「男の生き方」40選
「男の生き方」40選(城山三郎編、文春文庫)より
国鉄に生きる 石田禮助
私は、明治40年、東京高商(一橋大学)を卒業して三井物産に入り、海外支店を転々としたが、そこでのシステムは、全体の統制を乱さぬ限りでは、部下の者にも最大の独断専行権を与えるという方式であった。権限の委譲は同時に責任感を生む。責任感は、つねに、その人に創意と工夫を要求する。
三井物産にいること30年、目はいや応なしに営利事業に向けられ、欲得の世界に埋没せざるを得なかったが、それでも私としては、同じ営利とはいえ、つねに自分の理想の光を求めたいと願っていた。当時の日本の課題は、人口、食糧問題の解決であったが、三井の仕事に専念することが、その一助となることと信じていたのである。
昭和16年の10月、私は藤山愛一郎、渋沢敬三、浅野良三等他数人の諸君に連絡して、一夕、工業倶楽部に集まった。日米関係が一触即発の危機にあることを知り、これを避ける方策はないものかと相談をもちかけた。戦うべきか、戦わざるべきかを決断する任は、われわれにはない。しかし、日米が戦火を交えれば、日本の敗戦は必定だった。そのことを念頭において開戦か否かを決定してもらうべく、東條さんに勧告しようということになった。
そのためには、われわれ若いものより、年寄りの方がよかろうと、私と浅野良三氏との二人で、当時東京ガスの社長をしていた井坂孝氏にその旨を頼んだ。氏は言下にこれに賛成して協力してくれたが、その後一週間経っても、十日経っても通知が来ない。聞いてみると、戦争はすでに避けられない段階にあり、いたずらに東條を刺戟しても無益であるというので財界の長老から諌止されたとのことであった。
それではというので、高松宮殿下にお願いして、陛下に直訴しようとまで考えたが、時すでに遅く、それも無益の業となってしまった。それからは狂気の時代がつづく。つむじ風に舞う紙屑同然、思う様翻弄されて終わった。
昭和18年、交易営団総裁に就任、戦争遂行に必要な物資の調達に乗り出した。戦争に突入した以上、国のために尽くすことが私にとっての最大の責務となった。営団総裁の席にあった三年間は、私利を滅した仕事であるという点で、非常に快いものであった。
冗談めかして、国鉄の仕事は奉仕にあり、これに余生を捧げることによって、天国行きのバスを神様から貰いたいと就任挨拶で述べたが、全身を打込めば、あるいはラクダの図体からせめて鼠ほどには小さくなって、針の穴をくぐれるであろうかとひそかに考えているのである。これが営利を仕事としていた私にとっての贖罪の気持ちなのである。
>>自らヤング・ソルジャーと称して、昭和38年、77歳で国鉄総裁に就任された「粗にして野だが卑ではない」の石田翁を思う