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「時代を変革した男たち」


「時代を変換した男たち」(監修:会田雄次、PHP研究所)より


 千利休


 利休は大永二年(1522)、堺の納屋衆の一家千与兵衛の長男として生まれた。名は与四郎。早くから堺の町人の社交機関であった茶の湯を学び、十六歳のときには京で茶会を開き、二十四歳にして宗易と名乗り、ひとかどの茶人として世間から認められるほどになっていた。

 織田信長が上洛すると、宗易はその茶頭として仕え、本能寺に信長が横死した後は、天下人となった豊臣秀吉の茶頭となった。天正一三年(1585)禁中で茶会が開かれたとき、宗易は正親町天皇より利休居士の号を下賜され、天下一の茶人としての地位を獲得する。そして秀吉の政治的ブレーンとして隠然たる勢力を持ったが、天正一九年(1591)、突如秀吉から切腹を命じられた。享年七十歳であった。



利休の最期

 堺に追放されて蟄居している利休のもとへ、前田家からの使者がやって来て、

「大政所と北政所を通じて命乞いをされれば、関白さまのお許しも出るかもしれぬ」とすすめたが、利休は、

「天下に名を知られた自分が、命惜しさに婦女子を頼るというのは無念」といって断った。

 秀吉のほうは詫びてくれば許そうと思っていたらしいが、利休のほうにその気配がないので、かえって怒り心頭に発し、ついに切腹の命をくだした。

 二月二十六日、利休は京の利休屋敷に呼びもどされた。利休の弟子の大名たちが利休を奪いに来るのを警戒して、上杉景勝の軍勢が屋敷のまわりを囲んだ。

 そして二十八日、利休は三人の検使を迎え、従容として腹を切った。

『利休居士伝書』によると、座敷の床に腰をかけ、釜の湯のたぎる音を聞きながら、まず腹一文字に切り、腸をつかみ出してから十文字に切るという豪快な最期だったという。

 この日、京は大雨が降り、雷が鳴りひびき、大雹が降った。


>>権威などは認めないという利休の気概にあやかりたい


「利休にたずねよ」


「利休にたずねよ」(山本兼一著、PHP研究所)より


 「わしは、あやまらんぞ」

 「はい」

 「それでよいな」

 「そうなさるだろうと思っておりました」

 「おまえや子どもたちにも、累が及ぶ屋も知れぬ」

 「もとより承知でございます。関白様に命乞いなさるお姿を見るくらいならば、いっそ、私も殺されたほうが、よほど気が休まります」


>>妻が気丈であることが大切だ

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