「敗者の条件」
「敗者の条件」(会田雄次著、中公新書)より
まえがき
いうまでもなく、福沢諭吉は、天の上に非とを作らず、日本として身分制を極端に排撃した。
しかし、否定したのは世襲的な身分制である。「学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり高人」となるが、無学のものは貧民となり下人」となって、この現実の世には貧富貴賤の区別が生ずる(『学問のすすめ』)。この区別は、個々人の努力の差が生んだ当然の、そして正しい区別である。日本はそういう正しい社会秩序の国になるべきである。国家社会の発展は、人びとがその能力を競い争いうることによってはじめて可能となるのだ。諭吉はこう主張する。そして競争をこわがり、競争を避けようとする幕府の役人どもにたいしては、ながい間の身分制社会の行きづまりの生んだ無為の徒輩であり、「頑迷固陋迷の極」として愛想をつかすのだ。もちろん、この場合の頑迷固陋とは、生存競争にやぶれたもののひがみとしての頑迷固陋なのである。
「競争」という思想はヨーロッパとともに古く、日本にははなはだ縁の遠い考え方である。今後の私たちは、このヨーロッパ、アメリカンなどの競争に対決しなければならない。むしろ平和という状況のなかで、本格的な競争をおこなってゆかなければならなくなるだろう。じっくりとした覚悟が必要なのだ。本当の競争とは何か、そのことを私は書きたいのである。
(昭和40年2月)
>>昭和40年からどれだけ日本は成長したのだろう
まえがき
いうまでもなく、福沢諭吉は、天の上に非とを作らず、日本として身分制を極端に排撃した。
しかし、否定したのは世襲的な身分制である。「学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり高人」となるが、無学のものは貧民となり下人」となって、この現実の世には貧富貴賤の区別が生ずる(『学問のすすめ』)。この区別は、個々人の努力の差が生んだ当然の、そして正しい区別である。日本はそういう正しい社会秩序の国になるべきである。国家社会の発展は、人びとがその能力を競い争いうることによってはじめて可能となるのだ。諭吉はこう主張する。そして競争をこわがり、競争を避けようとする幕府の役人どもにたいしては、ながい間の身分制社会の行きづまりの生んだ無為の徒輩であり、「頑迷固陋迷の極」として愛想をつかすのだ。もちろん、この場合の頑迷固陋とは、生存競争にやぶれたもののひがみとしての頑迷固陋なのである。
「競争」という思想はヨーロッパとともに古く、日本にははなはだ縁の遠い考え方である。今後の私たちは、このヨーロッパ、アメリカンなどの競争に対決しなければならない。むしろ平和という状況のなかで、本格的な競争をおこなってゆかなければならなくなるだろう。じっくりとした覚悟が必要なのだ。本当の競争とは何か、そのことを私は書きたいのである。
(昭和40年2月)
>>昭和40年からどれだけ日本は成長したのだろう