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「十二月一日の御前会議」


「大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書」(東條布由子編、WAC)より



 十二月一日の御前会議


 前にるる述べたごとく1941年(昭和16年)11月5日の御前会議においては一方日米交渉を誠意を以て進めるとともに、他面作戦準備は大本営より具体的に進められることとなりました。かくして米国の反省を求め、外交の妥結を求めんとしたのでありましたが、十一月二十六日に至り米国の最後通牒に接しわが国としては日米関係はもはや外交折衝によつては打開の道なしと考えました。このことは前にも述べた通りであります。以上の経緯をたどつてここに開戦の決意をなすことを必要としたのであります。

 これがために開かれたのが十二月一日の御前会議であります。



 以上の手続により決定したる国策については、内閣および統帥部の輔弼および輔翼の責任者においてその全責任を負うべきものでありまして、天皇陛下に御責任はありませぬ。この点に関しては私は既に一部分供述いたしましたが、天皇陛下の御立場に関しては寸毫の誤解を生ずるの余地なからしむるため、ここに更に詳説いたします。これは私に取りて真に重要な事柄であります。

(一)
 天皇陛下が内閣の組織を命ぜらるるに当つては必ず往時は元老の推挙により、後年ことに本訴訟に関係ある時期においては重臣の推薦および常侍輔弼の責任者たる内大臣の進言によられたのでありまして、天皇陛下がこれらの者の推薦および進言を却け、他の自己の欲せらるる者に組閣を命ぜられたというごとき前例はいまだかつてありませぬ。また統帥部の輔翼者(複数)の任命においても、すでに長期間の慣例となつた方法に依拠せられたものであります。


(二)
 国政に関する事項は必ず右手続で成立した内閣および統帥部の輔弼輔翼によつて行われるのであります。これらの助言によらずして陛下が独自の考えで国政または統帥に関する行動を遊ばされる事はありませぬ。この点は旧憲法にもその明文があります。その上に更に敢行として、内閣および統帥部の責任を以てなしたる最後的決定にたいしては天皇陛下は拒否権を御行使遊ばさぬということになつて来ました。

(三)
 時に天皇陛下が御希望または御注意を表明せらるる事もありますが、しかもこれら御注意や御希望はすべて常侍輔弼の責任者たる内大臣の進言によつて行われたことは某被告の当法廷における証言により立証せられた通りであります。しかもその御希望や御注意等も、これを拝した政治上の輔弼者(複数)、統帥上の輔翼者(複数)が更に自己の責任においてこれを検討し、その当否を定め、再び進言するものでありまして、この場合常に前申す通りの慣例により御裁可を得ております。私は天皇陛下がこの場合、これを拒否せられた事例を御承知いたしませぬ。


 これを要するに天皇は自己の自由の意思を以て内閣および統帥部の組織を命ぜられませぬ。内閣および統帥部の進言は拒否せらるることはありませんぬ。天皇陛下の御希望は内大臣の助言によります。しかもこの御希望が表明せられました時においてもこれを内閣および統帥部においてその責任において審議し上奏します。この上奏は拒否せららることはありませぬ。これが戦争至上空前の重大危機における天皇陛下の御立場であられたのであります。

 現実の敢行が以上のごとくでありますから、政治的、外交的および軍事上の事項決定の責任は全然内閣および統帥部にあるのであります。それゆえに1941年(昭和16年)12月1日開戦の決定の責任もまた内閣閣員および統帥部の者の責任でありまして絶対的に陛下の御責任ではありません。


>>しばし東條の供述から陛下や今日の日本に思いを馳せる


「十一月五日の御前会議」


「大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書」(東條布由子編、WAC)より


 編者まえがき


 今回この本をこうして皆様のお手元にお届けできることになったのは、さまざまな「出会い」のおかげでした。
 
 私はよく神田の古書店街に、東京裁判についての本を探しに行くのですが、平成十年一月のある日、ある店で、最初の「出会い」がありました。

 
 するとそこには、赤い字で「天皇に責任なし 責任は我に在り」と書かれているではありませんか。その傍らには「東條英機 宣誓供述書」とありました。

 
 本の奥付を見ると、昭和二十三年一月二十日、洋洋社発行とあります。後で分かったのですが、この本は、私の祖父である東條英機が陸軍大臣となった昭和十五年七月から、総理大臣として内閣総辞職した十九年七月までの四年間の活動について、祖父自身が振り返って語ったものを、主任弁護士の清瀬一郎先生が書き起こしたものだったのです。


 それがどういういきさつで洋洋社から出版されることになったかは不明です。ところが出版されるとすぐ、連合軍総司令官のマッカーサー元帥によって昭和二十年九月から敷かれていた報道管制の一環として、この『東條英機 宣誓供述書』は「発禁第一号」に指定されてしまいます。そのため、長いあいだ日の目を見ることがなかったというわけです。



天皇に責任なし、敗戦の責・我にあり

 東條英機宣誓供述書(全文)
 昭和二十二年十二月二十六日提出

 極東国際軍事裁判所
  亜米利加合衆国其他
    対
  荒木貞夫其他
    宣誓供述書

        供述者  東條英機

 自分儀我国ニ行ハルル方式ニ従ヒ宣誓ヲ為シタル上次ノ如ク供述致シマス
   

十一月五日の御前会議およびその前後


 ついでこの対米交渉要領により日本の今後における国策をいかに指導するかにつき更に審議を尽し最後に三つの案に到達したのであります。第一案は新たに検討を加えて得たる対米交渉要領に基き更に日米交渉を続行する。しかしてその決裂に終りたる場合においても政府は隠忍自重するというのであります。

 第二案は交渉をここで打ち切り、ただちに開戦を決しようというのであります。

 第三案は対米交渉要領に基きて交渉を続行す。他面交渉不成立の場合の戦争決意をなし、作戦の準備をなす。そして外交による打開を十二月初頭に求めよう。交渉成立を見たるときは作戦準備を中止する。交渉が決裂したるときはただちに開戦を決意す。開戦の決意はあらためてこれを決定するのであります。



 連絡会議においては結局は第三案を採つたのでありますが、決定に至るまでの間に一番問題となつたのは前記第一案で行くか、第三案で行くかという別れ目でありました。十一月二日午前二時に一応第三案と決したものの出席者中の東郷外相、賀屋蔵相はこれに対する賛否は保留し、翌朝に至つて両人ともようやく第三案に同意して来たという経緯でありました。

 この案については更に連絡会議においては第三案の主旨に基き今後の国策遂行の要領を決定し必要なる手続きを経て後に1941年(昭和16年)11月5日の御前会議で更にこれを決定しました。これには私は総理大臣および陸軍大臣として関与したことはもちろんであります。これが11月5日の「帝国国策遂行要領」というのであります。この本文は存在せず提出は不能でありますが、この要旨は私の記憶によれば次の通りであります。

 第一、帝国は現下の危機を打開し自存自衛をまっとうするための対米英線を決意し、別紙要領甲乙両案に基き対米外交交渉により打開を図るとともにその不成立の場合の武力発動の時期を十二月初頭と定め陸海軍は作戦準備をなす。--もっとも開戦の決定は更にあらためてする。すなわち十二月初頭に自動的に開戦となるわけではない。

 第二、独伊との提携強化を図りかつ武力発動の直前に泰との間に軍事的緊張関係を樹立する。

 第三、対米交渉が十二月初頭までに成功せば作戦準備を停止する。

 というものであります。


 右深刻なる結論を1941年(昭和16年)11月2日午後五時より参謀総長、軍令部総長とともに内奏しました。その際、天皇陛下にはわれわれの上奏を聞き召されておられましたが、その間陛下の平和御愛好の御信念より来る御心痛が切々たるものあるごとくその御顔色の上に拝察しました。陛下はすべてを聴き終られ、しばらく沈痛な面持でお考えでありましたが、最後に陛下は

「日米交渉による局面打開の途を極力つくすもしかも達し得ずとなれば、日本は止むを得ず米英との開戦を決意しなければならぬのかね」

と深き御憂慮の御言葉を漏らされまして、更に

「事態いうごとくであれば、作戦準備を更に進むるは止むを得なからうが、何とか極力日米交渉の打開を計つてもらいたい」

との御言葉でありました。われわれは右の御言葉を拝し恐懼した事実を今日も鮮かに記憶しております。かくして十一月五日の御前会議開催の上更に審議をつくすべき御許しを得たのでありましたが、私は陛下の御憂慮を拝し更に熟考の結果、連絡会議、閣議、御前会議の審議のほかに、更に審議検討に手落ちなからして陛下のこの御神慮に答うる意味において十一月五日の御前会議に先立ち更に陸海軍合同の軍事参議官会議の開催を決意し、急遽その御許しを得て十一月四日に開催せらるるごとく取り運んだのでありました。この陸海軍合同の軍事参議官会議なるものは1903年(明治36年)軍事参議官制度の創設せられてより初めての事であります。


 会議中陛下におかれてはただ御聴取あらせられたのみで一言も御発言はありませんでした。



>>しばし陛下のご心痛へ思いを馳せる


「昭和天皇の無罪」


「昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著、文藝春秋)より



 寺崎英成・御用掛日記(寺崎英成資料による)


 
 昭和二十三年一月六日(火)


 
 食后鈴木次長 キーナン拝謁の件及プレゼントの催促等きく、松平が話の対手なる由 何も聞かなかった事にしてくれと聞ひ(ママ)諒承す。かゝる問題にタッチする事を欲せず



<注>
 寺崎日記は明確に記していないが、前年の十二月三十一日からこの年初にかけて、天皇の戦犯問題をめぐって、思いもかけない事件が起きていた。

 三十一日、東京裁判法廷でローガン弁護人の「天皇が平和を希望していることにたいし、木戸幸一が何か進言したり行動したりしたことがあるのか」という尋問に、被告東条英機があっさりと答えた。

「そういうことはない。日本国の臣民が陛下の御意思に反して、あれこれすることはない。いわんや文官においてをや」

 この東条の答えは、換言すれば、日本のすべての国家行動は、天皇の意思にもとづいて行われたことになる。天皇有罪説を主張する各国の検察陣は色めきたった。マッカーサーの指令のもとに、天皇免責ときめているキーナン主席検事はたちまちに窮地に立ち、東条証言を訂正させるべく、年が明けるとともに懸命に裏工作にあたった。

 キーナンから田中隆吉へ、田中から松平康昌へ、松平から被告木戸幸一へ、さらに東条へと、東条説得の依頼がリレーされた。東条は容易に承知しなかったが、マッカーサーおよびキーナンの意向を知らされて、説得にしぶしぶ同意した。

 そして一月六日、再開された法廷でキーナンと東条との間に、天皇の責任問題にかんして一問一答がかわされたのである。

「日本国民たるものは何人たりとも天皇の命令に従わないということは考えられない、とあなたはいいましたね」との問いに東条が答える。

「それは私の国民としての感情を申し上げた。天皇の責任とは別の問題です」

「では、米英蘭にたいして戦争を行え、行わなければならないというのは、裕仁天皇の意思であったか」

「違います。御意思とは反したかもしれませんが、とにかく私の進言、内閣・統帥部などの責任者の進言によって、シブシブ御同意になったのが事実です。しかして、平和愛好の御精神は最後の一瞬にいたるまで、陛下は御希望をもっておられました。・・・・・・」

 見事ともいえる東条の答弁であった。

 翌一月七日、キーナンから裁判状況の報告をうけたマッカーサーは、喜びを示していった。

「米国の占領政策は天皇を中心として進めることにする」

 天皇の無罪は、この日、最終的に決定したのである。

 こうした状況を背後において寺崎日記を読み進めると、「キーナン拝謁の件及びプレゼントの催促」、さらには「かゝる問題にタッチする事を欲せず」などの言葉の意味深長であることが、自然と理解される。



>>しばし昭和天皇無罪の裏工作に思いを馳せる


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