「男の生き方」40選
「男の生き方」40選(城山三郎編、文春文庫)より
ミスター資本主義の生涯 三鬼陽之助
9月6日、午前7時24分、日本工業倶楽部理事長、宮島清次郎は、東京芝伊皿子の自邸で死去した。84歳の長寿を全うしたのである。その死の寸前、桜田武は、信濃町の私邸に、池田総理を訪問、危篤を報ずると同時に、その堅い意思によって、位階勲等の一切の栄誉は、辞退する旨を伝えたのである。
宮島が死ぬ何年か前、桜田が「あんたが死んだら、写真の下に、大きな勲章を飾りますぜ・・・・・・」と、言ったら、宮島は激怒した。それで、桜田氏が「イヤ、冗談ですヨ」と笑ったら、宮島は「冗談も時と場合がある。一体、お前は、マダ俺が勲章など欲しいと思っているのか」と、たたみかけてきた。
桜田は、大正15年、大学を出、二百人近い受験者のうちから、当時、社長だった宮島から直接、試験されてただ二人、日清紡績に採用された一人である。爾来、格別、見込まれ、終戦の昭和20年12月、42歳の若さで、社長に抜テキされ、今日に至っている。爾来、宮島は、社友として、表面、日清紡との関係は絶ったが、その親しさは親と子以上である。だから、宮島が「戦争で、たくさんの部下が無冠の大夫で死んでいる。生き残った俺が、ヘタな勲章などを貰って、あの世に行って、なんの顔があって奴等に会えるか」と、涙を出さんばかりに興奮、語ったのを覚えている。
しかし、この時、桜田は言った。「あんたが、死んだら、私一人で、勲章を辞退しきれません。ハッキリ、辞退すると、遺書に書き残して下さい」と。そして、さらに、「遺書に書かなかったら、私一人では、到底辞退しきれませんから、あなたの写真の下に・・・・・・」と、言いかけたら、宮島は、一層、憤げき、鉛筆で「栄誉の思召しは一切断ること」と、書きくわえたのであった。死の直前、桜田は、この鉛筆書きの遺書を持参、池田総理を訪うたのであった。
終戦直後、宮島は、ときの幣原総理から、貴族院議員を懇望された。そのときも「GHQの追放で、大量の欠員ができて、自分のところにもお鉢が廻ってきたのだろう。しかし、理非は別として、追放になった人は、日本のために尽くした人たちだ。その人たちが、いま、現に追放になって苦労しているのに、追放にあわなかった自分が、なんで議員などになれるか」と、断ったのである。
事実、宮島の死後、右の遺書を知らない大蔵省、日本銀行筋からは、早速、位階勲等の相談がもちかけられた。宮島の財界人としての位置、ことに、終戦後、吉田茂、池田勇人と二代の総理大臣誕生の背後における功績から、勲一等は間違いなかった。しかし、彼は、憎らしいくらい、嬉しいくらい、拒否したのであった。
>>宮島清次郎の精神にあやかりたい