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北海道一の都市だった小樽?

 

【 小樽:過去と未来 】

 


 先週末、小樽市総合博物館・運河館、旧手宮線跡地、日銀旧小樽支店、政寿司本店他にお邪魔してきた。

 以下は、添付Webサイトからの一部抜粋。

 


1.手宮線 北海道で最初に開通した路線(NHKアーカイブ)
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0040063

手宮線は北海道で最初に開通した鉄道です。南小樽駅から小樽港のふ頭のすぐ近くにある手宮駅まで。小樽の街中を走る2.8キロメートルは、道内各地で産出された石炭を船へ、陸揚げされた海産物などを内陸の各地へと運ぶ重要な路線でした。昭和60年に廃止されましたが、手宮駅の跡地は総合博物館として市民に親しまれています。


2.北海道最初の鉄道、官営幌内鉄道の足跡を辿る
https://www.nikkansports.com/m/general/nikkan/news/202302260000642_m.html?mode=all

 

3.小樽市総合博物館運河館
https://www.city.otaru.lg.jp/docs/2020111400122/

 

4.旧手宮線跡地
https://hokkaido-labo.com/area/otaru/otaru-temiyasen

 

5.北のウォール街と呼ばれたのは小樽だった
https://froggy.smbcnikko.co.jp/31506/

かつて日本海側の各所に延びていた路線は、ニシン漁が栄えた漁港に向かっていた。また内陸部の廃線の多くは、石狩炭田からの石炭積み出し用の路線である。北海道経済を支えたニシン漁と炭鉱の盛衰は、鉄道路線図に如実に顕れている。

現在、金融史料館(旧日本銀行小樽支店)がある通りは、こうした銀行や企業の当時の建物が集積して残されていて、誰が名付けたのか「北のウォール街」として観光資源となっている。

 

6.日本銀行旧小樽支店金融資料館
https://www3.boj.or.jp/otaru-m/data/leaflet-jp.pdf

 

7.小樽運河
https://otaru.gr.jp/shop/otarucanal

 

8.政寿司本店
https://masazushi.co.jp/about/

 

9.北海道炭礦汽船の歩み
http://hokutan-coal.co.jp/concept.html

明治22年(1889年):国より幌内炭鉱(北海道三笠市)と鉄道の払い下げを受けて北海道炭礦鉄道会社として創業

 

その後、夕張炭鉱(夕張市)、空知炭鉱(歌志内市)等続々炭鉱を開発し、併せて北海道内の
鉄道網の充実を図り、更に小樽・室蘭等の港湾設備を整備し、石炭輸送の為多くの船舶も所有し海運業にも進出

 

明治39年:鉄道国有法により鉄道部門が国に買い上げられた事もあり、石炭海運業の性格も生かして社名を現在の北海道炭礦汽船株式会社に

 

戦後:国の傾斜生産方式により新鉱開発・増産を図ったが、昭和30年以降の世界的なエネルギー革命の進展により、最盛時に18炭鉱・25,000名もの従業員を有したものの逐次閉山、人員合理化に移行

 

昭和45年:当時の最新鋭鉱として夕張新炭鉱の開発に着手


昭和50年:出炭開始
昭和56年:事故の為閉山
平成元年:幌内炭鉱、平成7年:空知炭鉱を閉山→国内全炭鉱の生産終了

 

平成7年(1995年):会社更生法を申し立て

同8年:6月27日に更生計画の認可を受け再建に邁進

同17年:1月31日付をもって、同21年迄の更生計画を6年前倒しし、会社更生手続を全て完了


10.日本の近代化に小樽が果たした重要な役割
https://www.visit-hokkaido.jp/feature/otaru-history

 


<感想>
小樽の過去の歴史は、ニシン漁と炭鉱の盛衰にリンクし、また「北海道炭礦汽船の歩み」に象徴されているように見える。
運河等を活用した地元以外からの需要による小樽の未来の発展を祈念している。

 

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20万人都市が7年で消え失せる?

 

【 肥前:名護屋城 】

 


 先週、いかを食しに、佐賀県唐津市呼子町に行ってきた。
http://www.kawatarou.jp/sp/yobuko/

 

 待ち時間が3時間ほどあったため、近くの名護屋城跡に立ち寄ってみた。

 以下は、名護屋城博物館等のWebサイトからの一部抜群。

 


名護屋城跡
https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/nagoya.html

「文禄・慶長の役」の拠点として秀吉も1年あまり在陣しました。

築城は1591(天正19)年に始まり、諸大名による割普請(わりぶしん)によってわずか数ヶ月で完成したといわれています。

江戸時代の初期に破却(はきゃく)されたと考えられ、石垣が広範囲にわたって崩されています。

建物は現存していませんが、発掘調査を行い、建物の遺構や出土遺物について研究を進めています。 

 


名護屋城・陣跡の概要
https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/

 

名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。

1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。

城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。

周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。

現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。

 


豊臣秀吉が築いた「幻の名城」名護屋城
https://shirobito.jp/article/590

 

慶長3年(1598)、志半ばにして豊臣秀吉が亡くなると戦いは終結。朝鮮半島から兵は撤退し、名護屋城も廃城となってしまいます。築城から約7年の短期間しか使われなかった、まさに豊臣秀吉が築いた「幻の名城」といえます。

 


晩年の豊臣秀吉のイヤな性格がよくわかる…朝鮮出兵の前線基地「肥前名護屋城」に作らせた意外な施設
https://president.jp/articles/-/74641?page=2

 

城の周囲には広大な城下町が整備され、名護屋の人口は最盛期には20万にもおよび、京をもしのぐ賑わいだったという。事実、一時的にここは日本の政治、経済の中心になったのである。

 


朝鮮半島との交流の歴史を展示
https://www.asobo-saga.jp/articles/detail/6fd81283-f782-4c92-8a76-32df2c893034

 

侵攻の中、朝鮮半島から多くの陶工が日本で連れてこられました。諸大名お抱えとなった彼らの手によって、唐津焼や有田焼などが誕生し、日本の焼き物文化は画期的な飛躍をとげることとなります。このように日本に移入された文化はその後、近世の日本に大きな影響を与えていきます。

 


<感想>

「文禄・慶長の役」の拠点として秀吉も1年あまり在陣した名護屋城。
大阪城に次ぐ規模の20万人を超える都市がたった7年で消え失せたのは、朝鮮出兵への多大な負担を強いられた意趣返しのように見える。

 

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鴻臚館の福岡説がようやく証明?

 

【 福岡の鴻臚館 】

 


 一昨日、福岡の鴻臚館に行ってみた。

 以下は、添付Webサイトからの一部抜群。

 


福岡市の文化財 鴻臚館跡
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/61

 


 鴻臚館は平安時代、平安京、難波、筑紫の三ヵ所に設置された外交施設である。その名は古代中国で外国との交渉を司る「鴻臚寺」に由来し、「鴻」は大きい、「臚」は伝えるという意味がある。

 

 筑紫の鴻臚館は、飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、持統2年(688)に新羅国使全霜林を筑紫館でもてなしたという『日本書紀』の記事に初めて登場する。また天平8年(736)の遣新羅使が、筑紫館でよんだ歌が『万葉集』に収められている。

 

 承和4年(847)には鴻臚館の名称で登場し(『入唐求法巡礼行記』)、永承二年(1047)大宰府が「大宋国商客宿房」に放火した犯人4人を捕縛した記事が最後の記事となる。なお、寛治5年(1091)の記事に見える鴻臚館は、最近の研究で平安京の鴻臚館を指すものとの説が有力になっている。

 

 鴻臚館は、9世紀前半までは、唐や新羅の使節を接待・宿泊させる迎賓館であり、遣唐使や遣新羅使が旅支度を整える対外公館であった。9世紀後半以降、鴻臚館をおとづれる主役は唐(後には五代・北宋)の商人となり、中国との貿易の舞台となった。11世紀後半に貿易拠点が鴻臚館の東の砂丘にある博多に移るまで、古代日本最大の国際交流の拠点であった。

 

 鴻臚館の位置については博多部とするなど各説があったが、九州大学教授の中山平次郎博士が『万葉集』、古絵図、地形、出土遺物等の検討から福崎(福岡城内)説を提唱し、現在はそれが定説化している。

 

 昭和62年12月、平和台球場改修工事に伴う発掘調査で、鴻臚館の関連遺構が発見された。以後、福岡市教育委員会はその全容解明のための本格調査を継続している。現在までに確認した遣構は、奈良時代以前(筑紫館)の塀と門、奈良時代(筑紫館)の塀と掘立柱建物、平安時代の大型礎石建物、土壙、溝などである。多量の瓦類の他、中国越州窯青磁をはじめ長沙窯磁器、荊窯白磁、イスラム陶器、西アジアガラス器など国際色豊かな遺物が発掘されている。平成7年には展示館が完成し、遺構の出土状態と復元建物、また出土遺物を見ることができる。

 


ご参考)鴻臚館の発見者 中山平次郎博士

中山平次郎博士は、20世紀前半に活躍した九州の著名な考古学者です。彼は「鴻臚館」の発見につながる重要な研究を残しました。中山博士の研究は約100年前の1915年に始まりました。その研究は「鴻臚館」の所在地を特定するものでした。彼は歴史書の記述やこの場所で古代瓦が出土することを根拠にして、「鴻臚館」を探しました。彼の研究は、1987年の発掘調査によって、正しかったことが証明されました。

 


<感想>
100年前に、中山博士(九大医学部)が万葉集等から鴻臚館の福崎(福岡城内)説を提唱し、1987年の平和台球場改修工事に伴う発掘調査で、正しかったことがようやく証明されて、本当に良かったと思う。

 

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松島で芭蕉が見た夏の海?

 

【 松島:松尾芭蕉の夏の海】

 


 先日、最終15時塩釜発の遊覧船で松島に行ってきた。

 以下は、以下Webサイトからの一部抜粋。

 


【松島】<島々や千々に砕けて夏の海> 絶景から生まれた『誤解』
https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20191216-444301.php


仙台を出た松尾芭蕉と河合曽良は一路塩釜、松島へ。道中、多賀城の「壺碑(つぼのいしぶみ)」をはじめ歌枕や塩釜神社を巡り、船で松島に渡った。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)冒頭で「松島の月先心にかゝりて」と記していた念願の地だ。曽良の「日記」によると、到着は1689(元禄2)年5月9日(陽暦6月25日)の昼ごろ。快晴だった。

 

 心ひかれる場所

 260余りの島々からなる松島。日本三景の一つに数えられ、古くから歌枕、瑞巌寺を擁する霊場として知られていた。芭蕉以前には伊勢出身の俳人大淀三千風(みちかぜ)が訪問している。三千風が1682(天和2)年に出版した「松島眺望集」は芭蕉の句を「桃青」の号で収録。眺望集が松島行を促したとの見方もある。


「ほそ道」に従い「雄島」へ向かう。諸国から訪れた僧侶らが修行した瑞巌寺ゆかりの霊場だ。曽良〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉(ホトトギスよ、松島の絶景にふさわしい鶴の身を借り鳴いてくれ、の意)と芭蕉〈朝よさを誰まつしまぞ片心〉の両句碑が、仲むつまじく身を寄せる。〈朝よさを...〉は出立以前に詠んだ無季の句。こんなにも松島に心ひかれるのは誰かが待っているのか。自分の片思いか―。恋慕の情にも似た切なさに、胸が締め付けられた。


 〈島々や千々に砕けて夏の海〉(「蕉翁句集」)。芭蕉は松島をこう詠んだ。「散在する島々。眼前に広がる夏の海に、美しく砕け散っているようだ」。描写の重複を嫌い採用を見送ったのか、虚飾を排した写生のような一句。「ほそ道」の華美な記述とは対照的だ。人知を超えた自然の造形を前に、虚勢など意味をなさない。陸海空が織りなす松島の眺望は、ありのままの人間を慈悲深く包み込んでくれるようである。すがすがしい表情で兜(かぶと)を脱ぐ俳聖の姿が浮かぶ。

 


ご参考1)松尾芭蕉『おくのほそ道』の足跡を訪ねて
http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/04miyagi/014matsushima/matsushima.htm

芭蕉は、ついに松島で一句詠むことは無かった。俗に、芭蕉の句とされている『松島や ああ松島や 松島や』の句は、後世の人が、芭蕉が絶句した気持ちをパロディ風に詠んだ物。

 


ご参考2)奥の細道(松島・元禄2年5月9日・10日)
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno18.htm

 5月9日。快晴。朝、塩釜から船に乗って、昼に松島海岸に到着した。

 

 私は句作を断念して、眠ろうとするが眠られない。

 

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/matsima.htm

芭蕉が、『奥の細道』の途次、松島で作った唯一の句とされるが、不満だったと見えて本文には採らなかった。かわりに曾良の、「松島や鶴に身をかれほとぎす」を使ったのである。一句は、松島の島々は天工のはからいによって夏の海に千々に刻まれて散らばっている、と言うのであろうが、たしかに平板な句ではある。

 

芭蕉は『奥の細道』本文で、ここでは句を作らなかったと言っているくらいなので、そもそも句自体も芭蕉作であるかどうか疑わしい。

 


<感想>
山寺の「閑さや岩にしみ入蝉の声」に比べると、松島の「島々や千々に砕けて夏の海」は確かに平板な句のように思えてならない。

 

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山寺で芭蕉が聞いた蝉の声?

 

【 山寺:松尾芭蕉の蝉の声 】

 


 先日、山形県の山寺に行ってきた。

 以下は、山寺芭蕉記念館のWebサイトからの一部抜粋。
http://yamadera-basho.jp/?p=log&l=516582


 新暦にして7月13日、芭蕉と曽良は尾花沢を発ち、山寺に向かいます。鈴木清風が楯岡まで馬を出してくれたので、山寺には午後2時50分から3時40分の間に着くことができました。芭蕉はこの日のうちに山寺立石寺の参拝を行います。この日は山寺の宿坊に宿泊しました。

 

  閑さや岩にしみ入蝉の声  芭蕉

 


ご参考1)「蝉の声」がするのに、なぜ「しずか」なの?
https://kokugonote.com/shidukasaya/

 

 『おくのほそ道』は、芭蕉が弟子の曾良(そら)を伴って、1689年(元禄2年)年から1691年(元禄4年)に奥州などを旅した際の紀行文です。芭蕉の死後、1702年(元禄15年)に刊行されました。

 

 この俳句は、山形県の立石寺(りっしゃくじ・作品の中では「りふしやくじ」)に弟子の曽良と訪れた際の文章の中に位置づけられています。芭蕉と曽良は、7月上旬(旧暦5月27日)に立石寺を訪れたと言われています。

 

直前の文章

(現代語訳)
山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開いた寺で、非常に清閑な地である。一度は見るといい、と人々がすすめるので、尾花沢より引き返し、その間は七里ほどである。日はまだ暮れていない。梺の宿坊に宿をかりておいて、山上の堂にのぼる。岩にまた大きな岩が重なり山となり、松や檜は年月が経ち、土や石も老いて苔は滑らかになり、岩上の院々は扉を閉じて、物音はきこえない。断崖をめぐり、岩を這うように、仏閣を拝み、素晴らしい景色は静まり返っており、ただ心が澄み切っていくことだけ感じられる。

 

閑さや岩にしみ入蝉の声


 この俳句には「や」という切れ字が使われています。切れ字は、その前の言葉を強調し、そこで言い切る働きをします。

 

 俳句の前半では、切れ字で「閑さ」を強調しています。
 後半では、体言止めで「蝉の声」を強調しています。

 

 前半で強調される「閑さ」と後半で強調される「蝉の声」が矛盾するという関係がこの作品の最大のなぞであり、魅力になっています。

 

  新漢語林には、用例として漢詩が示されていますが、「閑」は「心がしずか」という意味で使われています。


 「閑」は、物理的な静かさというより、心のしずかさや落ち着きといった意味をもっていることが分かります。

 

 ポイントは、蝉の声は自然の一部である、という点です。もしそれほどの音量でなかったとしても、「俗事」や「世間」が作り出す音であれば、心しずかではいられなかったかもしれません。


 もう一つ言えば、全くの無音ではなく、「蝉の声」がするからこそかえって「閑」(しずか)な心境でいられる、とも読むことができるかもしれません。

 

「しみいる」は、物理的にも使われることがないわけではないようですが、多くは心理的な文脈で使われる場合が多いようです。用例も「胸にしみいる」「心にしみいる」など心理的なものがほとんどです。また、「感動」といった定義や、「心にしみいる話」などの用例を見ると肯定文脈で使われることが多いようです。

 

 語り手(虚構としての作者)には岩が蝉の声をぐっと受け入れているように見える。蝉の声が、そこにじわっとしみているように感じられているということです。


 さらに、語り手(虚構としての作者)の心にも、蝉の声がしみ入っているのかもしれないと感じさせます。

 

 一見対比的な関係に見える「閑」と「蝉の声」。
 しかし、実はこの二つは同調し調和していることが読めます。

 

 さらに「岩」と「蝉の声」という対立的・対比的な関係にも見える二つのモチーフも、「しみ入」ということによって調和しています。


 つまり、矛盾に見える、対比に見えるけれども、実は、調和し同調しているというこの俳句の仕掛けが読めてくるのです。

 


ご参考2)立石寺
https://rissyakuji.jp/about/

 


<感想>
残念ながら、蝉の声は聞かれなかったが、300年前に芭蕉が見た景色とそれほど変わってはいないだろうと思うと山寺が一層愛おしく感じられた。

 

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