「時代を変換した男たち」
「時代を変換した男たち」(監修:会田雄次、PHP研究所)より
勝海舟
日本海軍の創設、咸臨丸による渡米、対長州講和と、勝海舟が手がけた事業は多い。しかし、海舟の生涯で最大の仕事は、滅びゆく徳川封建制を、敗者として演出して見せたことではなかったか。
「ロシアやフランスが戦費を貸すといってよこしたが、おれは断ったよ。仮に戦いに勝っても、国を取られちゃあ引き合わないさ」
海舟にはすでに戦の勝敗は問題ではなかった。日本がヨーロッパ列強の植民地となることだけは避けねばならない。当時の海舟の頭はそのことでいっぱいだった。
しかし、倒幕軍は三方から江戸に迫り、総攻撃の日を三月十五日と決定する。もし戦火が江戸に及べば内戦は長期化する。東国の人心は新政府から離反し、日本の近代化は大きく遅れることになる。
この危機に瀕して、海舟は敵味方を欺く大芝居を打つ。
旗本山岡鉄舟は海舟の手紙をたずさえ西郷隆盛に面会する。その手紙で海舟は、軍艦を使って大坂、下関を襲い、東海道の敵軍を撃破する、と海軍力で劣勢の官軍を脅している。
同時に、博徒、無頼の徒、火消し人足の親分の家を一軒一軒回り、
「軍事総裁の勝だ。おいらにおめえの命をくれろ」
と、いざというとき、海舟の合図ひとつで、江戸中が一気に焼き払える手配をつけていた。焦土戦術である。
「もし百万の生霊を救ふにあらざれば、我まず是を殺さん」決意であったと、後年、彼は述懐している。
しかし、海舟が本気で江戸を焦土と化し、官軍と戦うつもりであったわけではない。幕府内の好戦的な旗本たちをなだめ、官軍内の強硬派に目を覚まさせる目的で、海舟はこんなトリックを使ったのだ。
人々がこんな海舟の芝居に心を奪われているすきに、彼はアーネスト・サトウを通じて英国公使パークスに工作している。江戸総攻撃を二日後にひかえて、西郷をはじめ官軍の参謀たちはパークスから通告を受けて驚くことになる。
「もし貴下らが降服した者をあくまで撃つというのなら、英・仏・蘭の陸戦隊数千人をも敵として戦うことになるであろう」
江戸の戦火は、貿易を停滞させ、イギリスの国益に反すると判断した海舟の読みどおりであった。
翌三月十四日、海舟は薩摩藩蔵屋敷に西郷を訪ねた。丁重に迎えた西郷は差し出された嘆願書に目を通しただけで、なにも質問しない。二人の対峙する座敷から、庭をへだてて鉛色の海が広がっている。
「勝先生、明日の総攻撃は中止させもうそう」
江戸城は無血開城し、徳川家も守られた。海舟が日本のために最上の策であると信じた、すみやかな、名誉ある敗北が実現した。
海舟は戦争にも政争にも負けたわけではない。日本を取り巻く国際情勢のきびしさを肌で感じる海舟としては、ほかに選べる道はなかった。後事を明治新政府に託して、彼は徳川三百年の幕を引いたのだ。
しかし、幕臣として海舟の思いは複雑であったに違いない。
>>日本が近代国家に生まれ変わるためにどうするべきかを考え抜いた勝海舟なくして、今日の日本はなかったに違いない