「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気(牧村康正・山田哲久著、講談社)より
第二章 芝居とジャズと歌謡ショー
「親父が大嫌い」
西崎が死ぬ前に描いた手紙には「親父が大嫌いだ」との一節がある。西崎家の当主である父・正は常に敵だった。とはいえ西崎は名家の出身であることを十分意識していたし、父親のキャリアを否定することはなかった。心ならずも父親を認めた上で、終生コンプレックスを抱き続けたといっていいだろう。
軌道定まらず
弘文少年は家で事件から3年後の昭和25(1950)年、私立の名門・武蔵高校に入学した。記録を追うと、前年に新設された武蔵中学に3年生で編入し、そのまま高校へ進んだ可能性もある。
弘文の東大進学問題は、父との間で依然として尾を引いていた。弘文は父の強い意向に逆らえず、東大を二度受けたようである。
弘文は結局、高校卒業後4年間の浪人生活を過ごし、昭和32(1957)年、日本大学芸術学部(日芸)演劇学科に入学した。日芸は映画、放送、音楽分野にも多くの著名人を輩出している。この選択は弘文の指向を示すとともに、父の影響下から脱け出そうとする強い意志が感じ取れる。だが、以降しばらく地に足のつかない生活を送る。
ショービジネスに馴染む
昭和32(1957)年、大学入学直前に文学座を辞め、昭和34(1959)年8月、大学も中退した弘文は、ボーイ、バーテン、クラブやジャズ喫茶の司会者などで小銭を稼ぎ、その日暮らしの生活を始めていた。当時のニックネームはザキまたはザーキ。司会者名として義展の名前を使い始めた。声や見栄えの良さ、豊富な音楽知識が買われ、司会者として重宝されたと本人は述懐している。また、生の音楽と本格的に触れ合い、後に戦友となる作曲家・宮川泰と知り合ったのもこの頃である。
後年、西崎はこの原盤製作方式を踏襲して西崎音楽出版を設立。歌手、オーケストラ、指揮者などのギャランティーを含めて制作費を全額自己出資した。そして「ヤマト」の楽曲すべての原盤権を確保して莫大な収入につなげる。制作費負担のリスクよりも権利優先の考え方は、プロデューサーとして西崎の一貫した姿勢だった。
終章 さらば、ニシザキ
海千山千の老獪なプロデューサーがなぜ悪人ではなくて悪童だったのかといえば、「ヤマト」という作品への無邪気なまでの一途さを死ぬまで失わなかったからである。その一点で西崎の人生には明るさが灯っている。
みずからの劇的な人生を75年にわたって製作総指揮した西崎義展は、ようやくその仕事を終え、エマヌエル西崎弘文として帰天した。
小笠原の海で意識を失う瞬間、西崎の脳裏にはどんあシーンが映し出されたのだろうか。海底に横たわる大和とともに深く静かな眠りにつく自分の姿だろうか。それとも出撃準備を整えたヤマトに乗って海面を飛び立ち、再び14万8000光年の彼方を目指す自分の姿だろうか。
稀代のプロデューサー・西崎義展が最後に思い描いたクライマックスシーンは、誰にも語られることはない。
>>身内に感じるコンプレックスは生涯消えることはないのだろうか
「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気(牧村康正・山田哲久著、講談社)より
2015年9月8日第1刷発行
序章 いつ消されてもおかしくない男
「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー・西崎義展が、遊泳のため訪れていた小笠原・父島で船上から海へ転落。午後2時58分、死亡が確認された――。
西崎義展の名を日本アニメ史に刻み込んだ「宇宙戦艦ヤマト」とはいかなる作品であったのか。
――西暦2199年、地球は大マゼラン星雲にある異星人国家ガミラスの侵略を受けていた。遊星爆弾による放射能汚染で地上生物は死滅。海は蒸発し、地球は赤茶けた姿に変貌している。人類が立てこもる地下都市の汚染も進行し、人類滅亡まであと一年と迫っていた。
ガミラス軍の攻撃で地球防衛艦隊が壊滅した直後、謎の宇宙船が火星に不時着。回収されたカプセルには、放射能除去装置コスモクリーナーDを地球に提供するというイスカンダル星からのメッセージが納められていた。さらにイスカンダルまで14万8000光年の航海に必要な波動エンジンの設計図も添えられていた。
地球防衛軍は250年前の大戦で沈められた戦艦大和を極秘裏に改造して波動エンジンを搭載、宇宙戦艦ヤマトとして甦らせる。
人類救済のためにはイスカンダルでコスモクリーナーを受け取り、1年以内に地球へ帰還しなければならない。艦長・沖田十三、若き指揮官・古代進らはガミラス帝国と戦い、宇宙空間の障害を乗り越えながら、遥かなるイスカンダルを目指す――。
以上が、ファンの間ではあまりにも有名な「宇宙戦艦ヤマト」(テレビ版第1作)の基本ストーリーである。
昭和48(1973)年、西崎を中心にまとめられた企画書冒頭の一文(企画意図)を紹介しておこう。「ヤマト」に対する西崎の意気込みと願望がここに集約されている。
「今年、『ポセイドン・アドベンチュア』というアメリカ映画が大ヒットした。転覆した豪華客船の中から、僅か数人の男女が、奇跡的に脱出、生還する物語である。ヒットの理由は、転覆した船という時代の週末を象徴する状況から、人間が脱出できる可能性を示したことにあると思われる。
私たち人間が今一番持たなければならない認識と夢を、大人はもとより、特に子供に語りかけたいと考えて、私たちは、『宇宙戦艦ヤマト』を企画した。
この作品は、二千XX年、地球上の全人類が滅亡しようという時に、決然と立った少年少女の活躍を物語る、SF冒険アクションのドラマである。そして、彼らの行動を通して私たちが描きたいのは、人間とは『愛』だという、このひとことなのだ」
当時38歳になっていた西崎の思い入れは、気恥ずかしいほど熱く、純粋である。しかし、この業界人らしからぬ一途さが、「ヤマト」の革新的な製作方針に結びついた。漫画原作に頼らないオリジナル企画の立案、現場を支える一流のスタッフの結集、徹底討論による緻密なシナリオ構成、金と時間を惜しまない大胆な画づくり、作品と連動する版権ビジネスの拡大、ストーリーを盛り上げる音楽性の高さ――西崎はそれまでのアニメ製作に類例のない手法を取り入れた。そして子供向けアニメからの脱却を目指し、「ヤマト」を本格的なSF長編作品に作り上げて中高生の心をつかんだ。ヤマト世代と呼ばれるそのファン層からは、後に日本のアニメ界を支える傑出したクリエイターたちが続々と輩出された。
西崎は作家気質のプロデューサーだっただけでなく、勝負勘に秀でた興行師でもある。初の映画公開では、捨て身の一発勝負にもひるまない大胆さを発揮した。映画には素人同然の個人プロデューサーが一流スタッフ陣を束ね、悪戦苦闘してつくり上げた未知のオリジナル作品を世に問う。――このチャレンジストーリーには、それだけで時代を越えた痛快さがある。しかも西崎は製作費を全額自己出資するという大リスクを負っていた。映画が当たれば利益は総取り、外せば身の破滅という大博打である。はたから見れば、これほど面白いドラマはない。
本書は共著作品である。読者の混乱を避けるため、あらかじめ筆者の立場を明らかにしておきたい。この企画は制作助手を6年間にわたってつとめた山田哲久が発案し、出版メディアから「ヤマト」を見続けてきた牧村康正が構成・執筆を担当した。取材は共同で行い、記述は基本的に牧村の視点でなされた。山田は西崎の動向をリアルタイムで知る立場にあったため、本文中では証言者として随時登場する。
>>気恥ずかしいほど熱く、純粋な一途さを持ち続けられたら幸せであるに違いない