「女遊び」(上野千鶴子著、学陽書房)より
初版発行・1988年6月10日/17刷発行・1990年5月8日
産む産まないは女の権利
ニューヨークの計画出産協会で入手したパンフレットの表紙に、計画出産に生涯を捧げたマーガレット・サンガーさんの美しい言葉が載っていましたが、それには「女性が産む自由と産まない自由を完全に手に入れるまでは、女性解法はない」とありました。全くそのとおりにはちがいありません。
「産む権利・産まない権利」を女の手に、という標語は、何という大それた要求なのでしょう。
人類史は、生命の再生産を確保するためのさまざまな社会的・文化的な制度で満ちています。だからこそ、私たちは、異性愛へと強制され、生殖へと強制されています。しかしその制度が強制ではなく選択だとわかってしまったときに、私たちに何を選び直すことができるのでしょう。そして、女たちは、いまその制度の解体を要求していることになるのです。
「産む権利・産まない権利」の要求が私たちをそうした根源的な問題にまで連れていってしまうこと、これは政治の問題でもましてヒューマニズムの問題でもなく、思想のたたかいであること、それを考え抜くタフさが、女の人たちに要求されているのだと思います。
>>「産む権利・産まない権利」は、男性側でも認める必要があるのは間違いない
「女という快楽」(上野千鶴子著、勁草書房)より
15 女性にとっての性の開放
7 産む権利・産まない権利
はじめ「中絶の権利(アボーション・ライト)として出発したはずの「産まない権利」は、「産む権利」をその裏面にともなった「生殖の権利(リプロダクティヴ・ライト)」一般への拡張されていく。「セックスする自由」が「セックスしない自由」をともなっていなければ無意味なように「産まない自由」は「産む自由」に裏づけられていなければならない。「産まない自由」の追求を通じて、アメリカでも日本でも、女たちは現在の社会の「産めない不自由」を告発するに至ったのである。それは、出産・育児が女性の喜びでなく、桎梏にしかならないような社会の仕組みへの批判に向かっていった。
9 「解放された性」とは何か?
フェミニストにとっては、「性の開放」は、男性優位の性規範から自由な「解放された性」を意味する。そして女たちにとって「解放された性」が男たちのそれと違う点は、それが一瞬の性愛の快楽の追求以上に、生殖につながる持続的な長いタイムスパンを持っていることだ。女たちの「性の自由」には、「産む自由」までが射程に収められている。
女たちは家族や生殖からの解放ではなく、抑圧的でない性愛、抑圧的でない生殖、抑圧的でない家族を求めている。女たちは「解放された性」を求めて「性の実験」をつづけるだろうし、逆に性を問題にしないような女性解放運動は、ニセモノでありつづけるだろう。
あとがき
本書は1979年から1985年までに書かれた私の女性についての論稿のうち、主要なものをほぼすべて収録したものである。読者は私のフェミニズムの原点を、この一冊で了解されることだろう。
1986年10月 上野千鶴子
>>抑圧的でない性愛、抑圧的でない生殖、抑圧的でない家族というのは理想であるに違いない
「女という快楽」(上野千鶴子著、勁草書房)より
9 近代家族の解体と再編 ――核家族の孤立をどう抜け出すか――
ところで、都市雇用者核家族型、しかも妻も就業しているというダブル・インカム型の家族状況の中で子育てというテマとヒマのかかるレジャーを実践しようとしたら――そのうえ妻の就労は、子どもの社会科費用のために、今や不可欠ときている――家族はどう変わらなければならないだろうか。女性がもはやフルタイムの母親にならず、他の女手も家族の中にないとなれば、その育児ゲームの当のパートナーである夫を、引きこむほかはない。女性たちは、働き、結婚し、その上で子育てをとっくに趣味化してしまったが、今度は男たちをこの趣味に招き入れてあげようというのである。さもなければ、人生の余暇=老後にあたって、彼らはマが持たないだろう。
女たちが男に要求している育児参加――出産・授乳を除けば、その他のすべての育児活動は男性にもできる、と主張して――は、歴史的に見るとかなり非常識な要求である。そんなこと言ったって、古来子育ては女の領分だ・・・・・・と男たちが狼狽し、不平を唱え、いっかな納得しそうもないのも無理はない。まして女たちが、出産の経験までシェアしようと夫に分娩のたち合いを要求するに至っては、たいがいの男は怖気づいて逃げ口上を並べたてるに至る。
私たちにとって必要なのは、<近代家族>が解体してしまったこと、つまり<家族>が変質してしまったという現実を素直に受けとめて、そのプラス面を積極的に受け容れていくことでしかない。そうやって得られた<家族>像が、過去のどの家族とも似ても似つかない「非常識」なものであったとしても、私たちは過去の経験よりは自分たちの現実の方を信じるべきなのだ。
いずれにしても、子育てがもっともテマヒマのかかる「共遊」のレジャーである事情は変わらないだろうし、人間の子どもの長期にわたる社会化が、成人メンバーの間の、多少なりとも安定的に持続した関係をもたらす実体的な基盤になる、という事情にそう変わりはないだろう。いずれにせよ、再生産を、これまでの性別役割分担型の<近代家族>モデルで考えることは、とっくに破産しているのである。
>>まずは、子育ては女性の役割というこれまでの固定観念を転換していく必要があろう
「女という快楽」(上野千鶴子著、勁草書房)より
1986年11月30日第1版第1刷発行
7 産む性・産まない性
『産む自由・産まない自由は、女性解放の基礎です』
――マーガレット・サンガー――
1 母になるオブセッション
「女性の自己実現のために、母になることは必要か」という質問に対してイエスと答える女性は、日本では欧米諸国に比して格段に高い比率にのぼる。この国では、女であることはどうやら母であることと同義になっているらしい。母でない女は、女とみなされない傾向がある。
2 母という名の地位
母になることへの、このオブセッション(強制的な思いこみ)の強さは、いったい何によるのだろうか。
第一に、日本のような家父長制直系家族の中では、ヨソモノとして嫁いできたヨメは、跡取りの母になることではじめて安定した地位を家族の中で得られる、ということがある。
第二に、このタテ型家族構造の中での、母子(もちろん息子)密着がある。妻には専制的に君臨しても、母には絶対服従の封建家長は、戦前にはたくさんいた。
第三に、伝統的な直系家族制がすたれた近代核家族の中でも、「男は仕事・女は家庭」の性別役割分担の中では、女はもう、子どもを産むほか何にもすることがない、という事情がある。
5 産む選択・産まない選択
いずれにせよ、「産まない選択」もオプションのうちに入ってきたことはたしかだ。避妊法の普及で、「産めない女」だけでなく、自発的は「産まない女」も登場している。「産まない女」の存在は、母になること以外の生き方のオプションを示すことで、「産めない女」にも救いになるはずだ。かつてなら、「石女」という言葉は、女を全否定する最大の侮蔑の言葉だったのだから。
6 「選択の時代」の幸と不幸
イヤな時代だと思いながら、ともあれ「何も考えずに」子どもを産むより、「選択して」産むほうが親にとっても子どもにとってもまだましだろうと、私は思うことにしている。そして、個々の女の産む選択・産まない選択を超えて、オリアナ・ファラチが言うように、「人類はつづいて行く」(『生まれなかった子への手紙』講談社、1977年)のだから。
>>産まない自由は、女性解放の基礎であることは間違いない