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「Hot Pepper ミラクル・ストーりー」①




「Hot Pepper ミラクル・ストーリー リクルート式「新しい事業」のつくり方」(平尾勇司著、東洋経済新報社)より
2008年6月5日第1刷発行


  はじめに――いまだ見ぬものを見に行く冒険


 木村義夫(元リクルート専務取締役)は言った。
  「お前にホットペッパー事業を任せたい」

 昇進競争からすでに落ちこぼれていた僕になぜこの事業を任せるのか?
 質問した。「なぜ、僕なのですか?」

 「お前には直感的に儲かる商売をつくる力がある」
 「もうひとつ、それを組織に浸透させて動かす力がある」
 「3つ目、お前にはもう失うものはない」

 なるほど。これだけ俺のことをわかっていてくれる人がいるなら、
 出世できなくてもいいと思った。

 『ホットペッパー』はリクルートが創った事業ではありません。
 『ホットペッパー』は正社員ではない800名の業務委託、3年の契約社員、アルバイトの人たちによってこの世に生み出された事業です。創刊時から――

 そして、その大半の人たちがその役目を終えて、もうその事業から去っています。


 『ホットペッパー』を事例にしながら、
 事業とは何か?
 強い組織とは何か?
 よいチームとは何か?
 すぐれたリーダーとは何か?

 そんな問いかけを繰り返すビジネスマンのために、答えを導き出す実践ビジネス読本です。

 ホットペッパーの事業を立ち上げ、成長するなかで生まれた工夫やアイデアを整理し、その背景にあったものを明らかにしたものです。事実のなかから編み出された「こうすれば成長する事業、強い組織、いいチームができる」という具体策です。それは成功した事業の事実です。


>>どうすれば「成長する事業、強い組織、いいチームができる」のか、とても興味がある

「明治維新という過ち」⑧



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


  戦争を惹き起こすためのテロ集団・赤報隊の悲劇

 西郷は、岩倉具視の了承を得て、「赤報隊」という部隊を組織した。隊長は、相楽総三。

 赤報隊が、正規に組織されたのは年が明けた慶応4(1868)年だが、その前に西郷は相良たちに命じた。打ち手を失いつつあった長州・薩摩の“重石”のような存在であった西郷は、相楽たちに何を命じたのか。

 江戸において、旗本・御家人を中心とする幕臣や佐幕派諸藩を挑発することである。挑発といえばまだ聞こえがいいが、あからさまにいえば、砲火・略奪・強姦・強殺である。倫理観の強かった江戸社会においては、もっとも罪の重かった蛮行を繰り返すことであった。

 これで、耐えに耐えてきた庄内藩は、堪忍袋の緒を切った。幕府も同時に切れてしまった。老中稲葉正邦は、庄内藩、岩槻藩、鯖江藩などから成る幕府軍を編成、薩摩藩邸の攻撃を命じた。12月25日、幕軍は三田の薩摩藩邸を包囲、薩摩藩が下手人の身柄引渡しを拒否したのを受けて遂に薩摩藩邸を砲撃した。これが世にいう「薩摩藩邸焼き打ち」である。後に、京にいてこの報に接した西郷隆盛は、手を打って喜んだと伝わる。自分が送り込んだ赤報隊の江戸市中での無差別テロという挑発に、幕府が乗ったのである。

 これが、京都における『鳥羽伏見の戦い』のきっかけである。つまり、「戊辰戦争」のきっかけとなった。薩摩藩邸の焼き討ち程度では収まらなかった幕臣サイドから、慶喜に対して「討薩」の圧力が強まり、慶喜は、「討薩表」を朝廷に提出することを決意し、「奸臣共の引き渡し」がなければ、やむを得ずこれに「誅戮」を加えると表明してしまった。即ち、下手人を引き渡さなければ薩摩を討つと宣言してしまったのである。

 江戸での「薩摩藩邸焼き打ち」とそれに至る経緯が、大阪城の慶喜に伝えられたのが12月28日。ちょうど「任官納地」を骨抜きにし、『王政復古の大号令』を失敗に追い込み、政治的逆襲に成功したとみえた、その時である。エリート官僚臭の強い慶喜は、図に乗り過ぎたのかも知れない。明けて正月2日、「討薩表」をもった、大河内正質を総督とする幕軍1万5千が大阪城を進発した。そして、翌3日、薩摩がこの軍を急襲し『鳥羽伏見の戦い』が勃発、長州・薩摩は一気に戊辰戦争という、待ちに待った討幕の戦乱に突入する。

 結局、京における討幕クーデターに失敗し、圧倒的に不利な立場にあった長州・薩摩勢力は、この江戸市中での騒乱によって一気に戊辰戦争へと突っ走り、後に「明治維新」と呼ばれる政権奪取を断行してしまったのである。西郷が送り込んだ赤報隊が、その一番の功労者ということになる。敢えて簡略に述べきってしまえば、これが、後世「明治維新」と呼ばれた動乱の核になる部分の史実である。

 結果として、日本はこの動乱を経て近代へ突入する。但し、長州・薩摩の書いた歴史では、この動乱がなければ日本が近代を迎えることはなかったということになっているが、私は全くそうは考えていない。長州・薩摩政権は、全時代である江戸期を「打破すべき旧い時代」として全否定し、そういう教育を受け続けた日本人は140年以上経った今もそれを信じているが、江戸期とは私たちが考えてきたものより遥かに高度なシステムをもった社会であり、今や経済史の面からの視点も加えて「江戸システム」と呼ばれるほど世界的にも類をみない高度な文明社会として評価されつつある。単なる封建時代であったとするのは、長州・薩摩が意図して歪めた歴史解釈である。

 挑発に成功した相楽たちは、直ぐ正式に討幕軍の一部隊としての「赤報隊」として組織され、長州・薩摩軍東山道軍の先鋒を務めることになる。彼らは長州・薩摩軍の東山道鎮撫総督指揮下の部隊として組み込まれたのである。

 総柄総三以下の赤報隊は、「年貢半減」を宣伝・アピールしながら信州へ進軍した。新しい政権は年貢を半減すると公約して民衆の心を引き寄せながら東へ進んだのである。勿論、この“公約”は、長州・薩摩中枢の裁可を得て発したもので、赤報隊が勝手に宣伝した訳ではない。この頃、各地で一揆が頻発しており、総称して「世直し一揆」と呼ばれる。

 ところが、長州・薩摩は、このことを赤報隊に対して口頭で許可したものの文書にして残してはいない。そして、直ぐ「年貢半減」を取り消し、赤報隊が勝手に触れ回ったものとし、赤報隊を「偽官軍」であるとして追討した。相楽総三以下赤報隊一番隊は、慶応4年3月早々、下諏訪にて処刑される。但し、隊が担いでいた公家は処刑されなかった。御陵衛士が中核となっていた二番隊は教へ引き戻され新政府軍に編入、近江出身の三番隊は桑名で処刑された。

 要は、相楽たち赤報隊は、「維新」に失敗しつつあった長州・薩摩と岩倉具視たちに利用され、使い捨てにされただけなのだ。彼らが江戸市中で行った蛮行には許し難いものがある。しかし彼らは西郷の命を受け、その行動に「大義」があると信じていた。西郷にしてみれば、端から使い捨ての心算である。西郷にも「大義」があったろう。これも、動乱の時代には避けられない策の一つと割り切るべきかも知れないが、何ともやり切れない。


>>西郷の「大義」のもとでの「赤報隊」の悲劇、確かに何ともやり切れない

「明治維新という過ち」⑦



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より

 ところが、事は逆方向に動き出した。

 翌10日、徳川慶喜が、自らの新しい呼称を「上様」とすることを宣言した。これは呼称の問題であるから、理論的には大政を奪還したことと矛盾することにはならない。しかし、言外に徳川政権の実質統治を継続しますよと宣言しているに他ならない。

 徳川慶喜に「辞官納地」を求めた、この小御所会議の時、当の慶喜は幕府軍おおよそ一万と共に二条城にいた。一万という軍勢には、会津兵約2千、桑名兵約1千が含まれている。長州・薩摩を中心とする討幕派の兵も5千が京に終結しており、山内容堂は、双方が偶発的に衝突する不測の事態を懸念し、朝廷と慶喜に対して「納地」の問題は諸大名会議を開催して幕府と諸大名の分担割合を決めるなどの提案を行い、双方これを受け入れ、慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静を伴い、12月12日、大阪へ下ったのである。

 同時に、長州・薩摩の軍事クーデターという強硬手段に対するする土佐藩を中心とする公武合体派の反発はピークに達し、肥後藩・筑前藩・阿波藩が、長州・薩摩に対して御所からの軍勢の引き揚げを要求するに至り岩倉具視と長州・薩摩は、「徳川慶喜が辞官納地に応じれば、慶喜を議定に任命し、前内大臣としての待遇を保証する」との妥協案を出さざるを得なくなったのである。

 ここで、徳川慶喜は更なる反転攻勢に出る。12月16日、大阪城にアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・プロシャ・イタリア六カ国の公使を招集し、内政不干渉と徳川幕府の外交権保持を承認させたのである。岩倉具視や長州・薩摩には、こういう外交はできない。更に3日後、慶喜は朝廷に対して「王政復古の大号令の撤回」を要求した。

 朝廷は遂に、『徳川先祖の制度美事良法は其の侭被差置、御変更無之候間』云々との告諭を出した。つまり、徳川政権への大政委任の継続を承認したのである。この告諭では『王政復古の大号令』を取り消すとは言明していないが、実質的に徳川慶喜の要求を呑んだことになる。徳川幕藩体制は、維持されることになったのである。

 ここに、岩倉具視と長州・薩摩の偽勅許による討幕、軍事クーデターによる討幕のオーソライズの策謀は敗北した。「明治維新」は失敗に終わったのである。

 小御所会議で決定したはずの「辞官納地」も、暮れも押し迫った12月28日、慶喜が朝廷からの「辞官納地の諭書」に対する返書を出すが、内容は、

 ・徳川慶喜の内大臣辞任(前内大臣として処遇する)
 ・徳川慶喜が最高執権者として諸大名会議を主催する
 ・諸大名会議で朝廷へ「献上する」費用の「分担割合」を取りまとめる

 というものであり、「辞官納地」は完全に骨抜きにされたものである。

 俗にいう「明治維新」の核となる出来事が『大政奉還』と『王政復古の大号令』であることは、学校教育でも一貫して常識であったが、以上のような史実が存在する以上、学校教育は「明治維新は失敗した」と教えるべきではないか。少なくとも、『王政復古の大号令』が完全に失敗、偽勅による幕府転覆の策謀が未遂に終わったことだけは、教育というものの良心に拠って立って明瞭に教えるべきであろう。


>>公武合体派の反発を味方につけた徳川慶喜の動きにより、『王政復古の大号令』は失敗に終わったかのように見える

「明治維新という過ち」⑥



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


 現に、クーデター後の最初の“閣議”ともいうべきこの三職会議は揉めに揉めた。この会議は、御所内の小御所で開催されたところから『小御所会議』といわれる。15歳の明治天皇と公卿以外の大名の出席者は、尾張藩徳川慶勝、福井藩松平慶永(春嶽)、土佐藩山内豊信(容堂)、薩摩藩島津忠義、広島藩浅野茂勲の5名である。画期的なことは、薩摩藩士大久保利通、土佐藩士後藤象二郎、広島藩士辻将曹たちが敷居際に陪席を許されたことである。この時、西郷は、外で警備を担当していた。

 小御所会議が揉めた図式の軸は、土佐藩主山内容堂と岩倉具視の対立である。山内容堂が「尊皇佐幕派」であることは、先に述べた。岩倉具視は、長州・薩摩の頭に立つ「討幕派」である。こういう立場、スタンスの違いだけでなく、実はこの時点で「岩倉具視が孝明天皇を毒殺した」という噂が広く流布されていたのである。この噂は、この会議の出席者は皆知っている。

 山内容堂は、徳川慶喜の出席を拒んだ会議であることを攻めた。同時に、今回の会議に至る事態を、幼い天皇を担いだ、権力を私しようとする陰謀であると避難した。この指摘は事実であって、まさに核心を衝いている。この時、山内容堂は『幼沖なる天使~』という表現をしたとされる。岩倉具視は、ここを捉えた。『幼沖なる天使とは何事か!』と反攻に出た。完璧な「揚げ足取り」である。「揚げ足取り」であっても何でも、反論、反攻しなければ、天皇暗殺の噂のこともあって自らの立場は危険なことになる。更に、まだ何も“閣議決定”をしてない段階にも拘わらず、「徳川慶喜が辞官納地を行って誠意をみせることが先決である」という、論理にもならない主張を繰り返した。徳川家に対して辞官納地という形を求めるならば、山内容堂が主張する通り、徳川慶喜を会議に呼べばいいのである。核心を衝いた容堂の主張に、松平春嶽、浅野茂勲、徳川慶勝が同調し、山内容堂は、終始『徳川内府を~』と主張し、この会議は休憩に入いった。

 ここで、いろいろな種類の“本性”が事態を動かす。

 大久保と共に陪席を許されていた薩摩藩の岩下佐治右衛門が、この経緯を警備の西郷に伝えたらしい。その時、西郷が漏らしたひと言、『短刀一本あれば片が付く』。これが歴史を動かした。西郷独特の計算、とする説もあるが、これは西郷の本音ではなかったろうか。複雑な曲線を描いて思考する癖のある、陪席している大久保にたいする苛立ちも含まれていたのではないか。このひと言が岩倉の耳に入る。岩倉は、これを広島藩浅野茂勲に伝える。岩倉の決意を知った広島藩は、これを辻将曹が土佐藩後藤象二郎に伝え、後藤は主の山内容堂と松平春嶽に伝えた。西郷の、いざとなれば玉座を血で汚してでも担当一本でケリをつけろという、昭和の極右勢力にまでつながらう問答無用の事の進め方を、岩倉は己の決心として直接山内容堂に伝えるのではなく、広島藩を通じて陽動を脅かす。このあたりは、岩倉らしい打ち手といえるだろう。公家に対しては過激な性格は岩倉の“本性”であろうが、小技を駆使する巧さもまた、この曲のある公家の“本性”ではなかったか。

 山内容堂が身の危険を感じだ時点で、会議の趨勢が決したといえる。再開後の会議において、「徳川慶喜に辞官納地を求める」、即ち、官位と所領を没収することを、誰も反対せず決議したのである。山内容堂と松平春嶽は「幕末の四賢候」などといわれているが、ここまでが山内容堂の限界である。ぎりぎり武士の末端ともいうべき薩摩の田舎郷士であった西郷という男の、すべての論理や倫理を否定する“本性”の顕れたひと言が、国家の行く末を決する小御所会議の方向を決してしまったのだ。この後、我が国の「近代」といわれている時代では、政局が行き詰まる度に反対派に対して「問答無用!」という暴力=暗殺が繰り返され、最終的に長州・薩摩政権は対米英戦争へ突入していったのである。

 この小御所会議が開催されたのは、慶応3年暮れ、12月9日の夜である。「徳川慶喜に辞官納地を求める」ことを決して、そのまま事が進めば、「王政復古」は成立する。即ち、後の言葉でいう「明治維新」の成立である。


>>1867年12月9日夜の『小御所会議』以降の徳川慶喜の動きがその後の帰趨を決定することになる

「明治維新という過ち」⑤



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


 情勢の不利なことを悟った討幕派の岩倉具視や薩摩の大久保利通は、新たな画策をする。クーデター計画である。

 このクーデターの首謀者は、表向きは岩倉具視だが、実質的な首謀者は大久保利通である。まだ満15歳になられたばかりの明治天皇を手中に収め、慶応3(1867)年暮れに決行された。12月8日夜、岩倉具視が自邸に薩摩・土佐・安芸(広島)・尾張・越前(福井)五藩の代表を集め、『王政復古』の断行を宣言し、五藩の協力を求めた。明けて12月9日、朝議を終えた摂政以下の上級公家が退出したのを見計らって、薩摩をはじめとする五藩の藩兵が御所九門を封鎖、公家衆の参内を阻止した上で岩倉具視が参内、明治天皇を隣席させ『王政復古の大号令』を発した。つまり、これは、幼い天皇を人質とした軍事クーデターであったのだ。

 大号令の内容は、
 ・徳川慶喜の将軍辞職を勅許する
 ・京都守護職、京都所司代を廃止する
 ・江戸幕府を廃止する
 ・摂政関白を廃止する
 ・新たに、総裁、議定、参与の三色を設置する

 というもので、『王政復古』とはいいながら、その実は二条家を筆頭とする上級公家の排除と一部公家と薩長主導の新政権樹立の宣言に過ぎない。ただ、これによって『公武合体』論などが孕んでいた、また徳川慶喜が企図していた、イギリス議会制度を参考とした公議政体ともいえる「徳川主体の新政府」の芽は完全に抹殺された。現実に、岩倉が参与に就任したこの三色は、半年を経ずして廃止されている。つまり、大号令五項の内、先の四項が主眼だったことがはっきりしているのだ。

 岩倉具視という下級公家はもともと過激だったが、この時期の大久保利通は異常に過激である。私は、大久保という男はどこか根強いコンプレックスを抱えているという印象を持っているが、この時期の異様な高揚ぶりも、私にはその印象を裏付けるものとしか映らない。西郷が、むしろ引っ張られている。そして、薩摩藩そのものが、この時期、宮廷内を我がもの顔で闊歩、朝廷権威を蹂躙している様は、やはり動乱の時代であったこを正直に顕すものといえよう。

 しかし、『王政復古の大号令』は、長州・薩摩の意図したものが成就したのではなく、最後の動乱のきっかけに過ぎなかった。


  実は失敗に終わった『王政復古の大号令』

 『王政復古の大号令』を発して、幼い天皇を人質として利用した岩倉具視、大久保利通らのクーデターは成功したのか。結論からいえば、失敗に終わった。

 クーデターの直接行動から間を置かず、明治天皇の御前において最初の三職会議が開かれた。三職とは、クーデターによって設けられた総裁・議定・参与のことである。内閣総理大臣に当たるといってもいい総裁には、有栖川宮が就任、岩倉具視は参与の一人となった。自称のような幕末の「四賢候」に数えられた福井藩主松平慶永(春嶽)、前土佐藩主山内豊信(容堂)が議定に名を列ねている。但し、注意すべきことは、三職が設けられたとはいっても、そもそも政権交代がまだ全く成立していないということだ。従って、この時点でこの三職には何の正当性もないということである。

 この会議は、慶応(1867)年12月9日に開かれたが、この時世情は騒然、というより、事態はもっと緊迫していた。京都にクーデター派諸藩が軍を入れ、力で押し切ろうという姿勢を露骨に示したのである。京都に軍を入れるということがどれほどの意志をどれほど強烈に示すものか、このことについては我が国の歴史に触れる場合は十二分な洞察力を働かせていただきたい。京に向かって兵を動かすということは、どこそこへ三千の兵を派遣しました、というような普通の軍事行動とは全く次元が違うのである。

 薩摩は、西郷隆盛が藩主島津忠義と三千の兵を率いて入京。西郷が藩主を「率いて」というのも妙な言い方だが、それがこの時点の薩摩の実態である。長州は千名強の兵力を京に入れたが、この中にはあの粗暴なことで知られる奇兵隊が含まれていた。広島藩は三百名。こうして、会議直前の11月末には、おおよそ五千という兵力が京に集結し、会議に対して、また軍事クーデターに加わらない「公武合体派」に対して強い圧力をかけたのである。


>>薩長軍の入京による「公武合体派」に対する強い圧力がなければ、その後の流れが変わっていたに違いない

「明治維新という過ち」④



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


  幼い天皇を人質として軍事クーデター

 慶応3(1867)年10月時点でも、朝廷内の討幕派公家は少数派であったことを、まず基本環境として理解しておく必要がある。三条家という長州派の過激派公家は4年前の文久3(1863)年の『8月18日の政変』で追放されており、岩倉具視を中心とする少数の討幕派公家はいずれも下級公家である。80年ぶりに摂政に就任していた二条家や賀陽宮家という親徳川派、即ち「尊皇佐幕派」の上級公家が朝廷の主導権を握っていた。そこで、岩倉具視や薩摩の大久保利通たちはどうしたか。偽の勅許(偽勅)を作った。即ち偽の「討幕の密勅」である。これは、天皇、折衝の署名もなければ、花押もないという“天晴れな”偽物である。

 この事実は、本来特筆されるべき史実である。民族統合の象徴として、民族の歴史そのものとして存在していた天皇は、いざとなればいつでも国家の最高権力者となり得るのだ。そういう存在である天皇の政治的意思を表明する「勅許」というものを、己の政治的野心を遂げるために「偽造」したのだ。この国においてこれほどの悪業、大罪が他にあるだろうか。どのような悪人でも、まずこのような発想をしないのではないか。長州・薩摩と過激だけが「売り」の下級公家・岩倉具視は、この瞬間「偽天皇」になったのである。

 この「偽勅」が長州藩士の広沢真臣と薩摩藩士の大久保利通に下されたのは、慶応3年(1867)年10月14日である。この時の天皇はどなたであったか。いうまでもないであろう、明治天皇である。嘉永5(1852)年お生まれの帝は、この時正確には満14歳。摂政が廃止される直前のことで、時の摂政は二条斉敬。ところが、この時の「偽勅」はまさに「偽勅」らしく摂政二条斉敬の署名もない。天皇の直筆は勿論、摂政の署名も、あまつさえ花押もないという堂々とした「偽勅」を下すとは、長州・薩摩が、そして岩倉具視が、如何に天皇を軽んじていたのかの明白な証左となるものである。因みに、誰の署名があったかといえば、中山忠能(前権大納言)、正親町三条実愛(前大納言)、中御門経之(權中納言)の三名である。大東亜戦争を強引に惹き起こした中心勢力は、長州軍閥の巣窟といわれる帝国陸軍の参謀本部であるが、国家が滅亡するまで止まなかった長州・薩摩政権による天皇の政治利用は、ここから始まっているのだ。

 ところが、慶喜サイドではこれを「密勅が下る」と解釈した。まさか大久保たちが勅許の偽物を作るとは思ってもいない。密勅とはいえ勅許が下ることは、幕府としては避けなければならない。そこで、先手を打って『大政奉還』に出たのである。これによって「討幕」の大義名分を消滅させたのである。

 大政奉還を行っても、所詮朝廷に政権運営能力はない。つまり、統治能力はない。慶喜サイドがそう読んだことは明らかである。形式はどうあれ、実権は依然として徳川が握るという“政局判断”であり、事実この判断、読みは間違っていなかった。慶喜という人は、こういう頭の切れ、狡猾さはもっていたのである。

 嘉永6(1853)年にペリー率いる黒船が来航して、その武力威圧に屈して幕府は遂に開国したというのが「官軍教育」に則って今も学校で教える日本史である。ところが、実際には幕府は天保13(1842)年に『薪水給与令』を発令し、文政8(1825)年から施行されてきた『異国船打払令』を完全否定し、この時点で対外政策を180度転換した。即ち、この時点で実質的に開国したと看做すことができるわけで、長州・薩摩サイドの事情で後に書かれた“歴史”とは20年以上の開きがあるのだ。また、寛政9(1797)年以降、長崎・出島へアメリカの交易船が来航した回数は少なくとも13回確認されており、ペリーの来航によって日本人が初めてアメリカ人と接触したかのような歴史教育は歴史的事実とは異なるのだ。更に、弘化2(1845)年には日本人漂流民を救助したアメリカ捕鯨船マンハッタン号が浦賀に来航し、通商を求めたが、幕府はこれを拒否している。つまり、薩長政権が成立するまでの約4半世紀の間、江戸幕府はオランダ以外の列強、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、プロシャを相手としてそれなりに外交経験を積んでいるのである。ペリーの黒船が来航して、初めて見るアメリカ人や軍艦に右往左往し、それによって生まれた混乱に乗じた倒幕運動によって幕府が一挙に崩壊し、薩長政権が初めて欧米と渡り合うようになったなどという歴史は存在しないのである。第一、黒船という言葉そのものは戦国期から存在する。欧米列強の航洋船は、防水のため黒色のピッチを塗っている。その色で「黒船」というのだが、それはペリー艦隊に対してだけでなく、日本人はそれ以前にイギリスやロシア、古くはポルトガルの黒船と接触している。また、未開国の江戸期日本と先進国の西欧列強という構図で黒船来航を教えられている現代人は、黒船を蒸気船であると思い込んでおり、蒸気船であることが幕府をはじめ江戸市中の人びとを恐怖のどん底に落とし込んだなどという勝手な話を創り上げているが、帆船も「黒船」と呼んだ。ペリーは4艦で来航したが、蒸気外輪船は旗艦「サスケハナ」と「ミシシッピ」のみで、あとの2艦は帆船であった。それ以外にいちいち挙げていてはキリがないが、ペリー来航寺の事柄についても、いい加減なドラマの乱造の影響か、とにかく多くのデタラメがまかり通っている。

 このような史実としての背景があって、徳川慶喜が朝廷の統治能力の無さを見透かし、『大政奉還』という手を打ったのは決して的外れではなく、現実的な打ち手であったといえるだろう。朝廷が、外交のみは引き続き幕府が担当することを命じた直後、慶喜は征夷大将軍の辞職を朝廷に願い出た。平面的に捉えれば、大政奉還に伴う、大政奉還を確固とした形で仕上げる行動と受け取れるが、私には「あなた方には、やはりできないでしょ」という慶喜の朝廷にたいする“ダメ押し”ではないかとも受け取れる。このまま終われば、遅れてようやく『公武合体』が成立しそうな情勢となったのである。


>>「尊皇佐幕派」による『公武合体』がうまく行ったとしたら、今日の日本はどのようなものになっていただろうか

「明治維新という過ち」③



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


 第一章 「明治維新」というウソ

  廃仏毀釈と日本人


 長州・薩摩の下層階級が最初にかぶれた思想とは実に浅薄なもので、単純な平田派国学を旗印に掲げ、神道国教・祭政一致を唱えたのである。これは、大和民族にとっては明白に反自然的な一元主義である。ここへ国学の亜流のような「水戸学」が重なり、もともと潜在的に倒幕の意思をもち続けてきた長州・薩摩勢力がこれにかぶれ、事の成就する段階に差しかかって高揚する気分のままに気狂い状態に陥ってしまったのだ。水戸と水戸学の狂気については、別に一章を設けて整理したい。こういう現象は、革命期にはよくあることではある。とはいえ、神政政治を目指す、神道を国教とする、仏教はそもそも外来のものである、すべてを「復古」させるべきだというのだから、これはもうヒステリー状態に陥ったというべきであろう。では、どこへ「復古」させるのが「正しい」のか・・・・・・当然、5世紀以前ということになる。

 そもそも長州・薩摩は、徳川政権を倒すために天皇を利用しようとしたに過ぎない。そのために「尊皇攘夷」という大義名分が必要となった。これは、どこまでも「大義名分」に過ぎない。長州・薩摩が純粋に「尊皇」精神をもっていたかとなると、幕末動乱期の行動、手法が明白に示す通り、そういう精神は微塵ももち合わせていない。「尊皇攘夷」を便法として喚き続けているうちに本当に気狂いを起こし、「王政復古」を唱え、何でもかでも「復古」「復古」となり、大和朝廷時代が本来のあるべき姿であるとなってしまった。その結果、寺を壊せ、仏像を壊せ、経典を焼け、坊主を成敗せよ、となってしまったのである。

 日本人は、テンション民族だといわれる。いわゆる「明治維新」時と大東亜戦争敗戦時に、この特性が顕著に顕れた。その悪しき性癖は、今もそのまま治癒することなく慢性病として日本社会を左右するほど悪化していることに気づく人は少ない。

 奈良・興福寺の仏像修復に精魂を傾けたのは誰か。彼の努力がなかったら、今日私たちは興福寺で仏像を鑑賞することができないのである。それは、文部官僚岡倉天心である。彼が、長州人を中心とした西欧絶対主義者たちによって職を追われたことと、それにも拘わらずその後も彼が地道に仏像修復に当たらなかったら、今日の興福寺さえ存在していなかったことを、私たちは肌身に刷り込んで知っておくべきであろう。
 

  「官軍教育」が教える明治維新

 徳川将軍家は勿論、諸大名、旗本・御家人という幕臣などはほとんどが「尊皇佐幕派」といっていいだろう。当時の読書階級=武士にとっては、当然の教養、知識であって、彼らが身に付けていた学問的素養に照らして「尊皇」という倫理観にも似た気分と「佐幕」という政治的立場は全く矛盾していなかったのである。具体的な人物でいえば、以下の幕末動乱期の主要な登場人物は、すべて「尊皇佐幕派」と位置づけられる人びとである。

 ・時の天皇 孝明天皇
 ・14代将軍 徳川家茂
 ・15代将軍 徳川慶喜
 ・京都守護職 松平容保(会津藩主)
 ・大老 井伊直弼(彦根藩主)
 ・京都所司代 松平定敬(桑名藩主)
 ・薩摩藩藩父 島津久光
 ・土佐藩主 山内容堂(豊信)
 ・新鮮組組長 近藤勇以下幹部
 ・思想家 兵学者 佐久間象山 
 ・長岡藩家老 河井継之助

 その他、藩でいえば奥羽越列藩同盟を構成した諸藩や、小栗上野介、木村摂津守、水野忠徳、岩瀬忠震、川路聖謨などの対外交渉に当たった幕府高官はすべてこの範疇に入る。付言すれば、幕臣でありながら勝海舟は明らかな「倒幕派」である。

 一般には、意外な人が、と思われる列挙かも知れないが、以上はほんの一部である。真っ先に挙げた孝明天皇とは、長州人が口を開けば「尊皇攘夷」を喚いていた、まさにその時の「尊皇」に当たる人である。この天皇が、倒幕を、また天皇親政を考えたことは微塵もない。政治は幕府に委任しているし、そうあるべきものというのが、この天皇の一貫した考え方であった。その意味で、「尊皇佐幕」の筆頭に位置づけるべき方であろう。そうなると、この天皇が孝明天皇、その人であったのだ。ここに、我が国テロ市場でも、もっとも恐ろしい暗殺が発生することになる。

 そのことは後に譲るとして、薩摩の島津久光が「尊皇佐幕派」であることに驚く読者がおられるかも知れない。しかし、このことは、土佐の山内容堂以上に明白な史実である。島津久光や山内容堂が「尊皇佐幕派」であって「倒幕派」ではない点に、幕末の実相を理解する大きなポイントがあるのだ。

 歴史に「もし」(ヒストリカル・イフ)は禁物、とよくいわれるが、敢えて「もし」と考えてみる。もし、長州・薩摩のテロを手段とした討幕が成功せず、我が国が「明治維新という過ち」を犯さなかったら、我が国はその後どういう時代を展開し、どういう国になっていただろうか。私は、徳川政権が江戸期の遺産をうまく活かして変質し、国民皆兵で中立を守るスイスか自立志向の強い北欧三国のような国になっていたのではないかと考えている。このことについては、もっともっと細密に精査、研究する必要があるが、少なくとも吉田松陰の主張通りに大陸や南方侵略に乗り出すことはなく、挙句に大東亜戦争という愚かな戦争に突入して国家を滅ぼすことだけは断じてなかったであろう。


>>薩長の討幕が成功せず、「明治維新」がなかったとしたら、大東亜戦争は起きなかっただろうか

「明治維新という過ち」②


「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


 坂本龍馬という男は長崎・グラバー商会の“営業マン”的な存在であったようだ。薩摩藩に武器弾薬を買わせ、それを長州に転売することができれば、彼にとってもメリットがある。グラバー商会とは、清国でアヘン戦争を推進して中国侵略を展開した中心勢力ジャーディン・マセソン社の長崎(日本)代理店である。この存在が「薩長同盟」の背景に厳然とある。朝敵となった長州は武器が欲しい、薩摩は米が欲しい・・・・・・この相互のメリットをグラバー商会が繋いだ。 薩摩小松帯刀、長州桂小五郎が重視したのはグラバー商会であって、グラバー商会の利益を図る龍馬が「薩長同盟」に立ち会うようになったのは極めて自然な経緯ではなかったか。私は、そう考えている。 いずれにしても、坂本龍馬とは、日本侵略を企図していた国の手先・グラバー商会の、そのまた手先であったということだ。
 
 また、龍馬の脱藩の理由は全く分かっていない。そして、勝海舟を殺しにきて、逆に感化されて弟子になったなどというのは、ドラマとしては面白い話だが、私はウソであると思っている。御一新後、勝自身がそう語っているではないかという反論を受けるだろうが、それは勝の「ホラ」の一種であると断じていいのではないか。勝海舟という俄か御家人は、徳川慶喜(15代将軍)と共に長州・薩摩に幕府を売った張本人であるが、御一新後の勝の“思い出話”ほど信用できないものはないのだ。

 『船中八策』になると、これはもう、いつ、誰が、どこで発案したものか、全く分からない。そもそも伝わるような形の原案がそのまま存在したのかどうかさえ疑わしい。

 その他、おりょうという女(寺田屋の養女)を妻とすること、郷士としての出自のこと、北辰一刀流免許皆伝のこと等々、この男ほど虚飾が肥大して定着した幕末人は他に例をみない。その意味では、司馬さんの罪は大きいといわねばならない。蛇足ながら、以上のことを以てしても私の司馬さんにたいする「智の巨人」としての評価が揺らぐことは些かもない。

 なお、昭和28年に起きた「荒神橋事件」によって京都大学から放学処分(二度と復学できないので退学処分より重い)を受けた経歴をもつ歴史学者松浦玲氏が、坂本龍馬の実像研究科としては著名である。勝海舟・横井小楠の研究家として名高い氏は、坂本龍馬に関しても、『検証・龍馬伝説』(論創社刊)を著されている。

 歴史の実相を明らかにするには、多くの先人に学ばなければならない。 蛤御門に残る弾痕は、無防備な御所が紛れもなく天皇に殺意をもつ者によって砲撃されたことを訴えている。

 歴史を皮膚感覚で理解するとは、その場の空気を感じとることだ。歴史を学ぶとは年号を暗記することではなく、往時を生きた生身の人間の息吹を己の皮膚で感じることである。資料や伝聞は、その助けに過ぎない。そういう地道な作業の果てに、「明治維新」という無条件の正義が崩壊しない限り、この社会に真っ当な倫理と論理が価値をもつ時代が再び訪れることはないであろう。

平成26年11月22日仏滅 小雪  井の頭池 樹林亭にて  原田伊織


>>今日の坂本龍馬のイメージを作り上げたのも薩長からの見方であるに違いない

「明治維新という過ち」①



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より
第1刷発行2015年1月15日


  はじめに ~竜馬と龍馬~

 私たちの社会が危険な芽を孕んでいるのは、「近代」といわれる時代に入ってからの日本人が過去に遡って永い時間軸を引くという作業をしなくなったことが深刻に関わっていると、私はかねてより考えている。私がこの世に生を受けた時、日本はその歴史上初めて独立を失っていた。外国の軍隊に占領されていたのだ。独立を回復したのは、私が小学校へ上がる前年のことである。ところが、日本人自身に自国が外国軍に占領され、独立を失っていたという“自覚”がほとんどないのである。従って、敗戦に至る過ちを「総括」することもやっていないのだ。ただ単純に、昨日までは軍国主義、今日からは民主主義などと囃し立て、大きく軸をぶらしただけに過ぎなかった。

 実は、俗にいう「明治維新」の時が全く同じであった。あの時も。それまでの時代を全否定し、ひたすら欧化主義に没頭した。没頭した挙句に、吉田松陰の主張した対外政策に充実に従って大陸侵略に乗り出したのである。つまり、私たちは、日本に近代をもたらしたとされている「明治維新」という出来事を冷静に「総括」したことがないのである。極端に反対側(と信じている方向)へぶれるということを繰り返しただけなのだ。

 この百年以上、誰もが明治維新こそが日本を近代に導き、明治維新がなければ日本は植民地されたはずだと信じ込まされてきた。公教育がそのように教え込んできたのである。つまり、明治維新こそは歴史上、無条件に「正義」であり続けたのだ。果たして、そうなのか。明治維新の実相を知った上で、そのように確信したのか。

 日本人は、幕末動乱のドラマが好きである。ところが、幕末動乱期ほどいい加減な“お話”が「歴史」としてまかり遠ている時代はなく、虚実入り乱れて薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の下級武士は永年ヒーローであった。中でも、中心は長州と薩摩であった。

 それにしても不思議である。天皇のおわす御所に大砲をぶっ放すという、過去の歴史に存在しない暴挙を決行して「朝敵」となった長州が、大どんでん返しで政権を獲ってしまうのだから、いつの時代も政争というものはわからない。この一件に限っていえば、これには薩摩の存在が大きく作用している。いうまでもなく、大河ドラマなどでお馴染みの「薩長同盟」の成立が大きく作用している。これがなけれれば。どんでん返しは起こるべくもなかった。薩摩は、何故朝敵となった長州に手を差し伸べたのか。最後の将軍・徳川慶喜は、何故政権を放り出したのか。会津・庄内・日本松などの王府列藩は何故あれほど苛烈に長州、薩摩に対して徹底抗戦を貫いたのか。

 私たちが子供の頃から教えられ、学んできた幕末維新に関わる歴史とは、「長州・薩摩の書いた歴史」であるということっだ。どのような幕末資料を読むにしても、まずこのことが大前提となるのである。

「勝てば官軍」という言い方がある。きっかけはどうあれば、経緯はどうあれ、そして手段はどうあれ、勝った方が正義になるという人の世のやるせない真理を、この言葉はいい当てている。あの時、この言葉を呟いた人びとは、長州・薩摩、そして土佐が自称した「官軍」が普遍性のある正義でも何でもないことを承知していたのだ。この言葉は、あの時会津が勝っていれば、即ち会津が「官軍」となったのだと、明快にいっているのだ。

 そういう戦の勝者が、自分の都合に合わせて歴史を書くことは極めて普通のことであり、このことは古今東西、全く変わらない。そのことを承知しておくことが、歴史を学ぶ、ひいては歴史に学ぶ知性であることを知っておくことが肝要なのだ。

 「御一新」の史実とどういう、或いはどれほどのギャップをもっているかを整理しようと試みるものである。即ち、大仰にいえば世にいう「明治維新」を一度「総括」しようという試みである。

 例えば、私の大学の大先輩・故司馬遼太郎氏の著作に『竜馬がゆく』という作品がある。

 改めていうまでもないが、これは司馬さんの小説である。つまり、フィクションである。だからこそ、司馬さんは「龍馬」とせず、敢えて「竜馬」とした。つまり、論理的にいえば「坂本龍馬」という土佐の郷士崩れのような男と「坂本竜馬」は別であって、司馬さん自身がそのことを十分意識しているということなのだ。勿論、歴史上の人物なり事象を小説という形にする時は、それはそれで別の有効な作用が働くことがある。司馬さんは、ご自身が認める通り“龍馬”ファンである。私は龍馬が好きで、好きで、あちこちの書物で“弁明”に努めている。頭を掻き掻き、照れ笑いをしている司馬さんが目に浮かぶような調子なのだ。


>>薩長から見た「明治維新」ではなく、幕府から見た「明治維新」の意味を考えてみたい


「子どもの教養の育て方」③



「子どもの教養の育て方」(佐藤優、井戸まさえ著、東洋経済新報社)より

 第Ⅱ部 『八日目の蝉』で家族と子育てを語る

  第4章 佐藤優、『八日目の蝉』で親子問題を語る


*「頼りない、必要ない、有害である」3種類の男しか『八日目の蝉』には出てこない。

*政治と法律は古代、男のものだった。それがずっと近代の主流になってしまっている。

*男と女の間で、どうして男が威張っているのか?それは男がたまたま筋力が若干、強いから。

*子育ては親子の問題ではあるが、社会の関係性や構造まで広がりを持っている。

*「自分たちの力ではどうしようもないもの」を上手に切り取っているのが角田さんのすごいところ。

*誰かに助けてもらうのではなく、自分の中から変わる力が出てこないと、変わっていかない。

*ヨーロッパ人は「直線の時間」をつくったが、日本人は「やり直し」が何度もできる時間感覚。

*同じ経験をしても、人ごとに記憶される部分が異なる。そこから非対称的な認識が生まれる。

*『八日目の蝉』から読み取れるのは「べからず集」。子どもを自分の延長線上に置いてはいけない。

*小説はすぐれた疑似体験・代理経験の場。とくに悪い代理経験をさせるのは非常に重要。


  第5章 座談会「佐藤優×井戸まさえ×4人の女性たち」

*子どもを産んだだけで母親になるものではない。夢中で育てているうちに徐々に母親らしくなる。

*人生は劇場のよう。ある場合は自分が主役、ある場合は照明係。役割はしょっちゅう変わる。

*どの親も悩み苦しみながら子どもを育てている。それで一緒に自分も成長していく。

*究極的にいえば、「無私」になったときに、「揺るぎない信頼」が得られるのではないか。

*教育の最終的なところは、「信頼醸成」に尽きる。社会人でも子どもでも、それは同じ。

*教養を身につけるひとつの道は学術。もうひとつは小説によって追体験すること。


>>教養のある人は、信頼関係を構築することがより容易にできる

「子どもの教養の育て方」②



「子どもの教養の育て方」(佐藤優、井戸まさえ著、東洋経済新報社)より


  第2章 「勉強のできる子」はどう育つ?――受験を賢く乗り切るには

 中学受験はするべき? どういう塾と学校を選べばいい?

  【受験勉強】
  ***「勉強のできる子」と「頭のいい子」は違う


*受験勉強は大切。ただし暗記だけをしていたら、本当の意味での考える力、理解力はつかない。

*論理力さえ身につければ、国語の問題は8割できる。出口汪さんの『論理エンジン』シリーズはおすすめ。

*中学受験するかどうかは住んでいる地区にもよる。人生には競争があるのを知ることには意味もある。

*学校以外で毎日3時間、集中して机に向かう。本を読んでも、学校の宿題でも何でもいい。

*極力、テレビは見せない。その習慣を早めにつける。「テレビとゲームは敵」くらいに思ったほうがいい。

*エスカレーター式の学校はあまりすすめない。ただ早慶に関しては、うまくはまるとメリット大。

*塾で勉強の楽しみを知る人は多い。知的産業として、塾にはいい人材が集まっている。

*日本全体で成長戦略をきちんととらないと、同じ教育をしても、子どもの給料は親に及ばない。

*経済力がなくても行ける学校はたくさんある。教育大の付属系は、全国どこの学校も悪くない。

*偏差値の高い学校にもいじめはあるが、偏差値といい学校には相関関係があり、防御策にはなる。

*留学を考えるなら、親子ホームステイはおすすめ。様子がわかると、親も安心して留学させられる。

*複数語学を勉強すると、語学力はすごくつく。高校時代に本格的に身につけると、一生の財産に。

*大学では「学問」か「技能」を身につける。教養は道の問題に遭遇したとき力を発揮する。

*予備校は、だらだら行っても力はつかない。勉強時間を短縮し、残った時間を有効活用する。

*国際社会で通用する大人になるには、外国語と数学と国語の力が重要で、絶対に必要。

*微分や積分で本当に大切なのは、その考え方が理解できていること。計算ドリルとは別の問題。


  第3章 「やさしい子」「しっかりした子」はどう育つ?――社会で生き抜く力を育てるには

 豊かな心を育む

  【情操教育】
  ***「サムシング・グレート」の存在を教えるには


*盗みがいけないのは「いけないからいけない」で十分。盗みの問題は、大きくなると必ず表面化する。

*幼稚園や保育園は、できれば宗教系がおすすめ。宗教的な価値観は、家庭よりもプロに任せる。

*子どもは「自分よりわがままな存在」に出会って、はじめて自分の姿を客観視できるようになる。

*家族旅行や一人旅、グループ旅行で、本では学べないことをたくさん学ばせるのも大切。

*「動物行動学」の本で「刷り込み原理」を学ぶ。親子の関係は「マネ」から始まる。

*ドイツやイギリスにならって子ども部屋は不要。つくるならドアは外せるようにしておく。

*子どもにとって母親は絶対の存在。母親に暴力をふるうと、子どもの心に傷を残す。

*家庭では「何をやってはいけないか」も大切。家庭の中で「Not To Do List」をつくる。

*ゲームはデジタル思考の温床。答えの出ないことも世の中にはあることがわからなくなる危険性も。

*ゲームは依存性の入り口になりかねない。テレビやネットも同じ。パチンコとも親和性がある。

*「ある種のことではまわりに左右されない」信念も子育てには必要。その最初の試練がゲーム。

*ネットやSNSで、子どもを野放しにしない。「監視」はしないが「監督」する責任は親にある。

*お小遣いをあげるときは、小遣い帳をつけさせる。ただし、お小遣いの範囲内なら、文句はいわない。

*お金は大切だと教える必要はある。それと同時に、お金と人間の価値は関係がないことも教える。

*子どもがしっかりした大人にならないと、社会は強くならない。子育ては大人みんなの責任。

*「けんかで物事を解決するのは野蛮な発想」ということを子どもに教える。平和教育は大切。

*友達が多い人は、たんに知り合いが多いだけ。親友と呼べる友達が5人を超える人はまずいない。

*成績のいい子が本気でいじめらることは少ない。いやな現実だが、勉強が身を守る処方箋にもなる。

*子どもが考えていることを知るには、心理学が参考になる。ユング心理学がおすすめ。


>>受験と人生のための必要な知識を身につけることはそれほど分離してはいない

「子どもの教養の育て方」①



「子どもの教養の育て方」(佐藤優、井戸まさえ著、東洋経済新報社)より
2012年12月20日第1刷発行


 はじめに

  「魚は頭から腐る」――民族や国家が衰退するときはエリート層から弱体化する


 日本の社会と国家は危機的状況にある。井戸まさえさんとの対談本は、日本がこの危機から抜け出すために、日本の次世代を担う子どもたちの教養を強化することが最重要課題であるという問題意識に基づいてつくられた。

 私には現下日本の状況が、ソ連末期に似ているように思えてならない。

 ロシアに「魚は頭から腐る」という俚諺がある。民族や国家が衰退するときは、まず頭であるエリート層から弱体化するという意味だ。


 ソ連共産党中央委員会は絶大な権限を持ち、政府、軍、秘密警察を指導していたが、失敗した場合の責任は一切追わなかった。徹底的な無責任体制の権力に対して、政治エリート一人ひとりの心が離れてしまったのである。そして、エリート層の弱体化がある限度を超えたときにソ連帝国は自滅したのである。


  国民の関心が政治に集中するのはよくない社会

 これまで日本が実効支配している尖閣諸島が中国によって脅かされ、またこれまでとくに問題意識を持たずに使っていた電気についても、福島第一原発事故後は原発の安全性を一人ひとりの国民が心配しなくてはならない状況が続いている。

 外交、安全保障、エネルギー製作など、国家の重要問題について、国民が不安を感じ、政治的解決に関与しなくてはならないと思うような日本の現状はきわめて危険だ。なぜなら外交、安全保障、エネルギー政策などは、高度の専門知識と経験を必要とする分野で、素人が嘴を挟んで事態が改善する可能性は皆無だからである。

 もっとも現状において、これらの問題を専門家=エリートに委ねることはできない。なぜなら、エリートの能力、国民に対する誠実性の両面で深刻な疑念が生じているからだ。

 結局、この状況を改善する手段は、国民による間接民主主義(国会議員や地方首長、地方議員を活用するということ)と直接民主主義(デモや集会)しかないのである。繰り返すが、政治に国民の関心が集中すると経済活動、文化活動が衰退し、社会が閉塞する。そして日本国家も弱体化する。


  子どもや若者が本物の教養を身につければ、日本は10年後に大きく変化する

 この状況を抜本的に変化させるためには、第三の「未来のエリート」をつくり出さなくてはならない。現在の小学校5~6年生、中学生、高校生、大学生、さらに大学院生や社会に出て数年以内の若い人々が本物の教養を身につければ日本は10年後に大きく変化する。

2012年11月 佐藤優


 第1章 「頭のいい子」はどう育つ?――子どもを本好きにさせるには

  子どもを本好きにさせるのが「教養」の一番の近道
  【読書・読む力】
  ***本を読む習慣はどうすればつけられる?


*子どもに本の読み方を指導するときは、課題図書と一緒に具体的な「課題」を与える。

*『むくどりのゆめ』は父子家庭ものの傑作。絵本は子どもだけでなく、親のためにもある。

*絵本はいろいろ示唆に富んでいて、大人が子どもに学んでほしい人生のエッセンスが詰まっている。

*大人の価値基準で、あまり本の仕分けをしない。子どもが興味を持つ本を与え、活字好きにする。

*子どもを本好きにするには、入り口で間違えず、うまくステップアップさせる。映像とも連動させる。

*子どもに読ませたくない本は、人をバカにする本。性や戦争、暴力を礼賛する本もすすめられない。

*偉人伝を読んで、「ああいう人になりたい」という夢を子どもが持つことが大切。漫画は物による。

*小説は時代とともに変遷するので、名作に頼ればいいわけではない。8割は同時代の作品を読む。

*高校生~20歳までは、大事な人格形成の時期。特定のけんかいや極端な見解を押し付ける本は避ける。

*子どもの教科書を読むと、親の知性も活性化する。ただし、子どもの勉強には過度に口を出さない。

*大人の教養をつける意味でも、教科書はおすすめ。同じものを自分用にもう1冊買ってもいい。

*プロの編集者の手が加わった文章を読むことで、図鑑でも読む訓練になる。『くらべる図鑑』は愛読書。

*かるたや百人一首、地図やクロスワードもいい。家族全員で遊べるものは、とくにおすすめ。

*全集やシリーズものをたくさん置いておいて、子どもが好きに読めるようにしておく。

*電子書籍には早めに慣れさせる。ただし、古典作品は「注」や「解説」のある本がおすすめ。

*初心者には、ジュニア向けの辞書がおすすめ。電子辞書はある程度、勉強が進んでから使う。

*教養は「読む」「書く」「聞く」「話す」の4つの力。「消極的な教養」と「積極的な教養」がある。

*絵文字で感情を伝えると、言葉が鍛えられない。絵文字の「型破り」は、まずは「型」を覚えてから。

*携帯電話とネットは子どもにとって、初期の段階では「敵」くらいに思ったほうがいい。

*起承転結は、論理的な文章の書き方ではない。『論文の書き方』は、とてもすぐれた教科書。

*繰り返し同じ本を読み聞かせてあげる。子どもは反復が苦にならないし、飽きない。

*きちんと本を読んでいると、話がしっかりしてくる。「読む力」は「話す力」に大いに関係する。

*話す場合には「笑い」や「ユーモア」が大切。ただし的確に効果的に使うには、「教養」が必要。

*子どもができること、できないことを細部まで仕分けして補えば、成績はあっという間に上がる。

*親が持続的に家庭学習をチェックすることには、子どもの心の状態がわかるという利点もある。

*習い事では、習字やそろばんはおすすめ。親のくせ字が子どもに移ることは多い。

*小さいうちの英語教育は、いちばん意味がない。英語に関しては中学生以降に集中的に勉強させる。

*子どもは気を遣って、親が喜ぶことをいうもの。習い事漬けにせず、あくまで家計の許す範囲で。


>>危機的な日本の社会と国家を大きく変化させるには、子どもや若者が本物の教養を身につけることが必要だ

「あの企業のお家騒動」⑤



「実例に学ぶ経営戦略 あの企業のお家騒動」(長谷川裕雅著、リベラル社)より 


  第5章 懐かしのお家騒動に学ぶ

 フジテレビ  裏側も楽しくなければテレビじゃない

  >>>鹿討追放劇


 宏明氏(信隆氏の二女厚子氏の夫である佐藤宏明氏と養子縁組し宏明氏に鹿討姓を名乗らせた)のワンマン経営ぶりが目に余るようになり、1992年に、フジテレビ社長の日枝久氏や産経新聞社社長の羽佐間重彰氏ら反会長派がクーデターを企てる。

 1992年7月21日、産経新聞社の取締役会で宏明氏の会長解任動議が提出され、可決。宏明氏は突如会長を解任された。

 宏明氏は最終的に、フジサンケイグループ本社の会長兼社長職も辞任し、宏明氏がグループの総合戦略をたてる参謀本部の機能を持たせたグループ本社も機能が大幅に縮小された。鹿内家による経営支配は一掃された。


 三越 なぜだ!流行語にもなったスキャンダル

  >>>岡田政権の崩壊


 1982年8月、「古代ペルシャ秘宝展」の偽物騒ぎが引き金となり、岡田氏が個人的に親しい特定の業者に対して特別待遇を図っていた問題などが発覚。その結果、岡田体制批判が高まった。

 ついには岡田氏の進退問題にまで発展。同年9月17日、三井グループの社長会で構成する二木会が、岡田氏に対し事実上の退陣を勧告。その裏で、岡田おろしの準備が進められていた。

 1982年9月22日の定例取締役会で、岡田氏の側近といわれていた杉田忠義専務から岡田氏の社長解任動議が提出され、岡田氏を除く16名の全取締役一致で解任が決定。

 その結果、岡田氏は非常勤の取締役に降格し、岡田政権は崩壊。降格された際に岡田氏が発した「なぜだ!」はこの年の流行語になった。

 岡田氏はその後、特別背任容疑で逮捕された。実刑判決が下され、上告するもその係争中に亡くなった。


 グッチ 失われたブランド

  第3世代の反乱


1984年、創業者(グッチオ氏)から数えて第3世代にあたるマウリツィオ氏(五男ルドルフォ氏の長男)は、同じく第3世代のアルド氏(三男)の息子をそそのかして共謀。 ムリツィオ氏は、アルド氏の息子との共謀の結果、過半数を超える約53.3%の議決権を確保し、アルド氏を社長から解任。自ら3代目社長に就任した。

  グッチ家の没落

 アルド氏は残りの保有株40%を、ジョルジョ氏(長男)とロベルト氏(三男)に20%ずつ譲渡(各人23.3%となる)。その一方で、アルド氏は1985年にマウリツィオ氏が親のルドルフォ氏からグッチ株50%を相続するにあたり、ルドルフォ氏の遺言を偽造したとして、マウリツィオ氏を告発。そのアルド氏も、息子のパオロ氏(二男)から脱税で告発され投獄されるなど、グッチ家の内紛はの泥沼化した。

 一族の内紛が続く中、経営能力に乏しいマウリツイオ氏のもとで会社の業績は悪化。1988年以降、パオロ氏、ジョルジョ氏、ロベルト氏の3人はアラブ資本の投資会社インベストコープにグッチ株を売却した。

 そして1993年、マウリツィオ氏もすべての株をインベストコープに売却し、経営権を手放した。結果、グッチ家はグッチの経営から一掃された。


  おわりに

 よりよい解決方法は何か。
 自分の会社であれば何がふさわしいのか。
 実際には、当事者の思惑や税務問題、家族関係などの調整要素が限りなく存在する。
 そんな時でも自分の頭で考えることが解決の第一歩なのだ。


>>常に自分の頭で考えることを忘れずに生きてゆきたい

「あの企業のお家騒動」④



「実例に学ぶ経営戦略 あの企業のお家騒動」(長谷川裕雅著、リベラル社)より 


  第4章 社内クーデターに注意せよ

 エイベックス 歌姫も参戦

  >>>アーティストまで巻き込んだクーデター

 ◆エイベックスのクーデター劇(2004年)


 7/30 エイベックスが取締役を開催。直後に松浦氏と千葉氏が辞任届を提出
 8/ 1 松浦氏、千葉氏のエイベックスの取締役辞任が発表される
 8/ 2 午前9時半:エイベックスで緊急社員集会が開催され、大混乱となる。エイベックス株がストップ安。全集末比300円(15.7%)安で取引を終える
     夜:浜崎あゆみ氏が自身のHPで松浦氏支持を表明したことで移籍懸念が広がる。他のアーティストらも松浦氏支持を表明
 8/ 3 午前9時前:エイベックスが松浦氏と千葉氏の復帰内定を発表。これを受けてエイベックス株が急反発した
     夜:依田氏の代表取締役辞任が発表される
 9/28 臨時株主総会後の取締役会で松浦氏は社長に、千葉氏は副社長に就任

 代表取締役となった松浦氏は、同年9月28日にUSEN(当時は有線ブロードネットワークス)との資本・業務提携を発表。USENがエイベックス株の約22%を保有する筆頭株主となり、元々18%超の筆頭株主であった依田氏や、約14%を保有していた松浦氏らはUSENに株式を売却。依田、松浦両氏の持株比率は共に約7%で、第2位の株主となった。


 佐川急便 解任クーデターを返り討ち

  >>>「下克上」ならず


 栗和田氏(清氏の前妻の子ども)は、当時元会長の清氏とは経営方針で対立していたとされる。2000年6月3日に開催された取締役会で、社長の解任と再任が決まるという異常事態が発生した。

 ①まず、清氏に通じていた副社長の湊川誠生氏と副社長の堺保氏ら反社長派が、代表権を持つ社長の栗和田氏の解任動議を提出。当事者には投票権がないため、賛成9人、反対8人で、栗和田氏の解任が決定。一時は、クーデターが成功したかに思われた。
 ②ところがその報復といわんばかりに、社長派から代表権を持つ湊川氏と堺氏の解任動議が提出され、こちらも解任が決定。この時点で代表権を持つ取締役は、副社長の光氏(聖氏の後妻の子ども)1人になった。
 ③続く次期社長の選任では、反社長派から光氏が推され、投票が行われたが、却下。
 ④次に、解任されたばかりの栗和田氏の再任動議が出され、却下されると思いきや、再任が決定した。

 なぜ、栗和田氏が再任できたかは判明しておらず、取締役会の議長であった光氏に投票権がなかったためという説や、反社長派の取締役2名が栗和田氏に寝返ったためという説などがある。

 この結果、佐川急便で代表権を持つのは栗和田氏ただ1人となり、クーデターが失敗したばかりではなく、クーデター騒動をきっかけに旧経営陣は一掃され、清氏の影響力は排除された。返り討ち、といったところだろうか。


 日舞花柳流  後目争いは伝統芸能のお家芸?

  >>>「花柳流」を巡る血みどろの戦い


 3代目壽輔氏のもう1人の後見人であった花柳寛氏が暫定的に4代目となり、貴彦氏を含めた3代目の壽輔氏の親族と跡目について話し合うことになっていた。しかし、寛氏は、3代目壽輔氏の親族との調整を行わずに、3代目の壽輔氏の本葬の場で突如自らの4世家元・4代目花柳壽輔の就任を公言し、報道関係者に発表した。


  アップル そして伝説に

 【会社概要】

 創業は1976年。スティーブ・ジョブズ氏が、スティーブ・ウォズニアック氏と共に、実家のガレージで創業した。
 1983年には、ジョブズ氏が新社長としてペプシコ(当時はペプシコーラ)の社長を努めていたジョン・スカリー氏をスカウト。これを受けてスカリー氏がアップルの社長に就任。

  カリスマ創業者の挫折

 1984年、アップルは「Macintosh」を発売。しかし需要予測を謝って過剰在庫に在庫に陥った結果、アップルは赤字を計上。スカリー氏は、独断専行の「Macintosh」開発など、アップルの経営混乱の原因はジョブズ氏にあるとし、1985年4月に「Macintosh」部門からの退任をジョブズ氏に要求。取締役会もこれを承認した。

 居場所がなくなったジョブズ氏は、同年9月に会長職を辞任。アップルを去った。

  カリスマの復活
 
 アップルを去ったジョブズ氏はNeXTを立ち上げ、映画監督ジョージ・ルーカス氏からPixarを買収。Pixarでは「トイ・ストーリー」 などで成功を収める。

 1996年、当時業績不振に陥っていたアップルが、ジョブズ氏のNeXTを買収すると発表。同時に、ジョブズ氏は非常勤顧問という形でアップルに復帰。実質的な経営トップに就任した。以降、「iMac」や「iPod」、「iPhone」などのヒット商品を連発した。2011
年、ジョブズ氏はCEO(最高経営責任者)を辞職。同年10に56歳の若さでなくなった。

 「Stay Hungry. Stay Foolish.(ハングリーであれ。愚か者であれ。」という自身の伝説のスピーチを体現させた人生だった。


>>「Stay Hungry. Stay Foolish.」の心持ちを忘れない人生を歩んでゆきたい

「あの企業のお家騒動」③



「実例に学ぶ経営戦略 あの企業のお家騒動」(長谷川裕雅著、リベラル社)より 


 第3章 ファミリービジネスの明暗

  円谷プロ

 >>>円谷一族の追放にウルトラマンは何を思うのか?


 2007年10月、円谷プロは作品の製作費がかさみ、約30億円にまで膨らんだ有利子負債が重荷となったため、映像制作会社大手のティー・ワイ・オー(TYO)から出資を仰ぎ、経営を立て直すことになった。

 円谷プロ株の45.5%を持ち、円谷家が筆頭株主である円谷エンタープライズが、TYOを引受先とする第三者割当増資を実施。TYOは約8000万円を出資し、円谷エンタープライズ株の80%を取得する。

 また、一夫会長兼社長が、自身の持つ円谷プロ株22.5%を4500万円で円谷エンタープライズに譲渡した。

 TYOはこの結果、円谷エンタープライズ株の80%を保有することで子会社化し、円谷エンタープライズ株の80%を保有することで子会社化し、円谷エンタープライズが円谷プロ株の68%を保有(TYOが円谷プロ株の54.4%を実質的に支配)することで、TYOが円谷プロを孫会社化した。

 TYOはその後、円谷エンタープライズ株を追加取得し、100%保有の完全子会社化。その後の紆余曲折を経て、円谷エンタープライズも円谷プロ株を追加取得し、完全子会社化。最終的に2008年1月7日、円谷エンタープライズと円谷プロはTYOの子会社と共に、円谷プロを存続会社として合併した。

 TYOはその後、合併後の存続会社である円谷プロ株を100%保有し完全子会社会に成功した。

 しかしその後、円谷プロにとって想定外の出来事が起きる。TYOが2008年に、バンダイナムコグループと資本業務提携を実施したのだ。

 ①TYOは、バンダイナムコホールディングスに円谷プロ株33.4%を譲渡。
 ②その後2009年にさらに15.6%の株を譲渡し、バンダイは円谷プロ株の49%を取得。
 ③また、2010年には、TYOが遊技機販売会社のフィールズに残りの51%を売却。

 当時8代目社長となっていた一夫氏は、円谷プロの名誉会長に祭り上げられた挙句2009年に退任。円谷一族は、円谷の経営から一切排除された。


 大王製紙  名門3代目の落とし穴

  >>>井川家による統治の崩壊


 井川家直径と大王製紙は、井川家ファミリー企業の経営権を巡り、全面対立することとなった。

 ①しかし、意高氏巨額な借入金返済もあり、高雄氏は同年8月までに、保有する大王製紙とその井川家ファミリー企業株を全て北越紀州製紙に売却。
 ②そのうち井川家ファミリー企業株については、北越紀州製紙が大王製紙に譲渡した。

 これにより、井川家直系大王製紙に対する支配力は著しく低下したが、高雄氏は株を見放す見返りとして大王製紙に顧問として一時復帰。大王製紙への井川家直系の関与は続いた。

 井川家による大王製紙株の売却の結果、北越紀州製紙が大王製紙の筆頭株主となった。


 雪国まいたけ 北陸のキノコ王国の崩壊

  >>>創業者による横暴の果てに


 2014年11月、大平氏は、自らが据えた鈴木氏の経営方針に不満を抱き、取締役を追加することで取締役会を自らの支配下に置くことを画策し、臨時株主総会の招集を請求。経営陣はこれに抵抗したが、創業家の申立てに基づき、新潟地裁は、2015年3月31日までの招集を許可する決定を下す。

 2015年2月米投資ファンドのベインキャピタルが雪国まいたけに対するTOBを実施すると発表し、メインバンクの第四銀行ら6行の銀行団、雪国まいたけ経営陣も賛同した。

 第四銀行ら6行は、大平氏と大平商事に対し、雪国まいたけ株を担保に約38億円の融資を実施していたが、その返済が滞っていたことから、返済遅延を理由に担保権を実行し、雪国まいたけ株47%を取得。TOBに応募し、ベインキャピタルに株式を売却した。

 ベインキャピタルは発行済株式数の約78%を取得し、TOBは完了。大平氏の影響力は大きく後退し、2015年6月に上場廃止した。


>>株の承継方法については、戦略的な腹案を予め用意して置かねばなるまい

「あの企業のお家騒動」②



「実例に学ぶ経営戦略 あの企業のお家騒動」(長谷川裕雅著、リベラル社)より 


 第2章  同族企業における兄弟の確執

  一澤帆布  京都遺言事件


 厚布でできた帆布カバンで有名な1905年創業んぼ京都のカバンメーカー。
 3代目社長の一澤信夫氏は、第二次世界大戦後にリュックサックやテントも手がけた。
 信雄氏には長男の信太郎氏、早世した二男、三男の信三郎氏、四男の喜久夫氏の4人の息子がいた。1980年、三男の信三郎氏が家業を継ぐために家に戻り、1988年に4代目社長となる。4代目の下で、老若男女を対象とした帆布カバンが考案され、色数や種類も豊富な一澤帆布のカバンは、広く世間に知られることになる。

  >>>二つあった遺言 相続の行方は

 信三郎氏は、第二遺言を疑わしいものとして遺言無効確認訴訟を起こし、最高裁判所まで争ったが、2004年に敗訴が確定。
 結果、信太郎と喜久夫の両氏は、信夫氏所有の一澤帆布株を取得した。
 一澤帆布の筆頭株主である信太郎氏は、2005年12月の臨時株主総会で、信三郎夫妻を取締役の地位から解任し、代わって自らが社長となった。
 信三郎氏は、社長を解任された後も工場でカバン製造を続けたため、信太郎氏は信三郎氏に対し、工場明け渡しの仮処分申請を行い、2006年3月1日に強制執行した。その際、信三郎氏が従業員を率いて店を出た。一澤帆布は事実上製造部門を全て失い、一時的に営業停止を余儀なくされた。
 一方、信三郎氏は2006年3月に新たなブランドを立ち上げ、翌月に店を再始動した。

 信三郎氏は、自身のブランド「信三郎帆布」を立ち上げて帆布製品の販売などを行っており、一澤帆布時代の職人たちや材料の仕入先、通学用バッグに採用している学校が信三郎氏側についたようだ。モノ作りの要であるソフト面を押さえていた信三郎氏には、経営の才覚もあるといえよう。


  キタムラ  二つの「K」

 キタムラブランドを示す「K」マークを使用したバッグで有名な老舗企業。
 1982年に北村商店として横浜元町で創業。キタムラのバッグは、横浜の「ハマトラファッション」として一大ブームとなった。二男の北村宏氏が、全社長の母親からキタムラを引き継いだ。
 一方、キタムラ本社がある横浜元町には、キタムラと似た名前の会社キタムラK2(キタムラ・ケイツウ)がある。
 キタムラK2は、長男の北村康介氏がキタムラの商品開発や店舗作りを巡り、宏氏と対立した結果、元町二丁目店を分離独立し、1989年に設立した会社。1992年に康介氏は亡くなり、現在はその妻和江氏が社長を引つ継ぐ。キタムラ同様「K」マークを使用したバッグ、小物などを販売する。

  >>>「K」を巡る仁義なき戦い

 キタムラは長男康介氏の店を「キタムラK2」として独立させるにあたり、営業譲渡契約を締結。その営業譲渡契約書の中で、キタムラはキタムラK2に対し「K」マークの使用を認め、キタムラK2は、同契約に基づいて「K」マークを使用していた。
 「K」マークを使用する両者が、横浜元町で平和的に併存する関係は長くは続かなかった。1994年、両社は「K」マークを巡って訴訟で対立することとなった。

  ◆商標・商標権

 商標は、商品やサービスに付ける文字、図形、マークなどのこと。商標出願し、商標権として登録できれば、原則10年間、出願の際に指定した商品やサービスの範囲で、その商標を独占的に使用でき、販売促進やブランドイメージの確立に利用される。
 商標権は、出願から原則20年で権利が満了する特許権とは違い、更新料さえ支払えば何度でも更新が可能な半永続的な権利。キリンのビールラベルなど、100年以上前に登録された老舗の商標が、更新し続けることにより現在も保護されている。

 キタムラの事例は、同じ家業を兄弟それぞれに継がせると、営業エリアの重複や商標権の侵害、不正競争防止法違反など様々な問題が発生することがよくわかる事例だ。

 「K」マークや「一澤帆布」といった暖簾や伝統を守るという観点からも、1人の後継者に単独で家業を継がせる必要があるといえる。


  君島グループ “華麗なる”骨肉の争い

 有名デザイナー・君島一郎氏が手掛けた「KIMIJIMA」ブランドは、世の女性の羨望を集め、オートクチュール界で華々しい成功を収めた。

 1989年、君島グループの後継者として最初に指名され、「君島一郎ブティック」の副社長に就任したのは、一郎氏と本妻である君島由希子氏の子どもで、長男の君島立洋氏。
 立洋氏の退社後は、一郎氏と内縁の妻の子どもである二男の明氏が「君島ブティック」の取締役に就任し、後継者としての途を歩んでいく。

 >>>君島王国の崩壊

  遺体を巡る争奪戦


 1996年7月14日、「KIMIJIMA」ブランドを率いていた一郎氏が突然死去。
 本妻の由希子氏、立洋氏と、内縁の妻の恭子氏、明氏側の確執が表面化し、注目を集めた。

 お家騒動は身内の争いであるが、不祥事同様にブランドイメージ毀損の一因となり得る。ブランドは育て難くて毀損し易い。覚えておいてほしい。


  ロッテグループ 韓流ドラマを地で行く財閥の権力闘争

 1948年に重光武雄氏が創業。1965年の日韓国交正常化を機に韓国に進出し、韓国ロッテグループは百貨店やホテルを中核とした「ロッテ財閥」といわれるほどの企業グループに成長。ロッテグループは、重光家を中心とした巨大他国籍企業となる。
 武雄氏は、その長男の重光宏之氏と二男の重光昭夫氏と共にロッテグループの経営をそれぞれ担当し、兄弟が日韓をうまくすみ分けて経営を行っていた。

 >>>兄弟げんかは泥沼化

  兄弟経営の限界


 ①2015年1月8日、日本ロッテロールディんぐすの臨時株主総会で、日本ロッテグループの経営を担当していた宏之氏が副会長から解任された。同年7月15日、副会長であった昭夫氏が代表権を持つことになった。

 ②同月27日、元副会長の宏之氏は会長の武雄氏を伴い、ロッテホールディングスに乗り込む。従業員を集めると、副会長を解任され何ら権限もないはずの宏之氏が突如、「武雄会長を除くロッテホールディングスの全取締役の解任を決めました」と宣言。

 ③この宏之氏の行動に対抗するかのように、同月28日、昭夫氏側はロッテホールディングスの取締役会を開催。宏之氏の宣言は法的手続きを踏んでいないとし、取締役の解任無効を確認した。そのうえで、武雄氏が代表権を返上して、会長から代表権のない名誉会長に退く人事を決定。この時、全7名の取締役のうち、武雄氏は欠席、昭夫氏は棄権し、残り5名の取締役が賛成した。

 同年8月17日、ロッテホールディングスは臨時株主総会を開催。昭夫氏側が株主のうち従業員持株会、系列会社の役員などから指示を集め、7月28日の昭夫氏側の対応追認する形で決議した。


 サムスン電子 銀河系兄弟の相続争い

  兄弟間の遺産争い


  【会社概要】
 「SAMSUNG」のロゴでおなじみの、韓国国内最大の家電・電子部品メーカー。近年、スマートフォンやタブレット端末でよく見かけるようになった。創業者のイ・ビュンチョル氏は、1987年に死去。サムスングループは、イ・ビョンチョル氏の指名で三男のイ・ゴンヒ氏が引き継いだが、グループ企業の株式などの相続財産に関する遺言は存在しなかった。

 2012年2月、イ・ビョンチョル氏の長男イ・メンヒ氏(長男)が、イ・ゴンヒ氏に対し、サムスン電子に出資しているサムスン生命株を含む約900億円相当の遺産の引渡しを求め、提訴。
 イ・メンヒ氏は、イ・ビョンチョル氏が生前に第三者名義で信託した相続財産をイ・ゴンヒ氏が他の相続人に知らせずに解約し、自分名義に変更したと主張。
 二女イ・スクヒ氏も長男に同調し、同様の理由でイ・ゴンヒ氏を提訴。長男・二女対三男という構図に。
 第一審、第二審共に、イ・メンヒ氏とイ・スクヒ氏の敗訴(請求棄却)。2014年4月26日に上告しない方針を明らかにしたため、この相続を巡る争いは終結した。

 相続問題が一度こじれると、しばしば感情的にになり、やがて相手への人格攻撃にまで発展する。やがて関係修復は不可能となり、元々仲がよかった兄弟が二度とお互いに顔を合わせないことにもなりかねない。
 残された家族にそんな悲惨な結末を迎えさせないためにも、生前に漏れのない対策を行っておかねばならない。


>>相続問題がこじれて悲惨な結末を迎えないよう、生前の対策が必要であることは間違いない

「あの企業のお家騒動」①



「実例に学ぶ経営戦略 あの企業のお家騒動」(長谷川裕雅著、リベラル社)より 
2015年12月17日初版


  はじめに

 2015年は、お家騒動の年だった
 大塚家具にロッテ、雪国まいたけも動いた。
 しかし、お家騒動に今年に限った現象ではない。
 人が事業を営み、継続していく限り、古今東西どこにでも発生する問題である。

 事件の詳細な解説はその種の本に譲りつつ、事業承継の本質について考える材料を提供できたと考えている。

 本書の狙いは、実際の事件を教材にして、事業承継に絡む紛争について考えてもらうことにある。

 大事なのは知識ではなく、考えることができる実力である。


 第1章 親子激突の事業承継

  大塚家具 日本中が注目した親子げんか


 「IDC 大塚家具」ブランドで有名な家具製造販売会社。
 1969年、創業者の大塚勝久氏が埼玉県春日部市に「大塚家具センター」を創業。
 「市場最低価格」と「異会員制」を軸に、中・高級家具を対面販売。日本有数の家具販売会社に成長した。
 2001年をピークに、ニトリ・IKEAなどの新興勢力の台頭や不祥事などで業績が低迷。2009年3月、創業以来社長を務めてきた勝久氏が会長職に退き、後任の社長に勝久氏の長女である久美子氏が就任した。
 久美子氏は、気軽に入れるカジュアルな店作りを目指したが、この転換が過去のビジネスモデルに固執する勝久氏を否定するものと映ったのか、勝久氏は2014年7月、久美子氏を解任し社長に復帰。業績はさらに低迷し、2014年12月期は4年ぶりの営業赤字に転落した。

 >>>父と娘が一族を巻き込み経営権を巡る闘争へ

  対立の始まり


 2013年頃から、勝久氏と久美子氏は、経営方針を巡り真っ向から対立していたようだ。
 勝久氏側には、妻の千代子氏と長男の勝之氏がついた。一方、久美子氏側には、次男の雅之氏、二女の舞子氏、三女の佐野(旧姓大塚)智子氏、三女の夫の佐野春生氏がつき、創業家が二つに割れた。

 2015年1月に久美子氏が社長に復帰。この時は、勝久氏の社長解任、久美子氏の社長再任の議案が取締役7人のうち4対3で可決された。勝久氏と長男の勝之氏は反対に回ったといわれている。久美子氏側の突然のクーデターだった。
 両者の紛争はその後、株主総会での「委任状争奪戦(プロキシー・ファイト)」と、桔梗企画保有の大塚家具株を巡る紛争にまで発展した。


 このように創業家一族内部でつぶし合いが行われるなか、突然、第三者が経営権を奪ってしまうことがある。番頭が隙をついて経営権を奪い創業家を排除してしまったり、金融機関主導で会社ごと乗っ取られたりする可能性もあるだろう。
 創業家一族内部での争いが避けられないとしても、それを長引かせることは第三者に付け入る隙を与えるだけである。一日も早く争いに終止符を打ち、経営を安定させる必要がある。


 ニトリ  お値段以上な遺産相続裁判


  >>>現在価値約200億円の遺産を巡る骨肉の争い


 1990年1月、義雄氏の遺産に関し、「遺産分割協議書」が作成された。
 協議内容に基づき、妻みつ子氏が不動産を、長女和子氏と二女洋子氏、二男幹雄氏の3名は現金1000万円をそれぞれ相続。義雄氏が所有していたニトリ株9万2500株と関連株は全て、長男昭雄氏が相続した。昭雄氏が相続した株式は、現在価値で総額200億円は下らないといわれている。
 2007年4月、みつ子氏と和子氏、洋子氏、幹雄氏の4名(原告)が昭雄氏(被告)に対し、義雄氏の遺産が遺産分割未了だとして、札幌地裁に訴えを起こした。

 第一審の札幌地裁は、遺族間で遺産分割に極端な偏りがあることは認めたが、遺産分割手続きに不備があると認める証拠はないと判断。協議書にある原告の押印は各人の意思に基づくものとし、原告の請求を退けた。


  ◆遺留分を少なくするには

 生前対策の一つは、相続財産の部分を小さくすること。例えば後継者を受取人とする生命保険に加入し、相続財産を小さくしておく。この方法は、後継者に二重雨のメリットがあるので一般的によく使う手だ。相続財産は、支払った保険料の分だけ減ることになる。また、生命保険は相続財産ではないので、受取人が相続財産を受け取ったことにはならず、遺留分に影響しない。他の相続人の遺留分を減らしつつ、後継者の受け取る金銭を増やせるので、後継者以外の相続人がいる経営者の方にはおすすめの方法だ。

 もう一つは、法定相続分を小さくすること。

 養子は子どもがいる場合に1人までと制限があるのでは、という質問を受けるが、それは例えば基礎控除額を計算する際など、相続税の計算をする時の話。遺産分割で遺留分を計算する時には、特に人数制限はない。


  赤福  甘くない親子の対立

 2007年10月に消費期限偽装事件が発覚。偽装事件の責任をとり、当時会長であった2代目社長の濱田益嗣氏が会長職を退く。3代目の濱田典保氏は社長に留任し、経営権を握った。
 赤福株の16%は益嗣氏と典保氏がそれぞれ8%ずつ保有するが、残り84%は創業家の資産管理会社である「濱田創業」が保有する。益嗣氏は濱田創業の社長を務め、株主として赤福に対し絶大な影響力を保持していた。


  >>>「老いては子に従え」ではなく「老いたる馬は道を忘れず」

 2014年4月、典保氏が社長を突如解任され、代表権のない会長に退くと、その母親(益嗣氏の妻)の濱田勝子氏が4代目社長に就いた。突然の社長交代であった。
 老舗としての「家業型」経営を理想とする益嗣氏側と、家業からの脱却を目指して「企業型」経営を進める典保氏の間で確執が生じ、今回の解任劇につながったとみられる。

 益嗣氏と勝子氏は既に高齢であり、典保氏には弟の吉司氏(現在赤福の子会社であるマスヤ社長)がいるため、今後、赤福と濱田創業の経営権・大株主の地位を巡る兄弟間の「相続」が勃発する危険がある。益嗣氏と勝子氏が生きている間に、後継者の指名や株式の譲渡などを進める必要があるだろう。


>>事業承継に絡む紛争について、単なる知識ではなく、考えることができる実力を身につけてゆきたい

「政治家の見極め方」⑦



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 Ⅳ 等身大政治家の可能性

  第七章 なぜ2016年参院選で政治の潮目が変わるのか
 
  守勢に立たされる安倍政権


 2016年7月には参議院選挙があります。安倍さんにとって最初の2012年の総選挙、13年の参議院選、14年の総選挙に次いで、16年の参議院は四つ目の選挙になる。

 「アベノミクスだ」「三本の矢だ」と言っても、もうさほど信用はされません。いくら「異次元緩和」とか「黒田バズーカ」とかコピーを工夫しても、これ以上の日銀金融緩和策による日本経済へのカンフル剤は効かないと思われている。2016年1月末に、マイナス金利政策の導入が決まりましたが、これとて効果は未知数です。

 安倍政権は、選挙権を新たに持つ若い世代を含めて国民に、国の政策をきちんと届けることができるのか。たとえば、本当に安保法制を進めるのなら、どれだけ説得的に展開できるのかが問われることになります。

 一方、安保法制に反対している民主党をはじめとする野党の側も、これまでのように「違憲だから反対」というところに留まっていては国民を説得できません。

 軍需産業では技術官僚が明らかに喜んでいます。技術研究本部が装備施設本部などと統合されて大きくなり、2015年10月には防衛装備庁が発足しました。

 安倍さんはあまり考えていないと思いますが、今後、技術者たちが独創して文民統制が危うくなる局面が出てくるかもしれない。政権が「自衛隊員が死ぬ」という事態をリアルに想定しているとも思えません。私たちが目を開かせるべき政策は少なくありません。


  組織を固定化しないSEALDs

 こうした安倍政権の動きに反対する学生団体「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)」をどうとらえたらいいか、ここで検討しておきたいと思います。

 
 SEALDsの可能性は、その組織の柔軟性にあります。もともとは安倍政権が制定を進める特定秘密保護法に反対して学内勉強会をしていた大学生たちが中心となって組織化された団体です。2014年末の同法施行とともに解散し、その後続団体としてSEALDsが設立され、安保法制反対を訴えました。

 そして懸命なのは、来るべき参院選後には解散を示唆したことです。会見したメンバーは「緊急アクションとして立ち上げたものだから、解散後、個人でやりたい人がいればまた集まればいい」と語りました。自然発生的に誕生し、役割を終えれば解散して、必要が生じればまた別の違う組織を立ち上げる。一定の色が付くことを避けて、組織を固定化せずに、次から次に変えていくスタイルです。


  ネットで政治を引き寄せる

 インターネットの世界で言論活動を展開している人たちは現在、政治とは一定の距離を置いています。でも政治を自分たちの思いを実現する一つのツールとしてみなすことができれば、やがて政治の世界に出て行くという動きにつながります。そのとき、彼らはネットを自在に使って選挙運動なり政治活動なりを展開するでしょう。すでにネットを使って自分の言葉で情報とメッセージを発信し、日本の政治文化を根底から揺さぶる新しい選挙スタイルも登場しています。


 ネットを駆使する世代はネット世界に自足し、異なる世界と交わらないために思考の領域が限られている。彼らにとってネット世界はあまりにも普通になっていて、既成の文化や価値観を塗り替える可能性については意外と意識されていません。だからこそ、ネットに通じていない私たちのような旧世代が、その可能性を指摘することが必要です。「あなたたちがゲーム感覚でやっていることで、今の政治がすごくおもしろくなるかもよ」


  新時代の政治家の見極め方

 異人政治家の時代から等身大政治家の時代へ。時代が変われば当然、政治家の見極め方も異なってきます。 新しい時代に即した政治家の見極め方を身につける必要があるのです。

 等身大政治家の資質をいかに見極めるか。この問いは、新しい政治の可能性をどこに見出すべきか、と言い換えることができるでしょう。
 
 まず、旧態依然たる世界と、新たに生起しつつある世界をどうつなぐか。政治はとくに新旧世代の分断が著しい。相互に排他的で、それぞれが自分の世界だけで通用する議論しかしていません。

 両者をつないでいくには、まず相互交流をすることです。お互いに気になりながら「知らない世界だから」と無視したり諦めたりしていたことに、とりあえず目を向けて見る。そして気づいたことを口にしてみる。


 次に、これまで政治と関わりのなかった分野の人間と政治の世界をつなぐこと。起業家やアーティスト、学生も大歓迎。新しいセンスと価値観を政治の世界に持ち込むとともに、元の世界に政界で得た情報や人脈を生かす。異業種をつないで人材交流を測れば、双方の世界が息づくはずです。

 そして、地域と政治をつなぐことです。民間レベルで政治に関わる議論を吸収できる組織をつくってもいいし、カフェのようにリラックスできる場で気軽に意見を交わす場をつくるのもありです。言ってみれば「ポリティカルカフェ」。

 とにかく政治に参加するハードルを低くして、政治家や元政治家を隣人とする。政治家を等身大にとらえることのできる社会の実現です。


  あとがき

 昨年(2015年)には二冊の新書を上梓した。安倍政権の構造的特質を語った『安倍政権は本当に強いのか』(PHP新書)、そして、安倍政権内外の政治家に着目した政界人物評論『政治の眼力』(文春新書)である。しかし、この二冊を刊行してなお、課題が残されていることにはたと気がついた。それは、国民にとって近くて遠い、あるいは遠くて近い政治家の存在そのものに焦点を定め、彼等の実像に迫ること、である。

 政治家の過去・現在・未来を映し出しながら、国民が政治家を見極めるための、そして生身の政治家にアプローチするためのキーワードを提示してみた。

 例によって、「講談政治学」の手法をとった。

 本書は独立した構想とテーマを基につくり上げた。しかし結果として、偶然的必然のなせる業と言うべきか、先に挙げた二冊とあわせて現代日本政治をしるための“三部作”となっている。そうなったことがとてもうれしい。


>>ネットを駆使する人たちを政治に引き寄せ(政治に参加するハードルを低くし)て、地域と政治をつないだ社会の実現が重要であろう

「政治家の見極め方」⑥



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 第六章 なぜ政治家はケータイにすぐ出るのか


  情報感覚を変えたケータイとメール


 ケータイの普及が政治家に与えた影響は計り知れません。たとえば、それもあでの肉体や肉声を使った身体系コミュニケーションが目に見えて減ってきています。

 昔の政治家は要件を受ける際は必ず秘書を通したものでしたが、今では政治家本人に直接電話がかかってきます。

 情報を媒介に多数とつながりながら、逆に政治家自身はアトム化する。結果的に、総体としての政治力は落ちているように思います。


  「情報の館」になった別荘

 私は今も、戦後の歴代総理や政界要人の別荘を訪ね歩き、そこで繰り広げられた「政治の意思」を考察しています。

 その成果は著書『権力の館を歩く』(ちくま文庫、2013年)にまとめました。さらに、2016年の4月から6年間、放送大学で「権力の館を考える」という45分番組を15回放送する予定です。見てくださいね。

 かつての政治家は、基本的にいろいろな人が押しかけてごった返す、猥雑さと賑わいにミニた「ワイガヤの世界」にいました。だからこそ、逆にそうした喧騒から逃れるために別荘を構え、深山幽谷の空気に浸ったり山紫水明を味わったりして、ゆったりした時間を確保しました。


 今はどうか。政治家が別荘にこもっても、おそらく始終ケータイがかかってくるでしょう。メールだって来ます。パソコンがあれば、最新情報につねにアクセスできるので、どんどんググって、とりあえず必要な情報と知識を仕入れると思います。わからないことがあれば、ケータイやメールで即座に確かめることも可能です。


 だから別荘は「権力の館」ならぬ「情報の館」。だったら、別に別荘でなくてもかまわないでしょう。空間を移動することで人には邪魔されなくなるかもしれませんが、情報に邪魔されるという逆転した状況になっています。


  小泉進次郎が駆使する言語戦術

 若手の政治家の中でも突出した言語センスを持っているのが、抜群の人気を誇る自民党の小泉進次郎さんです。


 折々の寸言がけっこう正鵠を射ています。選挙が終わった瞬間、自民党の勝利を「熱狂なき圧勝」と呼びました。誰かを批判しているようで、批判していません。

 ただの人寄せパンダと思いきや、「客寄せパンダと言われたっていいんです」と先手を打つ一方で、「人気があると言われるのは、実力がないからです」と自分の置かれている立場を相対化する。とにかくありとあらゆるところで自分を客体化して、反論を許さないような発言で「進次郎語録」はできています。

 父親の小泉純一郎さんが突然、脱原発を訴えたときには「父は父、私は私」。親子でも判断が違うことを一般論につながる言葉で伝えました。


  政治家のホメオスタシスが失われている

 父親を反面教師にしながらも、父親の強いところは受け継いでいます。しかも彼の場合はたんに世襲ということではなく、小泉又次郎から始まって、純也、純一郎、進次郎と続く四世議員です。これが二世となると必ず親に反発します。「親父と比較するな」「自分は父とは違うことをやる」と父親との違いを言いたがる。三世も同様です。

 ところが四世ともなると、もはや家業として政治家を生きている。いわばDNAの中に政治が組み込まれています。地盤もたんなる地盤ではなく、それをリッシャッフルして若い支持者、新しい票を呼び込んでいる。でなければ、あれほど票を伸ばせません。

 しかし、彼に不足しているのは、明らかに実務と経験。

 その意味で「雑巾がけをしたい」といって、2015年、TPP大筋合意後というタイミングで、自民党の農林部会長という難しいポストに就いたのは、彼にとってひとつの試練となるでしょう。

 彼はバブル以降の世代の代表として「少子高齢化社会への備え」を強調しています。前世代との違いを前提に、リアルに少子高齢化社会を見つめる。世代の代表として発言し、アイデアや構想を出せるようになったときに、もう一皮剥けると思います。


 完全に政治家の育成機能というか、政治家自体が生存していくホメオスタシスが失われているのです。もはや日本の政治は恐竜が倒れて絶滅するかのような世界になってきています。

 となると、これからの政治を担う人材は従来型のスタイルではなく、今までの構造や機能を変えていくような試みから生まれてくるはずです。どこに変化の可能性が見いだせるのか。第Ⅳ部ではそれを考えてみます。


>>小泉進次郎の今後の活躍に期待したい

「政治家の見極め方」⑤



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 Ⅲ 新旧政治家の生態拝見

  第五章 なぜ政治家は上座と下座にこだわるのか


 政治をテーマとする週一回の座談会番組「時事放談」(TBS)は、2007年から司会を続けています。2016年からは10年目に入り、放送回数はほぼ450回になりましょう。毎日新聞紙上の月1回連載「政界人物評論」は2年続けて、安倍政権周辺の政治家たちにインタビューを重ねました。

 その中で本章では、私が直接見聞きした異人政治家にまつわるエピソードを紹介し、政治家の実情に迫ります。


  どちらが上座に腰かけるか

 たとえば、野中広務さんは、いかなる場所であろうが、下座を取ることで知られています。これだけは絶対に譲らない。番組でも例外ではありません。

 この位置取りは、野中さんの人生観を貫く気配りの現れであると同時に、自分の存在感をにじみ出すための一種の戦術ではないかと、私などはひそかに思っています。


  「長幼の序」がない政治家たち

 私や番組スタッフが上座・下座や、先に歩く順番に気を遣うのは、そもそも政治家がそれをすごく気にするからです。上下関係を守る自民党の政治家は先を譲り合う作法をまだ身につけていましたが、これが見事になかったのが民主党の政治家でした。

 これから仕込んでいこうと思っているうちに選挙になって、あっという間に現職議員がごっそり落ちて、また新人がどばっと入ってくる。礼儀作法を含め、政治家が鍛えられてゆく期間が極めて短縮されたのです。

 上座と下座だけでなく、政治家は話す時間や回数の損得感情にも敏感です。番組終了後に出演者からいろいろなことを耳打ちされます。

 「向こうがしゃべったのは九回で、私に当てたのは八回。一回少ないですよね」

 司会者ならば出演者は対等に扱うべし、ということです。政治家はいくらざっくばらんだったり、一見穏やかだったりしても、見るべきところはきちんと見ているし、自分が損をしないようにコントロールすることも忘れません。


  隣の私にしゃべらせないのか!

 「時事放談」の良さは「討論」ではなく、「放談」というところです。人が言ったことに対して「あなたの主張は間違っている」という意見を戦わせる場ではありません。

 CMを除いて正味40分、出演者二人だけで自分のいいたいことを途中でいっさいさえぎられずに存分に話せる場所は、テレビ界広しといえども「時事放談」しかありません。

 そのほかの番組は途中で司会者にさえぎられて、コメンテーターに賢しら顔に批評される。あるいは出演者が何人もいて、思っていることを一割も離せないうちに欲求不満で終わるケースが少なくありません。


 あるとき、ずっと語り続ける長老の隣にいたもう一人の長老が、
 「ちょっとあんた、いつまでしゃべっているの。隣にいる私にしゃべらせないのか!」
 と声を挙げたことがありました。「うわ、これはすごいことになった。このまま続けられうかな」と思ったら、しゃべっている長老は平気なもので、「ん」と横を向いて、相手もまたすましてそれを引き取って話しはじめ、一応事なきを得ました。

 あとでプロデューサーに「あれ、いいの?」と念のために確認したら、
 「いいんですよ。視聴者が求めているのは、ああいう“事故”なんです。うまく進んだら進んだとおもしろくないと思うのが視聴者なんです」

 なるほど。テレビというメディアは、何が起ころうと吸収してくれるんだな、と妙に納得しました。


  「おれがおれであることの所以」を語る

 中曽根さん、塩川さん、野中さんといった長老たちにある人間的な奥行きが、現在では自民や民主を問わず中堅や若手議員にはほとんど感じられません。娑婆っ気が多すぎて、そのときそのときの問題で必死。現役の勢いはあっても、深みのある話や記憶に残るエピソードがなかなか聞けません。


 長老政治家たちは勉強したことなんかしゃべりません。彼らは現在の政治状況を語っているようでいて、いつの間にか自分の過去を語っています。「それはさておき」と文脈を外して自分の話をはじめる。最終的には「おれがおれであることの所以」をちゃべっています。だから、番組でいつまでもしゃべり続けるには、語るに足るだけの過去を持っていなければダメだということになります。


 突然、こちらが振っている話題とまったく関係ないことを口走るのです。すごく怖い顔をしてカメラを睨みつけながら。

 その部分だけ全くトーンが違う。不審に思いましたが、何回かその様子を見ているうちに、やがて私は気づきました。「これは彼が全国のどこかにいる自分の政敵、あるいは特定の勢力に対して、テレビを通じて自分の言い分なり主張なりを伝えているんだな」と。とんでもないことです。でも、とんでもないと思うようなことが、おもしろいのです。人の名前も年月も間違えて話す。その間違いに人間性がにじみ出る。だから、番組ではちょっとした言い間違いとか不規則発言は訂正しません。


>>長老政治家たちのように、(勉強したことではなく)「おれがおれであることの所以」を語れるような人になってみたい

「政治家の見極め方」④



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 第四章 なぜスポーツ紙の一面に政治家が登場するのか


  全身パフォーマンスの中曽根康弘


 田中角栄のあとに三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸と続き、次にメディアを意識したパフォーマンスを全身で繰り広げたのは、中曽根康弘(総理在任期間1982~87年)です。

 
 盟友の渡邉恒雄さんが読売新聞社内で力を付けるにしたがって、メディア的には読売と親しい関係になっていきます。総理で特定の新聞社の社主と刎頚の友となったのは、中曽根さんをもって最初で最後。それも総理になる前、1955年の保守合同のころからの仲です。


 外交でもレーガン大統領と「ロン」「ヤス」と愛称で呼び合う関係を、メディアを通じて流通させました。レーガンを日の出荘に招いて、お茶を点てたり法螺貝を吹いたり。同じ画面で友人のように映ることによって、アメリカの大統領と自分が対等の関係にあるかのごとくアピールしました。中曽根さんは国際政治という舞台で自らのパフォーマンスを演出したはじめての総理ということになります。


  演出家による「振り付け」
 
 佐藤時代から自民党のメディア戦略に関わっていたのは、劇団四季の演出家、浅利慶太さんです。その浅利さんを全面的に起用した中曽根さんは、スピーチの仕方から身振り手振り、足の組み方、所作振る舞いに至るまでを習いました。

 ただ私に言わせれば、安岡正篤なる陽明学者が精神的指導者として吉田茂ら歴代総理の指南役を任ずるのはまだ理解できても、佐藤時代から中曽根を経てその後の総理まで、浅利さんがコーディネートしたというのはいかにも古い感じがします。


 70年代型の田中角栄によるメディアコントロールと、80年代型の中曽根康弘によるメディア演出はどこが違うのでしょうか。

 中曽根さんは自分をよりよく見せるために徹底的に演出をする一方で、それが裏目に出て批判にさらされたときは、一切弁明しなかった。リクルート事件で未公開株の譲渡が発覚したときもまったく言い訳をせず、ほとんどノーコメントで通しました。1950年代、いち早く日本の原子力政策の旗振り役を務めましたが、2011年の福島原発事故が起こった際、メディアの取材に対してはやはりひと言も発言しませんでした。


 その点、田中とは対照的。田中はロッキード事件で窮地に陥った際に、必死に弁明を尽くそうとしたり、メディアを脅かしたりしました。その意味では、田中はメディアの怖さを本当には理解していなかったと言えるでしょう。


  なぜ田中は竹下を嫌ったか

 田中の政治は総合開発計画などをどんどん積分して大きくしていく政治です。これに対して竹下は微分する。小さく微分していって、その部分に関して「これはちゃんとできますよ」というお金と権限の付け方をしていく。


 しかし、それは田中にとって政治ではないのです。政治は夢をバラまけなけばいけない。「おまえがやっていることは、行政がやっていることと同じだ。おれがやっているのは、そんなせせこましいことじゃない。おえはおれの夢とロマンを矮小化するのか」ということになります。


  ポスト中曽根の戦国乱世

 竹下から二人おいて宮澤喜一、さらに二人おいて村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三。戦後は少なくともこのあたりまで、政治家あるいは総理大臣は、それぞれ名前と存在感が一致する、言ってみれば幸福な時代でした。どうしてそれが代わったのか。


 竹下も「小渕のあとが見えない」と言った。総理の後継がないということは、その器を育てなければいけない連中がどこかでサボタージュしたわけです。

 吉田のあとは佐藤、佐藤のあとは「三角大福中」(三木、角栄、大平、福田、中曽根)と五人、中曽根のあとは「安竹宮」三人でした。

 自民党主流の基本的な発想は「中曽根が五年続いたから、これからの総理は五年はやれる」。中曽根のあとは安倍と竹下、どちらが先かわからないけど二人併せて10年。90年代の10年間は二人で凌ぐ。宮澤はその間に老いてそこでおしまい、というのが基本的な戦略だったのです。

 ところが、リクルート事件で竹下があっという間に倒れ、安倍は病死し、宮澤は選挙で敗れて初の野党転落です。つまり1993年でストップ。中曽根政権が五年だから、あとの総理も五年などという神をも恐れぬ算段をしたのが誤算の原因です。

 しかも、必ず後ろで保証人のように人事の裏書きをしていた田中派、そして竹下派が割れてしまった。すると竹下が人事の裏書きをしようと思っても、まず自派を守るために直系の小渕、橋本の尻を叩いて、竹下派に反旗を翻した小沢一郎・羽田孜一派と戦わなくてはいけません。つまりはポスト中曽根の戦国乱世に近い状況が、そのあとにすぐれた武将が立ち現れることを阻んだのです。

 とにかく場当たり的に連れてきて、間に合せで総理の席に座らせたというのが実情でした。かろうじて橋本と小渕は総理の器になるだけのものを持っていたと思います。ただ残念ながら、支える派閥が弱体化してきたこともあり、橋本は人事で失敗して参院選で敗れ、激務で脳梗塞を起こした小渕は生命の炎がふっつり消えて、結局回復しませんでした。


  「政治のショー化」が進んだ90年代

 宮澤は出演したテレビ番組で、司会の田原総一朗さんに迫られて、つい「私は政治改革関連法案をなんとしても成立させたい」と口走り、これが1993年の解散から政界再編への引き金となります。宮澤はまさにメディアに破れたのです。

 「椿発言問題」はその象徴です。自民党が野党に転落した93年の衆院選で、テレビ朝日の椿貞良報道局長が「反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようとデスクらと話し合った」ことが表面化して、「偏向報道だ」「世論操作だ」と紛糾しました。

 ニュースもワイドショーも大きく変わりますが、なかでも報道番組はひとりのキャスターが政治を報道するというかたちになります。久米宏さんの「ニュースステーション」や筑紫哲也さんの「ニュース23」。とりわけ田原総一朗さんの「サンデープロジェクト」における各党幹部発言は、ニュース番組や新聞記事などで報道され、ときに現実の政局を左右することさえありました。


  政治内容と支持率との乖離

 1990年代のメディアの変化をじっと見つめて、自らの戦略に全面的に取り入れた政治家がここで登場します。小泉純一郎です。

 機を見るに敏な小泉さんは、このころから新聞が世論調査を頻繁に実施したがっていることを知り、それを最大限利用しようと考えます。つまり世論調査が行われる時期に向けて新しい政策をぶつけるのです。すると、新聞は必ず世論調査でその政策の是非を東洋になる。
 
 小泉さんはとにかく定期的に話題を提供する。ファッションにせよ、立ち居振る舞いにせよ、皮相的な部分もすべてさらけ出すことでメディアへの露出を続けて、国民とメディアの注目をつねに集めます。小泉政権になって、世論調査は芸能人よろしく好感度ちょうさとなり、支持率は視聴率のようになりました。


  絵になる対決の構図

 彼の政治劇に入らないような政策は取り上げられません。それはつねに敵と味方、善と悪が対決するようなかたちでなければならない。そこで郵政三事業民営化が話題になり、道路公団民営化が焦点になります。彼が投じた政策課題は、すべて「支持者」か「批判者」という敵味方に分けられます。

 というのは、それが「絵になる」からです。絵になるものは映しやすい。しかも、映し出されたときに、必ず小泉さんは改革する側にいる。それに敵対する守旧派は野党ではなく、むしろ自分を支えるべき自民党の中にいる、と小泉さんは言った。この古臭い体質をぶっ壊すとこぶしをあげたら、これまた国民に大ウケしたのです。

 野党にいじめられている与党総裁ならば、従来と同じ構図です。そうではなく、改革を進めんとするリーダーを邪魔する敵は味方の中にいる。となれば、対決を見守る国民としては「純ちゃん、頑張れ」となる。小泉さんはそこまで見抜いてやっていたという気がします。


  中身なしのパフォーマンス

 選挙のときに小泉さんは郵政民営化に反対した与党候補を公認せずに、その選挙区には「刺客」と称して、自分を支援する候補を数多く送り込みました。政治的手腕の期待できないような候補者も少なからずいましたが、メディアはそれにも完全に乗せられました。

 本来の選挙報道ならば、日本各地の注目区を選んで俎上を載せてしかるべきなのに、当時ほとんどのテレビ局は、刺客候補が送り込まれた地域だけを重点的に報道し、刺客候補が当選すると、あたかも小泉さんによる革命が成立するかのように報じました。つまりは郵政選挙の報道そのものが、「劇場的」になったのです。

 小泉さんという政治家は今や知られる通り、確たる政治理念や一貫した思想・信条があるとは思えませんが、とにかくパフォーマンスをさせれば右に出る者はいませんでした。


  弱者を切り捨てる強者の政治

 小泉さんのやり方で非常にはっきりしているのは、それまでの自民党の意思決定システムを完全に無視したことです。政務調査会の部会に下りていた重要案件をすべて官邸で取り上げ、自分の支配下でやらせるよう改革し、事前審査で政務調査会に下ろすこともやめました。「党にいちいち下ろすから族議員が威張るんだ」とばかり、そうした権限を奪いとったのです。


 規制改革にしても構造改革にしても、総理大臣自らがその権限をもって、邪なことをしている族議員をやっつけるという構図ですから、国民はこぞって喝采を送りました。こうして小泉さんは公的な文脈に乗せながら、私怨を晴らすことに成功したのです。

 一方、経済政策は新自由主義的な方針です。信賞必罰で勝ち残れるものは勝ち残るけれど、そうでないものは切り捨てる。だから小泉政治は全体として見ると、基本的に「強者の政治」です。

 国側が一審で負けたハンセン病訴訟において国が控訴を断念するという異例の措置も、「弱者救済」のイメージを演出するために下した決断であり、小泉さんが本当に弱者の立場に心を寄せていたとは思えません。

 みんなが救われる政治ではなく、ダメなものは切るという政治の始まりは小泉政治にあります。しかも、小泉さんは悪びれることなく、堂々とそれを主張しました。それはその後の自民党政権に色濃く反映し、現在の安倍政権がまさに強者の政治を推し進めています。


  説得せず、調整せず、妥協せず

 経済が膨らみ、国内総生産(GDP)が伸びた時代、自民党政治とは「配分の政治」でした。拡大するパイを配分するために政治には調整が必要であり、多数派の田中派を支持する限り、配分されるパイは増えていました。

 しかしバブルが崩壊した90年代に起こったのは、そのパイが増えないという事態です。むしろパイは減るかもしれない。減った部分をどうするかという調整は、実は田中派にはできません。問題が起きた際の田中派の調整方法はパイを大きくすることだったからです。「でもやっぱり減らさなくちゃいけないんじゃないの?」と言い出したのが小泉さんでした。ただし小泉政治は、強者のパイを大きく減らすのではなく、弱者のパイを減らして間に合わせる手法でした。


 「説得せず、調整せず、妥協せず」の三無主義。私が小泉さんを「ニヒリズムの宰相」と呼ぶゆえんです。強者たる田中派の長期支配に対して、国民に鬱積した恨みつらみを逆手にとって「悪の派閥を正義の小泉が退治している」という構図を見事に演出しました。

 
 戦後の政治家は年季をかけて自分をつくり、良く出れば威厳、悪く出れば不気味さとして、ある種の奥行きを醸し出していました。私は彼らを「異人政治家」と称しましたが、やはり今の政治家はどこか薄っぺらくて平均的。「等身大政治家」と呼ぶゆえんです。

 では、異人政治家たちの「奥行き」とはいかなるものか。第Ⅲ部では私が直に接した近過去の異人政治家たちの生態をのぞき、それを現在の等身大政治家たちと比較してみることにしましょう。


>>(拡大する)パイの配分から、弱者のパイを減らす手法に変更された(バブル崩壊後の)政治を見直す必要があるように思う

「政治家の見極め方」③



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 Ⅱ かつて政治家は異人だった


 第三章 なぜ昔の政治家はキャラが立っていたのか


  戦後的状況にふさわしい政治家


 大衆民主主義の時代を迎えた戦後日本で、吉田はもっとも民主主義に向かない総理として生き延び、しかも日本自由党から民主自由党、自由党の総裁として、その後の日本の保守政治の礎を築く政党を率いました。

 逆に言えば、GHQが間接統治した戦後の大混乱期のリーダーは、周りの意見を素直に聞いていたら何もできなかったということです。GHQに対してもの申す態度をもって、下を従えるというアナログな独裁者、反議会主義、反民主主義の吉田でなければ当時の政治は動かせなかったでしょう。

 その意味で、吉田は戦後的状況にまことにふさわしい政治家だったと言えます。反時代的な宰相を演じることで時代を大きく動かした。これは政治の大いなる皮肉です。


  悲運の鳩山一郎への判官びいき

 「吉田茂のところに寄ってくる人なんかいやしない。鳩山さんは自然に人が寄ってくる。これこそ大衆政治家だという感じがしたな」

 鳩山率いる日本民主党と、吉田後継の緒方竹虎率いる自由党が戦った1955年の選挙では、メディアは鳩山を応援して勝利に導きました。

 映像を通じて浮かび上がった二人の総理の対立的状況が、当時の政治にある種のダイナミズムを与えたことは間違いありません。それは必ずしも実像ではなく、映像によって誇張された虚像を国民が見ることによって生じたダイナミズムでした。


  岸信介の極悪人イメージ

 吉田・鳩山の最終決戦が終わって、1955年に保守合同で自民党が誕生。鳩山政権の下で幹事長をやっていた岸は、日ソ国交回復を花道に鳩山が引退を決めたあとの総最公選を石橋湛山と争ったときに、はじめてメディアに大きく取り上げられました。

 総裁選に勝利した石橋は二ヶ月後、病に倒れて、タナボタ式で岸内閣(1957~1960)が誕生します。しかし、岸に対する国民のイメージは、日米開戦の詔勅に署名したA級戦犯容疑者ながら結局無罪放免となったダークな存在。しかも拘置所出処から、わずか8年余りの総理就任。

 そこからメディアは岸の人物像をつくっていきます。反米だった岸はいつの間にか親米になっていて、安保改定、警職法(警察官職務執行法)の改定を密室で進めようとします。この秘密主義に加え、理路整然と語る切れ者エリート官僚の言動、眼光鋭くウェルカムではない御面相とが相まって「極悪人」のイメージが形成されます。


 1960年の安保闘争で、浅沼は安保闘争の前面に立って戦い、NHKをはじめ映像メディアは明らかに反安保、反岸に染まります。一方の岸はメディアを使って国民を説得していくという発想はありません。帝国日本の最優秀官僚であっただけに、安保なんて国民、わけても女子どもにはわからなくてよろしい、エリート男性だけがりかできればいい、という意識だったのでしょう。

 その国民無視の姿勢によって、メディアや野党、自民党内からも集中砲火を浴びて、新安保条約批准後、退陣へ追い込まれることになります。


 今の政治家を見慣れた世代が、当時のニュース映像を見たら仰天するでしょうね。戦後の政治に国民を完全に無視した時代があったなんて思いもよらないでしょうから、戦前の映像だと思うかもしれません。

戦後から岸内閣が終わる15年間はそんなかたちで続きましたが、その中で戦後復興と高度成長への助走は着実に進んでいきました。


  演出された池田勇人の大転換

 池田は国家の経綸をまったく語れない人だった。日本のトランジスタ製品をフランスに売り込んで、ドゴール大統領から「トランジスタの商人」と揶揄されましたが、とにかく朝から晩までソニー製トランジスタラジオで株価の値動きを追うことが総理の一番の仕事だと思っていたような人です。

 周りとしては困った存在ながらも、いちおうは親分です。しかも戦後はずっと大蔵省を率いてきたから財界としては応援したい。そんなふうに周りの条件は整っているけれども、当の本人が総理の器かどうかということになると、相当に物足りない。

 しかも吉田内閣の経済閣僚時代には、「中小企業の一つや二つ、倒産もやむをえない」とか「貧乏人は麦を食え」という上から目線のタカ派的発言で一般にはイメージされています。池田が総理になったとき、佐藤栄作いわく、

「よくあんなヤツが総理になれたもんだ。昔だったら無理だった」

 池田の登場のおもしろさは、「お粗末な素材」を周りすべてが支えようとした点にあります。その中心が前尾繁三郎、そして大平正芳、宮澤喜一らの「秘書官グループ」、さらに大蔵省を中心とした官僚出身の若手政治家たちです。彼らは吉田が政権ぐくりをしたときの中核メンバーでした。

 1957年、池田を支えるための初の派閥「宏池会」が誕生します。これはのちの派閥と違って議員集団ではなく、下村治や大蔵官僚を中心とするいわば政策勉強会で、のちに政治家も勉強のために参加します。こんな摩訶不思議な集団を背負って出てきた総理は日本政治史上ほかにおりません。

 1960年に総理大臣になったとはいえ、池田自身に格別の統治論や政策論があるわけでもないから、丸裸の総理をとにかく演出しなければならない。最初の演出が、大平と宮澤で合作した「寛容と忍耐」というキャッチフレーズです。


 タカ派からハト派へ、上から目線から低姿勢へ、暴言からニコニコ笑いへ、料亭から家庭へ。プレモダンで旧制高校の学生を絵に描いたようなとっちゃん坊やふうのバンカラおじさんが、モダンなことを構想した宏池会グループによって過剰に演出されます。それによって、国民の目には日本の政治が岸時代から池田時代に大転換したように見えました。このころからメディアを意識した確固たる演出の下で政治が動きはじめます。

 同じ自民党内での政権交代ですから、本質はさほど変わってはいません。しかし、混乱の極みに達した安保問題はたちまち潮が引くように忘れ去られ、1960年7月に成立した池田政権は、同年の12月に約300議席の圧倒的な議席を確保して安定政権となったのです。


  国民のちょっと先を行く

 自民党はなぜ勝てたのか。ズバリ池田が「月給を二倍にする」と言ったからです。いわゆる「国民所得倍増計画」です。

 「高度経済成長」という気取った言葉に対して「月給二倍」なら庶民にもピンとくる。エリートのインテリ総理が「豊かな生活」と宣言しても信用できないけれど、酒好きのバンカラ総理が国会で笑われながらもガラガラ声で「10年後には月給を二倍にする」と言った。この月給二倍論の、メディアに対するイメージ効果は絶大でした。歴代内閣で経済政策を政治課題として前面に打ち出したのは、この池田内閣と第二次安倍内閣くらいですが、。同じ経済政策でも、アベノミクスにかけているのは明確な数値目標です。

 結局、行動経済成長の猛烈な勢いにより、月給は10年間で二倍どころか三倍、四倍になります。

 池田以降はブレーンを含めた人材などを自分の周りに引き寄せる資質が問われるようになった。いかに優秀で有能なブレーンを持っているかということです。


 「政治は、ある程度国民の先を行かなくてはいけない。国民に寄り添ってもダメで、かといって岸政治のようにあまり先に行ってもいっけない。国民のちょっと前にいて率いていくのが池田政治だ」

 宮澤が気の利いた言葉でそう語れば、メディアがどんどん増幅する。逆に言うと、メディアに取り上げてもらえそうな言葉をどんどん彼らが発していくわけです。


  振り子を右に振らなかった佐藤栄作

 「いよいよ弟が出てきたからには、戦前的な価値観に戻すべきところは戻し、憲法改正もやってくれるだろう」

 しかし、あに図らんや佐藤政権(1964~72年)はそうした岸の価値観を継承しなかった。佐藤は池田政治をいちおう継承し、基本的には寛容の姿勢で臨みます。政権が岸から池田政治を挟まずに、佐藤へと兄弟間で直接受け継がれていたら、そうはいかなかったでしょう。

 
 佐藤政権は戦前の流れを汲んではいますが、池田という戦後派をすでに通過した以上、それより前には戻れません。佐藤自身、自民党政治家たちに不祥事が相次いだことによる1966年の「黒い霧解散」を経て、まさに霧を払うように戦前的なものを切り落としていきます。もちろん、憲法改正などやりません。佐藤が戦前派に尽くしたのは2月11日の紀元節を祝日にするところまででした。


  退陣会見で化けの皮がはがれる

 吉田内閣末期の1954年、自由党幹事長だった佐藤は、政官財界に及ぶ贈収賄事件「造船疑獄」に巻き込まれ、逮捕寸前まで行きますが、法務大臣の指揮権発動によって逮捕をま逃れます。当時のニュース映像を見ると、佐藤のメディアへの無防備ぶりがわかります。


 さて、総理になってからの佐藤は、自身の顔と体から発するある種の「風圧」、沈黙による威圧感を一般国民には封じるべく、ソフトなイメージを演出します。

 たとえば、ミニスカートをはいた開放的な雰囲気の奥さんと二人でいる場面を、ことあるごとに映像に撮らせて、家族思いという人物像を演出することにある程度成功しました。ところが、退陣表明の記者会見で化けの皮がはがれます。

 
 カメラは新聞記者をにらみつけて怒鳴るような調子で「出て行ってください」と言い放つ佐藤の素顔をそのまま映し出した。この瞬間、造船疑獄の際に「終わりと言ったら終わり!」と言った佐藤の本質が国民に暴露されました。

 確かに映像はありのままの佐藤を伝えました。しかし、それは佐藤の意図とは違っていました。やはり佐藤も、本人が意図しない本質を映し出してしまうという映像の本当の怖さを知らなかったのです。


  書籍で勝負した田中角栄

 いわゆるポスト佐藤の時代。佐藤以後、総理になった順番からいうと、田中角栄・三木武夫・福田赳夫・大平正芳・鈴木善幸・中曽根康弘です。最初にその中でメディアを意識したのは田中角栄(総理在任期間1972~74年)です。

 田中の場合も実はブレーンがいました。麓邦明と早坂茂三ら何人かの新聞記者グループが田中をつくり変えようとします。

 田中は拝金主義者の「土建屋」であって、発想がそこから一歩も出ません。当然、メディアは警戒します。そこでブレーンが中心になり、下河辺淳ら先験的な開発官僚を集めた「陰のグループ」ができあがり、田中が自民党内に立ち上げた都市政策調査会で、日本の産業・経済構造を分析した国土ビジョンが構想されます。

 これは田中の思想をまとめたということになっていますが、田中は第1回目に出て、最後に答申を受け取るまで関与していません。ブレーンの官僚たちの話はほとんど聞かず、田中が一人で一気にしゃべった開発論を多少入れながら、国土ビジョンは1968年に「都市政策大綱」として発表されたのです。

 これは東京の過密と過疎の解消を扱うことが前提でしたが、できあがったものには「公共の利益が私的所有権に優先する」という趣旨の、いわば公益優先主義が高らかにうたわれていました。これを最初に評価したのが朝日新聞です。当時のリーディングメディアだった朝日に評価されたことで、「自分たちは勝ったと思った」と麓たちは証言しています。


 福田赳夫を後継と考えていた佐藤栄作はそこで焦ります。しかし福田は田中に対抗するようなメディア戦略を立てることはできず、結局田中にしてやられました。

 ポスト佐藤をめぐる「田中vs. 福田」の総裁選でも、二人の戦略は対照的です。典型的な大蔵官僚の福田は「福田、福田の声が澎湃と起こる」と、自分がやってきたことは黙っていても皆わかるはずだから、支持は自然に集まるはずだとタカをくくっていました。エリート官僚ゆえの自信でしょう。

対する田中はなんと書籍で勝負した。「東大法学部出身の福田に対して、高等小学校しか出ていない自分は活字メディアに訴える」。そして1972年に『日本列島改造論』を出版します。

 この本は都市政策大綱とは実は似て非なるものでした。日本列島のどこにどういうプロジェクトを実施すればいいかという行動計画であり、具体的な地名が頻出します。これが結果的に土地高騰を招きます。

 『日本列島改造論』ははたして大ベストセラーになりました。本で勝負するという先見性。この時点でメディア戦略からすれば、明らかに田中の勝ちでした。


  演説におけるストック言語

 田中はこれからの時代、社会はどんどん大衆化するので、政治は庶民の心に届かなければやっていけないことを本能的にわかっていました。

 自分は庶民にウケる。それもかっこよくウケるのではなく、ちょびヒゲを生やした田舎のとっつぁんふうの人間としてウケる。浪花節の世界そのものです。そのことを田中は十分に認識していたいと思います。

 
 それまでストックだった言葉が、田中になってからフローの言葉になった。言い換えれば、「読むための言葉」ではなくて、「聞くための言葉」です。

 ストックの言葉で政治をやったのは、佐藤栄作が最後でしょう。

 佐藤までの政治家は、自分の発する言葉が一つひとつ政局に影響を与えると思っているため、早口でぺらぺらとはちゃべりません。吟味された言葉だけを口にします。そこでは絶えず流れ続けるフローの言葉でなく、蓄積された内容が出てくるストックの言葉になる。

 田中の言葉はまったく違います。全国の総合開発をぶつ彼の演説はこんな感じです。

 「いくらなんだかんだと言ったって、そんなに広くないこの日本の都市を道路で結べば、それから鉄道で結べば、さらには飛行機で結べば、大したことはたいじゃありませんか」


 彼の話は、こうした表現を織り交ぜながら次につながっていくので、聞く側も次に出てくる言葉に引っ張られ、「そうなんだ。角さんに任せたら道路も鉄道もみんなできて、都市はつながって」というふうに思ってしまうのです。

 これはゆっくりしゃべったら、たちどころにウソであることがバレてしまいます。

 しかもそれが、全国総合開発計画となれば、聞いているほうにも見えやすい。

 聞いていて飽きない。親しげに明快に語る。しかし理路整然としているわけでも、起承転結があるわけでもない。一方的なおしゃべりの連なりです。


  掌を返したメディアと国民

 列島改造論をぶち上げて、日中国交正常化を実現するまで、田中の政治は順風雨満帆でした。しかし、列島改造ブームによる地価暴騰と石油ショックによる狂乱物価で、日本は低成長への転換を余儀なくされます。あわせて、田中の金脈問題も浮上しました。
 
 メディアは掌を返したように田中バッシングを始めます。今太閤と呼ばれた異例の出世の過程でいかにあくどい不正を働いたか。それは実のところ表裏の関係にあり、それまで一切、表に出なかった裏側が次々に暴かれました。メディアの残酷なところです。


 退陣後の1976年に戦後最大の疑獄「ロッキード事件」が起こります。米国のロッキード社が全日空に旅客機を売り込んだ際、巨額の工作資金が政府高官に渡ったことが発覚し、田中にも疑惑が浮上します。


 田中が総理を辞めるとき、山口瞳が「下駄と背広」という有名なコラムを書きました(『旦那の意見』中央公論社、1977年収録)。

 「私は、ずっと昔から、背広でネクタイ、靴下をはいたままで庭下駄を突っかける奴は胡散臭い奴だと信じてきた」

 田中には背広に靴下で、下駄を履いた写真があります。そこに田舎から出てきて都会人になろうとする成り上がり者の哀しい習性が見える。背広に靴下という近代を身に着けながら、前近代の下駄を履く姿のなんたる不細工なことか――。

 田中が良かれと思った平均的な庶民を装った姿が、最後には裏目に出ることになったのです。


>>メディア戦略の重要性をしっかり認識できた政治家のみが生き残れる時代になりつつあるようだ

「政治家の見極め方」②



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


  第二章 なぜ安倍政権の支持率は落ないのか

 小選挙区制のもとでは当選者が各選挙区の一人になるため、無所属で当選することは極めて難しくなります。党の公認を得ることが決定的に重要となり、総理大臣の権限が拡大し、人事権や公認権などが個人に集中します。いわゆる「総理の大統領化」です。

 大統領型総理を目指して最初に国民投票による首相公選制度を提唱したのは、中曽根康弘さんでした。1961年のことです。それからもう半世紀以上経つ中で、大統領型総理がいいか悪いかという議論はつねにありました。

 その意味では、中曽根政権はなかなか奥行きのある政権で、中曽根さん自身は大統領型総理を志向したにもかかわらず、当時の後藤田正晴官房長官は「総理大臣に権限が集まることほど危険なことはない」という考えの持ち主でした。

 後藤田さんのような元警察官僚の目から見ると、「権限が集中して周りからの規制がなくなると、その人間は必ず悪いことをする」ということになります。とくに彼の基本的スタンスは人間性悪説でした。


 総理大臣や党総裁という最高権力者が実は何もできないようにがんじがらめになっている。橋本はそれを変えたいと考えて、政治・行政改革を進めたわけです。ところが、彼はそれを成し遂げる前に、党内抗争と参議院選敗北の責任を取って退陣を余儀なくされました。


  安倍さんに大統領制は禁句

 次に首相公選制を唱えたのが小泉純一郎さんです。小泉さんは総裁選で争ったとき、地方票を集めて圧勝したことに味を占め、地方の力を利用することが、総理大臣の職をまっとうしていく上で大きな力を発揮すると考えました。

 擬似公選というか首相公選に近いかたちで総裁選に当選したと思った小泉さんは「総理大臣は大統領的であるべきだ。その大統領型総理大臣に自分はなる」と胸を張りました。

 その背景には、自民党総裁としての党内基盤がほとんどない小泉さんとしては、党を動かすためには党内組織よりも党外の力、すなわち国民の力、マスコミの力を借りざるをえなかったという事情があります。


 次に現在の安倍さんです。ただ、安倍さんは大統領型総理といったフレーズはひと言も口にしません。なぜなら大統領型総理と言った瞬間、あるいは首相公選制と言った瞬間、憲法改正論が浮上するからです。

「やっぱり憲法改正か、しかも国家の根幹をなす統治権に関わる部分まで改正するつもりなのか」

 憲法改正に敏感な人たちに、必ずやそう言われてしまう。だから憲法改正論者の最右翼たる彼は、かえってこれに触れることができません。

 もう一つ、安倍さんが大統領型総理を唱えにくい理由があります。彼は「二度目の総理」になったときの2012年9月の総裁選で地方票を集められず、対立候補の石破茂さんに敗北しています。つまり、もし公選制だったならば石破さんに総理・総裁の座を奪われていたのです。

 幸か不幸か石破さんが国会議員に人気がなかったため、安倍さんは「石破よりはまし」という“石破敬遠票”を集めて決選投票で逆転できたのです。

 安倍さんは現状でも十分に権限を発揮しています。だから今の安倍さんにとって大統領型総理を主張する必要もありません。


  世界的に総理が重要な時代

 実はこの「大統領化」の流れは世界的な現象です。大統領化現象とは簡単にいえば、カリスマを持つ指導者が人気と権力を支えにして政治を進めていく傾向のことです。

 日本の大統領化現象ではっきり見えるのは、政党や行政のリーダーが、党の活動家や派閥の領袖から出てくるのではなく、むしろ時の権力者の個人的なネットワークから出てくる方向に変わってきていることです。権力者の権力基盤が、総理大臣の個人的な関係のほうに重心を移しているということです。

 
 20世紀の終わり以降、アメリカでもヨーロッパでもロシアでも中国でも、自国のプレゼンスを他国よりも大きく見せることを非常に意識するようになっています。現実に貿易量あるいは国内総生産(GDP)という経済指標を示すことで大国の序列が決まる時代は後退し、どうやって自国のプレゼンスをアピールするかが問われる時代になったということです。

 アピールすべき国のプレゼンスは、国の最高指導者のプレゼンスにつながります。しかもサミットのような国際会議の場が増えれば増えるほど、そこでの総理や大統領の行動や発言が即座に世界に流れるようになりました。


 米経済誌フォーブスが2015年11月に発表した「世界で最も影響力のある人物」で1位はロシアのプーチン大統領でした。理由は「自分がやりたいと思うことをやってしまう、世界で数少ない人物の一人」だから。ちなみに2位はドイツのメルケル首相、3位はオバマ大統領、中国の習近平は5位、わが安部総理は41位でした。

 大統領化現象の背景にあるのはグローバリズムです。一国の大企業が破綻したら、たちまち全世界にその影響が波及する。金融も為替もそれによって動く。国内の動きが国内に収まることはなく、国際的な反応が起こってくる。


  求められる国際的なプレゼンス

 なんだかんだいっても、安倍さんの支持率が国民の間でそれほど下がらないのは、いちおう国内外で相応のプレゼンスが維持できているからです。


 外遊を重ねているうちに「やはりグローバルに動くことは大事だ」という経験値からインターナショナルな存在になっていったのです。

 だから安倍さんはこの三年間、すごい勢いで海外を飛び回っています。2015年秋には野党が要求する臨時国会の召集を見送ってでも外遊を優先しました。行く先々では首脳と経済協力や支援を約束して友好関係を結ぶ。それを繰り返すことによって彼のプレゼンスが上がっていきます。

 国際会議に出ても、日本の意見に他国の首脳が耳を傾けてくれるようになり、実のある議論ができます。そんなふうにしてはじめて日本がその存在感を示し、国際的なりリーダーシップをとることができるようになるのです。その意味では、国際関係は長期政権によってはじめて実質化するという側面を持っています。


  長期政権と若き総理

 総理大臣は個性、すなわち「自分は何者であるか」を政策的にも理念的にも鮮明に打ち出して、長期的な政権を構想しなければなりません。衆議院の任期四年を最大限まっとうし、よほどのことがなければ解散しないという大統領制に近い運営の仕方になっていくでしょう。

 そうなると、長期的な政策を一つの内閣でやり遂げるというビジョンを打ち出していくことが必要になります。そして、長期にわたる総理の激務をこなすために、総理の年齢は必然的に下がっていくでしょう。

 これからの総理大臣は相応の任期を務めなければモノにならないということです。


  解散権の意味が大きく変わった

 総理大臣の持っている最大の権限が解散権です。今世紀に入って、解散権の意味もかわりました。変えた張本人はもちろん、小泉純一郎。2005年のいわゆる郵政解散がその象徴です。


 通常ならば否決される前に参議院の説得に努めるはずですが、小泉さんは説得どころかむしろ否決されてもいいような口ぶりに終始しました。あれはどうも参議院で否決されることを待っていた、と私はにらんでいます。というのも、参議院で否決されたら、次は衆議院で三分の二以上の賛同を得るため衆議院を説得するのが筋ですが、しかし彼はそんなそぶりをいささかも見せずに、すぐさま解散に踏み切ったからです。


 郵政解散の掟破りは2014年11月のアベノミクス解散で反復されます。

 この解散は確たる根拠がないという点、必ず勝てる戦いに挑んだという点、そして政権の延命を図ることが目的だったという点で郵政解散と似ています。しかも阿部さんにとっては、解散総選挙で圧勝することによって、自らの強さをもう一度自己確認した「自己確認解散」でもありました。


  国民が喜ばない「不愉快な政治」

 安倍さんが国民に示す表情や言葉は、小泉さんの劇場型政治とは一線を画しています。敵をやっつけたり、因習を破壊したり、賭けに出たりと、国民がワクワクドキドキできるような政治が小泉さんの劇場型政治だったとしたら、安倍さんはそこから逆説的に学んだのだと思います。

 つまり一回性の楽しさを与える政治をやめたのです。

 安部さんが打ち出した政治のテーマは「憲法を改正したい」とか「集団的自衛権の講師を認めたい」とか「歴史認識を改めたい」とか、もうなんだか辛気くさくて、日々の生活を営む国民の目から見ると「そんなことして、いったいどんな得があるの?」という内容です。

 それをもっとも苦々しく感じているのはマスメディアです。新聞、雑誌をはじめとするメディアは政権支持と政権批判の真っ二つに割れましたが、批判側は機を見計らっては安部攻撃に走っています。

 ところが、安部さん側は逆に「そういうメディアの手には乗らないよ」というスタンスです。メディアが嫌がることもすべて言う。言うけれども、あなたたちは報道しないわけにはいかないでしょう、と冷静に構えています。


 安倍さんの側からすると、小泉政治スタートから15年が経った段階で、「不愉快な政治激もあり」と考えています。みんながあまり喜んでくれなくてもかまわない。

 国民の側は、「不愉快だけれども、それがまあこれからの政治家もしれない」と感じる。そんな空気感が全体を覆っているようです。


  政権を支持しても信用はしない

 とにかく次から次に政策課題を繰り返していけば、政治がフル回転して展開しているように国民には見えます。だから支持率が落ないのです。安倍政権ぐらい支持率がドンと落ない政権も珍しい。さすがに漸減はしています。けれど、節目節目でメディアが「さすがに次は落ちるよ」と期待するほどには落ちません。

 
 安倍政権を支持する理由のトップは、いつも「ほかの内閣より良さそうだから」とか「ほかに適当な人がいないから」。ありていに言えば「前政権よりはましだから」という、あられもない理由です。

 安保法制にしても、もしかしたら本当に日本が戦争に加わることがあるかもしれないし、そうなれば動員がかかってきて、はじめて戦争状態を経験するかもしれないという不安がぬぐいきれません。


  安倍政権の「北風政治」

 安倍政権のやり方は、「北風と太陽」のたとえで言うならば、まごうかたなき北風、しかも強風です。それは、沖縄県の米普天間基地の辺野古移設問題に対するやり方を見ていてもわかるでしょう。移設に反対する沖縄県の民意を一気に吹き飛ばそうとしています。

 北風政治には深みがありません。やはり知恵不足。政治についての知恵は、長年経験を重ねてはじめて出てくるものです。

 安倍さんと菅さんは、そういう意味での政治的な経験があまりにも少ない。政界に出て20年、タッグを組んで3、4年。経験不足は否めません。それゆえに北風政治を続けている安倍さんは、政治という言葉の意味を小さくしてしまったと思います。


 パイの配分がなくなったのなら、今度はパイの配分とは違うかたちの政治がいるだろう。それがもしかしたら、ずっと前から安倍さんが妙に熱っぽく訴えてきたイデオロギーとか国家の価値とか、何かそういう目に見えないものなのではないのか――。


 誰も彼もみんああんまり愉快ではありません。当の安倍さんにしてからが、いよいよ安保法制が通ったときに、ほっとした顔はしたものの、決して喜色満面の笑顔というわけではありませんでした。


  安倍政権を「保守」とは呼べない

 戦後、長期にわたって政権を担当してきた自民党は「包括政党」であるところに特色がありました。保守の右から左までを幅広く取り込んできたからこそ、さまざまな理念と立ち位置のある各派閥の領袖が順繰りに政権を担う擬似政権交代を繰り返すことができたのです。

 ところが、安倍さんが総裁を務めたこの三年半の間、自民党内の異論、反論はまったくなりを潜め、次世代を含めて安倍さんに異を唱える者は出ておりません。

 安倍さんはこれまでも、そして今後も、どうやら自らの後継者を出すつもりはないようです。さらに現世利益をひたすら追求してきた自民党を、理念優先のイデオロギー政党に染めあげようとしているように見えます。

 要するに安倍さんは、営々と築かれてきた自民党の文化と伝統を受け継ごうとはしていません。これまでの古き良きものをまもろうというよりもむしろ、「戦後レジームからの脱却」というキャッチフレーズが象徴するように、憲法を頂点とした行政、教育、経済、外交、安全保障などの基本的枠組みを「打破しよう」「改変しよう」としています。

 その象徴的な事例が、2015年11月15日に迎えた「自民党結党60年」でした。11月29日に行われた記念式典は安倍カラー一色。しかし、わが党が還暦を迎えても、安倍さんは心から寿いではおらず、おめでたいとも、よくぞ続いた60年とも思っていないはずです。

 それはそうでしょう。なぜなら、安倍さんにとって自民党60年の歴史の大半は、「是が非でも逸脱したい」と考えているものなのですから。もしも60周年をお祝いしたら、そのすべてを肯定することになります。

 包括政党とはいえ、イデオロギーの振れ幅はあらかじめ限られており、安倍さんの祖父たる岸信介がいくら「憲法改正」を主張しても、自民党全体が否定すれば浮上せず、これが保守政党たる自民党の「良識」でもありました。

 ところが、保守の対抗概念であった革新、その勢力がまず崩れたために、自民党自身が「守るべき何か」の正体が見えづらくなってきた。自民党の基盤が崩れ、指針がくるくる変わっていくうちに、「何を守るべきか」がわからなくなってきました。

 本来ならば、「保守本流」を自認する宏池会の流れをくむ政治家たちが、「保守とは何か」を徹底的に詰めておくべきでした。自民党の野党時代、総裁に就いた谷垣禎一さんは、「保守とは何かを考える」と宣言しましたが、ついに明確な結論は出せませんでした。

 私は安倍政権を「保守」ではなく、「『右』寄り」と呼んできました。彼らは何も守っていない。「守るべき何か」を持っていないからです。

 もしろん、「革新」という言葉はほぼ死語です。「保守」という言葉も「保守政治家」の内実も結局、再定義できないままあるのが現在の政治状況です。


 政治が変わろうとしている中で、今ある状況を正しく見据えるためには、一度過去にさかのぼって歴史的文脈をふまえる必要があります。次回からは戦後の歴代総理のあり方を見ていきましょう。


>>安倍政権の長期政権を通じた日本の国際的プレゼンス向上が高支持率維持に寄与している

「政治家の見極め方」①


「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より
2016年3月10日 第1刷発行


 第一章 なぜ政治家の人材は底をついたのか


  安倍政権で極まる「官高党低」


 現在の安倍政権の最大の特徴は「官邸主導」、つまり官邸の役割が異常に強くなっていることです。官邸の役割が強くなればなるほど、それに対して党の役割はどんどん落ちていく。いわゆる「官高党低」傾向です。

 小泉純一郎から安倍晋三(第一次)、福田康夫、麻生太郎という総理四人の保守政権を支えた各省の優秀な官僚を可能な限り呼び集めたのです。


  官僚だけでつくる法案の死角

 かつての自民党は官僚出身者である「官僚派」と、党組織でキャリアを築いてきた「党人派」が二大勢力をなしていました。田中角栄という党人派の政治家がなぜ官僚たちに尊敬されたかといえば、官僚からは決して出てこない発想で法律を解釈し、田中が一筆入れると、これまでとはまったく違ったように法律が読めるようになったからです。


  「合理主義の権化」たる官房長官

 官邸に集結した官僚たちの政策的合理主義を上からがっちり掌握しているのが、スガ官房長官です。彼は政党にいるかつての「族議員」のような党人派ではなく、1996年初当選、総務大臣を一回やってはいるものの、安倍さん同様に政治の履歴は浅い。

 具体的には、内閣官房に「内閣人事局」を設置して、行政の幹部職員を一元管理した上で、局長級から課長まで主要な人事はすべて官邸で決める。有能な人材情報をつねに収集し、アメとムチで対処する。要するに人事でもって官僚の首根っこを押さえ、自在に官僚を操作しているわけです。


  自信喪失に陥った官僚

 2009年に民主党政権に代わったら代わったで、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦と、やはり1年前後でころころ総理が代わることに加え、今度はまた愚かなるかな、「官僚は悪だ、敵だ」と目のかたきにしてしまった。

 だからこの間、官僚たちは過去何十年かにわたって培ってきた信用と、自分たちのやり方に対する自身を喪失しました。

 かつては党内に派閥があったり族議員がいたりして、法案は野党よりもまず与党の中を通すのが大変でした。ところが、今や官邸がすべてを牛耳って整理していくれているので、どんどん仕事ができる。官僚にとっては大変ハッピーな状態が続いています。


  財務省の巻き返しはあるか

 この三年間、官僚たちは安倍-菅体制によって、ある「傾き」をもって押さえ込まれてきたからです。その傾きとは、日本経済の動向を握る官僚機構の二大中枢、経済産業省への優遇と、対する財務省への冷遇です。


  派閥は解体して仲良しクラブに

 自民党のおもな派閥を挙げれば、池田勇人に始まる「宏池会系」は大平正芳、宮澤喜一を経て現在の岸田文雄(岸田覇)に連なる系譜で、「お公家集団」とも呼ばれたハト派・リベラル派の筆頭です。

 佐藤栄作に始まる「木曜研究会系」は、田中角栄の「木曜クラブ」から竹下登の「経世会」を経て、小渕恵三の「平成研究会」に至り、現在の会長は額賀福志郎(額賀派)。各分野の族議員を擁して利益誘導政治を発展させた田中派がとりわけ強かったのが、建設、道路、郵政といった公共事業の分野でした。

 岸信介を源流とする「十日会系」は比較的タカ派色が強く、福田赳夫、安倍晋太郎、森喜朗を経て、現在の細田博之(細田派)に至ります。「清和会系」と呼ばれ、かつては田中派と大平派の主流派連合に対し、非主流派に甘んじることが多かった派閥でした。

 主流派だった宏池会、田中派に代わって清和会が自民党の主導権を握るようになり、結果的に派閥はやせ衰えていきます。そして21世紀には、派閥がもはや「仲良しクラブ」になってしまいました。


  組織に見る安倍総理の恫喝

 2015年10月の安倍内閣の改造で衝撃的だったのは、岸田派へのあからさまな冷遇でした。宏池会会長の岸田さんは外務大臣として安倍政権に寄りそって尽くしたにもかかわらず、岸田さんを除いて林芳正、上川陽子、宮沢洋一ら岸田派の閣僚は全員、閣僚から外されました。

 これは安倍さんによるある種の恫喝と見ることができます。どういうことかというと、直近の総裁選をめぐる動きの中で、無投票再選をねらう安倍サイドに対し、岸田派には若干の異なる動きがあったのです。組閣人事はそれに対する安倍さんの怒りの表現です。


  公共事業からソーシャルネットワークへ

 政治家はもはや公共事業では地元と結びつくことができない。ではどうするか。悩んだ政治家は世代を問わず、ソーシャルネットワークに頼るようになっています。


>>安倍政権の「官邸主導」の結果、党の位置付けが極めて弱くなった


「戦略読書日記」(楠木建著、プレジデント社)より ⑪



「戦略読書日記」(楠木建著、プレジデント社)より


  第19章 「当たり前」作戦
  『直球勝負の会社』出口治明著、ダイヤモンド社(2009年)


 日本で74年ぶりに生まれた生命保険会社、ライフネット生命保険。本書は創業経営者である出口治明さんが記録したライフネット生命の創業にまつわる物語だ。出口さんは、日本生命で40年近く勤務をした後、一線を退く。いったん引退してからベンチャーを始めた氏は「還暦の企業家」として話題になった。ご存知の読者も多いだろう。


 ライフネット生命の創業ビジョンはシンプルきわまりない。

 ①保険料を半額にしたい
 ②保険金の不払いをゼロにしたい
 ③(生命保険商品の)比較情報を発展させたい

 この三っつだけ。いずれもきわめて具体的で平明なビジョンである。


  直球勝負の人

 ライフネット生命の創業時にビジネスモデルを投資家に説明するとき、出口さんはいつも「ベンチャー企業が成功する五つの要因」を最初に話したという。

 ①市場の規模が大きいこと
 ②商品・サービスに対する消費者の不満が大きいこと
 ③凧を揚げる風が吹き始めていること
 ④ライフネット生命は、インターネット販売による「わかりやすく安くて便利な商品・サービスの提供」という明確なソリューションを持っていること
 ⑤参入障壁が高いこと



 第20章 グローバル化とはどういうことか
 『クアトロ・ガッツィ』若桑みどり著、集英社文庫(初版2003年)

  老教皇を号泣させた戦略ストーリー


 天正遣欧少年使節はヴァリニャーノの発案だった。グローバル化戦略の前線指揮官だった彼は、このプランを日本での布教を一層前進させるための決め手として位置づけていた。その目的は三つ。第一に、日本人にキリスト教の栄光と偉大さを見せ、それを日本人の口から日本人へと広めることによって、布教の原動力とすること。

 第二に、ヨーロッパのカトリック国の王様や教皇に、日本への物質的・精神的支援を求めること。ヨーロッパの枢機卿や君主に生きている実際の日本人を見せる。これによって、ヴァリニャーノがさんざん報告書に書き綴った「日本人がいかにすぐれているか、いかに有能であるか」が事実であることを証明する。そうすれば、日本で布教するための資金や人材をより多く、より幅広い層から獲得できるだろう、と彼は考えた。

 これに加えて第三には、政治的な裏テーマがあった。教皇庁の威信回復である。考えられないくらい遠い国から、キリスト教に目覚めたくらいの高い人間(少年たちはいずれも大名の直系だった)がやってきて教皇に拝謁する。この事実(と、それをヨーロッパの多くの人々に実際に見てもらうこと)こそが、ローマカトリック教会の当方へのグローバル化が成功した証になる。グローバル化戦略の目に見える成果を世界にアピールできる。これがヴァリニャーノの構想だった。


  グローバル人材よりも経営人材

 社員全員がヴァリニャーノである必要なない。100人中1人か2人いればよい。それが誰なのか。自分の会社のヴァリニャーノを見極めるのがグローバル経営の第一歩である。

 この本を日本企業のグローバル経営に対するメッセージとしてよめば、結論はこういうことになる。「あなたの会社にヴァリニャーノがいるか。いるとしたらそれは誰か」。この問いに対して答えがすぐに出ない企業はグローバル化に踏み出すべきではない。その前にすべきことがたくさんある。



  第21章 センスと芸風
  『日本の喜劇人』小林信彦著、新潮文庫(1982年)*絶版


 昭和を代表する喜劇人についての芸論の傑作である。著者の小林信彦は芸論の天才であり、なかでも本書は極上の域に入る絶対の名著といえる。文中に登場する昭和の喜劇人を誰ひとり知らない人でも、本書の深い味わいを堪能していただけると確信する。

 『名人――志ん生、そして志ん朝』『世界の喜劇人』『笑学百科』『森繁さんの長い影』『喜劇人に花束を』(好著!)『天才伝説 横山やすし』(名著!)『テレビの黄金時代』(大名著!)、『おかしな男 渥美清』(超名著!)など、著者には本書のほかにも多くの芸論がある。僕はそれぞれ10回以上読んでいるのだが、そのなかでも『日本の喜劇人』にはとりわけ深い影響と感動を受けた。


  センスは芸風に表れる

 芸論は喜劇人や芸能人に限らない。「人間の芸」全般についての論として読むことができる。芸論が面白いのは、「芸」というものがセンスそのもの、剥き出しのセンスを問われる分野だからだ。

 商売丸ごとの経営や戦略という仕事になると、スキルだけでは歯が立たない。その人に固有のセンスがものをいう。センスは内在的なものなので、外から見ていても直接にはわからない。センスをつかもうとすれば、その人の「スタイル」を見なくてはならない。「その人に固有のセンスが観察可能な行動や振る舞いとして表出したもの」がスタイルである。


 本章と本書の締めとして、最後に『日本人の喜劇人』にある最近故人となった喜劇俳優、小沢昭一の言葉を引用したい。


ぼくの芝居、半分ぐらいの人は、あいつ、何やってるんだと思うでしょうが、あとの半分が、うむ、やってる、やってる、と頷いてくれる。そういう役者になりたいですねえ。


 僕が自分のよりどころとしてきた言葉の一つである。 自分の仕事を分かる人はわかってくれている、これが僕にとっては理想的な仕事である。

 例によってくどくど長々と書いてきたこの本(くどいのが僕の芸風なのでどうかご勘弁を)もこれでおしまい。読者の半分ぐらいの方々に「やってる、やってる・・・・・・」と思っていただけれたとすれば、それに勝る喜びはない。


>>自分固有のセンスを磨いて、独自のスタイルを確立してゆきたい

「戦略読書日記」(楠木建著、プレジデント社)より ⑩



「戦略読書日記」(楠木建著、プレジデント社)より


 第16章 日ごろの心構え
 『生産システムの進化論』藤本隆宏著、有斐閣(1997年)

  言行一致の人


 拙著『ストーリーとしての競争戦略』では、「自分が大切だと思うこと、本当に言いたいと思うことだけを言う」「ただし、言いたいことは全部言う」というスタンスだけは絶対にブレないようにした。

 自分なりに自分が本当にスキだと思えることをやる。スキであればそれなりの努力ができる。努力を継続できる。努力を継続すれば、そこそこ上手になれる。上手になれば人の役に立てる。そして、何よりも大切なことは、自分以外の誰かの役に立ってこその仕事だということ。これが藤本さんの一連の著作から学んだ、僕の「日ごろの心構え」だ。



  第17章 花のお江戸のイノベーション
  『日本永代蔵』井原西鶴著、掘切実訳注、角川ソフィア文庫(初版1688年)


 タイトルにある「永代蔵」とは「永続する蔵」のこと。金持ちになること、資産を増やすことを第一とする江戸時代の商人の生きざまや悲喜劇を描いている。

 ありとあらゆる成功や失敗の話が詰まっているが、そのほとんどが西鶴の作り話。サービス精神豊富で、誇張が入りまくっているからめっぽう面白い。面白がって読んでいるうちに、教訓めいた部分もすんなりと頭に入ってくる。ようするに、お金を貯めるには、ふやすには、減らさないためには、という話の連続だ。


  さすが西鶴、さすがの才覚

 「カネなんてあっても仕方がない」と「やっぱりカネがものをいう」という、正反対の主張の間を高速でいったりきたりする。矛盾を矛盾のままダラリと提示するのが「井原スタイル」だ。


 西鶴の本音は「どっちも真実」である。こうした論理的には一見矛盾した話を次から次へと繰り出すことによって、西鶴は商売と金儲けの本質を鮮やかに浮かび上がらせる。



 第18章 メタファーの炸裂
 『10宅論』隈研吾著、ちくま文庫1990年(初版1986年)

  メタファー大魔神による「クラブ派」の解読


 そのもっとも明白な証拠はクラブの女性という独特の存在である。これはもう酒場の女性の形態としては、世界的に見て例外に属する。クラブの女性がクラブで行うサービスは、住居の中で妻が夫に対して行うサービスのコピーであり、それも一種の理想化されたコピーである。

 銀座のクラブのような場所は世界的にも類例がない。「日本固有の文化」といってもよい。クラブではお酒はもちろん、おつまみや煙草、さらにはおしぼりといった小物に至るまで、必要なものが阿吽の呼吸で即座にサービスされる。どんな話題にもクラブの女性は柔軟についてくる。つかるはなれずの上品で上等なサービスが顧客に供される。


 最初の著作『10宅論』は、後年の『負ける建築』や『場所原論』のように著者の本業である建築物への具体化を伴わない、純粋な「思考の遊び」である。それだけに、著者がひたすら好きでやっていることがよくわかる。

 第16章の藤本隆宏さんもそうなのだが、隈研吾さんもまた「好きこそものの上手なれ」の権化のような人である。若いときから好きで続けてきた知的な営みが、のちに独自の建築の概念へと結実し、それを仕事として自ら建築物に具現化する。仕事をする人間の姿として、一つの理想である。


>>「好きこそものの上手なれ」の権化のような独自のビジネスの確立を目指してゆきたい

「戦略読書日記」⑨


「戦略読書日記」(楠木建著、プレジデント社)より


  第14章 普遍にして不変の骨法
  『映画はやくざなり』笠原和夫著、新潮社(2003年)*絶版



 笠原和夫は僕にとって「プロとはどういう人か」に対して丸ごとの答えをいただけるモデルである。

 彼に関する本でいちばん読み応えがあるのは、なんといっても『昭和の劇』だろう。膨大な資料と濃厚な対談を通じて一流のプロ意識がダイレクトに伝わってくる。とはいえ、600ページ以上のタオ著で、4500円もする。これはどちらかというとマニア向けなので、笠原和夫初心者におすすめの一冊、『映画はやくざなり』を取り上げる。この本の前半を読むだけでも、プロ意識の何たるかを十分に味わっていただけると思う。

 本書意外にも、笠原和夫の著書はどれも面白い。『映画はやくざなり』を気に入っていただけた方には、『破滅の美学』『「妖しの民」と生まれてきて』の二冊をおすすめるす。本人が書いたものではないが、小林信彦の例によって例のごとくの傑作芸論、『天才伝説 横山やすし』も笠原のプロとしての凄みをよく伝えている。


  「作品」と「商品」の狭間で

 ひょんなことから知り合った友人に磯崎憲一郎さんがいる。『終の住処』で芥川賞を取った小説家だ。先だった読んだ磯崎さんの小説『赤の他人の瓜二つ』は本当に素晴らしかった・時間が不思議な流れ方をする小説で、上等な夢を見ているような気持ちになる。「これが文芸の力か!」と思わせるものがあった。

 プロには二枚腰がいる。会社に反旗を翻してばかりいたら干されてしまう。それでも、たまには会社の意向に逆らってでもおのれの腕前のほどをきっちり見せておく。そうしないと、プロとしての自分の真価や本領が相手に伝わらない。笠原は「これが映画屋の鉄則」と言っている。


  まずはコンセプト、書くのは最後

 笠原は「書く」という作業を仕事の最終段階と定めている。「書く」のはストーリーづくりの最後にくる一要素でしかない。笠原は脚本を書くという仕事の「順列」を次のように定めている。ここに笠原の戦略のカギがある。

 ①コンセプトの検討
 ②テーマの設定
 ③ハンティング(取材と資料蒐集)
 ④キャラクターの創造
 ⑤ストラクチャー(人物関係表)
 ⑥コンストラクション(事件の配列)
 ⑦プロットづくり


  「正しさ」よりも「切実さ」

 笠原の言う「体の内側から盛り上がってくる熱気と、そしてこころの奥底に沈んでいる黒い錘り」、これなしには戦略ストーリーはできない。自分にとって切実なものは何か、理屈抜きの自分の血の騒ぎは何なのか、そういう自問自答が戦略ストーリーの起点にあり、終点になければならない。自分にとって「切実なもの」、それが戦略の原点であり、頂点である。



 第15章 ハットして、グッとくる
 『市場と企業組織』O.E.ウィリアムソン著、日本評論社(1980年)*絶版

  ガツンとくる


 論理の面白さには、大別して三パターンがあると僕は考えている。一つは「ガツンとくる(で、グッとくる)」。これだけだと擬態語だけなので説明になっていないが、ガツンとくるというのは、ようするに本質論の面白さだ。 

 たとえば、野中郁次郎さんの知識創造理論。これはガツンとくる論理の好例だ。野中さんは「知識が想像されるとはどういうことか」を考える。ご存知の方も多いだろう。暗黙知→形式知(表出下、形式知→形式知(連結化)、形式知→暗黙知(内在化)、暗黙知→暗黙知(共同化)、という変換スパイラルを組織的に起こしていくということがすなわち知識の創造であるというかの有名な「SECIモデル」、これが野中理論の柱である。ご関心がある向きは『流れを経営する――持続的イノベーション企業の動態理論』をどうぞ。


  ハッとする

 論理の面白さの二つ目のタイプが、「ハッとする」(で、グッとくる)というものである。

 『ストーリーとしての競争戦略』で僕なりにいちばん価値があると思っている論理は、「戦略を構成する部分と戦略ストーリー全体では合理性にギャップある」という話だ。ここから「非合理の合理性」という考えが出てくる。儲けるために「よいこと」をやっているだけでは、持続的な差別化は不可能だ。そもそもそんなに「よいこと」であれば、とっくに誰かがやっているだろうから差別化にならない。「間違ってなければ違いにならない」のである。


  ズバッとくる

 論理の面白さの三つ目のパターン、それは構成概念自体の面白さである。このタイプの面白さは、「ガツン」でも「ハッ」でもなく、「ズバッとくる」(で、グッとくる)。この辺、それぞれの違いが伝わるか若干不安なのだが、気にせず話を勧める。

 「ガツンとする」本質論にはコクがある。「ハッとする」逆説にはキレがある。このコクとキレに対して、「ズバッとくる」構成概念は、天然の素材の美味しさで勝負する。ようするに、その概念が本来もっている魅力、論理的な美しさである。論理のエレガントさ、と言ってもよい。


  「面白さのツボ」を見つける

 知識の質は論理にある。知識が論理化されていなければ、勉強すればするほど具体的な断片を次から次へと横滑りするだけで、知識が血や骨にならない。逆に、論理化されていれば、ことさらに新しい知識を外から取り入れなくても、自分の中にある知識が知識を生むという循環が起きる。

 読書や勉強に限らず、どんな分野のどんな仕事でも、優秀な人というのは「面白がる才能」の持ち主だ。面白がるのは簡単ではない。人間の能力の本質ど真ん中といってもよい。時間をかけてでもそうした才能を開発できるかどうか、ここに本質的な分かれ目がある。


>>たまには会社の意向に逆らってでもおのれの腕前のほどをきっちり見せられるようなプロを目指してゆきたい

「戦略読書日記」(楠木建著、プレジデント社)より ⑧


「戦略読書日記」(楠木建著、プレジデント社)より


 第12章 俺の目を見ろ、何にも言うな
 『プロフェッショナルマネジャー』ハロルド・ジェニーン著、プレジデント社(原著初版1984年)

 
  人間に対する深い洞察


 彼は「すべてのよい経営者のもっとも重要かつ本質的な要素は情緒的態度である」と断言する。

 本書の末巻近くに、ジェニーンが「経営についての個人的な勧め」として自らの経験を通じて確信するに至った原理原則を完結にまとめている。柳井さんの『一勝九敗』を論じた第2章でも述べたように、原理原則とは経験を煎じ詰めたものなので、字面だけ読むと当たり前のことなのだが、これを読むだけでも、いかにジェニーンが「人間主体」の人であったかが感じ取れるだろう。

 ・物事がいつでもなされるやり方に自分の想像力をとじこめるのは大いなる誤りである
 ・本来の自分でないものの振りをするな
 ・事実そのものと同じくらい重要なのは、事実を伝える人間の信頼度である
 ・本当に重要なことはすべて自分で発見しなくてはならない
 ・組織の中のよい連中はマネジャーから質問されるのを待ち受けている
 ・物事の核心を突く質問をいやがるのはいんちきな人間に決まっている
 ・とりわけきわどい決定はマネジャーのみが行わなくてはならない

 
  経営は成果、実績がすべて

 彼にとって、経営とは成果以外の何物でもない。経営論とはつきつめれば三行で終わると喝破している。

  本を読むときは、初めから終りへと読む。
  ビジネスの経営はそれとは逆だ。
  終わりから始めて、そこへ到達するためにできる限りのことをするのだ。

 本書の最終章は、「やろう!」と大されたわずか1ページ足らずの文章。ジェニーンの話はこんな言葉で締めくくられている。


言葉は言葉、説明は説明、約束は約束・・・・・・なにもとりたてて言うべきことはない。だが、実績は実在であり、実績のみが実在である。――こればビジネスの不易の大原則だと私は思う。実績のみが、きみの自信、能力、そして勇気の最良の尺度だ。実績のみが、きみ自身として成長する自由をきみに与えてくれる。覚えておきたまえ。――実績こそきみの実在だ。ほかのことはどうでもいい。


  俺の背中に書いてある

 この本を読めばいい経営者になれるわけではない。当たり前である。しかし、自分がはたして経営者を目指していいかどうか、それだけの覚悟があるかどうかは、この本がいやというほどわからせてくれる。その意味で、本書は経営者にとって「最高の教科書」である。



  第13章 過剰に強烈な経営者との脳内対話
  『成功はゴミ箱のなかに』レイ・クロック著、プレジデント社(原書初版1977年)



 前章の『プロフェッショナルマネジャー』とぜひペアで読んでいただきたい本があるので、本書ではそれを取り上げる。マクドナルドの創業者、レイ・クロックの自伝『成功はゴミ箱の中に』である。世界最大の外食企業、マクドナルドを創った経営者の自伝。掛け値なしに面白い。


  今もクロックの声が聞こえる

 本書の巻末に収録されている対談で、ソフトバンクの孫正義さんが「例・クロックは52歳という年齢から大きな仕事を始めている。日本で50歳を過ぎた人が道端のレストランを見ても、なかなか起業には踏み出さない」とコメントしている。


 「お前もカロリーがどうとかこうとか言っているわりにはしょっちゅう来るじゃないか。どうだ、俺の創った商売は? マクドナルドは安くてうまくて早くて便利で、もう最高だろ!?」。レイ・クロックの大声が耳元で聞こえた気がした。彼が創った商売の原型は何十年たっても変わらない。僕は確かに彼の戦略ストーリーのリピーターなのだ。


>>ビジネスにおいて、終わりから始めて、そこへ到達するためにできる限りのことをトライし続けてゆきたい

「戦略読書日記」⑦



「戦略読書日記」(楠木建著、プレジデント社)より


  第10章 身も蓋もないがキレがある
  『ストラテジストにさよならを』広木隆著、ゲーテビジネス新書(2011年)


 その分野にまるで関心がない人にも面白く読ませてしまう指南書がごくまれにある。個人投資家向けの株式投資の指南書、『ストラテジストにさよならを』はまさにそういう本である。


  門外漢にも面白い

 いずれにせよ、やたらに「人間的」なのがお金である。カネに対する構えにはその人の人となりが如実に表れる。だから、人前でカネの話をすることははばかれる。正論とか建前では割り切れないのがカネである(僕の偏った経験によれば、一見カネに無頓着で恬淡としていそうな大学の先生ほど、実は細かいカネの損得にやたらとうるさかったりする)。稼ぎ方や使い方についての考えや主義は人それぞれだが、そもそもカネそのものがキライ、頼むから勘弁してくれ、なんだったらカネを払ってもいいからあっちに行ってくれ、という人はあまりいないだろう。

 カネの話をすると、その人の本性と本能と本質がわりと剥き出しいになる。たとえば、ジョージ・ソロス。カネ儲けの現場最前線の修羅場で、一生を賭けて朝から晩までのべつカネ儲けのことを考えてきたという人である。彼の一連の著作、たとえば『ソロスは警告する』や『ソロスの講義録』を読むと、資本主義を論じるにしても、その辺のホントは迫力が違う。話がきわめて抽象的な本質論に向かっていくのだが、資本主義の人の世のメカニズムがずっと深いレベルで理解できる(気分になる)。

 もっとあからさまなそうした指南書でも、人間の本性を抉り出す快作がある。たとえば土居雅紹氏の『勝ち抜け!サバイバル投資術』。これはタイトルにあるように文字通りの投資の指南書、ストレートにテクニックを教示する本であるが、その内容は一言で言ってドストエフスキーばりの「人間悲喜劇」で、実に面白い。

 わかっちゃいるけど、やめられない。だとしたら、普段は何をやっても儲からなので静かにしていたほうが得策、10年に1回のバブルのときだけ勝負をすべし、というのが土居さんの話だ。氏の提唱する投資術が有効かどうかは確かめようがないが、世の中とはこういうものだ、人間とはこういうものだ、という著者の洞察にはコクがある。これにしても、カネを相手にしている話だからこその味わい。下品な結論ではあるが、やっぱりカネの話は面白いのである。


  「投資法」より「投資論」

 人間の本性に対する洞察に溢れたコクのある一冊である。株式投資に関心のある個人投資家を直接のターゲットとして書かれている。


 出発点となる問題意識は「なぜ個人投資家の多くが儲からないのか」「成功体験が少ないのはどうしてなのか」である。「市場の見通しも株価の予想も半分以上は外れる」というのが、著者の見解だ。いきなり身も蓋もない話だ。

 著者はマネックスのストラテジストである。にもかかわらず「ストラテジスト」「アナリスト」「エコノミスト」といった専門家の予想やコメントはまったく当てにならないと言い切る、さらに言えば、著者も含めてこうした専門家は、市場の予測能力という点ではみんな似たり寄ったりだと言う。


  本質は盲点にあり

 ようするに「予想」という「できるわけがないこと」を求められているのがストラテジストだという、身も蓋もない結論である。


  人間の本性を直視する

 カーネマンとトヴェルスキーという二人の経済学者が提唱した有名な理論に「プロスペクト理論」がある。行動ファイナンスの代表的な理論で、カーネマンはのちにノーベル賞を受賞した(トヴェルスキーはその前に亡くなっている)。プロペくと理論というのは、「人は利益から得る効用(満足)よりも、損失から得る効用(苦痛)のほうが大きい」という、満足と苦痛の非対称性を数学的に説明するモデルである。


  こちらがブレなければ相手が勝手にブレてくれる

 本書の白眉は最後の章、「投資とは不確実性を相手にするゲーム」にある一節だ、僕がいちばん感銘を受けたのは、「自分はブレず、当たり前のことをきちんとやっていればそれでいい」というくだり。


「株式投資なんかで夢は見るな。夢は仕事で追え」と広木氏は釘を刺す。株で何億儲けた、資産を何倍にしたといった一攫千金の話は聞き流せ。 まわりが全員背脂ギラギラのとんこつチャーシューラーメン(煮玉子追加)をがっついているなかで、一人淡々とせいろそばを食べているかのような別境地。しかし、このせいろそばにはキレがある。つゆのダシにもコクがある。味わい深い一冊である。



 第11章 並列から直列へ
 『レコーディング・ダイエット 決定版』岡田斗司夫著、文春文庫(2010年)

  目からウロコのコンセプト


 第一に、コンセプトがいい。戦略ストーリーのコンセプトとは、「ようするにあなたの戦略を一言で言うと?」という問いに対する答えである。

 レコーディング・ダイエットのコンセプトは「太る努力をやめる」、この一言に尽きる。単純にして冥界、しかも創造的。秀逸至極なコンセプトである。


  物事の順番にこだわる

 第二に、何をやるかよりも、それをやるタイミングと順番、そしてその背後にある論理にこだわっているのがいい。物事が起きる順番にこだわる。

 岡田氏はレコーディング・ダイエットを、飛行機になぞらえて、次の八段階に分けている。助走、離陸、上昇、巡航、再加速、機動到達、月面着陸、月面リゾートの生活(こうなるともう飛行機を超えているが)。助走の期間では、ガマンは禁物だ。むしろ、痩せよう、食べるものを減らそうなどとは思わずに、「ダイエットしたくなるのをガマンする」くらいでちょうどいい、精神的にきついことは一切するなというわけだ。


 第三に、このダイエット法が素晴らしいのは、 飛び道具にまったく依存していないところだ。カロリーを抑える夢のような食品や薬品、お腹をへこませる強力なマシンといった類のものは一切必要ない。


 「ソーシャル!」とか「グローバル!」とか「クラウド!」(これはもはや旬を過ぎた?)とか、ワンフレーズのかけ声を戦略と勘違いしている人が少なくない。そういう人は、まずはレコーディング・ダイエットをそれが意図するストーリーに忠実に実行して成果を出し、戦略における時間展開の大切さを身をもって実感してみることをおすすめする。


>>その人の人となりが如実に表れるお金には恬淡であり続けてゆきたい

「戦略読書日記」⑥



「戦略読書日記」(楠木建著、プレジデント社)より


 第8章 暴走するセンス
 『おそめ』石井妙子著、新潮文庫【初版2006年】


  夜の銀座のイノベーション


 ラ・モールが革新的だったのは、おそめやエスポワールのような「マダムが自分の才気と魅力をもって経営する」というやり方をとらず、花田美奈子という雇われマダムを立て、接客と経営を分離したことだった。天井からシャンデリアを吊るし、大理石の床には分厚い絨毯を敷きつめ、美人のホステスをそろえる。開店の挨拶状は、パリから花田美奈子の名前で出し、そこにはパリのクラブ「ムーラン・ルージュ」と姉妹契約を結んだ店であると書かれていた。


  「残したいのは名前だけ」

 店が落ちぶれても、相変わらず新幹線の車掌にチップとして1万円を握らせるような、秀の滅茶苦茶な金銭感覚は変わらなかった。さすがに夫が怒ると「物もお金も残す気持ちなんかありまへん、うちが残したいのは名前だけです」と啖呵を切る。そこには計算はなく、徹頭徹尾自然体の天才だった。そして、事実として秀は物もお金も残さなかったが、一代限りの伝説を残したのである。

 おそめの爆発的な繁栄と、意外に早かった凋落が教えてくれるのは、商売の理屈で割り切れない部分の重みである。本書『おそめ』には。理屈抜きの商売の面白さ、楽しさ、美しさ、難しさ、怖さ、深さ、哀しさがすべて詰まっている。筆運びや構成も秀逸で申し分ない。秀の人生を象徴的に描くエンディングも素晴らしい。その哀しくも美しい姿にため息が出る。

 商売と競争のすべてがここにある。一読して唸る傑作である。



  第9章 殿堂入りの戦略ストーリー
  『Hot Pepper ミラクル・ストーリー』平尾勇司著、東洋経済新報社(2008年)


 一連の「寅さん映画」がスキかと言われればそうでもないのだが(渥美清主演の映画では、野村芳太郎監督の軍隊喜劇『拝啓天皇陛下様』がベストだというのが私見。この映画には贅沢なことに藤山寛美が助演で出ていて、渥美とのやりとりがもう最高。とはいっても寅さんシリーズの初期の数本はさすがにシビれる。とくにミヤコ蝶々の怪演と渥美清の持ちネタ全開の演技が火花を散らす『続・男はつらいよ』は傑作)、僕は渥美清という俳優を人間として大いに尊敬している。人生の師の一人といってもよい。この国民的大俳優についての評伝は数え切れないほど出ているが、芸論の帝王、小林信彦の手による『おかしな男 渥美清』がなんといっても出色の出来だ。


  「そういうことか・・・・・・」「面白いねえ・・・・・・」

 面白そうな映画があると、渥美は観る前から子供のようにワクワクしていたという(「映画を観るのにワクワクしない人を僕は信用しない」というのが小林のスタンス)。 よくできたシークエンスにさしかかると、渥美は「そういうことか・・・・・・」「面白いねえ・・・・・・」と独り言をつぶやく。


 面白そうな会社に出合う。その戦略を眺めてみる。ときには「面白いねえ!」「よくこんなこと考えたな・・・・・・」と、思わず唸るような秀逸な戦略ストーリーにぶつかる。


 『Hot Pepper ミラクル・ストーリー』は、著者の平尾勇司さんがリクルート在籍時に構想し、実行した戦略ストーリーを振り返った書である。「ホットペッパー」の戦略ストーリーは不朽の名作、僕に言わせれば「戦略スト-リーの殿堂入り」の大傑作だ。「戦略ストーリーって何?」と聞かれたら、即座に「ここに全部ある」と言える。優れた戦略の条件が詰まっている。その解読は僕にとって極上のワクワク経験だった。拙著でもかなり紙幅を割いて話しているので、興味のある方はそちらも併せて読んでいただきたい。


  「勝利の方程式」の真逆を行く

 ホットペッパー事業の前身として、リクルートには『サンロクマル(360°)』という雑誌があった。サンロクマル事業のコンセプトは「広告付き電話帳」。特定エリアの領域情報をすべて掲載するという意味だ。ところが、サンロクマルは創刊から七年たっても一向に黒字化できないお荷物事業となっていた。


 平尾さんはこの迷走事業の事業部長をいきなり任された。彼がまず手をつけたのは、「広告付き電話帳」というコンセプトの再定義だった。ホットペッパーのコンセプトは「境域情報ビジネス」。 ホットペッパーの本質は「特定の狭い地域に限定された消費情報を、今までにない形で流通させ、その地域の消費を喚起する」ことにあると定義された。ひいては「地元の消費を活性化し、地域を元気にする」。これがホットペッパーの目的となった。言葉としては素っ気ないが、「教育情報ビジネス」は大義をとらえた志の高いコンセプトであった。

 面白いことに、このコンセプトはそれまでのリクルートの「勝利の方程式」のことごとく逆を行くものだった。当時のリクルートで王道とされていたのは、大都市に広域巨大メディアをつくり、大量の広告ページを捌きつつ、媒体としての価値を高め、収益を上げていくという巨漢型のモデルである。必然的に高原価、高経費、高人件費構造となる。その上で、高いコストを上回る価格で広告が売れることを目指す戦略だ。しかし、このストーリーには限界も見えてきていた。

 
 当時のリクルートのロジックでいえば、境域情報を扱う商売は非効率以外の何物でもなかった。しかし、そこに新しい戦略ストーリーを持ち込めば、境域情報が高収益額・高収益率のビジネスになると考えた。ホットペッパーの戦略ストーリーは、戦略不在で「家業」の集合体にとどまっていたサンロクマルを、リクルートの新しい柱となるような「事業」への転換しようとするものだった。


  「動き」と「流れ」の戦略思考

 平尾さんの描いた戦略ストーリーをつぶさに見ていくと、彼がいかに物事の「順番」にこだわっていたかがよくわかる。戦略ストーリーとは個別の意思決定やアクションの綜合(シンセシス)である。

 「綜合」というとすぐに「シナジー」とか「組み合わせ」という言葉が出てきがちだ。しかし、ストーリーという戦略思考の神髄は、組み合わせよりも「順列」にある。物事の時間的な順番に焦点を合わせるからこそ、因果論理が明確になり、戦略に「動き」が出てくる。「流れ」を持ったストーリーになる。

 平尾さんは、まず半径二キロの商圏で、飲食業者、とくに居酒屋に限定して広告受注の営業をかけた。次に、9分の1ページの広告を3回連続で受注する。そのために1日、1人、20軒、訪問を実行する(後述するように、のちにこの流れは営業戦略の中核として、全員が唱える「念仏」となる)。このやり方で、半径2キロ圏内でNTTデータに登録されている飲食店件数の15%を獲得、もしくは100件を超えたら次の美容院やスクールといったコンテンツに向かう。このように、「手をつける順番」がやたらとはっきり決められていた。


 事業をスタートしたばかりの初期の段階では、このように戦略ストーリーで物事の順番を明確にしておくことがとりわけ大切になる。多くのことが「やってみなければわからない」からだ。とくに初期の段階では、やることなすことが実験の連続になる。時間軸が明確に入ったストーリーになっていれば、きちんと早く失敗できる。構想した戦略がどこでスタックしたのか、何を外したのか、どこがまずいのかがたちどころにわかる。平尾さん流にいいうと、「誰がバカかわかる」のである。


  ネットの時代に紙媒体

 ユーザー(読者)が情報にお金を払わなくなった以上、ホットペッパーを無料で配るフリーペーパーとするのは当然の選択だった。リクルートにお金を払ってくれる「本当の顧客」は読者ではなく、いうまでもなく、広告を出すクライアントである。 先行する競合と差別化するには、独自の価値を提供する必要がある。その武器とされたのが「クーポン」だった。

 クーポンは普通巻末などに付録的についているものだった。ところが、平尾さんはクーポンをメインコンテンツに格上げした。その結果、あらゆる記事は「写真とキャッチコピーとクーポン」というシンプルなフォーマットで統一された。フリーペーパーのおまけとしてクーポンが「ついている」のではない。クーポンそのものが雑誌の主役になった。読者から見たホットペッパーは「クーポン・マガジン」であった。

 クライアントはホットペッパーの効果をクーポンの「戻り枚数」で実感できるのである。「クーポンの戻り枚数、来客数、客単価」で広告効果が売上換算できる。つまり、クーポンはユーザーにとってのホットペッパーの魅力になるだけでなく、広告の対価を払うクライアントに向けても、競合との差別化を打ち出すための仕掛けだった。絵に描いたような一石二鳥である。


  太くて長いストーリー

 一石で何鳥にもなる打ち手を中心に太いストーリーを組み立てる。優れた戦略ストーリーの条件の一つだ。


 デフレの時代、「定価を下げずにお値打ち感を感じてもらう」ことは飲食店にとって切実な課題となっていた。この課題に正面から応えることができる。これで一石三鳥になる。「クーポン文化を醸成しデフレスパイラルを止めて日本の街を元気にする」という狭域情報ビジネスの本領発揮である。

 クーポンのよさは、さらにもう一つあった。一石四鳥である。クーポンを前面に押し出すことによって、すでに見たように、「写真とキャッチとクーポン」というフォーマットでコンテンツをつくることが可能になった。このようなフォーマットにすると長い記事を書く必要がなくなる。誰でも原稿をつくることができる。これによって、クリエイティブコストの大幅な削減が可能になった。ベテランの制作マンではなく、営業マンが自分で原稿をつくるという仕組みができた。テンプレートと呼ばれる原稿制作のフォーマット・パターンを用意し、日本全国どこからでも原稿を入れられるウェブ入稿システムも構築された。「どんなに離れた場所で事業を立ち上げてもそのクオリティを決して落とさない」仕組みが出来上がった。


 ホットペッパー事業は生活圏ごとの「版」が単位になっている。スタートした直後から成功したのは、東京から遠く離れた札幌版だった。 これ以降も、どこかの版で成功した施策は、すべての版に共通のフォーマットに採用され、他の地域版へ横展開されることとなった。「版」を単位とした経営は、横展開を通じて戦略のストーリーの絶え間ない進化をもたらした。

 さらに、ホットペッパーの戦略ストーリー自体がリクルートの他の事業への横展開可能であった。その後、リクルートは『タウンワーク』や『ゼクシィ』などのメディア事業を地方都市へと展開していくことになる。この背景には、狭域情報のコンセプトを起点としたホットペッパーの戦略ストーリーの横展開があった。平尾さんがホットペッパーでつくった戦略ストーリーは、最終的には「狭域情報ビジネス」というリクルートを支える柱の一つに成長したのである。


  戦略の立案と実行を区別しない

 ことほど左様に、ホットペッパーの戦略ストーリーはどこを切っても秀逸なのだが、僕がもっとも感銘を受けたのは、平尾さんの構想したストーリーがその実行にかかわる人々の気持ちに火をつけ、人々を実行に向けて自然とやる気にさせるものになっているということだ。

 この本を読んでつくづく思う。戦略の立案と実行は本来一体であり、分けて考えられない。戦略の実行を担う現場の人々にとって、自然と実行する気になるように立案されている戦略でなければ、戦略としてそもそも意味がない。実行する人々の背中を押し、前のめりにさせる力を持ったストーリー、それが優れた戦略なのである。


 こうした考え方を、平尾さんは「一人屋台方式」と言っている。一人の営業が新規開拓、既存顧客リピート営業、電話営業のすべてを行ったうえで入金もフォローし、さらに原稿もつくる。一気通貫の仕事のやり方だ。

 平尾さんの戦略思考の特徴を如実に示しているもう一つの典型的な例が「プチコン」である。ホットペッパーの営業スタッフは、飲食店の料理の中身や店のコンセプトについては素人だ。つまり、本格的な「コンサルティング」はできるわけがない。

 この辺のリアリズムが素晴らしい。多くの企業が「これからは顧客の問題解決をするコンサルティング営業がカギ!」とか言っている。しかし、実際はかけ声倒れになっているのがほとんどだ。平尾さんの思考と行動はそうしたフワフワしたかけ声だけの「戦略」と一線を画している。

 ただし、本格的なコンサルティングはできなくても、キャッチコピーのつけ方や、おいしそうな料理写真の撮り方といった表現領域に関することであれば、数多くのクライアントにたいしてそればかりやっている営業スタッフだからこそ、価値ある提案ができる。この表現領域に限定したコンサルティングが「プチコンサルティング」、略して「プチコン」だった。

 平尾さんは、プチコンという考え方を導入することで、顧客とともに考え、ともに創っていくクリエイティブなパートナーとしての営業スタイルを目指した。これを組織内に浸透させるために、プチコンのコンテスト、「プチコンコン」なるものも開催する。全国の営業マンが自分の仕事をプチコンとしてまとめ、その中身を競い合う。その内容は冊子としてまとめ、営業マン全員に配る。

 一見ノリでやっているイベントに見えるが、決して一過性のイベントとして終わらせない。成功体験はきっちりと会計歌詞、パッケージ化する。発案したスタッフの個人名をつけて、たとえば「菅波葉子の『新規飛び込み福の神営業』」とか「岡田奈奈絵の『3年契約受注営業』」というように、名前をつけて全員で共有する。


  非正社員の力をテコにした総力戦

 つくづく感心するのは、こうした戦略を動かす戦略の中心が非正社員だったということだ。当時のホットペッパー事業は、1500名体制で85%が非正社員だった。正社員に依存するよりもコスト優位が期待できるのはいうまでもない。 「資質と想いとスピード」において、むしろ非正社員のほうが優れているというのだ。

 なぜか。非正社員は新事業に取り組む際に失うものがない。だから「冒険ができる」。ところが、正社員となると、どうしても自社内の評価が上がるか下がるかを気にしてしまう。保身に汲々としているような正社員は、ストーリー実行の障害物でしかない。非正社員であれば顧客にとって正しいか正しくないかを基準に動くことができる。顧客と正面から向き合ったプチコン、そこで集客のストーリーを提案できるかどうかがクライアント獲得のカギとなる。ここまで見てきたように、ホットペッパーの戦略ストーリーは、平尾さんの下に集まった非正社員の心に火をつけるものだったのである。


 一貫したストーリーがあるからこそ、戦略が組織の隅々まで浸透し、人々の心にスイッチが入り、無理なく実行へと移される。戦略ストーリーは誰もが簡単に理解し、行動できるようなものでなければならない。それで初めてビジネスが文字通りの総力戦になる。

 これは仕事を誰でもできる作業標準に落とし込む「マニュアル化」とは似て非なるものである。あくまでも、人間の気持ちや判断が入って初めて動くのが戦略であり、そうでなければ人が育たない、と平尾さんは言う。

 たとえば「念仏」。「コア商圏・飲食・居酒屋・九分の一・三回連続受注・20件訪問・インデックス営業」というのが念仏の中身なのだが、これはようするに戦略ストーリーの構成要素をそのまま並べたものである。これを朝会でも、キックオフミーティングでも、表彰者スピーチでも、飲み会でも、それこそ独り言でも誰もが口ずさむ状態にまで浸透させる。四六時中、口に出しているから「念仏」なのだ。

 戦略ストーリーを全員で共有して、実行するためのシンプルな仕組みではあるが、決してマニュアルではない。念仏で戦略ストーリーを意識させることはできるが、あとは一人ひとりがストーリーの実現に向けて何をすればよいのかを考えなければならない。この辺のさじ加減が絶妙である。


  建設的悲観主義

 提案営業の現場での難しさを体験した幹部社員は、どうやったらお店の扉を開けてもらえるか、お店に入れてもらったところでどうやって意思決定権のあるオーナーに話をさせてもらえるか、とうやったら五分間話を聞いてもらえるか、何をどういうタイミングで話せばいいか、そうした細部に注意をはらい、現場目線でストーリーを組み立てていく必要性を痛感する。その結果、実に細かく、丁寧に、具体的に、ステップ・バイ・ステップでストーリーが紡がれることになる。ストーリーの肝になるところについては、超ミクロ・超具体的なとこでまで目配りが利いている。

 現場の人間が物怖じしたり、考え込むことなく、確信をもって戦略の実行に飛び込んでいける背景には、ここまで徹底的に実行を意識したストーリーづくりの姿勢があった。このエピソードを読んだときには、ここまでやるか! と舌を巻いた。

 平尾さんは戦略の実行については「建設的悲観主義」の立場に徹している。「これからはコンサルだ! ソリューションを売ってこい!」というハッパをかけるだけで、現場でどんあことがお起きているのかを素人もしないかけ声だけの「リーダー」は、平尾さんと逆の「破滅的楽天主義」に冒されている。そうした人からは現場の人々を突き動かすストーリーは決して出てこない。


  「ストーリーテラー」としてのリーダー

 リーダーとはようするに「ストーリーを語る人」だ、と平尾さんは言い切る。「この事業で何を実現したいのか」「実現した時の世の中は、この会社は、あなた自身はどうなっているか」「そこに向けての各自の役割は何か」「一人ひとりの仕事と人間的成長の中身は何か」をシンプルにつなげるストーリーを語る。それがリーダーの役割であり、リーダーだけができる仕事である。起こったことを後づけで説明するのは誰でもできる(僕のような学者でもできる)。しかし、これから何を起こすか、どうやって起こすか、未来への意思を物語れるのはリーダーしかいない。平尾さんは言葉の正確な意味での「ストーリーテラー」だった。

 ボトムアップで衆知を集めれば戦略ができるわけではない。「創発的なアイデア」にそても、それを汲み取り、全体のなかに位置づける受け皿としてのストーリーが先行して存在しなければ、戦略の進化はありえない。原型となるストーリーをつくるのは厳然としてトップの仕事。その意味で戦略ストーリーはトップダウンでつくるべきものだ。


 平尾さんと当時のいきさつについてゆっくり話をうかがう機会が何度かあった。当時を振り返って、平尾さんがもっとも強調したのは、ホットペッパー事業がいかに人を育てたか、ということだった。「全体を貫く明確なストーリーをつくり、それを組織全体で共有してやっていくと、不思議なぐらいに人が育つんですよ。数字の業績はもちろんですが、部下がどんどん成長するのを実感する。これがいちばんうれしかった・・・・・・」

 感慨深げに回想する平尾さんはたまらなくイイ顔をしていた。


>>ときには「面白いねえ!」と思わず唸るような秀逸な戦略ストーリーを語ることのできるリーダーになってみたい

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