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「日本政治のウラのウラ」⑨



「日本政治のウラのウラ」(森喜朗、聞き手・田原総一朗、講談社)


  第八章 派閥政治とは何だったか

  一 派閥が政治家を育てた

 自民党の代議士は、当選すると、だいたい派閥に所属して自分のアイデンティティを定めていきました。この派閥で汗をかいて、何回当選すれば、こういうポストに就いて、将来は総理大臣を狙ってやろうとかね。

 だから、党全体で見るよりも派閥で将来を考えた。そして、自分の特技や得意なことを活かして国会の場で活躍しているうちに、自ずと進む方向が決まってきたんです。


  二 汗をかくとはどういうことか

 金をやるのではなくて、情報交換をしたり、メンバーを集めて会合やゴルフのセッティングをしたり。一番汗をかく象徴は、わかりやすく言えば、土曜日や日曜日に選挙区に帰らないことですよ。若手の選挙区での催しものに出かけるのです。


  四 靖国問題をどうするか

 たとえば、中国から見れば、A級戦犯が合祀されていなければいいわけです。

 分祀についてはいろんな人が試みて失敗していると聞いていますが、安倍くんのような保守思想の強い人が「ここは、国家のために考えてください。その変わり、靖国の社よりももっと立派なものを作りましょう。そして、私たちも謹んでお参りするし、天皇陛下にもお参りしてもらいます」と言って頼んだ方がうまく行くんじゃないか。だから、安倍くんが各党に呼びかけて協議会を創ったらいいと思うんだな。ぼくらもこの問題が解決しないと、何か死んでいけない気がするんだよ。

 何かというと、電話がかかってくるから(笑)。ときには「それは小泉さんに頼めよ」と言うんだけど、ダメなんですよ。小泉さんは「公務は一切やらない」と言っている。


  おわりに 元内閣総理大臣 森喜朗

 田原総一朗さんの的確な質問、実に巧妙な「誘導尋問」によって「つい本音を話してしまった」というのが嘘偽りのない感想です。活字になった原稿を見て「これはマズい」と思い、大分手直しする羽目に陥りましたが、結果的に「いいものになったなあ」と嬉しく思っています。

 私は2013年6月に、日本経済新聞出版社から『私の履歴書』という自叙伝を刊行しています。この本が、私の政治家人生を総括した「表本」とするなら、こちらは舞台裏での活動を締めくくる「裏本」と言えるかもしれません。表と裏とを両方読んでくださると、戦後日本の政治がよりくっきりと立体的に浮かび上がってくるのではないかとひそかに思っているところです。


>>安倍総理の取り巻きの活躍にも期待したい

「日本政治のウラのウラ」⑧



「日本政治のウラのウラ」(森喜朗、聞き手・田原総一朗、講談社)


  第七章 小泉純一郎から安倍晋三まで

  一 小泉内閣誕生


――加藤が首相、山崎が幹事長で、小泉さんは財務大臣という感じだったね。

 世間はそう見ていたかもしれない。ところが、加藤は森内閣時代に加藤の乱で失脚した。山崎も女性問題でダメになって、結局YKKは小泉さんの独壇場になったわけね。だけど、小泉さんじゃ党内はなかなかまとまらないだろうと誰しもが思っていた。だから、ぼくとしては小泉さんが立候補した場合にどうしたら勝てるかと考えると、地方の票を増やすしかないわけですよ。

 ぼくは第二次森内閣の時に、古賀誠幹事長に地方票を増やすように工夫してほしいと頼んだんですよ。それで、古賀さんが「わかりました。全力を挙げてやりましょう」と言ってやってくれた。都道府県の票を三票に増やし、一位になった候補者に三票全部が行くようにしくみを変えたんです。


  二 純生・小泉純一郎

――小泉さんは亀井さんに「百パーセント言うことを聞く」と言って百パーセント裏切った。そのことについて、小泉さんが総理大臣になった時に「あなたは総理になったけれど、人間的には非常に問題ありだ」と言ったの。そうしたらねえ、この時の小泉さんの答えが振るっていた。
「田原さんのおっしゃる通り、確かに問題ありだ。でも、田原さん、権力ってそういうものだ」それを聞いて、「いや、なかなかのものだ」と思ったねえ。


  三 殺されてもやる~郵政民営化の内幕

――竹中平蔵さんは「確かに小泉さんが郵政大臣の頃には財投が問題だったが、今はすっかりきれいになって今更民営化する必要はないんだ。でも、小泉さんは見栄が強くて頑固だから、そんなことをを言ったら別の人にさせるだろう」と言った。財投の問題がなくなったのに、小泉さんはなぜ郵政民営化にこだわったのですか。

 引くに引けなくなったところがあるんですよ。郵便局の機能が肥大化して、金の出し入れだけじゃなくて、本来なら地方行政がやらなきゃいけないようなことまで全部、郵便局があるようになっていたわけですね。

 小選挙区制度の時と同じように、メディアが乗るわけですよ。郵政改革に賛成か反対か問うて、ちょっとでも反対と言うと、ペケを付けた。そうやって、郵政改革を進めることがいいんだという流れができて行くんですよ。

「参議院で法案が否決されたら衆議院を解散する」と純ちゃんが言い出したが、みんなは「解散なんかできるものか」と疑っていた。

 解散を思いとどまるよう小泉さんを説得しに行ったわけです。

「怒った顔で出て行ってくれ」と言うんだ。

「ケンカをしてきたと言ってくれた方が、解散しやすいから」と。

 それで部屋から出て行ったら、記者たちにワット囲まれた。

 記者たちに「小泉総理が『殺されてもやる』と言っていた」なんて、みっともなくて言えないので「小泉総理の意志は固い。絶対解散だよ」と言いました。永田町ではみんな「解散なんかできっこない」と思っていたから、その連中にわかるように「缶ビールとひからびたチーズしか出なかった。けしからんヤツだ」と言って、小泉さんに言われたように、ひと芝居打ったわけです。

 小泉さんが正義の味方か、あるいは悲劇の王様のように見えて、国民も一緒にワーッとなった。

 演技の天才ですね。自分がその役に成り切ってしまうんだから。


  四 第一次安倍内閣

 つまり、田原さんね、政治家というのは自分よりも若い人、当選年次が下の人を総裁にしてしまったら、自分は長老になっちゃいますからね。

これは絶対に抵抗するんですよ。だから、党全体の空気としては安倍くんではなかった。ぼくらも全体を見ていて、福田康夫さんが官房長官で安倍くんが副長官をしていたんだから、福田さんにやってもらうのがいいのじゃないかと考えた。うちの派のなかでも、世耕弘成とか山本一太とか、跳ね上がっている連中は「安倍、安倍」と言っていましたけど、全体はやっぱり「安倍じゃない」という空気だったんです。

 安倍くんに「どうするんだ」と聞いたら、塩崎恭久を官房長官にして、誰かを幹事長にすると言った。

 そこは安倍くんも妥協してくれたのか、中川くんを幹事長にしたんですね。そうして第一次安倍内閣がスタートする。
 それで、安倍総理と青木幹雄さんを会わせた時に、青木さんが注文を付けたのが「この機会に郵政民営化で党を出された人たちを全部、無条件で戻しなさい」ということで、安倍くんも「わかりました」と言って応じた。その場に中川幹事長も一緒にいて「わかりました」と言ったのに、中川くんが「そんなことをすると支持率が下がる」と言ってなかなかやらなかったんだ。 どころが、その際、中川くんが「党に一札書いて出せ」と条件を付けたわけね。

 亀井静香と平沼赳夫はさすがに「侍」ですから「断じて書けない」ということで、彼らだけ復党しなかった。政治家としての面目と筋を通したということでしょうが、そこが運命の分かれ道だった。
 安倍くんが無条件でいいと言ったんだから、幹事長が勝手にそういうことをしちゃいかんと言ったけれど、中川くんは何を思ったのか、そういう具合に一札取ることにした。そうやって、あちこちがギクシャクしながらスタートしたのが、第一次安倍内閣です。

――その安倍さんは就任から一年で体調を崩して辞任します。

 ぼくはね、安倍くんが辞めるというのをフランスで聞いたんですよ。

 帰って来たら、騒然となっていましたよ。 それで、みんなに会ったら、すでに相談していて、ほとんどが福田康夫だった。それで「福田で行こう。派閥の会長も小泉くんでなく、福田でいいじゃないか」と言ったら、「それを言うのは森さんしかできない」と言われたんだ。


  五 自民・民主大連立構想

 民主党代表の小沢一郎が意地が悪くて、何事にも反対するわけですから。それで、嫌気が差したんですよ。

 何しろ数が足りないわけだから、福田さんは何から何まで民主党の小沢に反対されて、もう嫌気が差していたんです。その前に大連立の話があったでしょう。

 そこで、小沢が行った。
「今がチャンスだ。今やらなかったら絶対にできない。民主党は、どうしようもないバカばっかりだから、このまま政権を取っても危うい。選挙で勝った今は、オレのマジックが効いている時だ。小沢のお陰で選挙に勝ったとみんな思っているから、オレの言うことを聞くんだ」

 大連立の大義名分は消費税の増税だったんですよ。 ぼくが「あなたは民主党を説得できるのか」と問うと、「オレの言うがままだ。ただし、早くしないとダメだ。選挙に勝利した興奮が醒めてくると、オレのまやかしが効かなくなる」と言うんだな。

 それで、ぼくはすぐに持ち帰って福田総理に話し、伊吹文明幹事長にも「おうかひとつ、検討してくれ」と話した。それから、伊吹さんと中川くんに党内の根回しを頼んだが、結果として結論が出る前に、小沢の方がポシャったわけだ。

 民主党側がパーになって、この話は消えました。それについても、小沢は一度も釈明も謝罪もなかったなあ。福田さんには謝ったという話ですが、ぼくに対しては知らぬ顔の半兵衛ですよ。

――自民党は麻生総理で2009年の総選挙に大敗し、民主党に政権交代しますが、森さんはこの自民党の敗北をどう見ていらっしゃいますか。

 派閥の論理で総理総裁をたらい回しにし、政治をダメにした自民党に対する国民の怒りが示されたのだと思いますね。 改革についても後手後手に回り、対応できなかったことも国民の批判の矛先になったんじゃないですかね。

 国民の不満に対して、自民党は未来を展望できるような政策を掲げることができなかった。


  六 第二次安倍内閣の行方

 橋下発言を聞いて、「これはよくない。言わずもがなのことだなあ」と安倍くんも考えたと思う。

 憲法を改正できないような手続きやしくみについて、国会議員が黙ってあまんじていることは自堕落な話ですよ。だから、まず96条から手を付けて、憲法を改正できるようにしようと。三分の二ではなく、二分の一で改正できるようにして国民が見つからの意思を出せるようにするのが大事なことです。憲法を改正できないようにアメリカがカンヌキを掛けたわけだけど、それをいいことにいつまでもカンヌキ掛けたままでヌクヌクしているのは、政治家として卑怯だし、恥ずかしい。


  七 安倍晋三という男

 右翼ではない。いい意味での新人類なんですよ。

 純粋に戦後生まれの新しい若者のことですよ。ところが、父親が元外務大臣の安倍晋太郎、祖父が元総理大臣の岸信介、そして祖父の弟の佐藤栄作も総理大臣だった。しかも、生まれ故郷の長州は、吉田松陰、高杉晋作をはじめとして偉大なる明治維新の改革者たちが輩出したところです。だから、「自分もその流れを継ぐのは当たり前だ」と彼は思っていますよ。そこはねえ、純粋すぎるほど純なんですよ。だから、小泉純一郎の純とよく似たところがありますね。

――安倍内閣の菅義偉官房長官はどうですか。

 非常にしっかりしているね。簡単に右顧左眄しない。安倍一辺倒で来た人たちのなかではいいと思いますよ。同じ安倍一辺倒のなかでも、経済財政策担当大臣の甘利明とか、塩崎恭久とか、山本一太とか、みんな「安倍、安倍」と安倍応援団の歌を朝から晩まで歌っているような連中だけど、自分の派閥や仲間を裏切ってやっているんですよ。
 甘利は山崎派の幹部でいながら存在感が薄くて、順番が来て大臣をやったけれど、それからずっとポストに就けなかったことにすごく不満だった。塩崎はすごくできる人ですけど、宏池会なのに派閥のために何かやるという気概がなく、親分も子分もいない。山本一太のごときはもうチンピラでどうしようもない(笑)。派閥に絶えず抵抗して、大恩ある福田先生の御曹司である康夫さんにまで楯ついてね。ぼくにも楯ついているけれども、そんな「抜け駆けクラブ」みたいな連中ばかりが「安倍、安倍」とやっている。

 とろこが、安倍くんの方が一枚上手だと思うのは、そういうやつらを上手にまとめながら、自民党のなかから「なるほど」と思える人材を引き抜いて結構使っていますね。たとえば、防衛大臣の小野寺五典であるとか、総務大臣の新藤義孝だとか、そういう将来の自民党を支える真面目な政策通を大事に使っていると思いますよ。もうひとつ、彼らしいなと思ったのは、総裁選挙で戦った石破茂や石原伸晃、元総裁の谷垣禎一まで抱え込んでいることです。

 誰の知恵かわからないけれど、安倍くんの考えだとすると、これは立派なもんですよ。


>>安倍総理のトップダウンによる意思決定を活かせるような社会を目指したい

「日本政治のウラのウラ」⑦



「日本政治のウラのウラ」(森喜朗、聞き手・田原総一朗、講談社)


  第六章 総理大臣はかくして誕生した

  一 社会党の方針転換


――社会党院長だった村山富市さんが総理大臣になって、1994年6月に自民、社会、さきがけ三党の自社さ連立政権ができますねえ。村山さんは総理になって四つのことを言います。自衛隊を認めること、日米安保を認めること、韓国を認めること、原発を認めること。社会党はそれまで北朝鮮支持でしたが、韓国を認めると言った。これは、森さんが言わせたんですか。

 政策については橋本政調会長が社会党と話し合って「問題ない」ということになった。しかし、政治姿勢の問題があるので、村山さんにどうするか聞いたら「それはワシに任せてくれ。そういうことはわかっているから」と言われるんだな。そう言われる以上、お任せするしかないということだったんですよ。
 それで本会議で所信表明をした際、当然、政治姿勢に対する質問が出る。その時どうするかというのが一番の問題でしたが、村山さんは結局、誰にも相談していないですね。そして、質問に対して、自衛隊は国民のために一生懸命やっていると評価するのは当然だということ。日米安保については今日まで日本の安全が守られてきたことに国民的な理解が深まっているんだという話をしました。本会議場は騒然としていましたけれど、村山さんは全く意に介さなかったね。

――もうひとつ、今話題になっている村山談話です。日本の侵略と植民地の話ですね。安倍自民党が今、問題にしていますが、これはどういういきさつで、発表することになったんですか。

 これは、村山総理と外務大臣になった河野さんとのふたりの間で調整されたということです。


  二 村山内閣の終焉

――村山内閣の時には、1995年1月に阪神・淡路大震災も起きていますが、村山さんはなぜ辞める気になるんですか。

 疲れたんでしょうな。

 小渕さんがぼくのところへ「河野は絶対にダメだ」と言いに来ましたよ。

 平成研(1994年に経世会が解散し、平成政治研究会となった。その後、平成研究会に名称変更)なんですね。

 自民党内の力関係を見ると、まだ圧倒的に平成研が握っていた。

 ひとつは、河野さんが自民党を出て新自由クラブを作って、田中批判をしたことについて、いまだに根に持っているということ。もうひとつは、自民党に帰って来てから河野さんが竹下さんに反対したことがあるんです。票が足りなくてみんながカリカリしていた時に河野さんが欠席か何かしたんですね。

「だから、森さん。これ以上、党が分裂するようなことは避けてくれ」ということでした。

 比較的に穏やかな小渕くんがあえてぼくと会って「絶対ダメだ。やったら壊れるよ。オレも経世会をまとめていく自信がないんだ。これ以上分裂したら、自民党はつぶれるよ」ということを言ったんですよ。
 
 橋本さんと小渕さんは同期で、年齢も同じ。ぼくも含めて三人とも昭和12年生まれです。だから、「橋本にだけは絶対に先にやらせない」と小渕さんは思っていた。橋本さんというのは外から見ると貴公子で政策通に見えるけど、結構わがままで子供っぽいんですよ。

 小渕さんは同じ派閥にいて、全く合わないんですねえ。これは小渕さんに聞いた話だけれど、竹下さんは「どうせ増税をやらなきゃいかんのだから、橋本にやらしておいた方がいい」と言ったというんですね。

「橋本がこける前に、派閥を掌握してしまえ。総理のイスなんか後でいいよ」と小渕さんを説得したようです。


  三 橋本行革のインチキ

――公務員の数を減らさず、省庁の数を減らすことになっちゃった。橋本さんはそんなことを全く言っていないんですが、あの辺はどういうことなんですか。

 どうしてかねえ。 それにしても、どうして自治省と郵政省をくっつけて総務省にしちゃうのか。

 あれはやっぱり旧内務省官僚の流れですよ。

――省を減らすということはひとつの省が大きくなるわけでしょ。つまり、大臣の目が行き届かなくなり、官僚が勝って気ままにできるようになるんです。

 その最たる例が国土交通省でしょう。建設省と運輸省、国土庁、北海道開発庁が一緒になったわけですが、非常に意見が分かれたところですねえ。

 一番妙味のある大臣と言えば、建設省と運輸省だったけど、そのふたつをひとつにしたわけですからね。これも、財政当局の思う壺でしょうねえ。

――そのポストを完全に平成研が取ったわけですね。

 うん。小渕の席でしたね。強いて言えば、文部省と科学技術庁を一緒にしたのは同じジャンルだから、まあいいかと。

 厚生省と労働省も一緒にすべきではなかったですね。橋本さんの思惑とは全く違う形で、どんどん進んじゃったということでしょう。

――これは小泉内閣の時ですが、 小泉さんは橋本行革をよく勉強していて「橋本さんが大失敗した。だから、行革を成功させるには官僚対策を徹底的にやり、それからマスコミ対策を徹底的にやらなきゃいけないから、五年はかかる。田原さん、無理だよ」と言っていましたね。


  四 私は真空総理だ~小渕内閣異聞

――じゃ、小渕さんは橋本内閣に入らなかった。

 いや、入ったんですよ。その時に、やっぱり竹下さんに「消費税で橋本がつまずいた時、入閣していなければ、同じ平成研のきみには総理総裁が回って来ないよ。党が認めない。こういう時は大臣からの横滑りというのがいいんだ。だから、外務か大蔵に入ってくれ」と言われたと言ってたな。

 外務大臣で入った。それは、小渕さん本人から聞いた。だから、竹さんという人はそういうところが深謀遠慮でね。

 それで、橋本総理が辞意を漏らして、小渕さんが外務大臣から総理大臣に横滑りするんです。

 あれが橋本さんだったら党内から反対の声が出たと思うけど、小渕さんは人柄がいいから、そのまますんなり総理になった。ぼくはそんなに人柄がいいとは思わんけど(笑)、外向けにはそうなっているし、面倒見がいいからぼくも含めて誰も反対できなかったね。

 大人しい人で、自分からケンカを売らないけど、人の批判を上手に、当意即妙にうまく言い返していくのが、小渕さんらしいところですね。

 ひとつは、国旗国歌法(国旗及び国家に関する法律)ですよ。

 国旗をめぐって組合との問題があちこちで起きて、どこかの高校で自殺者が出たんです。「国旗国歌と誰が決めているんだ。日の丸も君が代も、国旗国歌であるという法的根拠がないじゃないか」というのが、当時の共産党や日教組の言い分でした。法的根拠がないから校長がいくら揚げるべきだとか、敬礼すべきだと言っても無理なんです。 中身があるわけではなく、日の丸は国旗であり、君が代は国家であるというそれだけの法律なんですけどね。だけど、法律ができたことで、学校現場はガラッと変わりました。

 金融再生法(金融機能の再生のための緊急措置に関する法律)と金融早期健全化法(金融機能の早期健全化のための緊急措置に関する法律)を成立させたことです。

 金融再生法は、民主党の案を丸呑みしたんですよ。小渕さんはそんな批判は意に介さず、「よくなればい」ということで、民主党の案を受け入れた。

 小渕さんは竹さんと相談してやったと思うんだが、公的資金を投入するのが狙いだったんですよ。つぶれかかった銀行になぜ税金を入れなきゃならんのかと、ぼくらでも「ヘエ~」と思う政策でした。

 小渕内閣ではまず野党側に言わせて、うまくやるんですよ。

 ぼくは、それは竹さんの仕かけだど思いますよ。だから、小渕さんが丸呑みしたというよりも、民主党が鵜呑みにした(笑)。りそな銀行はこの間、投じられた公的資金を全部返しましたね。だから、どうってことはなかった。でも、興銀、長銀、開銀、それに都市銀行に至るまで全部、名前がかわっちゃったんだから、これは大変なことですよ。


  五 小渕首相と沖縄

 その時に、例の政策新人類というのが出てくるんです。

――NAIS(ナイス)の会ですね。Nが野本匠、Aが安倍晋三、Iが石原伸晃、Sが塩崎泰久。

 彼らがワッショイワッショイと始める。そうすると、自民党の古い連中がえらいことになったというんで、ワーワー言って騒ぎになる。しかし、あの大変な混乱期をそうやって乗り越えたことは間違いない。

 例の普天間基地の辺野古への移転を名護市がOKしたんですよ。その市長が岸本建男ですが、彼は早稲田大学のOBで、学生時代は極左だった。その岸本さんを小渕さんが説得したんですよ。

 ぼくはねえ、あの方が亡くなったのが痛恨の極みですね。小渕さんにすれば、岸本さんが呑んでくれたお返しに、ご褒美をあげようと。いうことですよ

 防衛庁の次官だった守屋武昌が辺野古移設反対で、絶対に認めなかった。ぼくらは「もう認めてもいいじゃないか」と言ったんだけど、守屋が「うん」と言わない。 ぼくはVの字の滑走路でいいじゃないかと言ったんだけど、彼が絶対にダメだったですね。


  六 小渕総理、倒れる

――その小渕総理は小沢さんと会った直後に倒れ、亡くなりました。1999年に自自公連立政権が発足し、小渕総理は自由党党首の小沢さんと協議していたわけですが、その時、小沢さんは小渕総理に何を要求したんですか。

 閣僚を三つ減らせとか、衆議院の比例代表をなくして三百にするとか、党首討論をやれとか。それから、副大臣・政務官制を設けて、大臣を自由に外国に行けるようにしなきゃいかんとかね。どれも思いつきですよ。いつもそうだけど、自分で言い出して決めておいて、自分は守らないからねえ(笑)。そういうことをいくつも小渕さんにぶつけたわけですよ。

――小渕さんが一番困ったのは何ですか。やっぱり、自自の合併ですか。

森 そんなことは、さすがに小渕さんでもできない。大きな変化があったのは、あれだけ小沢さんを「悪魔」と言って嫌っていた官房長官の野中広務さんが、小渕政権を守るためにね。

 「小沢さんにひれ伏してでも協力を求めたい」と堂々と言うわけですよね。

 橋本内閣の時の参院選で敗北し、衆参がねじれていたので、国会運営で苦労していたんです。それと、公明党との関係も今のようにうまくは行っていなかった。何かちょっと言うと逃げて行く(笑)。だから、野中さんは何とか安定政権にしなきゃいかんという思いがあったんでしょうねえ。
 そうしたら、ある日、野中さんに代わって官房長官になった青木さんから幹事長のぼくに電話がかかってきた。

「まあ、とにかく行ってみなさい」

 1999年4月1日のことです。官邸に行くと、小渕総理と小沢さんがふたりでいて、小沢さんからさっき言ったような要求が出されたわけですね。

――森さんも一緒に聞いたわけだ。

 いや、そういう話が出た後に行ったね。「総理、これはちょっとまずいですよ。項目によっては、党内で合意を得る手続きを取られないとできないことが多いです。ここで、ふたりだけで決められたら困りますから、返事は待ってもらって一旦帰ってもらいましょう」ということにしました。

 ひどく、くたびれていましたねえ。閣僚を17に減らすことはすぐに飲んだんです。これは平成研の三人が譲り、他の派閥を傷つけずにできるのでOKだった。党首討論と副大臣・政務官制度もやりましょうということでOKだったんです。

 やっぱり、衆議院の定数を三百に減らすことと、公明党を外せということですね。

 それは簡単に乗れるはずがない。小沢さんの協力を求めたいが、合併も無理でしょう。その時は小渕総理もぼくには言わなかったんだけど、何年か後にぼくが渡邉恒雄さんから言われて、小沢民主との大連立の橋渡しをしました。

――民主党の小沢代表と自民党の福田康夫総理の間でやりましたね。

 その時は、小沢さんはイケシャアシャアと「オレは副総理だな」とぼくに行ったね。

 うん。「あなたはどうするんだ」と聞いたら「そうだな。オレは面倒くさいから閣僚は嫌なんだけど、副総理がいいなあ。答弁が嫌いだから」とか言ってね。そう言うぐらいだから、やっぱり閣僚をやりたいんですよ。権力志向はあるわけね。
 それで、話を小渕・小沢会談に戻すと、会談の後に立ち懇と言うのかな、立ったまま記者と懇談をするというので「じゃ、私はこれで帰ります。後でまた、話しましょう」と言ったら、恵ちゃん(小渕首相のこと)がなぜか知らないけど「ちょっと幹事長、あんたも立ち会えよ」と言うんだな。

 小渕総理が立ったまま懇談する脇で、ぼくは立っていたんですよ。ところが、何でもない記者の問いに口ごもってね。しばらく声が出ずにじっとしている。「おかしいなあ」と思っていると、広報局長が「ここまでにしましょう」と言って終わりました。
 ちょうどホールの前のところでね。
「疲れているんだから、休みなさいよ」
「党の方、どうしようか」
「それは私に任せておきなさい。明日にでもまた会いましょう。きょうは帰って休んでください」
「そうだな。じゃあ、失礼するわ」
 そう言って、公邸に向かう廊下をトボトボと歩いていくのを見送った。それが最後でした。精神的にものすごい重圧をかけられていたんでしょうねえ。


  七 森総理誕生の舞台裏

 党の五役で集まって話し合っていた際に、予算は通ったけれど、歳入法案が通っておらず、これを一日も早くやらなきゃならない。しかもサミットは目前に控えている。一刻の猶予もならないという時に、誰が小渕総理の後継をやるかと言ったら、「自分たちの誰かがやらざるをえないだろう」ということになりました。結果的にぼくにお鉢が回ってくるわけだけど、それですぐに村上さんと野中さんが根回しに回るわけですよ。

 幹事長のぼくと政調会長の亀井静香、参議院議員会長の村上正邦、それに官房長官の青木幹雄。総務会長の池田行彦は欠席だった。池田さんが属する宏池会は被害者意識が強くて、「池田を外した」と思われていたけど、そうではなかった。
 この時の党五役会議は、自由党の分断について話し合う会議でした。自自公連立政権から小沢の自由党が離脱したけれど、自公ではどうしても数が足りない。自由党のなかには二階俊博とか野田毅とか連立からの離脱に反対の人もいた。この人たちを釣って自由党にメスを入れれば党が荒れるだろうということで、ぼくらがそれぞれ担当を決めて自由党の分断を考えた。小渕総理が倒れた翌日の夕方に赤坂プリンスホテルで、その会議を予定していたんですね。だから、そもそも後継総裁を決める会議ではなかった。そういう生臭い会だったから、池田さんは「自分はそういうことは得手じゃない」ということで、付いて来なかった。ぼくも「それでいいよ」と言ったので、池田さんは会議に欠席だったんですよ。

 意図的に後継総裁を決めるためにあの会を開いたわけでは全くない。その会を早めたので、池田さんは「自分は行かんでもいいでしょう」と言ったのであって、別に外したわけでも何でもないんです。
 その会議で、青木さんが「小渕総理はかなり深刻な状況で、後は任されている」と言うので、青木さんを首相臨時代理に決めました。そして、「代理は長くできない。国会会期中で予算関連法案がまだ成立していないので、早く後継総裁を選ばないといけない」という青木さんの判断で、後継総裁をどうするかという話し合いになったんです。公明党の意向を聞くと「自民党内の抵抗を抑えて、自公の連携を進めてくれたのは森さんだから、森さんだとありがたい」ということで、その場で「森さん、後継はあんたしかいないじゃないか」ということになったんですよ。そういう流れで、まあなるべくしてなったような形なんです。

――それで、両院議員総会を開いた。 正式な手続きを踏んでいるのに、なぜ密室談合と叩かれたんですか。

 これはね。後からわかるんです。官邸記者クラブの新聞各社のキャップというのは、ほとんど田中派と大平派担当なんですね。

――村山内閣以後も、橋本、小渕と田中派・経世会が牛耳っている。

 田中派の記者連中からすれば、まさか福田派から総理が出るとは思いもしなかった。だから、ぼくが総理になるというので面白くなかったわけですよ(笑)。それで「よし、森をやっつけてやろうじゃねえか」ということになった。

 MHKはね、ぼくが総理になって、ずっと福田派を担当していた記者が官邸キャップに入ったんですが、その途端に彼が各社から虐められるんですよ。

 それで、彼が森総理宛てに記者対策の指南書を書いたというので記事に書かれ、記者クラブで総括されて大変だったんですよ。記者クラブというのは、「やくざの世界」で、そのくらいひといんだよ。


  十 ガンとの闘い

 ぼくも人がよくて、後継総裁は加藤紘一だと思っていたんだよ。だから、「どこで加藤に譲れるか。2000年6月の秀銀議員選挙のちょっと前がいいかなあ」なとど考えながら、状況の変化を見ていたんですよ。

――そこで、2000年11月に加藤の乱が起きました。政治評論家の会合で、加藤さんが「野党の不信任案に同調しても、森内閣を倒す」と言った。森さんが後継者と心に決めていた加藤の乱というのは何なんですか。

 プーチンに「次は加藤だ」と漏らしていたぐらいだから、加藤本人にこっそり言わなかったぼくも悪かったかもしれないけれどね。
 それで、前立腺ガンの話に戻すと、そのまま放置してのたうち回るのでは、女房がかわいそうだと思ってねえ。だから、どこかで総理を辞めようと考えていたんです。

 ラグビーの精神でね。「ひとりはみんあのために、みんなはひとりのために」ということだね。犠牲的精神というのがラグビーの一番重要な部分だから、それを総理になったから止めろと言われてもね。

 ぼくの人間性までなくなっちゃうからね。


>>森元総理の考えを知っていれば、加藤総理が誕生していたに違いない

「日本政治のウラのウラ」⑥



「日本政治のウラのウラ」(森喜朗、聞き手・田原総一朗、講談社)


  第五章  野党転落から政権奪取へ

  二 海部内閣から宮沢内閣へ


――1989年、平成元年に竹下総理がリクルート事件の責任を取って退陣し、宇野宗佑総理の時の参議院選挙で自民党が敗北。宇野総理はわずか二ヵ月で辞任して、海部俊樹が総理になりますね。

 宇野さんが辞めた時、竹下さんがまた自分で決めると波風が立つので、「次の総理総裁は若手で話し合って決めろ」という指示が出たんです。毎日集まって、政策の課題から何から徹底的に議論した結果、海部が一番いいということになって選ぶわけです。しかし、結局、海部になるように仕掛けてあったね。

 竹さんにすれば、座長役の小沢に結論だけ命じておけばいいということだったと思いますよ。森はどうせ早稲田だから憎からず思っているだろうし、藤波も大丈夫だと読んだのでしょう。

――1991年1月、海部内閣の時に湾岸戦争が起きますね。あの時、幹事長になった小沢さんは「湾岸戦争に自衛隊が出るべきだ」と言った。しかし、自民党内でも反対の声が強かった。どういう人たちが反対したんですか。

 それは、野中広務さんや河野洋平さんたちですね。

 ぼくは、出さざるをえないと思っていました。なんでもかんでも金で片付けるのはよくないので、何かうまい形を作ってやるしかないだろうと思っていましたね。

――海部総理の後、宮澤喜一さんが総理になりますが、この時には渡辺美智雄さんと三塚博さん、それに宮沢さんが手を挙げました。舞台裏はどうだったのですか。

 加藤紘一が大活躍をした頃です。宏池会の会長が斎藤邦吉さんで、加藤くんが事務総長でした。加藤がいろいろ仕掛けて、宮沢さんが総理になるわけですが、そこに行くまでにはいろいろなことがありました。

 加藤さんが斎藤邦吉さんに入れ知恵をして、金丸さんに「ぜひ、宮沢にお願いしたい。宮沢にしてくれたら、どんなことでも聞きます」と言ったようです。その時に、金丸さんの下で代行をしていたのが小沢さんだったんです。だから、小沢さんは得意になってやっていました。

 あの時も「宮沢を総理にしてくれたら、人事は一切任せます。ポストも求めない」ということのようですが、さすがに「官房長官だけはこちらにください」と言ったようですね。加藤さんは自分が官房長官をやる気でおったからね、それで、小沢さんが「よっしゃ」ということで、まず始めたのが三塚外しだったんですよ。


  三 三塚派外し

――深夜の十二時にお会いになった。

 全日空ホテルの彼の事務所で会いました。その時にはすでに組閣も人事も住んで、加藤さんが官房長官に内定していました。ところが、それまで組閣は各派閥の協力連衡だったわけですが、この時は三塚派だけ外すというんですよ。
「なんだあ? それ、本気で言ってんのか」
「いやいや、私はそんなことに賛成じゃないけど、小沢から出たんだ」
「紘ちゃん、そういう時は庇ってくれなきゃ困るじゃないか」
「いや、それはわかっているんだけど、総理と官房長官以外は任せると言った手前、どうにもならないんだよ」

 とにかく、ぼくは顔面蒼白で「エラいことになった。こんなバカなことをなんでやるのか」と思って、翌朝に竹下さんに連絡を入れたんです。

 竹下さんに電話をしたら、ゴルフに行っていなかった。 神奈川県茅ケ崎市にあるスリーハンドレッドクラブに行っていた。竹下さんのほか、羽田孜、綿部恒三、梶山静六といったメンバーですよ。

――みんな竹下派だ。

 彼らも三塚外しについては躊躇があったわけだ。でも、小沢さんというのは一度言い出したら聞かない人だし、会長は金丸で、会長代行が小沢だから、自分たちは触らずにおこうということだと思いますよ。

 夜になってからかかって来た電話口で、竹下さんが言うのには「いやあ、詳しいことはわからんけど、どうも小沢くんがそういうふうにしたらしいよ。三塚とよっぽどの問題があるのかなあ」ということでした。
 それで、ぼくは福田赳夫先生の自宅へ行きました。福田先生もそういうことにはもう関わらないお立場になっていましたけど、それまでのいきさつを話したんです。

「うん、待て待て。じゃあ、今から金丸に電話するから」
 と言って、ぼくの目の前で金丸さんに電話をかけた。
「きみ、うちの三塚を何か誤解しているんじゃないのかね。三塚にもし悪いところがあったら、そう言ってやってくれ。私はどうこう言うつもりはないが、一度、三塚に会ってやってくれないか」
 福田先生がそう言われたら、金丸さんが了承し、翌朝八時にパレロワイヤルの金丸事務所で三塚と会うことになったわけです。その際、竹下さんも同席するということだった。それで、ぼくはすぐ三塚に電話を入れて「とにかく明日の朝、パレロワイヤルに行きなさい。行って忌憚のない話をすればいい」とアドバイスしました。その時は「これで何とか行けるな」と思ったんです。


  四 小沢一郎と金丸信

 竹下さんも同席すると金丸さんから言ってくれたんで、 竹下さんに電話しました。ところが、こう言うんです。
「森ちゃん。悪いけど、わしゃ出んわ」
「どういうことですか」
「いやあ、小沢がねえ。『総理をやった人がそんなことにいちいち口を出しちゃいかん』と言うんだよ。そう言われれば、そうだなと思うから、オレは行かんようにした。だけど、三塚と金丸と会ってちゃんと話せばいいじゃないか」

 わざわざ、こういう電話があって「おかしいなあ」とは思っていたんですよ。それで、三塚が翌朝早くパレロワイヤルに行ったら、部屋に鍵がかかっていて、一時間待っても誰も来ない。

 福田先生がカンカンに怒ったんです。そして、「許さん」というわけでね、金丸さんに電話をかけて行った。
「朝八時に三塚を寄こせというのは、きみから出た話だろう。それをきみが吹っ飛ばして来ないというのは、これはね、どんな立場にある人間でも、人間として絶対やっちゃいかんことだ」
 そうしたら、側にいた福島交通社長の小針暦二さんが、「大将! 金丸みたいなあんな者にあんたがいちいち頼む必要はない。切りなさい」と言って電話を切らせてね。別の部屋で金丸に電話をしているんですよ。小針さんは金丸さんと親戚なんですよ。それで、もう怒る怒る!

 そうしたら、金丸さんも困ったんでしょうねえ。だから、金丸さんの本意でやったんじゃないことはわかるんです。竹下さんに「出るな」と言ったことや一連の経過を見れば、仕掛けは小沢さんなんですね。金丸さんも人がいいものだから、困ったんだと思います。そこで、話がまとまって「森くんを事務所に寄こしてくれ」というわけですよ。

 そうしたら、金丸さんが真ん中にドンと座って、その周りに小沢さんや石井一、佐藤守良ら派閥の幹部がズラリと並んでいた。

「ところで、きみんとこは誰が三役に入るんだ?」
 と金丸さんがおっしゃるんですよ。三塚外しというのは三役から外したわけだからね。それで、ぼくが答えました。
「いや。私はそういうことを申し上げる立場にありません。福田先生から昨日、お電話があったと思いますが、なぜ、うちの派を外したかということです。三塚が派を代表していますから、三塚がダメならなぜダメかを明確に福田先生にお話しされないと、それは政治家として筋が通りません」
「それはそうだな。じゃ、誰になるかはわかんねが、要は福田派も従来通り入れりゃいいんだろう」
「そうです。それさえ、やっていただければいいんです」

「なあ、いいな、一郎」と言うと、小沢さんはプ~ンと膨れているんですよ。それで、金丸さんが重ねて「いいんだな、一郎。しょうがないだろ。そうなったんだから」と言うと、小沢さんがこう言った。
「しょうがないですね。オヤジさんはいつも、こうなんだから。一度決めたことをね、最後まで通さないのがあなたの悪いとこだ」

「何! オマエ、偉そうな」
「そうじゃないですか。私も遊んでいるわけじゃないんだ。オレが任されたからやっているんであって。もともとは加藤から出た話でしょ」
 そうやって、小沢と金丸のケンカが始まったんです。ぼくはそこに座って見ていて、「ははあ、小沢の野郎、やっぱり金丸の威を借りて勝手なことをやってんな」と思いましたね。

 そうしたら、石井ピン(一)や佐藤守良ら苦労人が仲裁に入った。
「まあ、ちょっと待てや。おい、いっちゃん(小沢一郎)。それはきみも言いすぎだ。会長がそれでいいと言いうんだから、いいじゃないの。オマエ、何をそんなにこだわるんだ」
 みんな、なぜ三塚をは外すか知っているんですよ。三塚を三役に入れると、また東北の覇権争いをしなっきゃいけない。だから、入れたくなかったんですよ。結局、みんあからたしなめられて、「まあ、やっちゃいられねえよ。好きなようにやったらいいよ」なんてくだをまいてね(笑)。

 金丸さんが「まあ、こういうことだよ、森くん。福田さんによろしく伝えてくれ」
「わかりました。ありがとうございました。もうひとつあるんですが」
「何だ」
「八役もかならず、うちの派からひとり入っているはずです。八役もこれまで通り、うちにいただけますね」
「誰がいるんだ、八役に」
「それはわかりませんけど、私の聞いたところだと石原くんだと思います」
「ああ、それだけはダメだ」(笑)

――角福戦争からロッキード事件まで、石原さんがガンガン田中角栄叩きをやっていたから。

 金丸さんが「その件は森くん、ダメだ。今日のところは三役まで。よし、終り」と言って、ぼくは「どうも失礼しました。ありがとうございました」と言って引き揚げたのです。そういう場面に居合わせてね、「いやあ、この派は何てスゲエ派だろう」と思ったね(笑)。言いにくいけど、「やくざの世界」だな(笑)。

 不詳私が、政調会長になりました。


  五  ヤマタノオロチ~細川連立内閣へ

――宮沢内閣のもうひとつの大きな課題は政治改革、選挙制度の改革です。これについてはぼくも責任があるんだけど。

 それは責任ありますね。田原さんのインタビューで、宮沢さんが退陣に追い込まれたのだから。

――宮沢さんはぼくの番組で「政治改革をやる」と言明したんだけど、結局、梶山静六幹事長らの反対でできなかったわけです。ここで、自民党は分裂するわけですが、この選挙制度改革について森さんはどう見てますか?

 やっぱり間違いだった。やっちゃいけなかったんですよ。

――あの改革も小沢さんの仕掛けですね。

 小沢さんが強引だったのと、わが党のなかも半分に割れていましたからね。

――それでね。宮沢内閣不信任案が出されたのを機に、小沢さんや羽田さんらのグループが不信任案に賛成して自民党を飛び出しました。三塚派からの武村正義さんらが離党して「さきがけ」を結党しました。そして、1993年7月に総選挙が行われ、細川護煕連立内閣ができて、自民党は結党以来初めて、野党に転落します。確かに過半数を大きく割り込みましたが、第一党ではあったんです。幹事長は梶山さんでした。なぜ第一党なのに小沢さんにしてやられたんですか。

 やっぱり公明党、社会党が向こうに付いたのが大きかったですよ。

――これはやっぱり、小沢さんが巧かった。

 巧かったんでしょう。これは俗に言われる小沢一郎と公明党の市川雄一の「一一ライン」に加え、社会党の久保亘。この三人が血盟の同志となって、動かしていたわけですよ。

――社会党はあの時、第二党でしたね。

 社会党を引っ張り込み、公明党も引っこ抜く。いわゆる非自民勢力八党が結集した細川連立内閣のことを、ぼくは八岐大蛇と呼んでいました(笑)。どこが頭かわからない。

 やっぱり選挙区のアキレス腱みたいなところを押さえ込んだり、あるいは金やポストで釣ったり、自在な方法でやるんじゃないですか。最近では、2012年11月に日本未来の党(後に生活の党と改称)を立ち上げた際に、滋賀県知事の嘉田由紀子さんを口説きましたね。「オバサン殺し」でもあるんですよ。

――ぼくは滋賀県彦根市の出身で、嘉田さんとは親しいんですが、「見事な口説きだった」と言っていましたよ。「なんでもあなたの言うことを聞きます。私は地位も何も求めません。一員で結構です」と言うんだそうですよ。

 最初はそれで一緒になるけれど、後になって裏切られてけんもほろろということでしょうねえ。相手にされなくなり、ガックリ来るやつがいっぱい出た。中西啓介をはじめ、小沢に大勢付いて行ってねえ。

――中西、熊谷弘、船田元。

 直接は手を下していないけれども、事実上、相手を殺していると言ってよいでしょう。小渕恵三だって犠牲者だ。


  六 小沢一郎との対立

――とにかく細川連立政権になって、森さんが自民党幹事長になった。小沢との対決ですね。

 まあ、そうです。ぼくは小沢さんに何の弱みもないが、自民党を与党に戻すために、ここはとにかく小沢さんと話し合っていくことをまず考えましたね。
 それまでの流れをずっと見て行くと、そもそもの始まりは争いですよね。1970年の角福戦争から始まって、お互いに親分から子分に至るまで「田中憎し」「福田生意気」というようなことで対立していた時代がありました。そこから少し変わって来たのが安竹の時代なんです。つまり、親分ふたりは仲がいい。 ところが、子分たちは仲が悪いんです。派閥のなかで竹下が可愛がるのは小渕だとか橋龍(橋本龍太郎)だけど、そうさせまいとして金丸さんを押す人も多かったかもしれない。小沢さんはどちらかと言うと、金丸さんを使いましたね。創政会を作って出たときは、小沢さんもその首謀者ですから。

――そう、小沢、梶山あたりが一番の首謀者です。

 今度は小渕と橋本、小沢の争いになる。だから、金丸さんはこの三人を早く分けなきゃいけないというのがあったんだと思いますね。
 こういう流れをずっと見てきて、自民党がまとまらないのは角福戦争から来ているのだから、「一緒にやるしかないなあ」とぼくは思うようになった。小渕くんとぼくだったら合うんですよ。ふたりとも学生時代からのつきあいだし、期せずして1937年生まれです。それから、国会では小渕の方が早く出ていて、ぼくより二期上です。つまり、兵隊で言えば、一等兵と上等兵の差がある。逆に雄弁会では、ぼくが二年先輩だから「コラ、小渕」ということになる。同世代であり、後輩でも先輩でもあるふたりがケンカするはずがない。

――ぼくは細川連立政権が崩壊する時に、市川雄一さんに「小沢は何をしたかったんだ」と訊いたら、「小沢は政策には全く関心がない。彼がやりたいのはふたつあって、ひとつは社会党を分裂させること。もうひとつは自民党を分裂させることだ」と言っていましたよ。だから、森さんがいくら話し合おうとしても、向こうは話し合う気がない。

 ないない。ないけれども、結局は自爆するじゃないですか。

――最後はね。

 初当選した時、自分が一番若いと思ったら、まだ若いのがいた。それが小沢さんですね。年齢はぼくの方が上だけど、同期でライバルでもある。

 中西とか熊谷が離れていった頃からでしょうね。あの辺りからですよ。一緒にやってくれる仲間がいなくなる。

――民主党で顕著だったのは、小沢さんはパートナーがいないんですよ。子分だけなんですね。パートナーがみんな離れて行く。

 全部、そうですよ。一緒にやってきた仲間がみんな離れて行った。


  七  細川・河野会談

――そこで、例の細川・河野会談です。それまで大反対してきた選挙制度改革に森さんたちも賛成しますが、あれは何だったのですか。

 あのまま行けば自民党が割れ、細川さんは衆議院を解散する。そうなったら、自民党がバラバラになってしまう。ぼくが一番心配していたのは、脱党者が相次いだことですよ。最初に辞表を叩きつけて「こんな程度の改革もできないような党に魅力はない」と言ったのは、石破茂(第三次安倍晋三内閣の自民党幹事長)ですからね。

――いろんな理屈をつけて、ゾロゾロと自民党を出て行った。

 そう大詰めのところで、どうするか揉めている時に、ふだんは大人しい河村健夫くんたちが大義を立てて詰め寄って来た。

 そして「幹事長、これを見逃してやらなかったら、もっと党から出ますよ。予備軍が三十人はいますから」と言って、十人ほどで押しかけて来ましたよ。「われわれだえじゃない。これだけの衆議院議員が党を抜けることになりますよ。党がひっくり返りますが、それでいいんですか」と詰め寄ってきました。
 「自民党が法案を蹴ったら細川に解散させる」というのが、その時の小沢さんの手でした。もう破れかぶれで来ていましたからね。

――ここで解散したら、自民党が完膚ななきまでに負けるということですね。

 その流れをどう止めるか。幸い、参議院では選挙制度改革法案が否決されたんですね。当時の議長は、衆議院が土井たか子さん、参議院が原文兵衛さん。原さんは見解を明白にされませんでしたけど、土井さんは小選挙区に反対だった。

 それで、雪が降ってしんしんと冷える夜に、「これは大変だ」ということで両議長が揃ったところに、細川さんと河野さんが呼ばれるんです。それまでトップ会談が行われ、ぼくと小沢さんも入って議論していたんですが、両議長のところへふたりが呼ばれる。ぼくと小沢さんには来るなということです。ぼくを入れても別によかったんだとおもうけど(笑)、小沢さんを排除したかったんでしょうね。それで、議長のところで一時間ばからい議論をやっていましたね。だんだん夜も更けてくるんですが、その時にぼくと小沢さんとふたりきりになった。

「返事が遅せえなあ」と待っているうちに、小沢さんがこう言うんですよ。
「どうだ、森さん。ここらでやらなきゃ、しょうがないんじゃないの」
「まあ、そういうことなのかなあ。だけど、こんあんことやって何になる」
「そんな議論はもう止めようよ。オレもいろいろ考えてみたけど、いいか悪いかわからなくなった。しかし、ここまで来た以上はやらざるをえないだろう。どんな内容でもいいから自民党の案を飲むよ」
 そこで、小選挙区と比例代表の配分を三百と二百にしよう。それから、比例は全国でやるのを止めて比例ブロックにしようと提案したんです。
「全国でやったら、共産党が増えるだけだよ」
「それはわかった。森さん、そこは任すよ」
 ということで、大枠の合意ができて、後は事務方に詰めてもらうことになったんです。そんな話がついたところへ、細川さんと河野さんが帰って来たんですよ。

 とにかく、みんな解散を恐がってね。法案を飲むしかないということだったんでしょう。

 河野さんは割と建前論しか言わない人なんだ。

 何と言っても、ぼくを信頼してくれたということですよ。ある意味では、これだけ勝手にやれたことはなかった。河野さんに悪いぐらいで、その点は本当に感謝していますよ。

――河野さんは、あまり裏表のない人ですからねえ。

 ないです。これは、もうちょっと後になりますが、村山さんを担ぎ出した時も、河野さんに説明しなかった。


  九 渡辺美智雄引き抜きの失敗

 河野洋平さんと総裁選で争った時も、病院から出て来て立候補して負けちゃうわけでしょう。そこを小沢さんに突かれたんですね。それで、ぼくは渡辺さんに「いや、あなたは具体的な戦略というけど、小沢さんにはどう言われているんですか」と聞いた。そうしたら、「三十人集めて来てくれれば、連立を組もう。五十人連れてきたら、あなたを首班にしてもいい」と小沢さんに言われていることがわかった。

 渡部さんがこう言うんですね。
「森くん、阻止する以上は、それに代わる妙案があるのか」
「そんないい加減な話に乗っちゃいけません。中山さん、あんたもよく調べてみなさい。小沢がどこまで本気で言っているのか、わかったものじゃないですよ」
「何言っているんだ。オマエらよりよっぽどいい。よっぽどしっかりした案だよ」

 どこまで本気で、どこまではウソなのか。あの人の言うことはわかんないですよ。

――結局、仕方なくて海部さんを使うじゃないですか。海部さんを使うより、渡辺さんの方があるかに面白かったと思うけどね。


  十 村山富市総理擁立へ

――それで、村山政権で行こうと言い出したのは、森さんですか。

 亀井です。

 党内工作をしてね。このころには、小沢さんの強権的なやり方にみんな嫌気が差していましたよ。細川内閣という船から降りようという空気が非常に強まっていた時ですね。

 その時に、河野さんはぼくにこう言いました。
「自由民主党は第一党だけれども、まだ国民から許されてはいない。そうであれば、国会の収集をしなきゃいかん」
これが河野さんの口癖でしたよ。そいういうことなら、「第二党の社会党委員長を首班にするのもひとつの選択だね」ということです。

 村山さんは正直者で、記者をまくことができないんです。それで、なかなか会えなかったけれど、おそらく亀井や野坂の熱烈な説得があって、村山さんの言葉尻からは「乗ってもいい」というサインが見て取れたんですね。その頃、今度は社会党右派の山口鶴雄さんから電話がかかってきた。山鶴さんというのは、福田先生と仲がよかった。

 それで、ぼくとも仲がよかった。その山鶴さんから珍しく電話がかかってきてね。
「森ちゃん、困っているんだろう」
「いやもう、参りました。どう思いますか、この方向」
「森さん、いい方向だよ。間違いない」
「だけど、左派ですよ」
「左派だから、いいんだよ。森さん、あんたがオレを口説いたら、『山口と森がつるんでいる』ち言って敵ができるだけだ。左派とやるから意味があるんだ。そのままやんなさい。社会党は付いていく」
 この電話は、ものすごい勇気づけになったですねえ。それで、小里貞利国対(国会対策)委員長に「とにかく河野・村山会談をやれ」と命じたんですが、ダメだった。

 森・久保書記長会談ならいいということだったので、「それでは、早急に会いましょう」ということで会いました。

 久保さんはもう一度、小沢・市川と組んでやろうとしているわけだから、絶対に乗らん。

 そこで咄嗟に、我ながらよく出たなあと思うけれど、こう言ったんです。
「書記長、ちょっと待ってください。持って帰るなら、もうひとつだけ言っておきます。自民党は明日の首相指名は村山と決めたらから」

「党議で決めたのかね。森さん、あんた個人の考えじゃないのか」
「いや、私個人の考えだけど、ここは幹事長・書記長会談という公式な場だ。その公式な場で自民党の幹事長がそういう発言をした以上は、公式と受け止めてもらわんと困る。そうしなかったら、会談をしても何をやっているかわからないじゃないか」

「今の話は四時までは絶対に外に漏らさんでくれ。森さん、お願いしますよ」
「わかりました。私が漏らさなきゃいいんでしょう」

「いや、オレの口を封じられたんで、小里くん、きみの口は誰も封じてないじゃないか」(笑)
「オオーッ、そうですなあ」
 それで、小里が外に出るや、「自民党は村山首班!」を叫んだんです。


  十一 社会党との連立

 国会はもう、ひっくり帰ったような騒ぎですよ。野坂さんは承知しているから、中執に議題で上がれば勝てると見ていたのでしょう。
 ぼくが幹事長室に帰ったら、亀井が待っていてね。ポロポロ泣きながら抱きついてきたんです。
「よく言ってくれた。ありがとう、ありがとう。これでオレのこの何ヵ月かの苦しみが報われたよ」

 その前にね、ぼくはすぐ河野総裁のところへ行ったんですよ。総裁室じゃなくて個人事務所にいたから、会談の結果を報告した。
「大変申し訳ありません。総裁に相談もせず、私の一存で、自民党は河野首班でなく村山首班というふうにしてしまいました」
「いいよ、森さん。それでいいんだよ。私がいつも言っていることだ」

「それでは、四時に返事がきますから会ってください」と。

 今度は党首どうしの会談で、もちろん幹事長・書記長も入っています。それで、村山委員長がやって来て、こう言うんだね。それで村山委員長がやって来て、こう言うんだね。
「いやあ、大変じゃ。いやのう、河野くん。いろいろ言うけど、総理は勘弁してくれ。そんな気持ちにはなれん」
 そう言って初めから受け付けないので、河野さんとぼくとふたりで延々二時間、徹底的に口説くわけですが、村山さんはなかなか「うん」と言わない。最後は上げしい応酬になったんだけど、お互いに涙が出てくるんですよ。

「もう一遍、持ち帰らせてくれ。党で決める」と言って一旦、引き上げたんだ。その時はね、ただひたすら心のなかで手を合わせて「村山さん、どうぞ頼みます」という感じだったね、うん。

 ところが、今度は久保亘が諮ったんです。海部さんを引っ張り出した。

 それで両院議員総会を開いて、河野さんが冒頭で演説しました。
「細川連立内閣は完全に分裂し、国民は非常に不安感を持っている。この状況を何とか改善して、政局の安定を図らなきゃいけない。幸い第二党の社会党が連立から外れている。だから、第一党の我が党と第二党の社会党でやるしかない」
 なぜ自民党一党でやらないのかという点が微妙なところなんです。

 そこは河野さんはなかなか巧かった。「まだ自民党に対する国民の怒りは解けていない。国民の許しが出ていない。ここで、自民党から総理を出したら横暴だという誹りを免れない。だから、社会党から出してもらう」

 うん。自民党は社会党を支えるということで行くことになった。ところが、案の定、反対論がどんどん出た。結果的に助かったのは、中曽根さんが反対してくれたからですよ。

 本会議では一回目の投票で過半数を取る者がなく、四十分の休憩になった。そこからですよ。こういう時に自民党には専門職が多くて、誰が誰に入れたかという一回目の投票結果が全部わかった。それを全部、派閥ごとに分けて一斉に説得を始めるわけです。だいたい反対したのは若手が多いですから、そいつらを呼び付けて説得した。そうやって、二回目にかろうじて勝ったということだったんだ。映画みたいでしょ?

 段階を経てね。だから、今振り返って考えると「一回クッションを置いて社会党にやらせたこともまたよかったのかな」と思っているところです。


>>自社さ連立政権成立により、社会党(社民党)の無意味さが確定したように思う

「日本政治のウラのウラ」⑤



「日本政治のウラのウラ」(森喜朗、聞き手・田原総一朗、講談社)


  第四章 文教族


  三 中曽根内閣の教育改革

 ただ、共通していたのは、日教組だけはつぶさなきゃいけないということです。

――具体的に、日教組のどこがいけないのですか?

 まず、ストライキをやること。それから、教員が堂々と選挙運動をやることでしょう。

――教員は労働者であるという主張ですね。

 教員は聖職者であるというぼくらの主張とは全く異なる。ぼくらが唱えていた教育改革は、制度的な改革よりも、教員のあり方や立場を変えることでしたね。

――自民党の人たちは、中曽根派のどこが恐いと思っていたんですか。

 それは、右翼保守反動ですね。しかも、それまで教育に全く関わってきていない。安倍晋三くんもそうですが、政治家は票を取るために教育政策を掲げたがるんです。

――まさに、安倍さんが教育基本法を変えたわけですね。

 安倍くんが変えたのじゃないんですよ。それまで自民党の連中が積み上げてきて、やっと公明党も乗ってきた。その最大の殊勲者は保利耕輔なんです。その成案がまとまった時に、たまたま安倍くんが総理になっただけのことです。


  四 ゴルフから政治を説く~保利茂論

――田中さんと金丸さんとどこが違うのですか。

 う~ん、何だろうねえ(笑)。角さんのように表面上ガチャガチャしているのではなく、何もしゃべらずに黙々としている金丸さんの方が好きなんじゃないのかな。金丸さんも保利さんを非常に大事にしておられましたね。

――保利さんは国会運営のやり方を教えるために、森さんをわざわざゴルフ場に引っ張りだしたわけだ。へエ~。

 保利さんが議長、金丸さんが議運の委員長で、ぼくを筆頭理事として使っていたから、「じゃ、森くんに一度、指導してやろうか」ということになったんじゃないですか。直接呼んでガミガミ説教するのではなくて、ゴルフをしながら遠回しに悟らせるという粋な計らいだったんだな。議長閣下が私ごとき者のために一日つきあってくださったということで、感激が大きかったですよ。

――森さんは今も保利流を守っていらっしゃるわけだ。

 党運営であれ、派閥運営であれ、力で押さないで、相手の力を利用しながらやってい行くというのがぼくのやり方だったような気がしますねえ。


  八 自民党タカ派とハト派

――言っちゃ悪いけど、河野洋平、谷垣禎一と、ハト派の自民党総裁は総理大臣になれない人が多かった。これは何ですか?

 自民党内で、人の心を集められなかったということじゃないですか。

――それはなぜですかね。

 理論家としてはいいかもしれないけど、本来の保守からすれば、色がなく共鳴できないというのがあるんじゃないですか。

――そこで、こんな難しいことを聞いて申し訳ないのですが、保守って何ですか。森さんが考える保守とどういうものですか。

 保守というのは、正しいこと、間違っていないことをしっかり守っていくということでしょうねえ。新しいものも当然、咀嚼していかなきゃならんけども、心柱は動かさないというのが、やっぱり保守じゃないですか。


  九 ポスト中曽根の行方

 「やあ、よくいらっしゃいました」と言って出て来て挨拶をするタイプじゃ全くないんですね。そこが、群馬県の選挙区では圧倒的な差になって出るんです。だから、福田先生が「中曽根くん、今度はひとつ安倍くんを頼むよ」とは絶対に言わないね。

 中曽根裁定の結果が告げられる時、三人が官邸に呼ばれますが、三人とも役職に就いていたので、それぞれ代理が行ったのです。安倍さんは総務会長だったので、ぼくが代理で行ったのです。竹下さんは幹事長なので、宇野宗佑幹事長代理が来ました。宮沢さんの代理は伊東正義政調会長、それに参議院議員会長の土屋義彦さんの四人が総理の執務室に呼ばれるわけです。
 みんなが立っているところで、中曽根さんが「あ、そう」とか言って、渡された裁定文をおもむろに読み始めるわけですよ。「今や日本は国際社会における混乱が・・・・・・」とか、どう見ても、外務大臣経験者の安倍さんが選ばれる文章になっているんです。だから、脇にいた土屋さんがぼくの手をギュッと握りしめてね。もくも「ああ、よかったな」と思って聞いていたら、突然、最後になって「以上、故をもって、後継自民党次期総裁に竹下登くんを指名するものである」と言ったので、一同「エーッ!?」(爆笑)となった。
 書き換えているヒマがなかったのでしょう。安倍さんのつもりで書いた文章をそのまま読み上げて、最後の結論だけ変えたんだね。

――初めは安倍さんのつもりだったけど、金丸さんから必要なモノが行ったんだ。
安倍さんは何ていいましたか。

 安倍さんは何も言わなかったような気がするなあ。 安倍さんは能弁家じゃないからね。

演説も下手だし、面白くはないよね(笑)。


  十 政治家・安倍晋太郎

――安倍さんは岸信介さんの娘を妻にもらって、毎日新聞の記者から政界に打って出たわけですが、森さんは安倍さんをどう捉えてますか。安倍晋三の父親である晋太郎はどういう人なんですか?

 もとは明治維新の志士たちが輩出した長州・山口県から佐藤栄作、岸信介が出てくる。その後継者に選ばれたのが、大蔵省のエリート官僚だった福田赳夫。ところが、そこの野人の田中角栄が立ちはだかった。結局、角さんにうまくやられたとうことでしょうねえ。だから、流れとしては岸さん、福田さん、安倍さんとくるわけです。ただ、安倍さんは福田先生から寵愛されたことになっているけど、実際は福田先生はあまり安倍さんが好きじゃなかったようです。

 安倍さんがちっとも来ないので、ぼくらの仲間はみんな心配して「少しは福田先生のところへ行ったらどうですか」と進言したんです。安倍さんが官房長官だった時は、ぼくが代表して「ええ、あのう、官房長官。どうです、たまには福田さんのところで行かれたらどうですか」と言ったら、「なんで、そんなとこへ行かなきゃいけないんだよ」と言うんですね。

 福田先生の自宅は世田谷区野沢で、安倍さんの家は渋谷区富ヶ谷ですよ。
「毎日、会っているんだから、意味がねえ」
「いや、そういうもんじないでしょう」(笑)
「富ヶ谷の家に、オレは戻らなきゃいかんのだよ。そんなムダなこと、誰がやるか。そんなこと、オマエがすればいいんだ。オマエが行け」

 安倍さんがもっと福田先生にベタベタしていれば、中曽根さんと談判したからもしれない。


  十二 黒いジェラシー

 「あれにナンボやれ」とぼくが指南したと言った政治家がいました。それが加藤六月ですよ。加藤は小粒の金丸信のみたいなとこがあって金は持っていますが、とにかく365日、安倍べったりで、安倍にくっ付いて立身栄達するしかなかった人でうね。そんなことから、「森の野郎が安倍さんにリクルート株を紹介して儲けさせた」と妬んでいた節があります。それはね、ある人がぼくに注意してきたことからわかったのです。

 江副さんから言われたんですよ。
「森さん、あなたは福田先生を尊敬しているんですか」
「ああ、大変尊敬していますよ」
「安倍さんは?」
 そう聞かれて、咄嗟に「尊敬している」と言えなかったのね。ちょっと何か言いにくかったんだ。
「安倍さんは兄貴みたいな存在だから、正直言って尊敬ということではないかもしれませんね」
「森さん、それはダメだ。尊敬しなさい」
「どうしてです?」
「いや、それは今にわかるよ」
 つまり、安倍さんはぼくのことをあまりよく言ってなかったんだと思いますよ。安倍さんが「森は生意気だ」と言っているのを、江副さんがどこかの席で聞いて心配したんでしょう。それで、福田先生に仕えるように、安倍さんにも仕えろということをぼくに注意してくれたんだと思います。おそらく安倍さんに吹き込んで、ぼくを悪者にして遠ざけようとしたのは加藤六月ですよ。これははっきりしているね。

 竹さんは懐の深い人で、安倍さんとは対照的なんですね。本当に温かい人です。相手の話をじっくり聞いて「どうだなあ。まあ、考えとくわなあ」と言って、必ず解決する人なんですね。

 竹さんはどちらかと言いうと、嫌われないタイプのイメージですよ。角さん(田中角栄)や丸さん(金丸信)と違って、あのグループのなかではもっとも自愛に満ち、優しい人でした。だけど、悪く言えば、狡猾でしたたかなところがあるという見方になるのかもしれないね。


>>中曽根裁定で
第四章 文教族


  三 中曽根内閣の教育改革

森 ただ、共通していたのは、日教組だけはつぶさなきゃいけないということです。

――具体的に、日教組のどこがいけないのですか?

森 まず、ストライキをやること。それから、教員が堂々と選挙運動をやることでしょう。

――教員は労働者であるという主張ですね。

森 教員は聖職者であるというぼくらの主張とは全く異なる。ぼくらが唱えていた教育改革は、制度的な改革よりも、教員のあり方や立場を変えることでしたね。

――自民党の人たちは、中曽根派のどこが恐いと思っていたんですか。

森 それは、右翼保守反動ですね。しかも、それまで教育に全く関わってきていない。安倍晋三くんもそうですが、政治家は票を取るために教育政策を掲げたがるんです。

――まさに、安倍さんが教育基本法を変えたわけですね。

森 安倍くんが変えたのじゃないんですよ。それまで自民党の連中が積み上げてきて、やっと公明党も乗ってきた。その最大の殊勲者は保利耕輔なんです。その成案がまとまった時に、たまたま安倍くんが総理になっただけのことです。


四 ゴルフから政治を説く~保利茂論

――田中さんと金丸さんとどこが違うのですか。

森 う~ん、何だろうねえ(笑)。角さんのように表面上ガチャガチャしているのではなく、何もしゃべらずに黙々としている金丸さんの方が好きなんじゃないのかな。金丸さんも保利さんを非常に大事にしておられましたね。

――保利さんは国会運営のやり方を教えるために、森さんをわざわざゴルフ場に引っ張りだしたわけだ。へエ~。

森 保利さんが議長、金丸さんが議運の委員長で、ぼくを筆頭理事として使っていたから、「じゃ、森くんに一度、指導してやろうか」ということになったんじゃないですか。直接呼んでガミガミ説教するのではなくて、ゴルフをしながら遠回しに悟らせるという粋な計らいだったんだな。議長閣下が私ごとき者のために一日つきあってくださったということで、感激が大きかったですよ。

――森さんは今も保利流を守っていらっしゃるわけだ。

森 党運営であれ、派閥運営であれ、力で押さないで、相手の力を利用しながらやってい行くというのがぼくのやり方だったような気がしますねえ。


八 自民党タカ派とハト派

――言っちゃ悪いけど、河野洋平、谷垣禎一と、ハト派の自民党総裁は総理大臣になれない人が多かった。これは何ですか?

森 自民党内で、人の心を集められなかったということじゃないですか。

――それはなぜですかね。

森 理論家としてはいいかもしれないけど、本来の保守からすれば、色がなく共鳴できないというのがあるんじゃないですか。

――そこで、こんな難しいことを聞いて申し訳ないのですが、保守って何ですか。森さんが考える保守とどういうものですか。

森 保守というのは、正しいこと、間違っていないことをしっかり守っていくということでしょうねえ。新しいものも当然、咀嚼していかなきゃならんけども、心柱は動かさないというのが、やっぱり保守じゃないですか。


  九 ポスト中曽根の行方

森 「やあ、よくいらっしゃいました」と言って出て来て挨拶をするタイプじゃ全くないんですね。そこが、群馬県の選挙区では圧倒的な差になって出るんです。だから、福田先生が「中曽根くん、今度はひとつ安倍くんを頼むよ」とは絶対に言わないね。

 中曽根裁定の結果が告げられる時、三人が官邸に呼ばれますが、三人とも役職に就いていたので、それぞれ代理が行ったのです。安倍さんは総務会長だったので、ぼくが代理で行ったのです。竹下さんは幹事長なので、宇野宗佑幹事長代理が来ました。宮沢さんの代理は伊東正義政調会長、それに参議院議員会長の土屋義彦さんの四人が総理の執務室に呼ばれるわけです。
 みんなが立っているところで、中曽根さんが「あ、そう」とか言って、渡された裁定文をおもむろに読み始めるわけですよ。「今や日本は国際社会における混乱が・・・・・・」とか、どう見ても、外務大臣経験者の安倍さんが選ばれる文章になっているんです。だから、脇にいた土屋さんがぼくの手をギュッと握りしめてね。もくも「ああ、よかったな」と思って聞いていたら、突然、最後になって「以上、故をもって、後継自民党次期総裁に竹下登くんを指名するものである」と言ったので、一同「エーッ!?」(爆笑)となった。
 書き換えているヒマがなかったのでしょう。安倍さんのつもりで書いた文章をそのまま読み上げて、最後の結論だけ変えたんだね。

――初めは安倍さんのつもりだったけど、金丸さんから必要なモノが行ったんだ。
安倍さんは何ていいましたか。

森 安倍さんは何も言わなかったような気がするなあ。 安倍さんは能弁家じゃないからね。

演説も下手だし、面白くはないよね(笑)。


  十 政治家・安倍晋太郎

――安倍さんは岸信介さんの娘を妻にもらって、毎日新聞の記者から政界に打って出たわけですが、森さんは安倍さんをどう捉えてますか。安倍晋三の父親である晋太郎はどういう人なんですか?

森 もとは明治維新の志士たちが輩出した長州・山口県から佐藤栄作、岸信介が出てくる。その後継者に選ばれたのが、大蔵省のエリート官僚だった福田赳夫。ところが、そこの野人の田中角栄が立ちはだかった。結局、角さんにうまくやられたとうことでしょうねえ。だから、流れとしては岸さん、福田さん、安倍さんとくるわけです。ただ、安倍さんは福田先生から寵愛されたことになっているけど、実際は福田先生はあまり安倍さんが好きじゃなかったようです。

 安倍さんがちっとも来ないので、ぼくらの仲間はみんな心配して「少しは福田先生のところへ行ったらどうですか」と進言したんです。安倍さんが官房長官だった時は、ぼくが代表して「ええ、あのう、官房長官。どうです、たまには福田さんのところで行かれたらどうですか」と言ったら、「なんで、そんなとこへ行かなきゃいけないんだよ」と言うんですね。

 福田先生の自宅は世田谷区野沢で、安倍さんの家は渋谷区富ヶ谷ですよ。
「毎日、会っているんだから、意味がねえ」
「いや、そういうもんじないでしょう」(笑)
「富ヶ谷の家に、オレは戻らなきゃいかんのだよ。そんなムダなこと、誰がやるか。そんなこと、オマエがすればいいんだ。オマエが行け」

 安倍さんがもっと福田先生にベタベタしていれば、中曽根さんと談判したからもしれない。


十二 黒いジェラシー

森 「あれにナンボやれ」とぼくが指南したと言った政治家がいました。それが加藤六月ですよ。加藤は小粒の金丸信のみたいなとこがあって金は持っていますが、とにかく365日、安倍べったりで、安倍にくっ付いて立身栄達するしかなかった人でうね。そんなことから、「森の野郎が安倍さんにリクルート株を紹介して儲けさせた」と妬んでいた節があります。それはね、ある人がぼくに注意してきたことからわかったのです。

 江副さんから言われたんですよ。
「森さん、あなたは福田先生を尊敬しているんですか」
「ああ、大変尊敬していますよ」
「安倍さんは?」
 そう聞かれて、咄嗟に「尊敬している」と言えなかったのね。ちょっと何か言いにくかったんだ。
「安倍さんは兄貴みたいな存在だから、正直言って尊敬ということではないかもしれませんね」
「森さん、それはダメだ。尊敬しなさい」
「どうしてです?」
「いや、それは今にわかるよ」
 つまり、安倍さんはぼくのことをあまりよく言ってなかったんだと思いますよ。安倍さんが「森は生意気だ」と言っているのを、江副さんがどこかの席で聞いて心配したんでしょう。それで、福田先生に仕えるように、安倍さんにも仕えろということをぼくに注意してくれたんだと思います。おそらく安倍さんに吹き込んで、ぼくを悪者にして遠ざけようとしたのは加藤六月ですよ。これははっきりしているね。

 竹さんは懐の深い人で、安倍さんとは対照的なんですね。本当に温かい人です。相手の話をじっくり聞いて「どうだなあ。まあ、考えとくわなあ」と言って、必ず解決する人なんですね。

 竹さんはどちらかと言いうと、嫌われないタイプのイメージですよ。角さん(田中角栄)や丸さん(金丸信)と違って、あのグループのなかではもっとも自愛に満ち、優しい人でした。だけど、悪く言えば、狡猾でしたたかなところがあるという見方になるのかもしれないね。


>>カネが動かず、中曽根裁定で竹下登でなく、安倍晋太郎が指名されていたら、安倍晋三首相は誕生していただろうか

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