、イランはこの人たちをそそのかしてサウジの体制をおびやかしているのではないかと訴えているのに、アメリカは聞く耳をもたない。ですから、サウジがイランとの断交を通じてメッセージを発信しているその宛先は、イランだけでなく実はアメリカだと言えるのです。サウジはアメリカに対して怒りを露にしたということです。
山内 サウジが出していたメッセージは、その前にもう一つありますね。アメリカとイランの関係緊密化に対して、サウジはロシアとの接近を図ったのです。国防大臣を務めるムハンマド・ビン・サルマーン副皇太子がロシアを訪問して、ロシアがサウジの原子力発電所を受注しました。その協定書の中ではロシアがサウジの原発開発において最も重要な役割を演じることが明記されました。原発というのはある種の「含蓄」がありまして、平和利用の発電だけであるはずがありません。イランと同じように核開発に限りなく近い実験と活用を、ロシアの援助の下にやっていこうということでしょうね。
佐藤 スンナ派に属するISが、シーア派殲滅を前面に打ち出すようになって、自体の構造がスンナ派対シーア派の対立に変化しましたね。それを受けてイランによって、ISを殲滅することが、国家存続のために不可欠となったのです。
そこでイランはイスラーム革命防衛隊(ハーメネイー最高指導者に直結する最精鋭部隊)をイラクやシリアに秘密裏に派遣して、ISとの殲滅戦を展開し、一定の成果をあげました。イスラーム革命防衛隊は、バハレーンやイエメンでもシーア派勢力を支援しました。このような状況にサウジは、「このままだとアラビア半島がイランの影響下に入ってしまう」という危機感を強め、イランよりはISのほうがましであると考えるようになったのです。
>>ISを巡り米国がイランに歩み寄ったことで今日の中東情勢がより複雑化している
新・地政学 「第三次世界大戦」を読み解く(山内昌之+佐藤優、中公新書ラクレ)より
2016年3月10日発行
まえがき――考現学としての地政学
ソ連崩壊後、唯一の超大国となった米国に対して、2001年9月11日、イスラム教スンナ派過激団体「アルカイダ」が同時多発テロ攻撃を加えた。これに対して、米国はアフガニスタンとイラクを空爆するのみならず、地上軍を派遣し、本格的に戦争を行った。その結果、アフガニスタンのタリバン政権とイラクのサダム・フセイン政権は崩壊した。しかし、アフガニスタンとイラクの反米勢力を完全に駆逐することはできなかった。イラクで生まれたアルカイダ系の過激派は、シリアの混乱に乗じて、イラクとシリアの一部領域を実効支配する「イスラム国」(IS)に発展した。アフガニスタンでは、タリバンの残存勢力が再び息を吹き返し、無視できない勢力になっている。
なぜ、世界最強の米国軍が、イラクやアフガニスタンのような、国力、軍事力から見た場合、比較の対象になり得ないような弱小国を制圧することができないのか。それは、イラクの一部、アフガニスタンの全域が山岳地帯だから。ロシアもチェチェンの分離独立運動を鎮圧するのに手こずった。これもチェチェン全域が山岳地帯だからだ。
中央アジアでは、現在、キルギスとタジキスタンが破綻国家となっており、国土の一部地域が実効支配できなくなっている。その隙間に「イスラム国」の戦士が流入し、拠点を作り始めている。今後、「イスラム国」の影響は、キルギス、タジキスタンと国境を接する中国の新疆ウイグル自治区にも及ぶであろう。そうなると、歴史的に東トルキスタンと呼ばれる地域に「第二イスラム国」が形成されることになる。この動きを、中国もロシアも米国もとめることはできないであろう。なぜなら、東トルキスタン地域のかなりの部分が山岳地帯だからだ。
このように、山という観点を加えるだけで、国際紛争が悪化する地域の特徴が見えてくる。これらの地域では、山岳地帯に長年住んでいる人々が、心の底から納得して受け入れることができる政治体制しか生き残ることができないのである。
地政学は、地理的要素を考慮しながら、政治について考えるというアプローチだ。ここで言う政治は講義の概念で、そこには民俗学(文化人類学)、歴史学、哲学、宗教学、経済学なども含まれる。
2016年2月18日、曙橋(東京都新宿区)にて 佐藤優
>>地理的要素を考慮しながら、政治について考えるアプローチの地政学に注目してゆきたい
「子どもの教養の育て方」(佐藤優、井戸まさえ著、東洋経済新報社)より
第Ⅱ部 『八日目の蝉』で家族と子育てを語る
第4章 佐藤優、『八日目の蝉』で親子問題を語る
*「頼りない、必要ない、有害である」3種類の男しか『八日目の蝉』には出てこない。
*政治と法律は古代、男のものだった。それがずっと近代の主流になってしまっている。
*男と女の間で、どうして男が威張っているのか?それは男がたまたま筋力が若干、強いから。
*子育ては親子の問題ではあるが、社会の関係性や構造まで広がりを持っている。
*「自分たちの力ではどうしようもないもの」を上手に切り取っているのが角田さんのすごいところ。
*誰かに助けてもらうのではなく、自分の中から変わる力が出てこないと、変わっていかない。
*ヨーロッパ人は「直線の時間」をつくったが、日本人は「やり直し」が何度もできる時間感覚。
*同じ経験をしても、人ごとに記憶される部分が異なる。そこから非対称的な認識が生まれる。
*『八日目の蝉』から読み取れるのは「べからず集」。子どもを自分の延長線上に置いてはいけない。
*小説はすぐれた疑似体験・代理経験の場。とくに悪い代理経験をさせるのは非常に重要。
第5章 座談会「佐藤優×井戸まさえ×4人の女性たち」
*子どもを産んだだけで母親になるものではない。夢中で育てているうちに徐々に母親らしくなる。
*人生は劇場のよう。ある場合は自分が主役、ある場合は照明係。役割はしょっちゅう変わる。
*どの親も悩み苦しみながら子どもを育てている。それで一緒に自分も成長していく。
*究極的にいえば、「無私」になったときに、「揺るぎない信頼」が得られるのではないか。
*教育の最終的なところは、「信頼醸成」に尽きる。社会人でも子どもでも、それは同じ。
*教養を身につけるひとつの道は学術。もうひとつは小説によって追体験すること。
>>教養のある人は、信頼関係を構築することがより容易にできる