「諦める力 勝てないのは努力が足りないからじゃない」(為末大著、プレジデント社)より
2013年6月4日 第1刷発行
はじめに
「諦める」という言葉の語源は「明らめる」だという。
仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見極めるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だというのだ。
そこで、漢和辞典で「諦」の字を調べてみると、「思い切る」「断念する」という意味より先に「あきらかにする」「つまびらかにする」という意味が記されていた。それがいつからネガティブな解釈に変化したのか、僕にはわからない。しかし、「諦める」という言葉には、決して後ろ向きな意味しかないわけではないことは知っておいていいと思う。
さらに漢和辞典をひもとくと「諦」には「さとり」の意味もあるという。
こうした本来の意味を知ったうえで「諦める」という言葉をあらためて見つめ直すと、こんなイメージが浮かび上がってくるのではないだろうか。
「自分の才能や能力、置かれた状況などを明らかにしてよく理解し、今、この瞬間にある自分の姿を悟る」
第6章――自分にとっての幸福とは何か
どうにかなることをどうにかする
どこかで価値観を劇的に変えないと、自分ではどうすることもできない自然現象にずっと苦しめられるということだ。その苦しみから逃れるためには、「どうしようもないことをどうにかする」という発想から、「どうにかしようがあることをどうにかする」という発想に切り替えることしかない。
「仕方がない」
僕は、この言葉に対して、もう少しポジティブになってもいいような気がする。「仕方がない」で終わるのではなく、「仕方がある」ことに自分の気持ちを向けるために、あえて「仕方がない」ことを直視するのだ。
人生にはどれだけがんばっても「仕方がない」ことがある。でも、「仕方がある」こともいくらでも残っている。努力でどうにもならないことは確実にあって、しかしどうにもならないことがあると気づくことで「仕方がある」ことも存在すると気づくことが財産になると思う。そして、この世界のすべてが「仕方がある」ことばかりで成り立っていないということは、私たち人間にとっての救いでもあると思う。
>>「仕方がない」ことを直視し、自分の才能や能力を理解して、今の自分を悟ってゆきたい
「成功術 時間の戦略」(鎌田浩毅著、文春新書)より
第7章. 無意識活用法――意識下にある膨大な能力の活用
⇒ 人生は無意識が支配している
⇒ 無意識は意識よりもずっと賢い
⇒ ロールモデルを見つけて無意識を涵養せよ
創造力や新しい発想を生みだすには、意識と無意識の両方の能力が必要である。だが、学校教育では主に記憶したり計算したりする意識的な学習に主眼がおかれていて、右脳を活発にするような無意識領域の涵養は、ほとんど考慮されていない。それでは人間の持つ能力の半分しか使わないことになる。なんともったいない話ではないか。
第8章. クリエイティブになる方法――まず常識を疑う
⇒ 隙間を探す
⇒ 直観によって大局をつかむ
⇒ 当たり前を疑う
⇒ 無意識にゆだねる
時には、いままで持っていたフレームワークを、捨てなければならないことも生じる。これができなければ、肉体年齢は若くても精神的には老人である。逆に、既成の考えを捨てられるということは、何歳になっても頭脳が若い証拠だ。古いものを捨てたあとに、新しい考えを導入できるからだ。ここからクリエイティブな人生がはじまるのである。
第9章. 「オフ」の戦略――豊かな人生を創り出すために
⇒ ボーッとすることで緩急自在な頭を作れ
⇒ 瞑想的に生きると人生が変わる
⇒ オンとオフ共に活性化すると、よい発想が生まれる
「仕事」と「遊び」の両方を活性化することが、人生の戦略にはたいへん重要である。バランスのとれたオンとオフを持つ。そのスタイルを確立すると、無限の可能性が拡がってくる。
おわりに
地球物理学者の故竹内均東大名誉教授(雑誌『ニュートン』元編集長)は、「理想の人生とは、自己実現ができる人生である」と説く。
ただし、私のいう「自己実現」は、①好きなことをやって生きる、②それで食える、③それがまた他人によって高く評価される、ことである。(中略)理想の人生を生きるためにはまず夢を持たねばならない。
竹内均『竹内均の科学的人生論』同文書院、21-22ページ
このような幸福の実現は、人生の大きな目標の一つとなる。そのためには、まず自分の能力を身につけなければならない。
>>既成の考えを捨て、新しい考えを導入し、クリエイティブに自己実現してゆきたい
「成功術 時間の戦略」(鎌田浩毅著、文春新書)より
第3章. 人間関係の戦略――貴人が人生を拓く
⇒ やりたい仕事より与えられた仕事を大切に
⇒ よい師を見つけ、とことん学べ
⇒ ギブ・アンド・ギブからはじめよう
二対七対一の法則
何をしてもうまくいく相手が二割。いろいろと努力すれば可もなく不可もない人間関係を築ける人が七割。それに対して、どんなに頑張ってもうまくいかない人が一割いるというわけである。
最後の一割はどうやってもうまくいかない人々だ。どんなに努力しても、ウマの合わない人というのは、現実に存在する。この場合は最初から諦めたほうがいい。
二対七対一の法則は、たいへん便利な考えかたではないだろうか。これを知っていると、人間関係がとても楽になるはずだ。
第4章. フレームワーク利用術――世界観の違いを乗り越えるために
⇒ 人は思い込みの動物である
⇒ コミュニケーションに、以心伝心を期待するな
⇒ 代替案をたくさん提示する
代替案を瞬時に出すためには、日頃から教養を高めておかなければならない。読書と教養に関する戦略は、次章からのテーマである。
第5章. 戦略的な読書家になる――読書の楽しみと効用
⇒ むずかしい本は書いた人が悪い
⇒ 本は考えるための文房具である
⇒ 必要な本はそんなに多くない
読書は自分を変える
本を読みながら、自分が変わっていく。単に人ごととして、本の内容を追いかけているのではなく、書かれた一字一句から、自分が行動を起こすきっかけを得ているのである。本との偶然の出会いが人をみるみる変えていく、なんと素晴らしいことではないだろうか。
第6章. 効率的に教養を身につける方法――エグゼクティブはジエネラリスト
⇒ 教養がある人が最後には勝つ
⇒ よいものを毎日使って目を肥やす
⇒ 教養の王道は古典(クラシック)
教養の王道は、古典(クラシック)である。鑑識眼を徐々に養いながら、自分なりの基準を作る。ひねりを入れるのは、あとからいくらでもできる。異端を求めてマニアックにかぶれることは、入門者には勧めない。オリジナリティーを発揮するのは、そのあとでよいのだ。よいものを見て謙虚に学ぶことが、いかに楽しいことか気づくはずだ。
>>代替案を瞬時に出すためにも、読書を通じて自己変革しつつ教養を高めてゆきたい
「成功術 時間の戦略」(鎌田浩毅著、文春新書)より
平成17年5月20日 第1刷発行
はじめに
私は火山学を専門とする科学者であるが、長いあいだ人生の成功とは何かについて模索してきた。その結果、三つの観点、すなわち仕事、人づきあい、趣味が満たされた時に成功とといえるのではないか、と考えるに至った。この三者がバランスよく発展していく生活が、幸福な人生と言っても良い。
そして、このような成功を手に入れるための重要な視座、それが時間の概念であるということにも気づいた。仕事、人づきあい、趣味が人生を形作る横糸とすれば、時間は縦糸だったのである。
誰にでも時間は平等に流れてゆく。その時間を、活きた時間として過ごすか、死んだ時間にするかで、人生には雲泥の差が生じてしまう。成功は時間に対する戦略なしには語ることができない。
第1章. 時間管理の戦略――活きた時間、死んだ時間
⇒ 時間こそ、人生を形作る材料
⇒ 頭は一日に一時間しか働かない
⇒ 「勝ち」と「期限」で仕事に優先順位をつける
自己実現の時間戦略
活きた時間を、人生の早いうちから自覚することが肝要である。光陰矢のごとし。活きた時間は、時間認識に関する第一の眼目なのである。
第2章. 人に負けない“武器”を持つ方法――スペシャリストになるための女装
⇒ 自分にピッタリ合う仕事は存在しない
⇒ 「好きなこと」より「よくできること」を判断基準にすうr
⇒ 勝負仕事と保険仕事をバランスよくこなせ
⇒ 二十代には留学するな
武器を磨く
武器の錬磨には三つのステージがある。
一つ目は、とりあえず何かの専門家になる、ということである。専門家として必要な知識・技術・方法論・経験をまず積むのだ。ここでプロフェッショナルへのスタートラインに立つ。
二つ目は、どこでも通用する専門家になる、ということだ。世界基準で使ってもらえるレベルになることを目指すのである。
三つ目は、オンリーワン(only one)になる。文字通りの第一人者だ。国内にいる当該分野の専門家のトップに躍り出る、というイメージである。
戦略と戦術
戦略とは、広い視点から眺める全体の作戦計画である。大局を見て、何を目標として戦うかを考える根本的な作業なのだ。それには戦うか、戦わないかといった、戦い自体の進退にかかわる評価や判断も含まれる。
したがって、戦略は戦術よりもずっと高度な判断が必要となる。そのために、頭をより使わなければならない。武器の選択、本書で言うならば、何かを達成するためにどの仕事を選ぶかについては、まさにこの戦略にかかわってくることで、総合的な判断が必要とされる。一方、どのような方法で、どんな時間を用いて実行するかという決定は、戦術上の判断になる。
いまからでも遅くはない
武器というのは、自分の人生を切りひらくために、なくてはならないものである。武器を自分で決めて、それを磨くことに集中していれば、必ず社会の役に立つ。逆に、いくら切れる武器を身につけても、人の役に立たなければ意味がないではないか。
>>平等に流れる時間を活きた時間としつつ、人生を切りひらく only one の武器を身につけてゆきたい
「素読読本 修身教授録抄 姿勢を正し声を出して読む」(森信三 寺田一清[編]、致知出版社)より
平成16年10月1日第一刷発行
29 人間形成の三大要素
人間というものは、これを大きく分けると、だいたい血、育ち及び教えという三つの要素からでき上がると言えましょう。ここに血というのは血統のことであり、さらには遺伝と言ってもよいでしょう。また育ちというのは、言うまでもなくその人の生い立ちを言うわけです。そして教えというのは、その人の心を照らす光を言うわけですが、しかしこの場合、家庭における躾というものは「育ち」の中にこもりますから、結局教えとは、家庭以外の教えということであり、とくに私としては、一個の人格に接することによって与えられる、心の光を言うわけです。
*一人の人間ができ上がるには、これらの三要素がそれぞれ大切ですが、とくにこのうち前の二つは、根強い力を持つと思うのです。実際私なども、年と共にこの血と育ちという二つのものが、いかに根強くわれわれに根差しているかということを、しみじみと感じるようになっているのです。
30 性欲の問題
性欲の問題についてですが、まず根本的に考えねばならぬことは、性欲は人間の根本衝動の一つだということです。すなわちこれを生理的に言っても、性欲は人間の生命を生み出す根本動力だと言えます。その意味からは、性欲はわれわれ人間にとって、最も貴重なものであって、断じておろそかに考えてはならぬと言えましょう。そこで今性欲に関する問題を結論的に言うと、性欲の萎えたような人間には、偉大な仕事はできないと共に、またみだりに性欲を漏らすような者にも、大きな仕事はできないということであります。すなわち人間の力、人間の偉大さというものは、その旺盛な性欲を、常に自己の意志統一のもとに制御しつつ生きるところから、生まれてくると言ってもよいでしょう。
*さて性欲に対する根本的な見解は、ほぼ以上に尽きると言ってよいでしょうが、しかし諸君たちの実際上の理解のために、今少し申しておきたいと思います。その一つは、性欲というものは、決してその発動期と同時に漏らすべきではないということです。
>>血と育ちの根強い力を理解しつつ、性欲を漏らさず、少しでも世の中に役立ってゆきたい
「好き嫌い」と才能(楠木建[編著]、東洋経済新報社)より
Profile#06 鎌田和彦 オープンハウス副社長
夢よりも自由が好き
楠木 僕が無理やり分類すると、人は4タイプに分かれます。まずは「はたから見ると遊んでいるようで、本人も遊んでいる」という、若き鎌田さんが嫌っていたバブル期の代理店の人みたいなタイプですね(笑)。2つ目は「はたから見ると仕事をしているようで、本人もガッチリ仕事をしている」というまっとうなタイプ。3つ目が「はたから見ると真剣なのに、本人は遊んでいる」というタイプ。学者に多いですね。本人はレアメタル・オタクで楽しくてたまらないという先生の話を聞いたことがあるのですが、最高でしたね。
僕が好きなのはこのタイプと、残る1つの「はたから見ると遊んでいるようなのに、本人は真剣」というタイプです。鎌田さんはおそらく、このタイプでしょうね。ビジネスの世界だと非常に珍しい。はたから見て遊んでいるような人は本当に遊んじゃいますから。長編小説を書いたり、ベーカリーだって、道楽ではなく真剣にやる。
鎌田 僕はこうじゃなきゃいけないみたいなものはないですからね。各論に落ちていくとまじめだけれど、総論は適当なのかもしれない。インテリジェンスの頃は、小説なんて想定していないし、時間的にできないですよね。
楠木 鎌田さんとは同世代ということもあって、ずいぶん長いことお付き合いが続いていますが、昔はこの年になったときに鎌田さんが今のようなこと、2つ目の企業として中古マンション再生の会社を経営しながら、ベーカリーとフレンチレストランをやって、長編ビジネスコメディを書いているなんてことは、まるで想像がつきませんでした。でも、こうして会って話ししていると、若い頃とまったく変わらない。好き嫌いというのはそういうものですね。これからもお互い自分の好き嫌いに忠実にやっていきたいですね。あくまでも、「夢」を持たずに。
Profile#07 高島功平 オイシックス代表取締役社長
マンガのストーリーに影響されてマッキンゼーを退社
楠木 『サンクチュアリ』(原作:史村翔、作画:池上遼一)というマンガに影響を受けて、オイシックスを始められたとか。
高島 幼なじみで親友同士の2人が、日本をよくするために、政治家とヤクザになって、表の世界と裏の世界の両面からのし上がっていくという、いかにもマンガ的なストーリーです。日本をよくするために、いったん別々の道を歩んで、再び力を合わせるという部分に共感をしたわけです。
Profile#09 野口実 エービーシーマート 代表取締役社長
ファイナンスの兄、ファッションの弟
楠木 僕がびっくりしたのは、野口さんは野口真人さん(プルータス・コンサルティング代表取締役社長)の弟さんだということ。
真人さんは京都大学を出て大手都市銀行に入り、その後外資系の銀行を経てゴールドマンサックスで投資銀行のお仕事をしていらっしゃいました。その後、プルータス・コンサルティングを創業したわけで、一貫して「ファイナンスの人」。その点、実さんはまったくファイナンスっぽくない。
野口 子どもの頃から、興味の関心の向く先が兄とはまったく違うなと思っていました。兄は勉強もよくできましたし。
Profile#16 丸山茂雄 音楽プロデューサー
「もう一度焼き肉が食べたい」
楠木 丸山茂雄さんといえば、数多くのアーティストを世に送り出した音楽業界の大御所。ソニー時代はプレイステーションを仕掛けるなど、エンターテインメント業界で非常に長い間にわたって幅広く活躍していらっしゃいます。その丸山さんが2014年に出されたご著書のタイトルが『往生際』。副題には「“いい加減な人生”との折り合いのつけ方」とあります。題名が『往生際』というのは、ご病気をなさったからだと思うのですが、副題との取合せが面白いですね。
丸山 そうそう。オレもガンになったでしょ。で、本当は「丸山ワクチンを使ったほうがいいよ」という本にしようと思いました。
楠木 丸山さんのお父さまが丸山ワクチンの開発者、丸山千里博士であることはよく知られていますね。僕の祖母も最後はガンで亡くなったのですが、治療の途中で丸山ワクチンを使っていました。
Profile#19 楠木建一橋大学大学院 国際企業戦略科 教授
自分の「好き嫌い」と心中する
楠木 仕事においていちばん大切なのは、人から頼りにされることだと僕は思うのです。「このことだったらこいつが何とかしてくれる」と周りに思わせる。この「頼りになる」というのが、労働市場ではうまく見極められないんですね。労働市場では、「良し悪し」とか「何ができる、できない」というスキルの話になってしまう。「頼りになる」という尺度は経歴書では表現しにくいのですが、いったん仕事が始まってしまえば、日々のリアルな状況での「頼りになるかどうか」がすべてです。
「この人は頼りになる」「この人だったらきっとうまくいく」と思わせるのは、一通りこなせるというレベルを超えて、本人がそれが好きでやっていることが周囲にも伝わるからだと思うんです。「好きこそものの上手なれ」の好循環をぶんぶん回して仕事をする。自分の芸風を頼りにされて、その結果、世の中と折り合いがついて、「仕事」になる。これが仕事と仕事生活の理想だと僕は信じています。
>>自分が好きなことにとことん没頭し、結果として、頼られるようになれれば幸せになれるに違いない
「好き嫌い」と才能(楠木建[編著]、東洋経済新報社)より
2016年5月5日発行
仕事の最強論理は、「努力の娯楽化」!
才能の源泉には、その人に固有の「好き嫌い」がある
とにかく好きなので、誰からも強制されなくても努力をする。
それは傍目には「努力」でも、本人にしたら「娯楽」に等しい。
努力をしているわけではなく、没頭しているのである。
そのうちにやたらにうまくなる。
人に必要とされ、人の役に立つことが実感できる。
すると、ますますそれが好きになる。
「自分」が消えて、「仕事」が主語になる。
ますますうまくなる。さらに成果が出る。
この好循環を繰り返すうちに、好きなことが仕事として
世の中と折り合いがつき才能が開花する。
才能は特定分野のスキルを超えたところにある。
Profile#01 宮内義彦 オリックス シニア・チェマン
「自分の足で立つ」のが好き
宮内 常に社会も動くし、経済社会も動く。昨日はベストだと思っていたものが、今日はベストじゃなくなるのです。だからわれわれの仕事も変化しないといけない。変化というのは人生の前提だと思いますがね。
乾(恒雄社長)さんが、「企業というのは自分の足で立たないといけない」とおっしゃっていたのです。設立当初のオリエント・リースは商社や銀行など、株主の力で立っているところがありましたけれども、外部の力に左右されず、自社として自立できるようにしたいというのが乾さんの強いお考えだった。私は若造でしたがそれを身近で見ていて、「乾イズム」がDNAとして伝わった感じですね。
会社が困難になったときに、あるいは会社が調子の良いときに、誰かが介入する経営は、自分の足で立っていない経営ですね。困っても誰も助けに来ない、調子が良くても自分でよりがんばらないと大きくなれないというのが、自分の足で立つ経営です。だから、とっても寂しいですね。
Profile#02 玉塚元一 ローソン代表取締役社長
「壁に向き合う」のが好き
玉塚 まず、2人ともまったく違います。柳井さんは商売人で、アントレプレナーで、商売が大好きです。新浪さんはものすごくディテールにもこだわるし、天下国家も語れるし、もっとマクロの面もあるし、大きな絵からブレークダウンして、だからこれをやる、というところまでやってしまいます。僕が恵まれているのは、どういうわけかそういう人たちと一緒に、全身火傷するくらいの距離で商売させていただいていることです。本当にありがたいことだと思います。出会いに感謝ですね。
楠木 確かに2人とも「壁」としては強烈に分厚い。
Profile#03 為末大 元プロ陸上選手
努力でうまくいくことはない
楠木 しょせん、「努力」を強いられてやっていることはうまくいかない、それよりも、好きなことをやったほうがうまくいく。僕が「好き嫌い」にこだわっている理由の一つはここにあります。為末大さんの本、『諦める力――勝てないのは努力が足りないからじゃない』(プレジデント社)を読んだときに、ああ同じようなことを言っている人がいる、と非常に共感しました。これはもう、ぜひ為末さんの好き嫌いをお聞したい、と。
「努力しなきゃ・・・・・・」と思うことは、だいたいが嫌いなことだったり、向いていないことだったり、やらなければいけない義務的なことだったりするわけでしょう。そんなことをやていてもうまくいくはずがない。仕事である以上、人の役にたたなければいけないのですから、相当うまくないといけない。うまくなるためには、もちろん努力の投入が必要になる。ただ、それを本人が努力だと思っていない。好きなので、周囲からやめろと言われてもやり続けてしまう。はたから見ればやたらと「努力」しているのですが、本人にとっては「娯楽」。そのくらい好きじゃないとなかなかうまくならない。「好きこそものの上手なれ」というのは、ビジネスでも、というかビジネスでこそ通用する最強のロジックだと考えているのです。
Profile#04 磯崎憲一郎 小説家
好きなことをやる重要性はますます高まっている
磯崎 日本人は、もっと「職」に就職をすべきなのではないでしょうか。現状では、「組織=会社」に就職する人が圧倒的に多いわけですが、それでは、組織内での人間関係や、社内で自分のポジションを確保するのに莫大な労力を費やさなければなりません。もちろん、それもとても大事な仕事上の能力ではあるのですが、その能力はその組織のなかでしか通用しない。
これからの時代は、究極の「手に職」をめざすべきだと思うのです。「好きこそものの上手なれ」の言い換えにすぎないのでしょうが、「この分野のこの仕事だったら、誰にも負けない自信がある」という人が増えれば、社会がどんなに変化しても生き抜いていける。上をめざす転職が増えて労働市場も活性化されるだろうし、「人生一発勝負、ここで勝ち組と負け組が決まる」的な、今の過熱化した大学生のシューカツも変わっていくと思います。
バブル期以前のように紋切型が許されていた時代と違って、今は仕事でもプライベートでも何でも差別化が求められる、自分のコアな部分をさらけ出してやっていかなければならなくなりつつある、と思います。 「で、おまえはどういう人間なんだ、おまえの強みは何なんだ」が問われる時代になってきている。そうした意味で、特に若い世代の人たちは、生きていくこと自体が大変になっていくでしょう。しかし、それはようやく個性を前面に出して生きていける時代がやってきた、ということでもあるんですよ。だからこそ自分はどういう人間で、何をやりたいのか、何が好きなのか、を深く考える必要が、ますますあるのだと思います。
Profile#05 高岡浩三 ネスレ日本 代表取締役社長兼CEO
すべての失敗は実験である
高岡 前例がないやり方を試したときの結果は、たいてい自分の想像を超えているので、どんな結果でも「これを失敗とは言わない」と思うようになったのです。誰もやったことのがないことなら、思うようにいかないのは当然ですからね。肝心なのは、思うようにいかなかった原因をその都度調べて、自分の仮設にないものについては新たな解決策を考えていくことです。何回失敗しても駄目なときもありますし、そのときは諦めますが、たいていは、だんだん道筋が見えてくる。そこまでやれるかどうかですね。
楠木 「失敗」ではなくて「実験」ですね。
高岡 そうです。だからいきなり大きな投資はやらない。ギャンブルになりますから。だからやり方を変えようと思ったときは、かなり小さいレベルで実験して、「難しいけれど、こうやったらうまくいけそうだ」という経験をする。良いほうのやり方を広げていくという感じです。
>>昨日はベストだったのが今日はベストじゃなくなるという変化を前提として、前例がないやり方を試しながら、仕事でも好きなことに没頭し続けてゆきたい
「103歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い」(篠田桃紅著、幻冬舎)より
自分の心が、ほどほどを決める
一体どうしたら、人にとって一番幸福なのかと考えると、わけがわからなくなります。どのように生きたら幸福なのか、「黄金の法則」はないのでしょうか。
自分の心が決める以外に、方法はないと思います。この程度で私はちょうどいい、と自分の心が思えることが一番いいと思います。ちょうどいいと思える程度は、百人いたら百人違います。
私はまだ足りないと思う人は、いくらあっても足りません。そういう人はいくら富を手にしても、お金持ちになった甲斐はありません。愛情を充分に与えられても、愛されていると自覚しません。まだまだ足りないと思っているのですから。
これくらいが自分の人生にちょうどよかったかもしれないと、満足することのでできる人が、幸せになれるのだろうと思います。
幸福になれるかは、
この程度でちょうどいい、
と思えるかどうかにある。
いいことずくめの
人はいない、一生もない。
ずっと人はいきいきと生きてきた
著名な代議士の娘だったミナ先生は、親が決めた許嫁との婚約を破棄し、反対を押し切って、貧しい透谷と結婚したとのことで、透谷が自殺してからは、単身で渡米し、アメリカの大学で学位を取得していました。
自分で相手を選んで結婚するなんてことは、世間では御法度。とんでもない不良娘だとされていた明治時代に、さらに渡米までして、学位を取得。
私は、ミナ先生のことを思い出すと、明治・大正時代の人は、新しい精神に憧れて新しい生き方をした、今の人とは違う理想主義的なものを感じます。
もちろん、ミナ先生のような人は、ごく一部でしたが、自分は新時代を生きなければと覚悟し、向こう見ずのような勇気がありました。
まだ封建的な時代でしたから、想像を絶する困難と苦労が伴ったことと思います。でも、ずっといきいきと生きていたように思います。
新しい精神、
新しい生き方をした
明治・大正期の人に思いを
馳せる。
世間からどう思われようが、
覚悟をもって生きた勇気。
>>新時代をいきいきと生きて、ちょうどよかったと思える人生を歩んでゆきたい
「103歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い」(篠田桃紅著、幻冬舎)より
1+1が10になる生き方
人は、用だけを済ませて生きていると、真実を見落としてしまいます。真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかし、どこかにあります。雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。
無駄にこそ、次のなにかが兆しています。用を足しているときは、目的を遂行することに気をとらわれていますから、兆しには気がつかないものです。
無駄はとても大事です。無駄が多くならなければ、だめです。
お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。安いから買っておこうというのとも違います。無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、なんとなく買ってしまう行為です。なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、あとで思ってしまうことです。しかし、無駄はあとで生きてくることがあります。
私は、三万円だと思って買ったバッグが三十万円だったことがありました。ゼロを一つ見落としていたのです。何十年とそのバッグを使っています。そして、買ってしばらくしてから、そのバッグの会社オーナーが私の作品を居間に飾っていることを雑誌で知って、あらお互いさまね、と思いました。
時間でもお金でも、用だけをきっちり済ませる人生は、1+1=2の人生です。無駄のある人生は、1+1を10にも20にもすることができます。
私の日々も、無駄のなかにうずもれているようなものです。毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。時間も無駄にしています。しかし、それは無駄だったのではないかもしれません。最初から完成形の絵なんて描けませんから、どの時間が無駄で、どの時間が無駄ではなかったのか、分けることはできません。なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれません。
つまらないものを買ってしまった。ああ無駄遣いをしてしまった。
そういうときは、私は後悔しないようにしています。無駄はよくなる必然だと思っています。
なんとなく過ごす。
なんとなくお金を遣う。
無駄には、
次のなにかが兆している。
必要なものだけを買っていても、
お金は生きてこない。
>>これからも無駄に潜む兆しを大切にして生きてゆきたい
「103歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い」(篠田桃紅著、幻冬舎)より
2015年4月10日第1刷発行
やっておきたいと思うことは、どんどんやる
人生は、なにが一番ほんとうにいい生き方なのか、はっきり言える人はいないと思います。でも最後に、いろいろあったけれども、やっぱり私はこうでよかったと、自分自身が思える人生が一番いいだろうと思います。まだまだいっぱいやりたいことがあったのに死ぬのか・・・・・、と思うのは悲しいことです。
歌人の与謝野晶子は、自分の人生を楽しむのに、少し自分の力が足りていないと歌いました。
人の世を楽しむことに我が力少し足らずと歎かるるかな
明治から昭和にかけて、あれだけ精力的に生きて、人生を謳歌した与謝野晶子ですら、冷静に自分というものを客観視して、足りないと言ったのです。
「私達は愛に生き、藝術に生き、学問に生き、労作に生きる限り、人生を決して空虚なものとも、倦怠なものとも感じません。人生の楽みは是等の文化生活のなかに無尽蔵であるのです」
これは、与謝野晶子が、高弟の中原綾子が最初の歌集を出したときに寄せた一文です。人生の楽みは無尽蔵です。
あそこへ行きたいと思ったら行く。それしかないんです。生きているうちに、やりたいことはなるべくしておく。私のような歳になると、やれることとやれないことがでてきます。
ですから、体が丈夫なうちは、自分がやっておきたいと思うことはどんどんやったほうがいいと思います。
そうすれば、死ぬとき、思い残すということが少ないかもしれません。
人生を楽しむためには、人間的な力量が要ります。
人には柔軟性がある。
これしかできないと、決めつけない。
完璧にできなくたっていい。
人生の楽みは無尽蔵。
誰もやらないときに、やったことが大事
人の成功を見届けてから、私もできます、と言うのは、あと出しじゃんけんをしているようなものです。
誰もやらないときに、やった、ということで、私が最初に思い出すのは、二十世紀のアメリカの画家、ジャクソン・ポロックです。私が1956年に初めて渡米したとき、最も会いたかった人でした。
彼は、当時、まだ誰もやらなかった、絵の具を、筆ではなく、撒いて描きました。彼の作品を見て、私は、子どものときにさせられていた水撒きを思い出しました。家の玄関から門まで続く踏み石に、柄杓で水を撒いていたのですが、垂らしたり、飛び散らせたり、自分の撒き方次第で、水のかたちがさまざまに変わり、撒いた水に濡れて、踏み石の景色が移り変わるのを、子ども心ながらに美しいと感じて、眺めていました。
彼のように、誰もやらないときにやった人がいたから、新しい境地が拓け、後世の私たちもそれを享受することができています。
受け入れられるか、
認められるかよりも
行動したことに意義がある。
人の成功を見届けてからの、
あと出しじゃんけんではつまらない。
>>自分がやっておきたいと思うことをどんどんやって、誰もやらないときにやってみて、人生を大いに楽しんでゆきたい
「マッカーサーと日本占領」(半藤一利著、PHP研究所)より
2016年5月6日第1版第1刷発行
マッカーサー 科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングルサクソンは45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人はそれとほぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で、まず12歳の少年である。ドイツ人が現代の道徳や国際道義を怠けたのは、それを意識してやったのである。国際情勢にたいする無意識の故ではない。その失敗は、日本人が犯した失敗とは少しくおもむきを異にする。ドイツ人は自分がこれと信ずることに再び向かって行く。日本人はこのドイツ人と違う。
要は、戦争犯罪国としてドイツ人と日本人との違いを問われ、マッカーサーの答えは、ドイツ人は明らかに確信犯なれども、日本人はとてもそこまではいっていない、といくらか憐れんでの言ともとれる。
ところが、その「12歳」という言葉だけを知らされたとき、日本人はひとしくカッとなった。これは神社建設や銅像建立と、われらが満腔の敵意をもって寄せたかれへの信頼にたいする裏切りに非ずや。侮蔑の言そのものだ。許せぬ。かくして六月ともなると、怒りは頂点に達し、すべての計画ははかない一場の夢と化していった。
熱しやすく冷めやすい、これぞ日本人。とはいうものの、よくよく考えてみると、こん畜生め、と憤ったばかりではないのではないか。戦後日本人はマッカーサーの命ずるがままに唯々諾々、敗戦・占領という現実にあまりにもやすやすと身を寄せた。下世話にいえば、GHQと“寝てしまった”ことへの恥ずかしさ、情けなさ、それをマッカーサー発言によって気づかされたゆえの怒りではなかったか、と思う。
左用、あれから日本人はとにかくマッカーサーの名を忘れることに熱心になったようである。記憶から払い落とす。とにかく過去をさっさと忘れてしまう。それは歴史としっかり向かい合わないことと同じなんだがなあ、といまにして老骨は思うのであるが。
考えてみれば、長い平和と勤勉さという資質とで、ただ我武者羅に働きつづけて、廃墟から再生して日本は今日の大をなしたのである。しかし、よくいわれるように平和と繁栄に慣れきって、その祈願をほぼ成就したあと、これから何に向かって進めばいいのか、いまの日本は国家目標を見失っている。そんなときであればなおのこと、その人の名とともに、敗戦直後の苦しいながらも力一杯に奮闘努力したあの日々のことを謙虚に想い起こし、もういっぺん見直すことは、決して無意味なことではないように考える。
いくらかテレビの刑事ものドラマ的ないい方になるが、わからなくなったら元の現場に戻れ、なのである。かなり牽強付会な説ともみえて恐縮ではあるけれども、そんな意味からすれば、マッカーサーについて語った本書もいくらか役立つのではあるまいか。ま、それはもうあまりにも昔話ではあるけれども。
>>デフレの続く平成の今日、改めて歴史としっかり向かい合ってブレイクスルーする必要がある
「成功脳と失敗脳 脳が震えるほど成功する方法」(茂木健一郎著、総合法令出版)より
第5章 成功脳をつくる習慣を身につけよう
対等なコミュニケーションこそが、成功を引き寄せる
コミュニケーションや人の協力といったように、自分一人の力だけではなく、周りを巻き込む力が必要になってきます。
成功している人たちのコミュニケーションの基本は、「常に対等である」という意識を持っているということです。
たとえ相手が社長や上司であっても、本音をいい合える人間関係こそがビジネスを成功させる大きな要素になっているのです。
対等なコミュニケーションの本質とは、まずは相手をしっかりと敬い、思いやりを持ってお互いの考え方や行動に対して本音で意見をいい合うということです。
ベストエフォート方式が、成功へのスピードを加速させる
べストエフォート方式を実践する上でのポイントは、完璧を求めずに、ちょっとでも何かを達成した自分を褒めてあげるというものです。
1+1が2以上になるのが脳の特徴でもあるということです。
「前向きに何でもやってみる」ということが最も重要
とりあえず前向きに何でもやってみる。それが成功脳を手繰り寄せる方法でもあります。
たとえ間違ったとしても仮説を立ててみることをお勧めします。
極論をいってしまえば、人生における成功も失敗も、すべては仮説で成り立っているといえます。
なぜなら、どうすれば成功できるのか、失敗してしまうのかということは、もはや誰にも答えがわからないからです。
先を見通していろいろな仮説を立てて、自分にとって何が成功なのか、何が失敗なのかということを考えていくことが重要になってくるのです。
おわりに ビジネスに関係のないことにはルールを定めよう!
「何かを選択する」というときに使う脳の容量というのは、実は限られているということが研究でも明らかになっています。
つまり、私たちが何かを選択するたびに、脳は活動容量を減らしているというのです。
自分のビジネスに関係ないことにはルールを定めているのです。
ジョブズといえば、黒のタートルネックにジーンズ、足下はスニーカーというスタイルを貫いていました。約10年間ほぼ毎日それを着用し、自分のスタイルを確率していたのです。
このような脳の使い方こそ、やらなくてもよいこと、やりたくないことを排除するということに他なりません。
自分があまり重要視していないことの意思決定において脳を消耗させずに、自分の好きなことに全力で取り組むためにも、自分のビジネスに関係のないことにはルールを定めてみてはいかがでしょうか。
>>いろいろな仮説を立てて、とりあえず前向きに何でもトライし続けてゆきたい
「成功脳と失敗脳 脳が震えるほど成功する方法」(茂木健一郎著、総合法令出版)より
第4章 すべては、自分をありのまま見ることから始まる
「意識高い系」は、失敗脳の典型例
常見陽平さんの著書『「意識高い系」という病』(ベスト新書)のなかで、意識高い系の特徴と実に見事に捉えていました。
例えば、「やたらと学生団体を立ち上げようとする」「やたらとプロフィールを盛る」「ソーシャルメディアで意識の高い発言を連発する」「人脈をやたらと自慢する」などなど・・・・・・。
本当に意識が高く、常に真剣勝負をしている人というのは、目の前の課題に集中して取り組んでいるので、あまりそういった浮ついたことはいわなくなるものです。
自分を外側から客観的に見る視点が必要になってきます。それを脳科学の世界では「メタ認知」と読んでいます。
たとえば負け続けていても、やり方を変えながら挑戦していれば、より自分を客観視できる習慣が身についてくるはずです。
負け癖を抜け出す勇気を持って、習慣を変えていこう
「もっとこんなトライアンドエラーができたのではないか」
このように冷静かつ客観的に可能性を探ってみる習慣を身につけてみてください。
勝つというのは本来脳にとってうれしいことでもあるのです。
常にもう一つの可能性を探ってみよう
「多様性こそが、イノベーションにおいては大事だ」
メタ認知は別のいい方をすれば、「常にもう一つの可能性を意識している」ということでもあるからです。
ビジネスの現状をそのままとして受け止めるのではなく、常に違う視点で思考する癖づけをしていれば、「プランB」という名のイノベーションが起こりやすいのです。
他人を理解するための人間観察に取り組もう
他人のために頑張っているとき、初めて他人が見えてくるわけです。
この「他人のために」ということをより具現化していく作業が人間観察だということです。
他人の視点の助けを借りて自分を見つけ直す
自分で自分を見るメタ認知と、自分が他人を見る行為というのは、実は同じ脳回路が使われているということをご存知でしょうか。
これは脳科学の世界で、「ミラーニューロンの理論」と呼ばれています。
自分の行為と他人の行為は、まるで鏡に映したようにトレースされることを意味しています。
気づくという感覚を磨く一つの方法が、「他人から指摘されることに注意を向ける」ということです。
「他人の視点の助けを借りて自分を見つめ直すことができる」ということの本質です。
個性はむしろ他人との関係性においてこそ磨かれるからです。
自分の最大の欠点のすぐそばに最大の長所がある
どんなに恐くても、とにかく自分のありのままのすべてを見つめるように心掛けてみてください。
そして、それが他人にどう見られているかということを、できれば自分なりの採点基準を設定して数値化することもお勧めです。
>>現状をそのままとして受け止めず、常に違う視点で思考する癖づけをして、イノベーションを起こしてみたい
「成功脳と失敗脳 脳が震えるほど成功する方法」(茂木健一郎著、総合法令出版)より
第3章 フローは、成功脳へ導く最強の武器
成功脳に必要不可欠なフローを手に入れよう
フロー理論とは、ハンガリー出身でアメリカの心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱している概念で、脳がとてもリラックスしている状態にもかかわらず、最高のパフォーマンスが発揮できている状態のことをいいます。
時間を忘れるほどやっていることが楽しい、あるいは自分の得意なことをリラックスした状態でやっている。そのときこそ最高のパフォーマンスが発揮されるのです。
最も理想的なのは、スキルと課題がともに少しずつ、右肩上がりに上昇していく状態です。
フロー体験の階段を上るためには、自分自身により意味での負荷をかけながら、課題とスキルを一致させる必要があるのです。
パフォーマンスを上げる状態と幸せを感じる状態を一致させる
どんなに苦しい状況のなかでも、集中できる人の多くは、幸せ感に溢れているということです。
集中しているとドーパミンやβエンドルフィンといった脳内物質が分泌されて、ある種陶酔した状態になっていきます。
ここで重要なのは、質の高いパフォーマンスを上げる状態と幸せを感じる状態を一致させるということです。
そのためには、どんなことでも、受け身ではなく能動的に取り組むという意識を持つことが重要です。
チクセントミハイのフロー理論によると、最も高いパフォーマンスを上げているときは、仕事自体が最高の報酬になっているということがいえるのです。
緊張をフローに変える「ストーリーづくり」
人間が本当の意味で集中力を発揮するのは、自分が成長するためにやるべきことに追い込まれていたり、人生をかけるような勝負のときではないでしょうか。
フローを体験するには、新しいことに繰り返しチャレンジするという姿勢が必要だということです。
「ストーリーをつくり、自分にプレッシャーをかけて日々の進歩を楽しむ」という習慣を身につけるというものです。
脳内To Doリストで、フローの持続力をアップさせる
成功している人や優秀なビジネスパーソンというのは、ほぼ例外なくTo Doリストを常に頭の中に持っているというものです。
私は、これを「脳内To Doリスト」と名づけました。
フロー状態が途切れてしまう一番の原因とは、考えや行動に迷いが生まれることです。
そこで、普段からTo Doリストを頭の中で整理する癖をつけておくと、どんなときでも優先的に、かつ集中して実行しなければいけないタスクが頭の中にどんどん浮かび上がってくるようになります。
「脳内Not To Doリスト」で、優先順位がさらに見えてくる
自分の意識下において、自分自身との向き合い方を学ぶということは、すなわち脳のバランスを保つことを学ぶことでもあるのです。
脳のTo Doリストを冷静に分析してみると、そこには、やる意味のないものが出てくるはずです。
ここで重要なのは、「Not To Doリスト」、すなわち「してはいけないこと」のあぶり出しです。
>>脳内To Do/Not To Doリストで優先順位をつけながら、新しいことに繰り返しチャレンジし続けてゆきたい
「成功脳と失敗脳 脳が震えるほど成功する方法」(茂木健一郎著、総合法令出版)より
自分基準の成功をイメージして目標設定しよう
1日の中に10個、あるいは20個の、あなたが設定した目標の小さな成功体験を積み重ねるということをしてみてください。
脳というのは非常に面白いもので、実は「失敗の貯金」があればあるほど成功したときのドーパミンの放出量が多いといわれています。
成功確率が低いものに成功したときに、脳は、最も喜びを感じる
脳は、成功確率が低いものに成功したときに、最も喜びを感じる性質があるということです。
千に一つ、万に一つもないような成功を得たときが、脳が最も成長している瞬間であるといえます。
失敗の蓄積、失敗の貯金があればあるほど、次のチャレンジで成功することで脳の栄養ともいえる良質のドーパミンが出るからです。
そして、成功脳の回路も強化されていくのです。
同じ失敗を何度も繰り返してはいけないということです。
1 目標の設定があいまいではないか?
2 努力の仕方が間違っていないか?
3 正しく自己判定できているか?
これら三つのことを今一度確認することで、これまで見えなかった課題や問題点が浮き彫りになってくることがあります。
成功脳を強化する「アフタークリティックモデル」
自分の中に行為者と批判者という、二つの役割を持って思考や行動をするということです。
正確にいえば、批判というよりも評価するといったほうが正しいかもしれません。
自分の思考屋行動に対して、しっかりと「ダメ出し」ができるようになるからです。
自分にダメ出しができる人こそが、結局のところ失敗を成功に導くことができるというのが私の意見です。
行動する人というのは、なかなか冷静に評価ができないからです。
脳の安全基地である、根拠のない自信を持とう
失敗を想定しない中では、ほんとうに大事なことを学ぶことができないということです。
成功脳の魅力の一つに、「たとえ成功の確率が低い場合でも挑戦できる」というものがあります。
脳の強化学習の機会を与えてくれるのは、むしろ失敗のほうなのです。
なぜなら、失敗をすることでいろいろと工夫して違うことを考えるからです。
脳の可塑性とは、人のあらゆる活動や経験に応じて脳が変化することができるという基本性質のことです。
脳は一生を通じて、いつでも大きく改変できるということが脳科学では解明されているのです。
第2章 成功のルールと報酬は自分で設定しよう
いろいろな物の見方ができる教養を身につけよう
他人の指示命令を自分の中の目標に変える秘訣とは何でしょうか。
それは、いかに「教養」を持つかということだと私は考えています。
教養というのは、何かを学び知っているということのほかに、「いろいろな物の見方ができる」ということも含まれています。
つまり、人の生き方を考える上で、「見方を変えると全然違って視点が得られる」ということが教養でもあるのです。
結局のところ、一人の人生ではとてもカバーできないくらいの、人類の歴史の中でさまざまな人が経験してきた、いろいろな物の見方を濃縮したのが「教養」ということではないでしょうか。
ドイツ語で「シャーデンフロイデ」という、「人の失敗が喜びであり、蜜の味になる」ということわざがありますが、それはなぜかといえば、それも一つの教養だからです。
教養と呼ばれるありとあらゆることを経験するのも、脳にとっては大事なことでもあるのです。
教養は観察から始まっていく
人はどういうときにどう考えて動くのか、どんなときに人は成功し、どんなときに失敗してしまうのか、すべてをこのような観察から始めていくのです。
たとえ自分の人生における興味深いこと、あるいは成功していることがたくさんあったとしても、会話というのは常に双方向であるということに気づかなければいけないということです。
そこで、自分が話すのと同じくらい、あるいはそれ以上に相手の話を聞くべきだということをここで学ぶことができます。
自分にとって「ニッチ」な居場所を見つけよう
大切なことは、自分にとって輝ける「ニッチな居場所」を見つけるということです。
そのためには、まず自分の個性を知るということが大事になってきます。
実は「自分が向いていない」と思うことを除外していくという方法もあります。
自分の居場所は一つだけでなくてもいい
自分の向き、不向きと、自分が好きか嫌いかということは、必ずしもイコールではないということを覚えておいてください。
嫌いなことというのは、実はそれをちょっとでも取り入れることで自分の可能性が伸びるケースが多いからです。
>>目標の設定、努力の仕方、正しい自己判定を確認しながら、自分が輝ける「ニッチな居場所」を見つけてゆきたい
「成功脳と失敗脳 脳が震えるほど成功する方法」(茂木健一郎著、総合法令出版)より
2015年12月7日初版発行
はじめに 成功者たちの脳に隠された、驚くべき真実!
成功者たちは、成功すべくして成功する「成功脳」を持っているということでした。
簡単にいってしまえば、「成功体験を積み重ねるのがうまい脳」ということになります。
仕事でも勉強でも、もっといってしまえば人生でも、成功者になれるかどうかは、実はちょっとした脳の使い方で決まるといっても過言ではないのです。
日々のちょっとした意識や習慣を変えるだけで、誰もが新しい脳回路を強化することができ、「成功脳」の持ち主になることができるからです。
「どんな些細な成功でも、自分を褒めてあげる」というものです。
成功体験を積み重ねて神経伝達物質であるドーパミンをいかに出せるかが、「成功脳」を持つ大きなきっかけになっていくというわけです。
成功脳、失敗脳というのは、成功脳のパターン、失敗脳のパターンがあるということです。
どういう成功パターンがその人に週間として身についているかということを知ることが、成功脳を強化するさいに、大事なポイントになってくることになります。
第1章 成功か失敗かは、脳が決めている!
脳は成功と失敗をはっきり区別している!
脳は、自らの成功の設定を創造的に行い、そこに向かって前向きに努力するということこそが、成功と捉えているのです。
大事な取引先との接待ゴルフでは、ビジネスでの交渉事をうまく運ばせるために、気づかれないように上手に負けることも、契約をしてもらえるチャンスを得ることになるかもしれないので、成功と捉えることもできるわけです。
これこそが、「脳がもたらす創造的な成功」であるといえるのではないでしょうか。
脳はいつも成功と失敗を気にしていて、しかもその成功と失敗の基準は脳自体がクリエイティブに決めているということです。
いかに自分自身で成功のターゲットをつくり出すか
自分で何を成功と思うか、何を失敗と思うかという、その人自身の価値観と非常に深く結びついているということになります。
成功脳とは、自分自身の中で「無」の状態から「有」という体験をクリエイティブにつくり出していくことができる脳だということを覚えておいてください。
自ら成功のターゲットをつくり出すことによって、成功脳がどんどん活性化していくのです。
「タイムプレッシャー法」で成功のターゲットを明確にする
自分自身に適度なプレッシャーをかけ続けていれば、人間の脳というのは自然にアクティビティを上げるようにできているのです。
タイムプレッシャー法を自分自身の中にうまく取り入れることができるようになってくれば、集中力が増し、脳の成長に欠かせない成功体験や報酬を調整することができるようになります。
大事なポイントは、クオリティは下げないということです。
自ら設定した目標でないと、成功脳をつくり出すことができない
自分で成功のターゲットをつくって、それに向かって努力するという基本的なサイクルがまわせていない人が多いということです。
それこそが失敗脳の根源だといってもいいでしょう。
最大の失敗脳とは、そもそも自分で目標をクリエイティブにつくれない脳だということです。
成功脳を活性化させる秘訣というのは、成功のターゲットを「設定→努力→判定」というサイクルでまわしていくということになります。
ときには成功して、ときには失敗するという形で動ける人は、その時点で、もうすでに成功脳のサイクルに入っています。
重要なのは、誰かに命令されたり押しつけられた目標設定では、成功脳をつくり出すことができないということです。
いくら結果が同じであっても、自分で設定した目標と、他人が設定した目標とでは、それを達成したときの脳の喜び方がまったく違ってくるのです。
やはり、脳は自分が設定した目標を達成できるとものすごくうれしいわけです。
>>自ら目標を創造的に「設定」し、それに向かって「努力」して、「無」から「有」をクリエイティブにつくり出してゆきたい
「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ」(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
愛とは「決断」である
哲人 誰かとの出会いに「運命」を感じ、その直感に従って結婚を決意した、という人は多いでしょう。しかしそれは、あらかじめ定められた運命だったのではなく、「運命だと信じること」を決意しただけなのです。
フロムはこんな言葉を残しています。「誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である」と。
出会いのかたちなど、どうでもいい。もしもそこからほんとうの愛を築いていく決意を固め、「ふたりで成し遂げる課題」に立ち向かうのであれば、いかなる相手との愛もありえます。
・・・・・・運命とは、自らの手でつくり上げるものなのです。
われわれは運命の下僕になってはいけない。運命の主人であらねばならい。運命の人を求めるのではなく、運命といえるだけの関係を築き上げるのです。
・・・・・・やるべきことはひとつでしょう。そばにいる人の手を取り、いまの自分にできる精いっぱいのダンスを踊ってみる。運命は、そこからはじまるのです。
ライフスタイルを再選択せよ
哲人 愛の関係に待ち受けるのは、楽しいことばかりではありません。引き受けなければならない責任は大きく、つらいこと、予期しえぬ苦難もあるでしょう。それでもない、愛することができるか。どんな困難に襲われようとこの人を愛し、ともに歩むのだという決意をもっているか。その思いを約束できるか。
フロムは言います。「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」と。・・・・・・アドラーならこの「信念」を、「勇気」と言い換えるでしょう。
愛する勇気、すなわちそれは、「幸せになる勇気」です。
「楽をしたい」「楽になりたい」で生きている人は、つかの間の快楽を得ることはあっても、ほんとうの幸せをつかむことはできません。われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。
愛を知り、「わたしたち」を主語に生きるようになれば、変わります。生きている、ただそれだけで貢献し合えるような、人類のすべてを包括した「わたしたち」を実感します。
「愛し、自立し、人生を選べ」と。
シンプルであり続けること
哲人 実際の人生は、なんでもない日々という試練は、「最初の一歩」を踏み出したあとからはじまります。ほんとうに試されるのは、歩み続けることの勇気なのです。ちょうど、哲学がそうであるように。
>>運命の下僕になることなく、信念を持って歩み続ける勇気があれば、きっと幸せは訪れるだろう
「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ」(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
第五部 愛する人生を選べ
愛は「落ちる」ものではない
哲人 「落ちる」だけの愛なら、誰にもできます。そんなものは、人生のタスクと呼ぶに値しない。意思の力によって、なにもないところから築き上げるものだからこそ、愛のタスクは困難なのです。
人生の「主語」を切り換えよ
哲人 交友の関係を成立させるのは「あなたの幸せ」です。相手に対して、担保や見返りを求めることなく、無条件の信頼を寄せていく。ここにギブ・アンド・テイクの発想はありません。ひたすら人事、ひたすら与える利他的な態度によって、交友の関係は生まれます。
利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築きあげること。それが愛なのです。
「わたし」や「あなた」よりも上位のものとして、「わたしたち」を掲げる。人生のすべての選択について、その順序を貫く。「わたし」の幸せを優先させず、「あなた」の幸せだけに満足しない。「わたしたち」のふたりが幸せでなければ意味がない。「ふたりで成し遂げる課題」とは、そういうことです。
われわれは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。これはすべての人がそうです。しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は「わたしたち」に変わります。利己的でもなければ利他心でもない、まったくあたらしい指針の下に生きることになるのです。
幸福なる生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。
自立とは、「わたし」からの脱却である
哲人 すべての人間は、過剰なほどの「自己中心性」から出発する。そうでなくては生きていけない。しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。
自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。
たったふたりからはじまった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくでしょう。
>>「わたし」から「わたしたち」に人生の主語を変えることができたなら、幸福なる生を手に入れることができるに違いない
「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ」(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
第二部 なぜ「賞罰」を否定するのか
自分の人生は、自分で選ぶことができる
哲人 たとえば子どもから「友達のところに遊びに行ってもいい?」と聞かれる。このとき「もちろんいいよ」と許可を与えたり、「宿題をやってからね」と条件をつける親がいます。あるいは、遊びに行くこと自体を禁止する親もいるでしょう。これはいずれも、子どもを「依存」と「無責任」の地位に置く行為です。
そうではなく、「それは自分で決めていいんだよ」と教えること。自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものだのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料――たとえば知識や経験――があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。
子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。
第三部 競争原理から協力原理へ
「わたしであること」の勇気
哲人 ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。
他者からの承認を求めるのではなく、自らの意思で、自らを承認するしかないでしょう。
「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。
「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。「わたしであること」を認めず、他者と自分を引き比べ、その「違い」ばかり際立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他なりません。
あなたの個性とは、相対的なものではなく、絶対的なものなのですから。
「信用」するか?「信頼」するか?
青年 他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。たとえ信じるに足るだけの根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えず、無条件に信じる。それが「信頼」です。その人の持つ「条件」ではなく、「その人自身」を信じている。
哲人 仕事の関係とは「信用」であり、交友の関係とは「信頼」の関係なのです。
交友には「この人と交友しなければならない理由」が、ひとつもありません。利害もなければ、外的要因によって強制される関係でもない。あくまでも「この人が好きだ」という内発的な動機によって結ばれていく関係です。
いかなる職業にも貴賎はない
哲人 人間の価値は、「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではない。その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まるのだと。
人生は「なんでもない日々」が試練となる
哲人 まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々の、ちいさな信頼の積み重ねが、いつか国家間の争いさえもなくしていくのです。
われわれにとっては、なんでもない日々が試練であり、「いま、ここ」の日常に、大きな決断を求められているのです。その試練を避けて通る人に、ほんとうの幸せは獲得できないでしょう。
>>「この人が好きだ」という内発的な動機によって結ばれ、無条件に「信頼」する関係は無敵であるに違いない
「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ」(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
勇気は伝染し、尊敬も伝染する
哲人 アドラーは言います。「臆病は伝染する。そして勇気も伝染する」と。当然「尊敬」もまた、伝染していくでしょう。
「変われない」ほんとうの理由
青年 人間は、過去の「原因」に突き動かされる存在ではなく、現在の「目的」に沿って生きているのだから。たとえば、「家庭環境が悪かったから、暗い性格になった」と語る人。これは人生の嘘である。
われわれは過去の出来事によって決定される存在ではなく、その出来事に対して「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。
自分の人生を決定するのは、「いま、ここ」を生きるあなたなのだ、と。
哲人 アドラーの思想は「人間は、いつでも自己を決定できる存在である」という、人間の尊厳と、人間が持つ可能性への強い信頼に基づいています。
われわれは、いつでも自己を決定できる存在である。あたらしい自分を選択できる存在である。にもかかわらず、なかなか自分を変えられない。変えたいと強く願いながらも、変えられない。いったいなぜなのか。
青年 ほんとうは変わりたくないから?
哲人 そういうことです。これは「変化とはなにか?」という問いにもつながっています。あえて過激な表現を用いるなら、変化することとは、「死そのもの」なのです。
自分を変えるとは、「それまでの自分」に見切りをつけ、「それまでの自分」を否定し、「それまでの自分」が二度と顔を出さないよう、いわば墓石の下に葬り去ることを意味します。そこまでやってようやく、「あたらしい自分」として生まれ変わるのですから。
だから人は変わろうとしないし、どんなに苦しくとも「このままでいいんだ」と思いたい。そして現状を肯定するために、「このままでいい」材料を探しながら生きることになるのです。
それでは、「いまの自分」を積極的に肯定しようとするとき、その人の過去はどのようなトーンで彩られると思いますか?
答えはひとつ。すなわち、自分の過去について「いろいろあったけど、これでよかったのだ」と総括するようになる。
青年 ・・・・・・「いま」を肯定するために、不幸だった「過去」をも肯定する。
哲人 理想には程遠い「いまの自分を正当化するために、自身の過去を灰色に塗りつぶしておられる。「あの学校のせいで」とか「あんな教師がいたから」と考えようとしている。そして「もしも理想的な学校で、理想的な教師に出会っていたら、自分だってこんなふうじゃなかったのに」と、可能性のなかに生きようとしている。
いいですか、われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。十人十色の「いま」によって色を塗られた、それぞれの解釈があるだけです。
過去とは、取り戻すことのできないものではなく、純粋に「存在していない」のです。そこまで踏み込まない限り、目的論の本質には迫れません。
あなたの「いま」が過去を決める
哲人 歴史とは、時代の権力者によって改竄され続ける、巨大な物語です。歴史はつねに、時の権力者たちの「われこそは正義なり」という論理に基づき、巧妙に改竄されていきます。あらゆる年表と歴史書は、時の権力者の正当性を証明するために編纂された、偽書なのです。
われわれ個人も同じです。人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「いまのわたし」の正当性を証明すべく、自由自在に書き換えられていくのです。
いまの「目的」に反する出来事は消去するのです。
アドラー心理学が「使用の心理学」とされる所以は、この「自らの生を選びうる」という点にあります。過去が「いま」を決めるのではありません。あなたの「いま」が、過去を決めているのです。
アドラー心理学に「魔法」はない
青年 もしもわたしの「これから」を真剣に考えるというのなら、まずは前提となる「これまで」を知っていただく必要があるでしょう!
哲人 いいえ。あなたはいま、わたしの目の前にいるのです。「目の前にいるあなた」を知れば十分ですし、原理的にわたしは「過去のあなた」など知りようがありません。くり返しますが、過去など存在しません。あなたが語る過去は、「いまのあなた」によって巧妙に編纂された物語に過ぎない。そこを理解してください。
>>確かに、歴史や「過去」とは、つねに、時の権力者たちや「いまのあなた」に、巧妙に改竄された物語に過ぎないに違いない
「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ」(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと
哲人 尊敬とはなにか? こんな言葉を紹介しましょう。「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである」。アドラーと同じ時代に、ナチスの迫害を逃れてドイツからアメリカに渡った社会心理学者、エーリッヒ・フロムの言葉です。
「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」と。
水辺まで連れていくことはできても、水を呑ませることはできません。 どんな結果が待っていようとも、最初の一歩を踏み出すのは「あなた」です。
この世界には、いかなる権力者であろうと強要しえないものが、ふたつだけあります。
「尊敬」と「愛」です。
「他社の関心事」に関心を寄せよ
哲人 「他社の関心事」に関心を寄せるのです。
これはあらゆる対人関係で求められる、尊敬の具体的な第一歩です。会社での対人関係でも、恋人との関係でも、あるいは国際関係においても、われわれはもっと「他社の関心事」に関心を寄せる必要があります。
われわれに必要なのは、「他者の目で見て、他社の耳で聞き、他者の心で感じること」だと。
勇気は伝染し、尊敬も伝染する
哲人 アドラーは言います。「臆病は伝染する。そして勇気も伝染する」と。当然「尊敬」もまた、伝染していくでしょう。
「変われない」ほんとうの理由
青年 人間は、過去の「原因」に突き動かされる存在ではなく、現在の「目的」に沿って生きているのだから。かとえば、「家庭環境が悪かったから、暗い性格になった」と語る人。これは人生の嘘である。
われわれは過去の出来事によって決定される存在ではなく、その出来事に対して「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。
自分の人生を決定するのは、「いま、ここ」を生きるあなたなのだ、と。
哲人 アドラーの思想は「人間は、いつでも自己を決定できる存在である」という、人間の尊厳と、人間が持つ可能性への強い信頼に基づいています。
われわれは、いうでも自己を決定できる存在である。あたらしい自分を選択できる存在である。にもかかわらず、なかなか自分を変えられない。変えたいと強く願いながらも、変えられない。いったいなぜなのか。
青年 ほんとうは変わりたくないから?
哲人 そういうことです。これは「変化とはなにか?」という問いにもつながっています。あえて過激な表現を用いるなら、変化することとは、「死そのもの」なのです。
自分を変えるとは、「それまでの自分」に見切りをつけ、「それまでの自分」を否定し、「それまでの自分」が二度と顔を出さないよう、いわば墓石の下に葬り去ることを意味します。そこまでやってようやく、「あたらしい自分」として生まれ変わるのですから。
だから人は変わろうとしないし、どんなに苦しくとも「このままでいいんだ」と思いたい。そして現状を肯定するために、「このままでいい」材料を探しながら生きることになるのです。
それでは、「いまの自分」を積極的に肯定しようとするとき、その人の過去はどのようなトーンで彩られると思いますか?
答えはひとつ。すなわち、自分の過去について「いろいろあったけど、これでよかったのだ」と総括するようになる。
青年 ・・・・・・「いま」を肯定するために、不幸だった「過去」をも肯定する。
哲人 理想には程遠い「いまの自分を正当化するために、自身の過去を灰色に塗りつぶしておられる。「あの学校のせいで」とか「あんな教師がいたから」と考えようとしている。そして「もしも理想的な学校で、理想的な教師に出会っていたら、自分だってこんなふうじゃなかったのに」と、可能性のなかに生きようとしている。
いいですか、われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。十人十色の「いま」によって色を塗られた、それぞれの解釈があるだけです。
過去とは、取り戻すことのできないものではなく、純粋に「存在していない」のです。そこまで踏み込まない限り、目的論の本質には迫れません。
われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。十人十色の「いま」によって色を塗られた、それぞれの解釈があるだけです。 われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。十人十色の「いま」によって色を塗られた、それぞれの解釈があるだけです。
過去とは、取り戻すことのできないものではなく、純粋に「存在していない」のです。そこまで踏み込まない限り、目的論の本質には迫れません。
>>過去とは、純粋に存在するものではなく、十人十色の「いま」によって色を塗られた、それぞれの解釈があるだけ、という理解は正しいように思う
「投資家が「お金」よりも大切にしていること」(藤野英人著、星海社)より
第5章 あなたは、自分の人生をかけて社会に投資している、ひとりの「投資家」だ
投資は、「お金」ではなく「エネルギー」のやり取り
私は「投資とは、いまこの瞬間にエネルギーを投入して、未来からのお返しをいただくこと」だと考えています。
それが、私にとっての投資の定義です。
「お金」ではなく「エネルギー」をやり取りするのが投資なんですね。
エネルギーの8要素
エネルギー=情熱×行動×時間×回数×知恵×体力×お金×運
これは、私がイメージするエネルギーの方程式です。
未来からのお返し=プロダクト(モノやサービス)×感謝×成長×経験×お金
なぜ「カネの話は人生でいちばん大切」なのか?
私の考える投資の目的はただひとつ、
「世の中を良くして、明るい未来をつくること」
なんですね。
最大のお返しとは、“明るい未来”のことです。
会社やビジネスに当士(株式投資・不動産投資など)することは「直接的に、世の中を良くすること」であるし、自己投資も「間接的に、自分を通して世の中を良くすること」だと考えています。
当然、消費をすることも投資であれば、選挙で一票を入れることも投資です。
みなさんは仕事をすることでエネルギーを生み出し、消費をすることでエネルギーを使っています。
そのエネルギーをどう世の中に流して、みんなと一緒にどんな未来をつくっていくか?そういったことを考えることこそが、「お金」について考えることであり、お金の哲学だと言えるでしょう。
貯金として眠っているお金、特にタンス預金のお金に、世の中を変えるエネルギーがあるでしょうか?
いいえ、それはエネルギーが消滅した「死んだお金」です。
ふだん使っているお金にしても、何も考えずに漠然と消費していたり、ただ「安いもの」を買っているのだとすれば、それはかぎりなく「死んだお金」に近いでしょう。
お金に支配された人生とは、自分のことだけを考えている「閉じた人生」に他なりません。
私たちは「お金」を通して、もっと社会のことや自分の人生を立体的に、奥行きのあるものとして見なければなりません。
ブレてもいい。揺れ動いてもいい。一歩ずつ理想に近づいていこう
真の“投資家”は、理想に閉じこもるわけでもなく、現実に逃げるわけでもなく、理想と現実の間を悩みながら歩いていくものです。
本当の安定とは「成長し、変化すること」
個人レベルでも、「成長にかける」ことがいちばん安全な道なのです。
「真面目かどうか、成長しているかどうか」で会社を選べということです。
真の安定とは、変動・変化をしないことでは、けっしてありません。
変化と向き合い、変化をチャンスと捉え、変化(成長)を望んで、実際に動くこと。要は、変化こそが安定なのです。
ところが、ほとんどの人はその逆を信じてしまっています。
人を信じられるかどうか――投資家として生きるための最初の一歩は、そこにかかっているのです。
投資の果実=「資産形成」×「社会形成」×「こころの形成」
あなたは、自分の人生をかけて社会に投資している、ひとりの投資家なのです。
そのことを、本書を閉じたあとも忘れないでください。
あなたには、「お金」よりも信じられるものがありますか?
あなたには、「お金」よりも大切なことがありますか?
その答えを探す旅を、私と一緒に歩み始めましょう。
エイヤ!
>>変化をチャンスと捉え、変化(成長)を望みながら実際に動いて、結果として、世の中を良くして、明るい未来をつくってゆきたい
「投資家が「お金」よりも大切にしていること」(藤野英人著、星海社)より
第3章 人は、ただ生きているだけで価値がある
1円も稼げない赤ちゃんも、経済主体
赤ちゃんがいることによって成り立っている会社や産業がたくさんあるからです。
実際にお金を払っているのは親であったり祖父母であったりするわけですが、大きな枠組みで見ると、赤ちゃんも経済活動を行っていると言えるのです。
つまり、赤ちゃんが存在するだけで経済が動いている、というわけです。
社会貢献とは、新しい何かをつくりだすだけではなく、消費することによっても成し遂げられるものです。ですから、私たちが働くことにも大きな価値があるし、私たちが消費することにも同じくらい大きな価値があります。
そういう意味で、「人は、ただ生きているだけで価値がある」のです。
重要なのは、あなたが何を考えて、その消費行動をとったか、ということです。
重要なポイントは、「消費活動は社会貢献活動である」という観点から考えてみると、自分がステキだと思ったこと(もの)に自分のお金を使う行為は、そのステキな商品やサービスを提供してくれている会社やそこの従業員たちを応援する行為と同義である、ということです。
「お金の使い方に自覚的になる」ということです。
世の中は、みんなが使ったお金で成り立っています。
消費をすることは、大げさではなく、社会を「創造すること」でもあるのです。
みなさんは、ただ生きているだけで大きな価値があります。
であるなら、その価値をさらに大きなものにするように、自覚的に行動してほしい。私はひとりの投資家として、そう強く思っています。
第4章 世の中に「虚業」なんてひとつもない
ソニー凋落の兆しはプレゼンに表れていた
ビル・ゲイツのプレゼンの上手さに、思わず私は引き込まれてしまいましたが、関心したのはそこではなく、彼の話の内容です。
ゲイツは、未来の話しかしなかったんですね。
○○という未来を実現したいから、われわれは存在している――こういった「ミッション・オリエンテッド(使命志向)」な考え方は、さきほどお話したインドのインフォシスやウィプロ社と同じでしょう。
ミッション・オリエンテッドとは、ミッションやビジョンの実現を最重要課題とすることです。会社の商品やサービスも、そのミッションやビジョンの実現のために存在するし、提供する意義があると考えます。
プロダクトがいかに優れているかではなく、いかにその「価値観」をも共有し、「あるべき未来」を実現していくか。そこが重要なんですね。
そのプレゼン大会から14年が経ちましたが、日本の大企業はどこに行っても、いまだにプロダクト志向から抜け出せていないように思います。
ミッション・オリエンテッドなのは、ごく一部の大企業や少数のベンチャー企業くらいでしょう。
単純に、自分のことではなく、お客さんのことを真剣に考えてほしいのです。そのうえではじめて、手段として技術というものが存在するのだと思います。
日本には、不真面目な仕事をしている会社が多すぎます。
もっと、ビジネスに真面目になってください。
これからの日本をになっていく若い人の力で、「努力」であればなんでも美徳、なのではなく、「真面目な努力」が美徳になるような社会にしていってほしいと思っています。
人は生きているだけで価値があるのと一緒で、私は「世の中のすべての会社や仕事には大きな価値がある」と考えています。
あえて厳しい言い方をしますが、相手や社会のことを知らないこと、知ろうとしないことのほうが、よほど虚ろな生き方でしょう。
この本を読む若い人には、絶対にそういう生き方はしてほしくないと思っています。
まずは、「知る」ことから始めましょう。
>>プロダクト志向から抜け出して、ミッション・オリエンテッドな会社にしてゆきたい
「わが記憶、わが記録」(堤清二・辻井喬オーラルヒストリー、御厨貴・橋本寿朗・鷲田清一編、中央公論社)より
第一回 戦争の記憶、学校の記憶
堤 国立学園小学校は、もともと東京商科大学(現・一橋大学)の教職員の子どものために、あたしの父・康次郎が1926年に谷保村(現・東京都国立市)につくった学校です。親父は国立学園という学園町をつくる上で、どうしても中心になる大学に来てほしかった。そこで東京商大の佐野善作先生(1920~35、初代学長を務めた)に移転してくれるように頼んだ。そのとき職員が反対する。では小学校もつくりましょう、ということだったと思います。
この小学校に、玉川学園、自由学園といった自由主義教育の流れを汲んだ山本丑蔵という校長先生がいた(在任1926~70年)。その人が校風をつくったと言えるでしょう。
そのころ私は「青山」という母の姓を名乗っていましたが、「青山君はお妾さんの子どもですよ」ということが、子どもたちのあいだで知られていく。子どもはよくわからないから、無邪気に本人に聞いてくる。聞かれたほうはわからないなりにコンプレックスを持つ。ですから、心に弾力性を持った小学校時代を過ごしてきたと思います。
実は、私が生まれる前に二人の子どもをつくっている。けれど本妻さんには子どもがなかった。今、別の必要があって調べているのですが、滋賀県に姉と兄とが一人ずついた。二人とも別の女性とのあいだの子です。だから、三鷹の家の子のできがよければ、という期待があったのかもしれません。後年こんなにグレるとは思わなかったでしょう(笑)。都立[府中十中(いまの都立西高)]は悪い学校ではないですから、お祝いをくれたのかもしれません。
親父の籍に入ったわけです。母親は入っていません。なぜなら親父は離婚していないので入れられない。本妻さんに子どもがなかったので、子どもは親父がわけを話して入れたんでしょう。本妻さんに謝ったのだろうと思います。
これは何かに書いたと思いますが、小学生のときに、母親から「姓を変えることに同意してくれるか」という話がありました。私が六年のときで、妹の邦子が五年のときです。私はピンと来なくて、「名前なんてどっちでもいいや」と言った。ただ名前が変わると、母と離れ離れになるかもしれない。それが不安で尋ねた。「それは変わらない」と母親が言うので同意しました。そのことは覚えています。
>>衆議院議長も務めた堤康次郎の跡取りである異母兄弟の堤清二と堤義明の関係や如何
「憲法の無意識」(柄谷行人著、岩波新書)より
第四章で詳述したように、1990年以降に世界資本主義は「帝国主義的」段階に入りました。ここ25年の間に、それが徐々に進展し深刻化してきました。戦争が切迫していることを、昨今多くの人びとがひしひしと感じているのも当然です。が、それを主張していることなのですが、それは、帝国主義時代、すなわち、日本でいえば日清戦争から日露戦争にいたる時期と比べてみるべきです。
現在、世界中で資本主義経済の危機とともに戦争の危機が迫っていることは、まちがいありません。どの国もこの危機的状況において、それぞれに対策を講じています。そして、それが相互に感染し、恐怖、敵対心が増幅されるようになっています。その中で、日本で急激に推進されたのは、米国との軍事同盟(集団的自衛権)を確立するという政策です。それは戦争が切迫した現状の下では、リアリスティックな対応であるように見えます。
しかし、各国の「リアリスティックな」対応のせいで、逆に、思いがけないかたちで、世界戦争に巻き込まれる蓋然性が高いのです。第一次大戦はまさにそのようなものでした。ヨーロッパの地域的な紛争が、軍事同盟の国際的ネットワークによって、極東の日本まで参加するような世界戦争に転化していったのです。しかしまた、その結果として、国際連盟が生まれ、パリ不戦条約が成立しました。日本の憲法9条が後者に負うことはいうまでもありません。
したがって、防衛のための軍事同盟あるいは安全保障は、何ら平和を保障するものではありません。ところが、それがいまだにリアリスティックなやり方だと考えられているのです。そして、日本ではそれを実現するために、何としても「非現実的な」憲法9条を廃棄しなければならないということになります。
この25年間(それ以前も同じでしたが)、憲法9条を廃棄しようとする動きが止んだことはありません。にもかかわらず、それは実現されなかった。今や保守派の中枢は、なぜ改憲できなのかはわからないままながら、たぶん改憲をあきらめているのでしょう。そのかわりに、安保法案のような法律を作る、あるいは、憲法に緊急事態条項を加えるなどで、9条を形骸化する方法をとろうと画策しています。
ゆえに、護憲派は当面、9条がなくなってしまうのではないかということを恐れる必要はありません。問題はむしろ、護憲派のあいだに、改憲を恐れるあまり、9条の条文さえ保持できればよいと考えているふしがあることです。形の上で9条を護るだけなら、9条があっても何でもできるような体制になってしまいます。護憲派の課題は、今後、9条を文字通り実行することであって、現在の状態を護持することではありません。
ただ、私は憲法9条が日本から消えてしまうことは決してないと思います。とたえ策動によって日本が戦争に突入するようなことになったとしても、そのあげくに憲法9条をとりもどすことになるだけです。高い代償を支払って、ですが。憲法9条は非現実的であるといわれます。リアリスティックに対処する必要があるということがいつも強調される。しかし、最もリアリスティックなやり方は、憲法9条を掲げ、かつ、それを実行しようとすることです。9条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ「強力」な行為です。
>>9条の実行は、本当に唯一の普遍的かつ「強力」な行為であると言えるのだろうか
「憲法の無意識」(柄谷行人著、岩波新書)より
あとがき
明治憲法が自発的で、戦後憲法が自発的でないなどというのはバカげています。明治憲法は、べつに「国民」によってつくられたものではありません。憲法もないような野蛮国では、対外的にやっていけない、不平等条約も変えられない、といった外的強制というより「皮相上滑り」の模倣という動機から作られたのです。しかも、この憲法を作ったのは、元老として権力を維持しようとした連中であって、彼らは議会創設に備え、軍を握るために天皇の統帥権を設定しました。そうした元老がいなくなったのちに、この統帥権条件が一人歩きし、昭和時代における軍部の独断専行の根拠になったのです。
憲法9条に関していえば、戦後の日本人は占領軍の押しつけに抵抗したわけではありません。にもかかわらず、占領軍が再軍備を要請したとき、それを拒んだ。9条はいつの間にか「自発的」なものになっていたのです。第一章で、私はそれを、フロイトの「超自我」という概念から説明しました。超自我は、社会的規範が内面化されたようなものとは違って、「死の欲動」、いいかえれば「内部」から来るものです。それは外的な強制とは別です。その意味で、「自発的」なのです。が、通常の意味での自発性とは違って、自らの内からくる強迫的な衝動に根ざすものです。したがって、日本で憲法9条が存続してきたのは、人々が意識的にそれを維持してきたからではなく、意識的な操作ではどうにもならない「無意識」(超自我)があったからです。
すると、これは内村鑑三に関して述べたこととはまるで違うように見えます。しかし、案外つながる点があるということに気づきました。私が第二章で論じたのは、むしろそのことではないか、と思うのです。戦後日本に9条が定着したのは、それが新しいものではなく、むしろ明治以後に抑圧されてきた「徳川の平和」の回帰だったからではないか。だから、こういってもいいのではないか、と思います。内村におけるキリスト教が武士道の高次元での回帰であったように、戦後の憲法9条はいわば「徳川の平和」の高次元での回帰であった、したがって、それは強固なものになったのだ、と。
第二に、読み返して感じたのは、私が90年代初期に考えていた状況認識には欠陥があるということです。たとえば、私はそのころ「歴史の反復」について考えていました。そして、資本主義における歴史的文脈は約60年の周期で反復される、という仮説をたてていました。だから、90年代以降は1930年代を反復することになるだろう、と予測したのです。しかし、1995年に、私はこの考えを放棄しました。ただ、「歴史の反復」という考え自体を放棄したのではなく、ただその周期を60年からその倍の120年に変更すればよいと考えたのです。それについては、第四章で論じています。
120年周期という観点からふりかえると、1991年の湾岸戦争が何を意味していたかも見えてきます。当時は、アメリカの圧倒的優位、自由・民主主義の最終的勝利、したがって、「歴史の終焉」というようなことが語られていました。しかし、もちろんそんなことはまったくの幻影です。湾岸戦争とはむしろ、それらの破綻の最初の徴候でした。そのとき日本で憲法9条の問題が浮上したことも、徴候的です。
>>憲法9条の存続は、意識的ではなく、「無意識」(超自我)的であったと言えるだろう