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「明治維新という過ち」⑧



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


  戦争を惹き起こすためのテロ集団・赤報隊の悲劇

 西郷は、岩倉具視の了承を得て、「赤報隊」という部隊を組織した。隊長は、相楽総三。

 赤報隊が、正規に組織されたのは年が明けた慶応4(1868)年だが、その前に西郷は相良たちに命じた。打ち手を失いつつあった長州・薩摩の“重石”のような存在であった西郷は、相楽たちに何を命じたのか。

 江戸において、旗本・御家人を中心とする幕臣や佐幕派諸藩を挑発することである。挑発といえばまだ聞こえがいいが、あからさまにいえば、砲火・略奪・強姦・強殺である。倫理観の強かった江戸社会においては、もっとも罪の重かった蛮行を繰り返すことであった。

 これで、耐えに耐えてきた庄内藩は、堪忍袋の緒を切った。幕府も同時に切れてしまった。老中稲葉正邦は、庄内藩、岩槻藩、鯖江藩などから成る幕府軍を編成、薩摩藩邸の攻撃を命じた。12月25日、幕軍は三田の薩摩藩邸を包囲、薩摩藩が下手人の身柄引渡しを拒否したのを受けて遂に薩摩藩邸を砲撃した。これが世にいう「薩摩藩邸焼き打ち」である。後に、京にいてこの報に接した西郷隆盛は、手を打って喜んだと伝わる。自分が送り込んだ赤報隊の江戸市中での無差別テロという挑発に、幕府が乗ったのである。

 これが、京都における『鳥羽伏見の戦い』のきっかけである。つまり、「戊辰戦争」のきっかけとなった。薩摩藩邸の焼き討ち程度では収まらなかった幕臣サイドから、慶喜に対して「討薩」の圧力が強まり、慶喜は、「討薩表」を朝廷に提出することを決意し、「奸臣共の引き渡し」がなければ、やむを得ずこれに「誅戮」を加えると表明してしまった。即ち、下手人を引き渡さなければ薩摩を討つと宣言してしまったのである。

 江戸での「薩摩藩邸焼き打ち」とそれに至る経緯が、大阪城の慶喜に伝えられたのが12月28日。ちょうど「任官納地」を骨抜きにし、『王政復古の大号令』を失敗に追い込み、政治的逆襲に成功したとみえた、その時である。エリート官僚臭の強い慶喜は、図に乗り過ぎたのかも知れない。明けて正月2日、「討薩表」をもった、大河内正質を総督とする幕軍1万5千が大阪城を進発した。そして、翌3日、薩摩がこの軍を急襲し『鳥羽伏見の戦い』が勃発、長州・薩摩は一気に戊辰戦争という、待ちに待った討幕の戦乱に突入する。

 結局、京における討幕クーデターに失敗し、圧倒的に不利な立場にあった長州・薩摩勢力は、この江戸市中での騒乱によって一気に戊辰戦争へと突っ走り、後に「明治維新」と呼ばれる政権奪取を断行してしまったのである。西郷が送り込んだ赤報隊が、その一番の功労者ということになる。敢えて簡略に述べきってしまえば、これが、後世「明治維新」と呼ばれた動乱の核になる部分の史実である。

 結果として、日本はこの動乱を経て近代へ突入する。但し、長州・薩摩の書いた歴史では、この動乱がなければ日本が近代を迎えることはなかったということになっているが、私は全くそうは考えていない。長州・薩摩政権は、全時代である江戸期を「打破すべき旧い時代」として全否定し、そういう教育を受け続けた日本人は140年以上経った今もそれを信じているが、江戸期とは私たちが考えてきたものより遥かに高度なシステムをもった社会であり、今や経済史の面からの視点も加えて「江戸システム」と呼ばれるほど世界的にも類をみない高度な文明社会として評価されつつある。単なる封建時代であったとするのは、長州・薩摩が意図して歪めた歴史解釈である。

 挑発に成功した相楽たちは、直ぐ正式に討幕軍の一部隊としての「赤報隊」として組織され、長州・薩摩軍東山道軍の先鋒を務めることになる。彼らは長州・薩摩軍の東山道鎮撫総督指揮下の部隊として組み込まれたのである。

 総柄総三以下の赤報隊は、「年貢半減」を宣伝・アピールしながら信州へ進軍した。新しい政権は年貢を半減すると公約して民衆の心を引き寄せながら東へ進んだのである。勿論、この“公約”は、長州・薩摩中枢の裁可を得て発したもので、赤報隊が勝手に宣伝した訳ではない。この頃、各地で一揆が頻発しており、総称して「世直し一揆」と呼ばれる。

 ところが、長州・薩摩は、このことを赤報隊に対して口頭で許可したものの文書にして残してはいない。そして、直ぐ「年貢半減」を取り消し、赤報隊が勝手に触れ回ったものとし、赤報隊を「偽官軍」であるとして追討した。相楽総三以下赤報隊一番隊は、慶応4年3月早々、下諏訪にて処刑される。但し、隊が担いでいた公家は処刑されなかった。御陵衛士が中核となっていた二番隊は教へ引き戻され新政府軍に編入、近江出身の三番隊は桑名で処刑された。

 要は、相楽たち赤報隊は、「維新」に失敗しつつあった長州・薩摩と岩倉具視たちに利用され、使い捨てにされただけなのだ。彼らが江戸市中で行った蛮行には許し難いものがある。しかし彼らは西郷の命を受け、その行動に「大義」があると信じていた。西郷にしてみれば、端から使い捨ての心算である。西郷にも「大義」があったろう。これも、動乱の時代には避けられない策の一つと割り切るべきかも知れないが、何ともやり切れない。


>>西郷の「大義」のもとでの「赤報隊」の悲劇、確かに何ともやり切れない

「明治維新という過ち」⑦



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より

 ところが、事は逆方向に動き出した。

 翌10日、徳川慶喜が、自らの新しい呼称を「上様」とすることを宣言した。これは呼称の問題であるから、理論的には大政を奪還したことと矛盾することにはならない。しかし、言外に徳川政権の実質統治を継続しますよと宣言しているに他ならない。

 徳川慶喜に「辞官納地」を求めた、この小御所会議の時、当の慶喜は幕府軍おおよそ一万と共に二条城にいた。一万という軍勢には、会津兵約2千、桑名兵約1千が含まれている。長州・薩摩を中心とする討幕派の兵も5千が京に終結しており、山内容堂は、双方が偶発的に衝突する不測の事態を懸念し、朝廷と慶喜に対して「納地」の問題は諸大名会議を開催して幕府と諸大名の分担割合を決めるなどの提案を行い、双方これを受け入れ、慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静を伴い、12月12日、大阪へ下ったのである。

 同時に、長州・薩摩の軍事クーデターという強硬手段に対するする土佐藩を中心とする公武合体派の反発はピークに達し、肥後藩・筑前藩・阿波藩が、長州・薩摩に対して御所からの軍勢の引き揚げを要求するに至り岩倉具視と長州・薩摩は、「徳川慶喜が辞官納地に応じれば、慶喜を議定に任命し、前内大臣としての待遇を保証する」との妥協案を出さざるを得なくなったのである。

 ここで、徳川慶喜は更なる反転攻勢に出る。12月16日、大阪城にアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・プロシャ・イタリア六カ国の公使を招集し、内政不干渉と徳川幕府の外交権保持を承認させたのである。岩倉具視や長州・薩摩には、こういう外交はできない。更に3日後、慶喜は朝廷に対して「王政復古の大号令の撤回」を要求した。

 朝廷は遂に、『徳川先祖の制度美事良法は其の侭被差置、御変更無之候間』云々との告諭を出した。つまり、徳川政権への大政委任の継続を承認したのである。この告諭では『王政復古の大号令』を取り消すとは言明していないが、実質的に徳川慶喜の要求を呑んだことになる。徳川幕藩体制は、維持されることになったのである。

 ここに、岩倉具視と長州・薩摩の偽勅許による討幕、軍事クーデターによる討幕のオーソライズの策謀は敗北した。「明治維新」は失敗に終わったのである。

 小御所会議で決定したはずの「辞官納地」も、暮れも押し迫った12月28日、慶喜が朝廷からの「辞官納地の諭書」に対する返書を出すが、内容は、

 ・徳川慶喜の内大臣辞任(前内大臣として処遇する)
 ・徳川慶喜が最高執権者として諸大名会議を主催する
 ・諸大名会議で朝廷へ「献上する」費用の「分担割合」を取りまとめる

 というものであり、「辞官納地」は完全に骨抜きにされたものである。

 俗にいう「明治維新」の核となる出来事が『大政奉還』と『王政復古の大号令』であることは、学校教育でも一貫して常識であったが、以上のような史実が存在する以上、学校教育は「明治維新は失敗した」と教えるべきではないか。少なくとも、『王政復古の大号令』が完全に失敗、偽勅による幕府転覆の策謀が未遂に終わったことだけは、教育というものの良心に拠って立って明瞭に教えるべきであろう。


>>公武合体派の反発を味方につけた徳川慶喜の動きにより、『王政復古の大号令』は失敗に終わったかのように見える

「明治維新という過ち」⑥



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


 現に、クーデター後の最初の“閣議”ともいうべきこの三職会議は揉めに揉めた。この会議は、御所内の小御所で開催されたところから『小御所会議』といわれる。15歳の明治天皇と公卿以外の大名の出席者は、尾張藩徳川慶勝、福井藩松平慶永(春嶽)、土佐藩山内豊信(容堂)、薩摩藩島津忠義、広島藩浅野茂勲の5名である。画期的なことは、薩摩藩士大久保利通、土佐藩士後藤象二郎、広島藩士辻将曹たちが敷居際に陪席を許されたことである。この時、西郷は、外で警備を担当していた。

 小御所会議が揉めた図式の軸は、土佐藩主山内容堂と岩倉具視の対立である。山内容堂が「尊皇佐幕派」であることは、先に述べた。岩倉具視は、長州・薩摩の頭に立つ「討幕派」である。こういう立場、スタンスの違いだけでなく、実はこの時点で「岩倉具視が孝明天皇を毒殺した」という噂が広く流布されていたのである。この噂は、この会議の出席者は皆知っている。

 山内容堂は、徳川慶喜の出席を拒んだ会議であることを攻めた。同時に、今回の会議に至る事態を、幼い天皇を担いだ、権力を私しようとする陰謀であると避難した。この指摘は事実であって、まさに核心を衝いている。この時、山内容堂は『幼沖なる天使~』という表現をしたとされる。岩倉具視は、ここを捉えた。『幼沖なる天使とは何事か!』と反攻に出た。完璧な「揚げ足取り」である。「揚げ足取り」であっても何でも、反論、反攻しなければ、天皇暗殺の噂のこともあって自らの立場は危険なことになる。更に、まだ何も“閣議決定”をしてない段階にも拘わらず、「徳川慶喜が辞官納地を行って誠意をみせることが先決である」という、論理にもならない主張を繰り返した。徳川家に対して辞官納地という形を求めるならば、山内容堂が主張する通り、徳川慶喜を会議に呼べばいいのである。核心を衝いた容堂の主張に、松平春嶽、浅野茂勲、徳川慶勝が同調し、山内容堂は、終始『徳川内府を~』と主張し、この会議は休憩に入いった。

 ここで、いろいろな種類の“本性”が事態を動かす。

 大久保と共に陪席を許されていた薩摩藩の岩下佐治右衛門が、この経緯を警備の西郷に伝えたらしい。その時、西郷が漏らしたひと言、『短刀一本あれば片が付く』。これが歴史を動かした。西郷独特の計算、とする説もあるが、これは西郷の本音ではなかったろうか。複雑な曲線を描いて思考する癖のある、陪席している大久保にたいする苛立ちも含まれていたのではないか。このひと言が岩倉の耳に入る。岩倉は、これを広島藩浅野茂勲に伝える。岩倉の決意を知った広島藩は、これを辻将曹が土佐藩後藤象二郎に伝え、後藤は主の山内容堂と松平春嶽に伝えた。西郷の、いざとなれば玉座を血で汚してでも担当一本でケリをつけろという、昭和の極右勢力にまでつながらう問答無用の事の進め方を、岩倉は己の決心として直接山内容堂に伝えるのではなく、広島藩を通じて陽動を脅かす。このあたりは、岩倉らしい打ち手といえるだろう。公家に対しては過激な性格は岩倉の“本性”であろうが、小技を駆使する巧さもまた、この曲のある公家の“本性”ではなかったか。

 山内容堂が身の危険を感じだ時点で、会議の趨勢が決したといえる。再開後の会議において、「徳川慶喜に辞官納地を求める」、即ち、官位と所領を没収することを、誰も反対せず決議したのである。山内容堂と松平春嶽は「幕末の四賢候」などといわれているが、ここまでが山内容堂の限界である。ぎりぎり武士の末端ともいうべき薩摩の田舎郷士であった西郷という男の、すべての論理や倫理を否定する“本性”の顕れたひと言が、国家の行く末を決する小御所会議の方向を決してしまったのだ。この後、我が国の「近代」といわれている時代では、政局が行き詰まる度に反対派に対して「問答無用!」という暴力=暗殺が繰り返され、最終的に長州・薩摩政権は対米英戦争へ突入していったのである。

 この小御所会議が開催されたのは、慶応3年暮れ、12月9日の夜である。「徳川慶喜に辞官納地を求める」ことを決して、そのまま事が進めば、「王政復古」は成立する。即ち、後の言葉でいう「明治維新」の成立である。


>>1867年12月9日夜の『小御所会議』以降の徳川慶喜の動きがその後の帰趨を決定することになる

「明治維新という過ち」⑤



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


 情勢の不利なことを悟った討幕派の岩倉具視や薩摩の大久保利通は、新たな画策をする。クーデター計画である。

 このクーデターの首謀者は、表向きは岩倉具視だが、実質的な首謀者は大久保利通である。まだ満15歳になられたばかりの明治天皇を手中に収め、慶応3(1867)年暮れに決行された。12月8日夜、岩倉具視が自邸に薩摩・土佐・安芸(広島)・尾張・越前(福井)五藩の代表を集め、『王政復古』の断行を宣言し、五藩の協力を求めた。明けて12月9日、朝議を終えた摂政以下の上級公家が退出したのを見計らって、薩摩をはじめとする五藩の藩兵が御所九門を封鎖、公家衆の参内を阻止した上で岩倉具視が参内、明治天皇を隣席させ『王政復古の大号令』を発した。つまり、これは、幼い天皇を人質とした軍事クーデターであったのだ。

 大号令の内容は、
 ・徳川慶喜の将軍辞職を勅許する
 ・京都守護職、京都所司代を廃止する
 ・江戸幕府を廃止する
 ・摂政関白を廃止する
 ・新たに、総裁、議定、参与の三色を設置する

 というもので、『王政復古』とはいいながら、その実は二条家を筆頭とする上級公家の排除と一部公家と薩長主導の新政権樹立の宣言に過ぎない。ただ、これによって『公武合体』論などが孕んでいた、また徳川慶喜が企図していた、イギリス議会制度を参考とした公議政体ともいえる「徳川主体の新政府」の芽は完全に抹殺された。現実に、岩倉が参与に就任したこの三色は、半年を経ずして廃止されている。つまり、大号令五項の内、先の四項が主眼だったことがはっきりしているのだ。

 岩倉具視という下級公家はもともと過激だったが、この時期の大久保利通は異常に過激である。私は、大久保という男はどこか根強いコンプレックスを抱えているという印象を持っているが、この時期の異様な高揚ぶりも、私にはその印象を裏付けるものとしか映らない。西郷が、むしろ引っ張られている。そして、薩摩藩そのものが、この時期、宮廷内を我がもの顔で闊歩、朝廷権威を蹂躙している様は、やはり動乱の時代であったこを正直に顕すものといえよう。

 しかし、『王政復古の大号令』は、長州・薩摩の意図したものが成就したのではなく、最後の動乱のきっかけに過ぎなかった。


  実は失敗に終わった『王政復古の大号令』

 『王政復古の大号令』を発して、幼い天皇を人質として利用した岩倉具視、大久保利通らのクーデターは成功したのか。結論からいえば、失敗に終わった。

 クーデターの直接行動から間を置かず、明治天皇の御前において最初の三職会議が開かれた。三職とは、クーデターによって設けられた総裁・議定・参与のことである。内閣総理大臣に当たるといってもいい総裁には、有栖川宮が就任、岩倉具視は参与の一人となった。自称のような幕末の「四賢候」に数えられた福井藩主松平慶永(春嶽)、前土佐藩主山内豊信(容堂)が議定に名を列ねている。但し、注意すべきことは、三職が設けられたとはいっても、そもそも政権交代がまだ全く成立していないということだ。従って、この時点でこの三職には何の正当性もないということである。

 この会議は、慶応(1867)年12月9日に開かれたが、この時世情は騒然、というより、事態はもっと緊迫していた。京都にクーデター派諸藩が軍を入れ、力で押し切ろうという姿勢を露骨に示したのである。京都に軍を入れるということがどれほどの意志をどれほど強烈に示すものか、このことについては我が国の歴史に触れる場合は十二分な洞察力を働かせていただきたい。京に向かって兵を動かすということは、どこそこへ三千の兵を派遣しました、というような普通の軍事行動とは全く次元が違うのである。

 薩摩は、西郷隆盛が藩主島津忠義と三千の兵を率いて入京。西郷が藩主を「率いて」というのも妙な言い方だが、それがこの時点の薩摩の実態である。長州は千名強の兵力を京に入れたが、この中にはあの粗暴なことで知られる奇兵隊が含まれていた。広島藩は三百名。こうして、会議直前の11月末には、おおよそ五千という兵力が京に集結し、会議に対して、また軍事クーデターに加わらない「公武合体派」に対して強い圧力をかけたのである。


>>薩長軍の入京による「公武合体派」に対する強い圧力がなければ、その後の流れが変わっていたに違いない

「明治維新という過ち」④



「明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」(原田伊織著、毎日ワンズ)より


  幼い天皇を人質として軍事クーデター

 慶応3(1867)年10月時点でも、朝廷内の討幕派公家は少数派であったことを、まず基本環境として理解しておく必要がある。三条家という長州派の過激派公家は4年前の文久3(1863)年の『8月18日の政変』で追放されており、岩倉具視を中心とする少数の討幕派公家はいずれも下級公家である。80年ぶりに摂政に就任していた二条家や賀陽宮家という親徳川派、即ち「尊皇佐幕派」の上級公家が朝廷の主導権を握っていた。そこで、岩倉具視や薩摩の大久保利通たちはどうしたか。偽の勅許(偽勅)を作った。即ち偽の「討幕の密勅」である。これは、天皇、折衝の署名もなければ、花押もないという“天晴れな”偽物である。

 この事実は、本来特筆されるべき史実である。民族統合の象徴として、民族の歴史そのものとして存在していた天皇は、いざとなればいつでも国家の最高権力者となり得るのだ。そういう存在である天皇の政治的意思を表明する「勅許」というものを、己の政治的野心を遂げるために「偽造」したのだ。この国においてこれほどの悪業、大罪が他にあるだろうか。どのような悪人でも、まずこのような発想をしないのではないか。長州・薩摩と過激だけが「売り」の下級公家・岩倉具視は、この瞬間「偽天皇」になったのである。

 この「偽勅」が長州藩士の広沢真臣と薩摩藩士の大久保利通に下されたのは、慶応3年(1867)年10月14日である。この時の天皇はどなたであったか。いうまでもないであろう、明治天皇である。嘉永5(1852)年お生まれの帝は、この時正確には満14歳。摂政が廃止される直前のことで、時の摂政は二条斉敬。ところが、この時の「偽勅」はまさに「偽勅」らしく摂政二条斉敬の署名もない。天皇の直筆は勿論、摂政の署名も、あまつさえ花押もないという堂々とした「偽勅」を下すとは、長州・薩摩が、そして岩倉具視が、如何に天皇を軽んじていたのかの明白な証左となるものである。因みに、誰の署名があったかといえば、中山忠能(前権大納言)、正親町三条実愛(前大納言)、中御門経之(權中納言)の三名である。大東亜戦争を強引に惹き起こした中心勢力は、長州軍閥の巣窟といわれる帝国陸軍の参謀本部であるが、国家が滅亡するまで止まなかった長州・薩摩政権による天皇の政治利用は、ここから始まっているのだ。

 ところが、慶喜サイドではこれを「密勅が下る」と解釈した。まさか大久保たちが勅許の偽物を作るとは思ってもいない。密勅とはいえ勅許が下ることは、幕府としては避けなければならない。そこで、先手を打って『大政奉還』に出たのである。これによって「討幕」の大義名分を消滅させたのである。

 大政奉還を行っても、所詮朝廷に政権運営能力はない。つまり、統治能力はない。慶喜サイドがそう読んだことは明らかである。形式はどうあれ、実権は依然として徳川が握るという“政局判断”であり、事実この判断、読みは間違っていなかった。慶喜という人は、こういう頭の切れ、狡猾さはもっていたのである。

 嘉永6(1853)年にペリー率いる黒船が来航して、その武力威圧に屈して幕府は遂に開国したというのが「官軍教育」に則って今も学校で教える日本史である。ところが、実際には幕府は天保13(1842)年に『薪水給与令』を発令し、文政8(1825)年から施行されてきた『異国船打払令』を完全否定し、この時点で対外政策を180度転換した。即ち、この時点で実質的に開国したと看做すことができるわけで、長州・薩摩サイドの事情で後に書かれた“歴史”とは20年以上の開きがあるのだ。また、寛政9(1797)年以降、長崎・出島へアメリカの交易船が来航した回数は少なくとも13回確認されており、ペリーの来航によって日本人が初めてアメリカ人と接触したかのような歴史教育は歴史的事実とは異なるのだ。更に、弘化2(1845)年には日本人漂流民を救助したアメリカ捕鯨船マンハッタン号が浦賀に来航し、通商を求めたが、幕府はこれを拒否している。つまり、薩長政権が成立するまでの約4半世紀の間、江戸幕府はオランダ以外の列強、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、プロシャを相手としてそれなりに外交経験を積んでいるのである。ペリーの黒船が来航して、初めて見るアメリカ人や軍艦に右往左往し、それによって生まれた混乱に乗じた倒幕運動によって幕府が一挙に崩壊し、薩長政権が初めて欧米と渡り合うようになったなどという歴史は存在しないのである。第一、黒船という言葉そのものは戦国期から存在する。欧米列強の航洋船は、防水のため黒色のピッチを塗っている。その色で「黒船」というのだが、それはペリー艦隊に対してだけでなく、日本人はそれ以前にイギリスやロシア、古くはポルトガルの黒船と接触している。また、未開国の江戸期日本と先進国の西欧列強という構図で黒船来航を教えられている現代人は、黒船を蒸気船であると思い込んでおり、蒸気船であることが幕府をはじめ江戸市中の人びとを恐怖のどん底に落とし込んだなどという勝手な話を創り上げているが、帆船も「黒船」と呼んだ。ペリーは4艦で来航したが、蒸気外輪船は旗艦「サスケハナ」と「ミシシッピ」のみで、あとの2艦は帆船であった。それ以外にいちいち挙げていてはキリがないが、ペリー来航寺の事柄についても、いい加減なドラマの乱造の影響か、とにかく多くのデタラメがまかり通っている。

 このような史実としての背景があって、徳川慶喜が朝廷の統治能力の無さを見透かし、『大政奉還』という手を打ったのは決して的外れではなく、現実的な打ち手であったといえるだろう。朝廷が、外交のみは引き続き幕府が担当することを命じた直後、慶喜は征夷大将軍の辞職を朝廷に願い出た。平面的に捉えれば、大政奉還に伴う、大政奉還を確固とした形で仕上げる行動と受け取れるが、私には「あなた方には、やはりできないでしょ」という慶喜の朝廷にたいする“ダメ押し”ではないかとも受け取れる。このまま終われば、遅れてようやく『公武合体』が成立しそうな情勢となったのである。


>>「尊皇佐幕派」による『公武合体』がうまく行ったとしたら、今日の日本はどのようなものになっていただろうか

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