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「人間の器量」⑤



「人間の器量」(福田和也著、新潮社)より


  渋沢栄一

 もともとは深谷の豪農の出ですね、渋沢は。若い時には、徹底した攘夷主義者で、横浜の外国人居留地の襲撃を計画したこともあったという。

 徳川慶喜の知遇を得て、幕末にその弟のパリ万博使節団に参加し、ヨーロッパ経済の実態に触れた経験が、実業家としての大成をもたらす機縁となりました。

 といっても、渋沢は薄っぺらな外国かぶれにならなかった。

 後に論語の解説書を執筆した事が示しているように、渋沢にとって経済とは、儒教道徳を実現するための手段にすぎなかったのです。

 第一国立銀行の設立をはじめとして、王子製紙、富岡製糸場、日本鉄道など、百数十と云われる会社を設立しました。

 商工会議所の前身である東京商法会議所を設立して、企業人の親睦、切磋琢磨を促してもいます。

 逸話を一つ。

 原敬が内務大臣をやっていた時の事です。

 ある議員が、面会に訪れると、沢山の人が待っている。自分は議員だからと順番を飛び越して入ろうとすると、列の後ろの方に、ちょこなんと渋沢栄一が座っている。

 本当だったら、渋沢は原にとっても大先輩なのですから、大手をふって入っていけそうなものなのですが、それをけしてしない。

 代議士は大いに恥じたというのですが、こういうところにも渋沢の、実業家という枠には収まらない、人間としての高貴さが出ています。


>>渋沢の器の大きさに少しでもあやかりたい


 

「人間の器量」④



「人間の器量」(福田和也著、新潮社)より


  大久保利通


 云わずとしれた、明治国家の建設者。策を弄して主君に取り入り、倒幕のためにありとあらゆる陰謀をめぐらし、政権奪取とともに、中央集権国家を作りだした。

 大久保は、徹底した政治家でした。ある目的を実現するためには、手段を選ばない。

 手管を尽くして、目標にせまっていく。

 その一方で、自分なりの政策のようなものはない。

 政策は、他人から訊いて、よいと思ったものを実行するのです。

 政治を志すという人というのは、誰でも自分なりの経綸、抱負というものを育んでいるものですが、大久保にはそれがない。

 ここが凄いところです。

 とにかく権力を握る。権力を有効に使い切る。その一点のみにすべての神経を注いでいるのです。

 この割り切りは、なかなか出来るものではありません。

 近代日本の政治家では、大久保だけではないでしょうか。


>>大久保の器の大きさに少しでもあやかりたい


「人間の器量」③



「人間の器量」(福田和也著、新潮社)より


  伊藤博文の周到


 山口県の下関市内に、櫻山神社というお社があります。

 奇兵隊の隊士を祀る神社です。

 やや急な階段を上ると、高さ1メートルほどの石柱が数百個ならんでいる。

 奇兵隊隊士の墓ですね。

 最前列真ん中の吉田松陰の墓が少し大きいのですが、それ以外の墓柱大きさはみんな一緒です。

 山縣有朋や井上馨といった元老、重臣の墓石と、百姓義助、大工蓑吉、力士大衛門といった石が均等に並んでいる。

 ここにこそ、日本のデモクラシーがある、と私はいつも思うのです。

 身分に囚われず、国事に奔走するものを平等に扱う、平等の原理が明らかに示されている。

 吉田松陰が説き、高杉晋作が奇兵隊として形にして見せた、四民平等の共同体がここに具現されているのです。

 伊藤博文は、長州デモクラシーの胎動から生れてきたのです。

 伊藤は、百姓ともいえない身分から出てきた。

 父に連れられて、長州藩内を転々としているうちに、萩に越してきた時、近くにあった松下村塾に入って、ここから運が向いてきた。

 薩摩の西郷、長州の松陰と云うけれど、実際、松陰という人は、何もしていない人です。

 
 何もしていない、というのは乱暴ですが、それに近い。

 
 松下村塾という私塾を営んでいただけです。

 けれども、その塾が爆発的な意義を歴史にもたらした。


 高杉晋作も、久坂玄瑞も、山縣有朋も、品川弥二郎も徹底的に褒めた。


 褒められてしまうと、どうしても期待を裏切りたくなくなる。

 ところが、伊藤博文はあんまり褒められなかった。

 「周旋の才あり」という具合ですね。

 交渉が上手いということですね。たしかに間違っていないけれど、若者がよろこぶ評価ではない。

 でも、あまり褒められなかったのが、かえって良かったのかもしれない。


 その分、距離をとって、ちょっと僻んでいる位なのがよかったのかもしれません。

 いずれにしろ、松下村塾の仲間に加えて貰ったのはよかった。

 特に遊び好きの高杉晋作と井上聞多(馨)の二人とつるむようになった。


 伊藤といえば、女性関係についても避けられません。

 晩年まで漁色を続けて、倦む事がなかった。

 本人が常々「予は麗わしき家屋に住まおうという考えもなければ、巨万の財産を貯うるという望みもなく、ただ、公務の余暇、芸者を相手にするがなによりだ」(つや栄『新橋三代記』)と言っていたほどです。


 先に言及した池辺三山は、伊藤博文を藤原鎌足とも並べています。

 鎌足は蘇我一族を討伐し、政権を握った後、大化の改新をして、一挙に中国の文物を導入した。

 伊藤も明治維新に参画し、ヨーロッパ文明を日本に一気に導入した点で似ている、と。伊藤は内閣を作り、憲法を作り、議会政治を作っただけではありません。

 華族を作り、勲章を作り、みずから公爵になり、勲章をたくさん貰いました。

 そういう事について、まったく衒いがない。名誉が好きで、その名誉をおおっぴらに楽しんだのですね。

 俗物ぶりも、ここまで来ると器の大きさを感じさせるからたいしたものです。


>>伊藤博文の器の大きさに少しでもあやかりたい


「人間の器量」②




「人間の器量」(福田和也著、新潮社)より


  横井小楠の豹変


 人物鑑定については、抜きんでた力を備えている勝海舟が、「おれは、今までに天下に恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷隆盛だ」と云っている。

 西郷とともにベスト2に入っているわけです。

 横井小楠は、およそ西郷とは、正反対の人でした。

 まったく重々しくない。むしろ軽薄。


  横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教へてやつたくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思つた事がしばしばあつたヨ。  (『氷川清話』)

 と、勝海舟が舌を巻いている。

 徳川慶喜、松平春嶽も、小楠に深く傾倒していました。春嶽などは、小楠にほとんど師事するようにして、教えを乞うていた。

 熊本市郊外にある、横井小楠の屋敷、四時軒に行った事がありますが、いかにも彼らしい、風通しがよくて、見晴らしのいい屋敷でした。


 いつも芸者や太鼓持ちにとり囲まれていて、客となんざ会おうともしない。それでも井上毅とか、元田永孚、坂本龍馬といった連中が来れば、一人や二人は会う。坂本龍馬の有名な船中八策は、もともとは小楠のアイデアですね。


 最初、朱子学を奉じていたが、いつのまにかそれを放棄し、実学に向かい、ついで西洋流の経済、産業の振興を国是とする改革を提議する。

 開国問題についても、日本で諸侯が会議をするだけでなく--それだけでも画期的ですが--、諸外国を招いて、国同士の交際がどうあるべきなのか、会議を開いて決めようという、国際連盟のような提議をしています。


 人民を豊かにする事で、人間性を向上させることは聖人の心にかなう、と云うのです。経済の発展によって精神を豊かにするという、資本主義の本質をすでに補まえている。実際、小楠の具体的な実績として残っているのは、何よりも、福井の松平春嶽に招かれて、商業の振興を行ったことです。


 勝海舟は、長州征伐以来、しばしば小楠の意見を尋ねたけれど、小楠は自分なりの見通しを語った後、「これは今日の事で、明日の事は余の知るところにあらず」という言葉を添えて来たという。

 つまり情報分析などというのは、その場、その場で変わるものであり、長期にわたって用いられる戦略も戦術もありはしない。変幻する情勢に追随し、昨日に拘泥することをしない。

 これに、勝海舟は痺れるのですね。

 事態の変化の激しさに、臆することなくついていこうとする小楠は、大勇のある人だったと云ってよいでしょう。

 いい加減でいる事にもまた、大きな器量が必要なのです。

 武士道徳を否定した小楠は、明治政府に出仕後、京都で十津川郷士らにより暗殺されてしまいました。

 この頃はすでに、酒色によって発した病で、かなり体が弱っていました。


>>小楠の器の大きさに少しでもあやかりたい



「人間の器量」①




「人間の器量」(福田和也著、新潮社)より


  西郷隆盛の無私


 西郷は至誠の人であるとともに、権謀の人でもありました。

 開明的な斉彬の薫陶を受けた西郷が、開国に反対のわけがありません。

 けれども、開国を否定する攘夷のエネルギーを利用して、幕府を徹底的に追い詰め、その挙げ句に倒してしまった。

 そして倒幕が成功した途端、方針を大転換して全面的に開国し、近代化政策を推進した。

 勇猛果敢な薩摩健児を引き連れて、東北諸藩を平定し、明治国家を発足させましたが、いざ新国家が誕生してみれば、最大の功労者であるはずの薩摩健児たちのほとんどが、新知識を身につけているごく一部の者を除けば、新時代には無用の存在になってしまったのです。

 
 自分が彼らを欺いた事を、西郷は誰よりもよく知っていました。

 それは徳義に反することだが、社稷を守るためには仕方がなかった。

 行き場のなくなった彼らに自らの身を与え、彼らとともに滅んでしまう事にした、そう私は考えています。


  西郷のためには何千人といふ人が死んで居るのであるけれども、西郷を怨むといふ者はない。今でも神様のやうに思つている。つまり少しも私といふことがない。始終、人のため国家のためといふ一念に駆られて居つたからこそさういふ風に世人からも言はれて居るのだと思ふ。結局は人の信用である。その信用が七十年後の今日豪も変らぬ処に大西郷の姿を窺ふべきである。  (牧野伸顕『松濤閑談』)


>>西郷の器の大きさに少しでもあやかりたい


「駅」


「駅」(高倉健主演、降旗康男監督、東宝)より


 雪の駅に
 人生を乗り越えて
 青葉の駅で
 愛とすれ違った
 不可思議にゆれ動く
 四つの女ごころ


 「しばれるねー。一本つけてくれる?」


 「私、おっきな声を出さなかった?」

 「いや、出さなかったよ」
 「樺太まで聞こえるかと思ったぜ」


 「お酒はぬるめの 燗がいい  肴はあぶった イカでいい  女 は無口な ひとがいい  灯りはぼんやり 灯りゃいい
 しみじみ飲めば しみじみと  想い出だけが 行き過ぎる  涙がポロリと こぼれたら  歌い出すのさ 舟唄を」

 「この唄好きなのよ」と桐子は咳いた。


>>英次と桐子は再び会うことはあったのだろうか


「疫病神」



「疫病神」(黒川博行著、新潮社)より



 「おれは少なくとも自分の意思に従って行動してます。誰に頭を押さえられることもない」


 ちがう。桑原のことなんか、どうでもええ。おれはおれなりに片をつけたいだけなんや--。


 「おれは片をつけたかった。これで、あんたとはチャラや」


 「おれは代償が欲しい。蠅は蠅なりに、腐ったゴミどもにひと泡吹かせたいんや」


 二宮はつづける。「おれの要求は正当や。ゆすりでもたかりでもない。いまここで五百万の出金伝票を作ってくれ」


 「サバキを途中でキャンセルする方がむちゃやないか。いくら大手のゼネコンでも最低限の信義があるはずや」


 桑原は煙草を吸いつけ、二宮は金と注文書を待つ。


 「舟越とFK、神栄と陵南、三沢谷と加味沢谷、あんたはみんな忘れてしもた。・・・・・・そういうこっちゃな」


 「おまえもなかなかのタマやで」

 「金といっしょに注文書をとるとはな」

 「金の出先が山本組なら、舟越は裏金をつかう必要がない。おれもあんたも手が後ろにまわる心配がないからな」


 「おい、おい、疫病神が泣いとるがな。三百万も稼いで文句たれんな」

 「おれには八十万しか残らへん」

 「上等やないけ。古川橋のサバキの始末がついたんや」


 「おまえとわしは折半やろ」桑原は内ポケットから百万円の札束をひとつ抜いた。「持っていけ」


 「な、桑原さん、盆のトロには利子がつくんや。十日で一割、二百二十万を返さんといかんのや」

 「この、くそぼけッ」

 桑原はどなった。札入れを出して十枚の一万円札を抜く。「おまえみたいな図々しいやつは見たことない」

 「ありがたい。これできっちり、チャラやな」

 二宮は札束と十万円をポケットにおさめて社外に出た。

 「死んでまえ」

 ドアが締まるなり、BMWは走り去った。


>>二宮のように自分の意思に従って片をつけられる人生を送りたい


「国家経営の本質」⑤


「国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ」(戸部良一、寺本義也、野中郁次郎 編著、日本経済新聞社)より


 理想主義的プラグラマティズムと歴史的構想力


  現代日本へのメッセージ


 国家指導者の方法論として、われわれ理想主義的プラグマティズムと歴史的構想力を挙げた。これは、現代の日本に何を示唆しているのだろうか。

 まず、国家指導者は、自らが目指す「共通善」と、それを実現する「戦略」を語らなければならないだろう。目指すべき「共通善」は、抽象的なお題目であってはならない。それは、指導者が過去・現在・未来を見据えた国家像から抽出すべきものである。したがって国家指導者は、自らの歴史観から物語らなければならない。

 言うまでもなく、その歴史観とは、いまや過去を悔い改めるという意味しか持たなくなった「歴史認識」とはまったく異なる。国家経営のリーダーは、今がどんな時代であり、その時代にわれわれは何を要請され、いかなる歴史的な役割を果たすべきかを、物語らなければならない。

 かつて近代日本が生んだ傑出した国家指導者たち、例えば大久保利通、伊藤博文といった明治国家をつくったリーダーや敗戦からの復興を成し遂げた吉田茂は、自らが目指す「共通善」や「戦略」を必ずしも公には語らなかった。

 もちろん彼らは、自国とそれを取り巻く過去・現在・未来を見据えて、そのなかでの自らの歴史的役割を自覚し、歴史に根ざした理想の実現のため自己の役割をプラグマティックに実践した。しかし、彼らは「共通善」や「戦略」を公に語る必要がなかった。明治初期も敗戦直後も、「共通善」や「戦略」はほぼ自明であり、単純明快で、多くの人に共有されていたからである。少なくとも、自分の周囲の同志たちだけに自らの理想と戦略を語れば、それで十分であった。

 しかし、21世紀の現在には、そうした条件は存在しない。それゆえ国家指導者は、理念とヴィジョンを語り、その実現に向けて現実を直視しプラグマティックな実践を重ねなければならないが、そのためにはまず、国家を指導する役割を獲得し保持していく必要がある。言い換えれば、民主制のもとでは指導者は国民によって選ばれなければならず、国民が指導者を選ばなければならない。

 ところが、マス・デモクラシーにおいては、多くの人は、リーダーの歴史的構想力などには無頓着である。リーダーの掲げる「共通善」にも関心を寄せず、その実践行動を吟味しようともしない。目先の利害を言い立て、架空の「害」を除き、目に見える「利」をもたらすことを約束する政治家に、どうしても支持を与えがちとなる。


 自らの歴史にプライドを持って国家観を語ることは、過去のナショナリズムに傾斜することではない。過去の歴史の誇るに足る部分をきちんと継承し、その継承のうえに新たに歴史をつくるという気概を示すことである。一部には、国家権力を「悪」と見なすことがリベラルであることの証明でもあるかのように振る舞う政治家も見受けられるが、それでは国家経綸、国家経営の資格などありうるはずがない。権力の「悪魔性」を自覚しながら、それを善用することこそ国家経営の前提である。そして、そのためには、古今東西のすぐれた国家経綸の実例を歴史から学ぶことが、最も効果的であろう。


 以上のことは、国家指導者にのみ要請されるわけではない。われわれ国民も、指導者が物語る歴史的構想力に支えられた理想とそれを実践する「戦略」に耳を傾け、理解しなければならない。複雑で変転する現実の只中で、指導者が「共通善」の実現を目指して実践する一連の行動を観察し、監視しつつ支持しなければならない。そうすることによって初めてわれわれは、歴史的構想力と理想主義的プラグマティズムとを具備するリーダーを持つことができるようになるだろう。


>>国家指導者はもっと積極的に目指すべき「共通善」とそれを実現する「戦略」を物語るべきである、というのは間違いない


「国家経営の本質」④



「国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ」(戸部良一、寺本義也、野中郁次郎 編著、日本経済新聞社)より


  命題④  「知略する」ことへの取り組み--知略する


 最後となる第四のモードは「知略する」、すなわち戦略的物語りを機動的に実践するプロセスである。国家指導者は、国家レベルの知的機動戦を展開するために、パワー・マネジメントを駆使して変革を起動し、相互作用の場をつくってこれらをつなぎ、どのレベルや階層においても自己完結的な判断力と実行力を有する機動的組織を構築して指導者の個人知を集合知に変換し、国民の潜在能力を解き放つ。


 核兵器をめぐる米ソ間の競争が消耗戦的様相を帯びていたなかで、レーガンはSDIをぶち上げたが、それは核兵器廃絶を目指し、ソ連の虚を衝いて精神的に動揺させる間接戦略的な効果を持った。その意味でSDIは、消耗戦と機動戦を組み合わせた巧みな知略であったとも考えられよう。そして、レーガンは、政権内のSDI賛成派と消極派をうまく噛み合わせ、ソ連との交渉に臨んだのである。

 東西ドイツの統一を実現したコールの知略も見事だった。最終的には関係諸国首脳の共感を勝ち得たとはいえ、ドイツ統一に対して戦勝四ヵ国は当初、いずれも反対か、少なくとも消極的賛成であった。四面楚歌ともいえる状況のなかで、コールは2+4の協議方式に持ち込み、東ドイツを吸収するという形での統一に成功する。


 コールは、十六年にもわたって長期政権を維持したことに表れているよう、パワー・マネジメントに秀でた政治家でもあtった。ドイツ統一交渉を含む外交面では、連立与党の党首ゲンシャーにその能力をフルに発揮させ、両者の協力と磐石な政権基盤とによって、ドイツ統一を実現したのである。

 サッチャー内閣の第一期は、党内基盤の弱さを反映して、サッチャー支持派は少数であった。ヒース支持派を中心とする人々が大半の閣僚ポストを占めていたため、政策を策定し実行するうえで閣内の支持を取り付けるのに苦労した。


 1983年の二度目の総選挙で圧倒的に勝利すると、老練な古参幹部の穏健派に代えて野心的な改革派を新たに入閣させた。多くは金融界や実業界の出身であり、マネタリズムの哲学と現実主義的な思想の持ち主であった。閣内規律のさらなる強化と自らの権力基盤の確立によって、サッチャー革命の新たな展開を実行しうる理想の「チーム・サッチャー」の構築を目指したのである。

 中曽根は、歴代の首相に見られるような調整型の政権運営ではなく、日本の政治家としては異色な大統領型首相と呼ばれる強いリーダーシップを志向した。しかし、中曽根は自らの率いる派閥が党内第四派閥にすぎず、党内基盤が脆弱であった。

 問題は、いかにして党内派閥や官僚機構による制約や制限を抑え込めるかである。そのためには、政権運営の要となる内閣機能の強化が必要であった。「風見鶏」と言われたほど派閥力学の文脈力にすぐれた中曽根は、まず党内最大派閥の田中派に所属する後藤田正晴を補佐役の官房長官に起用し、次に内閣官房に内政・外交に関わる統括機能を担う新たな組織を設置、それぞれに有能な官僚を配置した。


 ゴルバチョフは、54歳というソ連としては異例の若さで共産党書記長に就任したとき、当時無名のグルジア党第一書記のシュワルナゼを外相に大抜擢し、経済政策の総括責任者である国家計画委員会議長に若手のタルイジンを抜擢したほか、軍や党幹部の大幅な人事の刷新を行なった。


 鄧小平もゴルバチョフ同様、二つの勢力からの圧力を受けていた。ひとつは毛沢東路線を熱烈に支持する右派であり、もうひとつはよりいっそうの民主化を要求する左派である。三度にわたる失脚と復活という苦難の時代を経験した彼は、毛沢東の理論を全面的に否定することはしなかった。毛沢東の思想を聖天視するのではなく、それが現実の改善や改良にどのように役に立つかを最優先すべきであるという態度を貫いた。

 また、毛沢東路線を忠実に受け継ぐ華国鋒国家主席を形式上のトップに据えながら、実質的な権力を掌握するという離れ業をやってのけた。さらに「四つの基本原則を堅持する姿勢を打ち出すことによって、左派や若者の間の生き過ぎた民主化への傾倒を牽制した。「毛沢東の言葉で毛の路線に反対し、華国鋒と強調しながら華国鋒を倒していった」と評されるよう、鄧小平はソフト・パワーを巧みに駆使した「政治の芸術家」であった。


>>レーガン、ゴルバチョフ、コール、鄧小平、サッチャー、中曽根等が同時代を生きたことで、今の世界の枠組みが創られたとも言える


「国家経営の本質」③



「国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ」(戸部良一、寺本義也、野中郁次郎 編著、日本経済新聞社)より


  命題③ 「物語る」ことへの取り組み--戦略を物語る


 第三のモードは、「物語る」である。リーダーは、現実直視から自らの信念を国家ヴィジョン、政策コンセプト、そして実践のプロセスへと体系化し、それを物語りとして人々に示していく。それが戦略である。


 イギリスの威信を回復させようとするサッチャーの大志は、経済の戦いとフォークランドの戦いを結びつけると同時に、これを歴史に根ざした物語りとして、紡ぎ出されたのである。


 レーガンは、スターウォーズの物語を暗示させつつ、SDIの実現可能性を本当に信じ、過去と未来を平和でつなぐものとして、全身で語ったのである。

 中曽根の外交戦略の基軸は、日米同盟関係の強化にあった。従来の対米依存関係を改めて日米同盟体制を強化し、西側陣営の一員として応分の責任を負い、国際的な役割を果たそうとしたのである。このような外交戦略は、「日本の自主性の確立」とそのための「戦後政治の総決算」という点で、内政との一貫性と歴史的な整合性を持った物語りとして展開されたといえる。


 ゴルバチョフの基本戦略としての物語りは、「ペレストロイカ」「グラスノスチ」に集約される。それはあくまで改革の途上で「西欧流の社会民主主義」への変革を志向した。


 鄧小平は、改革を実現するにあたって、長期的な目標達成のために優先順位をつけながら、大衆の納得を引き出すため、「南巡講話」などに見られるように、状況や背景と具体的政策を大衆に率直に語りかけた。それは、現実に役立つものだけが価値を持つという「白猫黒猫論」のメタファーを含む一貫した物語りであった。

 
 「絶えず経験を総括し、間違ったらいち早く改め、小さな過ちを大きくしないようにしています」という鄧小平の政策実行プロセスは、プラグマティックな実践を重視する文脈力を駆使した大衆を巻き込んだ物語りの創造プロセスでもあった。


>>戦略的物語りには、論理、感情、そして精神が必要である。


「国家経営の本質」②


「国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ」(戸部良一、寺本義也、野中郁次郎 編著、日本経済新聞社)より


  命題②  「共感する」ことへの取り組み--現実を共感する

 第二のモードである「共感する」は、目指すべき共通善に照らした目の前の現実の深い洞察と状況判断、そしてそれに基づく他者との共感である。

 
 レーガンは、高い理想を掲げながらも常に現実を見据えた判断を重視した。政治家に転身する前、テレビで活躍したレーガンは、ゼネラル・エレクトリック(GE)社がスポンサーだった番組のホストを務めたことから、GEの移動親善大使として、全米各地のGE工場を訪れ、講演を行い、工員たちと語り合った。人々との共感の場を通じて、現実直視とスピーチの能力と技術を磨いたのである。これが後年大統領として、専門家が展開する結論や方針をできるだけわかりやすく国民に語るために役立った。


 コールも持ち前の率直さと誠実さによって、首脳外交を共感獲得の場とした。首脳外交の場で、コールは相手が抱いている懸念や感情を理解し、また自らの願いや理想を相手に理解させ、共感を生み出した。

 第一次世界大戦の激戦地跡に建てられた無名戦士の納骨堂の前で、ミッテランとコールが手をつないだ写真は、独仏和解のシンボルとして世界に発信されたが、これは演出ではなく、ミッテランが手を差し伸べた瞬間にコールが自然に握り返したものである。二人の間に共感があったからこそ生まれたシーンであった。また、コールが関係諸国の首脳との間にこうした共感を培っていなければ、その後のドイツ統一はより困難なものとなっただろう。国民の間に生まれた統一を望む共感を、コールが指導してさらに強化したことは言うまでもないだろう。


>>首脳外交でも可能な「現実を共感する」ことは社内でできないはずがない


「国家経営の本質」①


「国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ」(戸部良一、寺本義也、野中郁次郎 編著、日本経済新聞社)より


 国家経営におけるダイナミックなリーダーシップ・プロセスは、①大志する(Aspiring)、②共感する(Socializing)、③物語る(Narating)、④知略する(Maneuvering)の四モードで構成されている。


  命題① 「大志する」ことへの取り組み--共通善に向かって大志を抱く

 最初のモードである「大志する」は、指導者が、国家、さらには世界、そして人類にとって何が善なのかという共通善(Common Good)を自らの信念に基づいて志向することである。こうした共通善を言語化したものが、国家目標としてのヴィジョンになる。


 サッチャーは、「イギリスの威信と誇りを復活させる」ということをその使命とした。


 ともすると自虐的な負け犬根性に傾きかけるイギリス国民を鼓舞するために、自由と自立を国家の大原則として確立し、経済活動に対する国家の介入を極力避けることによって「小さな政府」を実現すること。これが、サッチャーの国家ヴィジョンの基盤であった。

 レーガンも、「アメリカを再び世界最強の国家に復権させる」というヴィジョンを掲げて大統領に選出された点で、サッチャーとの類似性を見ることができる。彼もまた自由市場経済を信じていた。そしてアメリカを、建国の祖であるピューリタンの理想、「丘の上で光り輝く街」として復活させたいとする理念を掲げた。


 中曽根は、政権獲得に際して、「日本の自主性の確立」とそのための「戦後政治の総決算」を大きな目標として掲げた。自主性は自らのよって立つ基盤(アイデンティティ)を正しく理解することによって初めて確立する。中曽根が考える日本のアイデンティティは文化であり、そのため日本を「政治と文化の国」へとつくり変えることが目標となった。それはまた、戦後日本の保守政権の主流を形成してきた吉田茂の「平和と経済の国」という理念に対する強烈なアンチテーゼであった。

 
>>「西側陣営の一国としての国際的な地位の確立を目指す」という点で中曽根の大志はきわめて意欲的であったと言えるに違いない


「赤ヘル1975」



「赤ヘル1975」(重松清著、講談社)より


 そんな広島を舞台にした、春から秋にかけての物語である。
 時代は、1975年--昭和50年。
 広島カープの帽子が濃紺から赤に変わったこの年は、広島に原爆が投下されて、ちょうと30年目にあたっていた。


 間違いない。面長の顔に、スッと通った鼻筋、太い眉、豹やチータを思わせる鋭く細い目、そして髪は、気合の入ったアイパー。紛れもなく山本浩二そのひとである。


 「去年までずーっと最下位じゃったカープが、なしてこがあに強うなったか、わかるか?」


 ひととおり答えが出尽くしたあと、コージさんは噛みしめるように、誰も言わなかった正解を口にした。

 「軍団になったからじゃ」

 赤ヘル軍団の「軍団」--戦う男たちの集団である。誰が名付けたのかは知らない。中國新聞かRCCラジオか、それともスタンドに陣取る応援団だったのだろうか。夏場の新聞記事にはまだ「赤ヘル集団」と書いてあるものも多かったが、今や「赤ヘル」といえば「軍団」だった。

 横からカントクさんが「団結力いうやつじゃ。チームワークよ」と補足する。

 「プロも中学生もおんなじじゃ。野球は一人じゃあできん。そうじゃろう?チームとチームの戦いは、結局、どっちのチームが一つにまとまっとるかで決まるんよ」

 「・・・・・・オッス」

 「ほいでも、仲良しこよしでもいけん。野球は実力の世界じゃ。年上が年下に負けることも、なんぼでもある」

 その言葉に、相生中の先輩たちは、気まずそうに下を向いた。

 「後輩に負けて悔しかったら、もっと練習すりゃええんよ。野球の悔しさは、野球でしかはらせんのじゃけえ」

 ほんまじゃ、とヤスはグイッと胸を張りかけたが、そこにコージさんの声が降りそそぐ。

 「レギュラーの選手は、補欠の選手に支えられとるいうんを忘れたらいけん。オノレ一人の力で試合に出られた思うとったら、大間違いじゃ」

 ヤスはうつむいて「オッス」と応えた。

 「試合中もそうじゃ。野球は団体スポーツじゃけえ、どがあにすごい選手でも、一人ではなんもできん。チームは『軍団』にならんといけんのよ」 


>>「軍団」になることができれば、会社も強くなれるに違いない。



「大人の男の遊び方」⑤



「大人の男の遊び方」(伊集院静著、双葉社)より


 第六章  麻雀の美しさ


  麻雀の魅力とは?



 麻雀とポーカーの共通点は勝者が手の内で勝負の手とタイミングを選択できる点で、そこに勝者の能力のいかんが発揮される。

 麻雀の魅力の大半はここにある。 


 麻雀は対人間と打ち、相手の持点を減らす(奪い取るでもいいが)ギャンブルである。

 それは極端に言うと、四人の人間がプールの中に一斉に飛び込んでそれぞれが相手を水底に引きずり込み最後まで浮上していることができたら勝者となって生き残り、勝つことになる行為と似ているかもしれない。

 “足の引っ張り合い”という言葉があるが、それに巻き込まれないようにして傍観していても勝者になることは起きるということだ。防御も武器になる。

 好手、好投、大きな和了をするのはたしかに麻雀の魅力だが、ギャンブルの基本としては勝者がほんのわずかのプラスでも残る三人がマイナスなら勝てるということでもある。

 そう考えると麻雀というギャンブルは相手を弱らせることも必勝法のひとつと言える。

 ところが大半の人は麻雀を打つ時、和了することばかりに神経を使う。それは勝つ行為とは離反しているとも言える。

 
>>これからは和了することばかりに神経を使うのでなく、防御も身につけてゆきたい。


「大人の遊び方」④



「大人の男の遊び方」(伊集院静著、双葉社)より


 第三章  ゴルフは品格である


  モダンゴルフ


 ベン・ホーガンが1957年にアメリカのスポーツ雑誌『スポーツイラストレーテッド』に『モダン・ゴルフ』の連載をはじめるとアメリカ中のゴルファーが競い合って読みはじめた。

 
 『モダン・ゴルフ』は五章からなっていて、

 LESSON1がグリップ。
 LESSON2はスタンスとアドレスの姿勢。
 LESSON3はスイングの前半。
 LESSON4はスイングの後半。
 LESSON5がまとめと復讐となっている。


 「良いゴルフは、正しいグリップからはじまる」と彼は言っている。


 LESSON2はスタンスとアドレスの姿勢篇だが、ここでベン・ホーガンはスタンスは何のためにあるのかを3点のことを説明している。

 ひとつ目は、スイング中に身体のバランスを保つ。
 ふたつ目は、身体の筋肉が滑らかに動く状態を作る。
 みっつ目は、このふたつのことを実行した結果として、スイングに投入するすべてのエネルギーが最大限のパワーとコントロールを生み出すために使われる。

 と解説している。


 同時に彼はゴルフで使う筋肉は常に内側にある筋肉だ、と言っている。これはすべてのスポーツに言えることだ。

 そうしてアドレスはリラックスして構えられることが基本だ。

 
 LESSON3ではスイングの前半篇である。

 スイングの前半篇とはいわゆるバックスイングのかたちをどう作っていくかということだ。

 このバックスイングで一番大切なのはプレーン、つまりスイングの面が正しくおこなわれるかということだ。


 LESSON4はスイングの後半篇だが、正しいバックスイングを体得できれば、あとはクラブを振り下ろし、フォローまで振り切ればいいのである。


 腰を回すことがいかに大切かと終始述べている。腕だけでスイングしても正しいスイングはできないこととパワーが加わらないことにおいて一番肝心なのが身体の軸を中心とした回転運動であることをくり返し言っている。


 LESSON5はまとめと復讐篇だが、この章の初めに、プレーをした後、練習をした後にその日失敗したショットの原因、どうすれば修正できるかをその度メモをしておくのがよかろうと言っている。


 ベン・ホーガンのスイングがどうして万人に支持されるかと言えば彼が小柄な体格であったからではないかと私は思う。ちいさな体格の人はより効率的に身体を使うことを考える。それがベン・ホーガンの美しいスイングを生んだのだろう。
 
 案外とゴルフは体力のない人こそやるべきスポーツかもしれない。


>>すべてのエネルギーが最大限のパワーとコントロールを生み出す、身体の軸を中心とした回転運動を会得したい


「大人の遊び方」③



「大人の男の遊び方」(伊集院静著、双葉社)より


 第三章  ゴルフは品格である


  ゴルフは麻雀に似てる?


 ゴルフを二度、三度した人ならすでにわかっていると思うが、コースに出てプレーをはじめたらゴルフ以外のことを考えることができる人は少い。

 ティーショットが上手く打てたなら、どこまで飛んで、どんなライで、グリーンまではどのくらいの距離があるのだろうかといち早く自分のボールにむかって歩くのである。そうして自分のボールの場所へ行くとさあ何番アイアンで、何番ウッドでどこにどう打つかということで頭が一杯になる。

 それでセカンドショットを打てば打ったで、バンカーの方向へボールは飛んでいったが、どこにどんな状態で自分のボールはあるのだろうかと背中を押されるようにボールにむかって進む。

 仮に、ナイスオンとパートナーなりキャディーに言われれば、カップまでどのくらいの距離があり、どんなラインのパッティングが残っているのだろうか、とこれもまたグリーンにむかってどんどん進んでいく。

 この行動の連続がゴルフというスポーツだと言ってもいい。

 つまり自分がプレーしたものに自分で背中を押し、次から次にあらわれる状況に夢中になっていくのである。

  --何かに似てないか?

 “あなたが放ったゴルフのボールは一度でも同じ状況のものはない”とあるプロゴルファーが言っている。

 --何かに似てないか。

 そうです。麻雀である。

 次から次にやってくる牌、突然、相手からのリーチ、ポン、チーといった状況に一度も同じ状況はない。

 --そうか。ゴルフは麻雀の親戚なのか・・・・・・。


>>一度でも同じ状況のものはないという麻雀に似ているゴルフの一期一会を大切にしてゆきたい


「大人の男の遊び方」②



「大人の男の遊び方」(伊集院静著、双葉社)より


 第三章  ゴルフは品格である


  作家のゴルフ

 文壇ゴルフには“丹羽学校”というものがあった。

 作家・丹羽文雄さんが中心になって当時の作家たちに正当なゴルフをさせる会である。
 
 ゴルフのマナー、品性を高める目的ではじまった会には当時の大半の作家が門下になった。


 そこでのゴルフの教えの中に、

 ・まずゴルフのプレーは迅速に、

 ・そのためには必要以上に素振りをしない。

 ・グリーン上で執拗にラインを読んだり、キャディーに何度もラインを聞かない。あらかじめ自分で判断できる能力を持つようにする

 ・華美な服装でプレーしない。

 ・遅刻すること、ドタキャンは許さない。

 ・プレーを終えたらすみやかにホールから離れる。

 ・・・・・・おそらくこんなことが教えられたのだろう。

 私はこれらのことは今でも十分に通用するし、逆に今のゴルファーたちにも云いたいことでもあると思っている。


>>プレイファーストを常に心がけてゆきたい


「大人の男の遊び方」①



「大人の男の遊び方」(伊集院静著、双葉社)より


  第一章  良き酒の飲み方~酒は人生の友である


 最後にもうひとつ。


 懐具合いを考えて酒場を選べと言ったが、まったく違う話をひとつしておこう。

 それは少々無理をしても高い酒を飲みに行きなさい、ということだ。

 それはたとえば都会で一流と呼ばれるホテルのバーに行ったりしてみることだ。

 たしかにスーパーで同じ酒を買って家で飲むよりも金がかかるが、そこには一流の酒飲みの客がいるのと、一流のバーテンダーがいて、あなたを接客してくれる。

 彼等を若い目でよく見て、どこが自分と飲み方が違うかを考えるのも大切なことだ。


>>一流の酒飲みと、一流のバーテンダーがいるバーがあれば、それで良いように思う。


 

「ぼく、牧水!」③


ぼく、牧水!-歌人に学ぶ「まろび」の美学(伊藤一彦・堺雅人、角川書店)より


パスカルの絶望


  きっとパスカルにも、やなことがあったんでしょうね(笑)。


伊藤  パスカルがいやなのは「宇宙も時間も無限であるなか、人間がまことに微小な存在であるということ」。それが許せなかった。

 でも「宇宙は自分が偉大であることを知らない。自分はちっぽけであることを知っている。その点において宇宙に勝る」というコペルニクス的転回をやったわけ。これが有名な「人間は考える葦である」です。ここから人間は考えることが大事だと言う。

 でもぼくは「葦である」ということ。つまり波が寄せれば倒れ、風が吹いたら倒れる。その弱いということが大切なんだと思います。葦はどんなに考えても葦に過ぎない。そこが分からないとパスカルの絶望は理解できないでしょうね。


  そっか、デカルト(フランス出身の哲学者・数学者、1596年-1650年)の「われ思う。ゆえにわれあり」というのは、そう考えるとずいぶん肯定的、楽天的なんだ。


伊藤  そうなんだよ。デカルトは論理の世界で割り切っている。だから強い。パスカルは自己の存在そのもので受け止めるから、「考える葦である」の「葦」。どんなに考えても葦のように弱いとパスカルは言う。だから最後は修道院に行って救いを求めちゃうんです。


  「気晴らし」をしない生き方ってきついですね。まじめな人だったんだ。


伊藤  九回裏ツーアウト、ランナーなしで大逆転をねらった。宇宙に圧倒的に負けているから「宇宙さん、あなたは自分が偉大であることを考えることはできない。私はあなたにかなわないけれど、自分がちっぽけであることを知ってる。その点においてのみあなたに勝る」。これがヒットになったか、ならないか。


  大振りですねえ。哲学者って宗教的な、求道者めいた何かになってしまうんですね。


伊藤  そこに行く人と行かない人がいます。


>>コペルニクス的転回でものごとを考えてみることも大切であるに違いない


「ぼく、牧水!」②



ぼく、牧水!-歌人に学ぶ「まろび」の美学(伊藤一彦・堺雅人、角川書店)より


僕にストレスはありません


  そういえば、取材なんかで時々聞かれるんです。「あなたのストレス解消法は?」って。でも、僕はストレス、解消しないんですよねえ(笑)。仕事で感じるストレスって、実はけっこう大事なメッセージだと思うんです。現場にいやな人がいる。けれども、なぜそいつをいやだと思ってしまうかを考えることは、「この仕事で僕が一番大切にしたい要素はなんだろう」ってことを考えることじゃないだろうか、と。


伊藤  今のように前向きに考えられるのはみごとだね。


  もちろん、考えた末の結論が「結局こいつはいやなヤツだ」という時もありますけど(笑)。


伊藤  なんでこの人が、自分にいやなことを言ったり、いやな役割をするんだろうと思いながら、今のように前向きに考えられるのは、すばらしいです。

 「意味のないことで悩むなんて、自分はダメ人間だ」と思いだしたら暗い穴から出られない。「この悩みは自分にとって大事な問いだ」と思えば抜け出せる。自己否定に向かわなければ悩みはむしろ自分を発展させる原動力になります。意味がないと思うとストレスになります。


  いいときはいい、悪いときは悪い。結果は、もう仕方がない。プロセスが大事だと考えれば、少なくともストレスにも意味がある。ストレス解消法って現実逃避と似てますね。海外旅行や岩盤浴をしたって、いやなヤツがいなくなるわけじゃない。


伊藤  パスカルの言う「気晴らし」ですね。気晴らしをしちゃいけない、とパスカルは言う。ちゃんと受け止め、枠組みを別に作る。最初は「ストレス、いやだなあ」。でも「いやなヤツがここにいて、なぜいやなのか、さあ自分はどうする」と考えれば、展開が変わる。

 「いやなヤツだから、酒でも飲もう」は気晴らしです。気晴らしをしても事態は解決しない。枠組み、物語を変え、「そういつがそこにいるのも意味がある」と自分が了解できればいい。最終的にはストレスというかたちで受け止めないことです。

 現代人はストレスって言い過ぎ。ストレスという言葉は便利で説明しすぎるんです。「私は今ストレスです」「大変ですね」とか安易にすべてを説明する。「ストレスってどんなものですか」と聞くと、一語で言えない何かが出てくる。堺さんが「僕にはストレスはありません」というのは痛快だね。


>>ストレスは解消せずに、大事な問いとしてちゃんと受け止め、枠組みを別に作って自分を発展させる原動力にできたら良いに違いない


「ぼく、牧水!」①



ぼく、牧水!-歌人に学ぶ「まろび」の美学(伊藤一彦・堺雅人、角川書店)より



  なんでしたっけ、演劇技術とは・・・・・・。


伊藤  あ、それはぼくが言おう。今でもよく覚えているから(笑)。演劇部員だった堺さんは、あの時こう言ったんだ。

「自分はある表現をしたいという思いがあるんだけれども、まだそれだけの演技力がないんです。これから演技力を身につけていけば、自分の思いをいつか表現できるようになるかもしれないけど、その時は自分の今のなまなましい思いというものはきえてしまってるかもしれない。そしたらどうすればいいんですか」

 ぼくは何も答えられなかったけど、こういう問いは切実に表現したい思いがないと出てこない。どうしても表現したい思いを今すぐ表現したい。そうすると普通は「今は演技力がないけど、30、40になって身についた時に今の十八歳の思いを表現しよう」と妥協するわけ。 

 でも堺さんは今の思いをその時に表現したいと譲らない。でも悔しいかな、演技力が足りない。どうすればいいのか、と。難問だよね(笑)。


  多分僕には、一緒に「うーん」と考え込んでくれることが感動的だったんです。僕が覚えているのは授業での伊藤先生の言葉ですね。

「どういう問いを立てたかがはっきりすれば、その時点で哲学は終わり。問いに対する答えは、いずれ見つかるものかもしれないし、見つからないかもしれない。でもどちらでも構わない。大切なのは、問いかけをしたという事実なんだよ」

 この年齢になってやっと、あの時の伊藤先生の言葉が身にしみています。

 たとえば、「演技に正解はない」というのは、俳優のあいだでよく言われる格言みたいなものなんですが、若いころは「そうはいっても、どこかに正解があるはずだ」と思っていた。でも格言は「正解があるか、ないか」について語ったものではないんですね。多分、「結果にこだわるな、過程にこだわれ」なんです。

 とはいえ、この世界は、結果がすべてでもある。結果を気にしないでいるのは、とてもこわい。いま僕の中にある勇気の半分は、その時教えていただいたような気がします。


伊藤  堺さんは本質的なことを考えるのに長けていて、高校生離れした思考の持ち主だったもの。疑問が出たら、結果を出すのは早いもの勝ちで、うかうかしてるとあっと言う間に時代の波にほんろうされてしまうけど、そんな小さなことでは揺らがないところが、堺さんらしいね。だれかに問いを発することで自分に帰る。だから堺さんは、自分に問いかけてたわけで・・・・・・。


>>問いをはっきり立てながら、結果よりも過程にこだわることで、より本質に近づいてゆくのに違いない


「さぶの呟き」⑤

「さぶの呟き  山本周五郎の眼と心」(木村久邇典著、世界文化社)より


  名言・逸話拾遺


 私が書く場合に一番考えることは、政治にもかまって貰えない、道徳、法律にもかまって貰えない最も数の多い人達が、自分達の力で生きて行かなければならぬ、幸福を見出さなければならない、ということなのです。一番の頼りになるのは、互いの、お互い同士のまごころ、愛情、そういうものでささえ合って行く・・・・・・、これが最低ギリギリの、庶民全体のもっている財産だと私は思います。暗い生活、絶望的な生活といっても、これは日本だけではなく、或いは世界中の庶民というものがいつでも当面している問題だと思うのですが、ただ、この中から我々を伸ばしたり、救ったりしてくれるのはいつでも、人間同士のまごころでつながっている、このつながりだと、私は思います。(お便り有難う「文化放送」昭和35年5月)


 私はもっとも多数の人たちと共に生活し、共通のことで苦しみ悩み、そのなかに生きる希望を探求してゆきたい。私のもっとも恐れる事は、机上で仕事をすることである。(『山本周五郎選集』--扉に--昭和30年9月)


 人間が一つの仕事にうちこみ、そのために生涯を燃焼しつくす姿。--私はそれを書きたかった。ここでは浄瑠璃の作曲者になっているが、他のどんな職に置き替えても決して差支えない。人間の一生というものは、脇から見ると平板で徒労の積みかさねのようにみえるが、内部をつぶさにさぐると、それぞれがみな、身も心もすりへらすようなおもいで自分とたたかい世間とたたかっているのである。その業績によって高い世評を得る者もいるし、名も知られずに消えてゆく者もある。しかし大切なことは、その人間がしんじつ自分の一生を生きぬいたかどうか、という点にかかっているのだ。「黄金でつくられた碑もいつかは消滅してしまう」ということを書いたことがあった。大切なのは「生きている」ことであり、「どう生きるか」なのである。(作品の跡を訪ねて--虚空遍歴「小説新潮」昭和38年11月)


>>お互い同士のまごころでささえ合いながら、机上で仕事をすることなく、しんじつ自分の一生を生きぬいて行きたい。


「さぶの呟き」④



「さぶの呟き  山本周五郎の眼と心」(木村久邇典著、世界文化社)より


  第44話  自分の知らないことを語るな  『虚空遍歴』


「人は身に備わった才能だけで仕事ができるものではない」(中略)「一芸一能を仕上げるには、いま云ったように百般の煩悩、あらゆる迷妄を脱却し、生死一如の悟りを得ることがだいいちだ」

沖也は反論する。

「私は迷うだけ迷い、悩むだけ悩む、悲しくなれば泣くだろうし、つまらないことではらもたてるだろう、金がなくなればうろうろするだろうし、恩愛の情にも脆くなりたい、一生、人事葛藤の中でよろめき、むなしい望みに縋りついたり、絶望したりするだろう」(中略)

「人の十倍も苦しみ、人の十倍も悩み、誰も経験したことのない恐怖を経験しよう」(中略)

「私は才能も乏しいごく平凡な人間だ、一生を賭けて、人間の弱さ、はかなさ、醜くさや哀れさをさぐりだしてみせる、自己元来鉄壁銀山と悟りすまして、人間のおろかさや悲しさがかけるか、--私はごめん蒙る、悟りなんぞまっぴらごめんだ」

 これらの問答は、山本周五郎が日ごろ抱いていた芸術についての持説を、登場人物の口をかりて語らせているように思う。前述したように、『虚空遍歴』は作者が自分自身の芸術論を展開した小説だと論じた批評があったのも、分からないことではない。


「これまで多くの人間から嘲笑され、侮辱された」沖也は低い声で続けた、「そのたびにおれはふるえるほどの怒りに駆られ、がまんできずに人を斬ったことさえある。けれどもおれは、自分の浄瑠璃にみきりをつけたことだけは一度もなかった、誰に悪口を云われ、けなしつけられ、笑われても、自分の浄瑠璃に絶望したことは決してなかった」(中略)

「まだこれからも失敗するだろう、つまずいたり転んだりするかもしれない、しかしおれは必らず沖也ぶしを仕上げてみせる、きっとだ」


 ぜったいに自分にみきりをつけない、息をひきとる瞬間まで、精一杯に努力する、というのは山本の信念だった。ここまでくると、山本が沖也に乗り移ったように感じさえしてくる。


「なにか仰しゃって」とおけいが聞いた。

「ああ」と沖也は空をみつめたまま云った、「支度ができたから、でかけることにするよ」

 そして彼は死んだ。


「<そして彼は死んだ>というところをな、ここをよく読んでほしいんだ」

 と山本周五郎が言った。

「ずいぶん苦労したからね」


“終わりの独白”の節でのおけいの言葉が、『虚空遍歴』の幕をひくのにふさわしい。

(前略)あの方が自分の作に満足せず、作っては

「さぶの呟き」③



「さぶの呟き  山本周五郎の眼と心」(木村久邇典著、世界文化社)より

  第43話  自分の背中を見ることはできない  『サブ』


 快適な環境はけっして人間を育てたりはしない。逆境こそ、いかなる条件にも耐えうる勁い人間をつくるのである。

 山本周五郎は、笑ってよくこう言ったものだ。

「物書きというものは、朝から晩まで、一つ家で家族といっしょに暮らしている。妻や子供たちは、いつもお父さんのことを気にかけていて、こっとが、ああ憑かれた、ひと休みしようかな、と思っていると、言いつけたのでもないのに、サッとビールなんかが出てくる。こんな環境はいいもんだなと思うことはあるけれども、絶えず家虫がハラハラと気を遣い、隙間風も通ってこないといった快適な環境からは、いい仕事は生れてくるはずがない。だからおれは、結婚以来、仕事場は別に借りて、そこで原稿を書く事にした。よき家庭は芸術の仇だよ。したがっておれは、結婚してこの方、ずうっと別居生活をしているというわけだ」

 つまり山本周五郎は、いつも自分を、より厳しい条件の中に身を置くようにしむけた小説家だったと思うのだ。より厳しくさらに辛い環境こそが真の人間を育てるものだ、と、かたく信じていたふうであった。

 ここで英二が開眼したのも、まったくおなじことだったような気がする。


 「おかしなことを云うようだが、笑わずに聞いてくれ」と英二は静かに云った、「--おれは島へ送られてよかったと思っている、寄場であしかけ三年、おれはいろいろなことを教えられた、ふつうの世間ではぶっつかることのない、人間どおしのつながりあいや、気持のうらはらや、生きてゆくことの辛さや苦しさ、そういうことを現に、身にしみて教えられたんだ、読本でも話ででもない、なま身のこの軀で、じかにそういうことを教えられたんだ」

 おすえは泣きやんだが、まだしゃくりあげは止まらなかった。

「寄場でのあしかけ三年は、しゃばでの十年よりためにんたった」と英二は続けた、「--これが本当のおれの気持だ、嘘だなんて思わないでくれ、おれはいま、おめえに礼を云いたいくらいなんだよ」

と、そのとき、表の雨戸をためらいながら叩く音がするのである。

「栄ちゃん」と外で人の声がした、「いるかい、栄ちゃん、いま帰ったよ」(中略)

「おふくろがいま息をひきとるか、いまひきとるかっていうありさまで、つい今日まで延び延びになっちまったんだ、悪かったよ栄ちゃん、勘弁してくれ、あらだよ、ここをあけてくんな、さぶだよ」


>>より厳しくさらに辛い環境に身を置くことで真の人間に育ってゆきたい


「さぶの呟き」②



「さぶの呟き  山本周五郎の眼と心」(木村久邇典著、世界文化社)より


  第20話  まるで見栄の固まりよ  『よじょう』

『よじょう』は昭和27(1952)年4月の作品である。作者ときに四十九歳で、のちに「後半期のみちをひらいてくれた」

 と自負した小説である。たしかにこの作品を境目に、山本はそれまでの、韻律をともなう“山本ぶし”と自称した文体から脱皮し、粘着性のある新しい文章創出の手がかりをつかんだようであった。


 山本周五郎はまた、『宮本武蔵』の作者吉川英治流の生き方もあまりこのまなかった。悪い立身出世主義とみていた。ことに、英雄・豪傑をとりあげて時世におもねる姿を嫌った。吉川は戦時中は海軍の勅任官(将官)待遇の嘱託であった。戦争に負けたら一転して、平和主義者平清盛を描いた(『新平家物語』)。きのうまで戦意高揚、軍国主義の太鼓を叩いていた人が、そうした。

 山本にすれば、

「節操というものがまるでないじゃないか。次世次節に応じて衣を替えるというのは、かれのような人間のことをいうのだろう」

 というわけだ。

『よじょう』は徹底した似而非武士道に対する否定の作品である。見栄っ張りなだけの宮本武蔵に仮託して、山本は吉川英治流の作品にまで槍をつきつけたのである。痛快である。


>>時世時節に応じて衣を替えることのないような生き方をしてゆきたい


「さぶの呟き」①



「さぶの呟き  山本周五郎の眼と心」(木村久邇典著、世界文化社)より


  第5話  あやまちのない人生は味気ない  『橋の下』

 山本周五郎は、書き上げた作品のほとんどを、

「ああ、また失敗作を書いてしまった。活字になって印刷されても、恐ろしくて読むことができない」

 となげくのが常であった。ただ、自らきわめて例外とした作品に、後半期の道をひらいてくれたと自己評定した『よじょう』と『橋の下』とがあった。出版後、

「こんどの小説、評判がいいじゃありませんか」

 と話しかけたわたくしに、山本は深くうなずきながら、こう言ったものだ。

「ああ、あれはおそらく、だれもケチをつけることはできないだろうね」

 よほどの自信作だったのにちがいない。


「悔いのない人生を送った、と称する人間ほどつまらないものはない。失敗のない人生が、どれほどの価値のあるものかもわたしには分からない。しかし、悔い改め、また失敗をおかしては悔い改めて生きてゆくことで、その人の年輪はほんとうに意味のあるものになるのだ、と思う。ただ前進あるのみ、などと世のリーダーらはハッパをかける。けれども、わたしは思うのだ--いくたの困難を打ちはらいながら前進するためには、ひじょうな勇気を必要とするが、ときには立ち止まって、まわりの情況を客観的に観察する勇気こそが、もっとも大事なのだ--と。前進が止まったからといって、人は決してかれの停滞を笑ってはいけない。むしろそのときにこそ、前進のエネルギーがたくわえられつつあるのだから・・・・・・。

 なんでもそうだ。恋は盲目、などというのは、いかにも陳腐なもののたとえだが、そのノボセあがった自分をぐっと引きしめる手綱をもつことで、人生はぜんぜん違ったものにも成長していけるんだがね」


>>ときには立ち止まって、まわりの状況を客観的に観察する勇気を持ちながら、失敗をおかしては悔い改めて生きてゆきたい


「性格はいかに選択されるのか」②


「性格はいかに選択されるのか」(アルフレッド・アドラー著、岸見一郎訳・注釈、アルテ)より


 第二章  性格概論

  親の影響

 人の性格は、既に、その乳児期に認めることができる、と強調し、それゆえ、多くの人が性格は生まれつきのものであると主張する多くの研究者のいうことにも一理はある。しかし、人の性格は両親から遺伝するという見解は非常に害がある、と主張できる。なせなら、そのような見解は、教育者が自信を持って課題に取り組むことを妨げるからである。この仮定を強化するのは、性格は生まれつきのものであるという見解が、その仮定を採用する人の責任を軽減し、それを逃れさせるために用いられるという事情にある。(『人間知の心理学』P29)

 ここまで見てきたように、性格の形成に影響を与えた要因は多々ありますが、性格を決めたのは自分自身であるというアドラーの基本的な考えとは違って、もしも性格が生得的なものであり、変えられないとすれば、子どもを教育することには、また治療することには何の意味もないといわなければなりません。

 性格の選択は生涯ただ一度きりなされるわけではありません。必要であれば、いつでも選択し直すことができます。変わろうという決心をすれば、必ず変えることができます。その際、親や教師との関係がどんな性格を選び取るかに影響を与えます。しかし、決めるのはあくまでも本人ですが、親や教師の影響によって性格を変えうるからこそ子育てや教育に意味があるわけです。それこそが育児や教育ということなのです。


  性格を変えること

 アドラーは次のような調停案を出しています。即ち、自分のライフスタイルを「今」知ってしまったら、その後どうするかは自分で決められる、あるいは、決めるしかない、と。カウンセリングにきた人のライフスタイルを診断することがありますが、その場合、大人といえども、それ以前は、自分のライフスタイルをはっきりと知っている人はいません。自分のライフスタイルが他の人とは違うということは知っていても、どこが違うのかを明確に言葉で説明することはできません。

 しかし、カウンセリングで自分が対人関係の問題をどんなふうに解く傾向があるかが明らかになれば、それから後どうするかは、つまり、従前のままでいるのか、新しいライフスタイルを選び取るかは、自分で決めるしかありません。

 重要なことは、何歳であれ、ライフスタイルを選択するとその後、何が起こるかということです。



  自分で選ぶ性格

 これからどうするかだけが重要なので、今の問題がどこにあるかがわかれば、そして、これまでとは違った生き方を選ぶ勇気を持ちさえすれば、人は決して運命に翻弄される無力な存在ではなく、「運命の主人」になることができます。


 今の性格は過去に何らかの体験したことによって形成されたものではありませんが、生きていく中で、いかなる困難にもぶつからない人はなく、そのような困難に対してどのような態度決定をするかが、性格の形成に大きな影響を与えることになります。

 その困難は、多くの場合、対人関係から生じるものです。これをアドラーは、次に見るように、「人生の課題」と呼びますが、それを前にして、どれほどの距離で立っているかを問題にします。

 
  人生の課題とそれへの距離

 第一の人生の課題は対人関係(交友)の課題、第二が仕事の課題、第三が性の課題、及び、愛と結婚の課題です。この第三の課題に家族との関係、とりわけ親との関係を含めることがあります。

 人はこれらの課題を前にして、多かれ少なかれ距離を置きます。初めから課題に近づこうとはせず、その際、課題に近づかないことを正当化する理由を探し出すか、あるいは、課題に取り組んだ後、課題を達成できなかったことをそのことを正当化する理由を持ち出して説明するのです。


 恋愛をし、結婚にまで至るケースにおいてうまくいかなかったとしたら、やはりそのことの理由を探し出します。あまりに若く結婚しすぎたということを理由にする人がいます。また、親から反対されたことを理由にする人もいます。子どもの頃、親から虐待を受けたこと、災害や事件に遭遇したことをあげる人もありますが、いずれも今相手との関係がうまくいかないことの正当の理由ではありません。先に出した言葉を使えば、見かけの因果律でしかありません。

 われわれは、それによって自分の前にある課題を迂回したいと思い、自分で困難を創り出し、それにまったく近づかないか、近づくとしてもためらってそうする人の理解に近づく。そのような人が課題のまわりに作る回り道には、怠惰、不精、仕事を頻繁に変えること、不良化などの人生の特別なこととして目立つことがある。また、これらの態度決定を態度にまで表わし、時に非常に曲がりくねった仕方で行かなければならず、あらゆる機会に蛇のように向きを変える人もいる。これはたしかに偶然ではない。そして、そのような人は、いくらか慎重にではあるが、自分が解決しなければならない重要な課題を避けて通る傾向を持っている人である、と判断できる。(『性格の心理学』P98~9)


 やる気が出ないという人もいます。残念ながら、やる気は待っていれば出るものではありません。やる気は待てば起きると見る人が、やる気が出ないことを課題に取り組まないことを正当化する理由にしているだけのことです。


 勤勉でないことの理由は明白です。一生懸命勉強してみても、いい成績を取れず、試験に合格しないことは残念ながらあります。その結果は甘んじて受け入れるしかなく、次回の再起を期してまた挑戦するしかありません。


 たとえ成功しても、その成功を持続するために必要な努力をしなければ、成功は長続きしません。そもそも格別の努力をしないで成功することを望んだり、先に見たように失敗しても仕方なかったというような姿勢で課題に臨む人は真剣さが足らないといわなければなりません。


>>課題を達成できなかったとしても正当化する理由を持ち出して説明することなく再度真剣に取り組んで行きたい


 

「性格はいかに選択されるのか」①


「性格はいかに選択されるのか」(アルフレッド・アドラー著、岸見一郎訳・注釈、アルテ)より

 
 第一章  真の原因はどこに

  「なぜ」を問う

 アドラーは、自由意志を認めるのです。石は下の方向以外には落ちませんが、人間は行動を選択する際、ただ一つの行動しか選べないわけではありません。「他の仕方でもありうる」というのが人間の行動の特徴です。


 人の行動はすべて目標によって確定される。人が生き、行為し、自分の立場を見出す方法は、必ず目標の設定と結びついている。一定の目標が念頭になければ、何も考えることも、着手することもできない。(『性格の心理学』P7、P9)

 人の行動はすべて目標によって確定されるというのが、アドラーの基本的な考え方です。何かの欲求や感情が後ろから人を押すと見ることは、行動について非常に不安定なイメージといわなければなりません。

 アドラーは、人が向かっていく目標を設定します。アドラーは次のように説明します。

 一本の線を引く時、目標を目にしていなければ、最後まで線を引くことはできない。欲求があるだけでは、どんな線も引くことはできない。即ち、目標を設定する前は何をすることもできなのであり、先をあらかじめ見通して初めて、道を選んでいくことができるのである。(『教育困難な子どもたち』P28)

 この目標は、優越性、力、他者の征服などである。この目標は世界観に作用し、人の生き方、ライフスタイルに影響を与え、表現運動を導く。それゆえ、性格特徴は、人の運動線が外に現れた形にすぎない。(『性格の心理学』P7)

 その目標として、ここでは、優越性、力、他者の征服があげられています。たしかに、これらのことを目標に行動する人は多いのですが、すべての人が必ずそういうものを目標にするというわけではありません。アドラーは、これらを究極の目標とは考えません。それらを斥けるか、もしくは、ある限定を付け加えます。

 人間の精神の発達において誤りが現れるということ、そしてこの誤りとその結果が相接して現れたり、失敗や誤った方向づけにおいて現れるといことは驚くにはあたらない。精神には目標を定める働きがあるからである。この目標設定は判断と結びついている。それは大抵の場合、正しくない判断と結びつく。(『子どもの教育』P26)

 間違うにせよ、ここに自由であることの根拠があるわけです。


>>正しい判断に結びついた究極の目標を自由に設定して行きたい


「そして奔流へ」



「そして奔流へ 新・病葉流れて」(白川道著、幻冬舎)より


「梨田クンは十月で二十五歳になると言ってたよな。俺は四十五で、この宍戸クンは三十五だ。妙なもので、十歳ずつの年の差だ。俺は、五年後の五十歳で、この仕事から足を洗うつもりだ。宍戸クンも四十歳を区切りにして、辞めると言っている。株なんてものは、いつまでもやるもんじゃない。時間を区切らないと、延々とつづけてしまう。金を儲けた、損しただけで人生を終えるのは、つまらんだろ?どうだい?きみも、三十歳の区切りまで、俺たちにつき合わんかね?」

 一丸がくわえたたばこに、宍戸がデュポンの火を差し出した。

「なんで、俺なんです?代表とは、それほど長いつき合いでもないんですよ」

「俺は自分の目に自信を持ってるからさ。この仕事は、金に欲のないやつは向かんが、金に欲のありすぎるやつは、もっと向いてない。度胸がある上に、勝負の見切りができるやつじゃないと駄目なんだ。初めて、きみと麻雀をやったとき、俺は、やっと見つけたとおもったよ。どうだ?これで答えになってるかね?」



 個室についている露天風呂にベティと一緒に浸かりながら、夕刻までをすごした。

「結局、その一丸さんという人と株をやることにしたのね・・・・・・」

「ああ、ベティもいなくなるし、俺には無我夢中で没頭できるなにかが必要なんだ。なに、五年なんて、あっという間だよ」


「梨田クン。わたし、自分のことよりも、梨田クンのほうが心配よ。危険じゃないの?」

 私の背をさすりながら、ベティが不安な顔をした。

「危険か・・・・・・。たぶん、そんなこともあるだろうな。でも俺は、これまでだって、その都度、危ない場面を切り抜けてきた。俺は、本能的に危険を回避できる能力に長けているんだとおもう。大丈夫。ベティを悲しませるようなことはしない。ベティが日本に帰ってきたときには、今とは違う俺になっていることを約束するよ」

 眼前に広がる海に夕陽が落ちはじめていた。それはまるで、これからの私を暗示しているかのようにも私の目には映った。


>>度胸があって、勝負の見切りができる梨田が株の世界でどう変わっていくかが楽しみだ


「世界で最初の音」



「世界で最初の音」(白川道著、角川書店)より


「祖母はクリスチャンではないんだけど、あるとき、こう訊かれたわ。この世界ができたときに最初に聞こえた音はなんだったのか、分かるか、って・・・・・・」

「最初に聞こえた音?」

「そうよ。神様のため息だったんです、って・・・・・・」

「神様のため息?」

「そう。神様のため息。神様がこの世界を作ったとき、すべてを平等に、と考えた。でも現実は違ってしまった。世界ができると、いたるところで争いが起きるし、人間も平等にはならなかった。人間の世界には富める人と貧しい人がいるし、親のいない子供もいる。それを見て、神様がため息をもらしたんだそうよ。それで祖母は、『ひまわり学園』を作ったのだ、と言ってたわ」

「世界で最初の音か・・・・・・」

 達也は小声でつぶやいた。

 たしかにそうかもしれない。もし矢田の家庭が平穏だったら、間違っても彼はフィリピンに逃亡しようなどと考えることもなかっただろう。この自分にしてもそうだ。静かな幼少期をすごせたなら、また今とは違う生き方をしていたに違いない。

 東の空に真っ赤な太陽が昇りはじめている。

「じゃ、店に行こうか。まず最初は、カレーの仕込みからだ」

 達也はもう一度、はるか先の水平線に目を向けた。貨物船の姿があるわけもなかった。



「達也さんは、いつか弾いた『ひまわり』を希望されたけど、わたし、今度の話をうかがって、自分で初めて、作曲に挑戦してみました。曲名のタイトルは、『世界で最初の音』というんです。精一杯、心を込めて弾かせてもらいます」


>>神様がため息をもらさないですむような時代は来るだろうか


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