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「トランスクリティーク カントとマルクス」



「トランスクリティーク カントとマルクス」(柄谷行人著、批評空間)より
2001年10月5日/第1刷発行


 私がトランスクリティークと呼ぶものは、倫理性と政治経済学の領域の間、カント的批判とマルクス的批判の間のtranscoding、つまり、カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む企てである。私がなそうとしたのは、カントとマルクスに共通する「批判(批評)」の意味を取り戻すことである。いうまでもなく、「批判」とは相手を非難することではなく、吟味であり、むしろ自己吟味である。カントとマルクスを結びつける思想家は19世紀から少なくなかった。それは、一般にマルクス主義と呼ばれてる唯物論に欠けている主体的・倫理的な契機を見出そうとするものである。実際、カントはけっしてブルジョア的な哲学者ではなかった。道徳的=実践的とは、カントにとって、善悪の問題ではなくて、「自由」(自己原因的)であること、また他者を「自由」として扱うことを意味する。道徳法則とは、「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を、けっしてたんに手段としてのみ用いるのみならず、つねに同時に目的として用いるように行為せよ」ということである。だが、これはたんに抽象的なものではない。カントはそれを歴史的な社会の中で、漸進的に実現すべき課題として考えていた。それは具体的には、商業資本主義的な市民社会に対して、独立小生産者たちのアソシエーションを目指すものであったといってよい。もちろん、これはドイツでまだ産業資本主義が起こっていない時期に考えられた理念であって、商業資本の興隆とともに、独立小生産者たちが分解を余儀なくされたことはいうまでもない。しかし、カントの考えは、抽象的であるとはいえ、のちのユートピアン社会主義者やプルードンのようなアナーキストの考えを先取りするものであったといえる。だから、ヘルマン・コーヘンはカントを「ドイツ社会主義の真実の創始者」と呼んだのである。他者をたんに「手段」としてのみ扱うような資本制経済において、カントのいう「自由の王国」や「目的の国」がコミュニズムを意味することは明らかであり、逆に、コミュニズムはそのような道徳的な契機なしにありえない。歴史的には、カント派マルクス主義者は消されてしまったが、これは不当な扱いである。

 本書は、1992年から月間文芸誌「群像」に書き始めた連載エッセイにもとづくのだが、それは小説と並んで掲載されたのだ。つまり、私はこれをアカデミズムの閉域の中で書いたのではない。むしろ専門的な知識などもたない公衆に向かって書いたのである。その意味で、本書はアカデミックな書物ではない。学問的な書き手として、たとえば、マルクスやカントについてなら、その歴史的意義を認め、且つその限界を指摘し、自説を述べるというやり方がある。しかし、私はそんなことのためにわざわざ本を書く気がしない。私は称賛するため、あるいは称賛しうるもののためにしか書く気がしない。本書において、私はカントやマルクスについてちっぽけな粗捜しなど一切しなかった。あたうかぎり彼らを「可能性の中心」において読もうとした。しかし、実は、ある意味でこれ以上に彼らを批判した本もないと思っている。
 本書において、私は資本制=ネーション=ステートの三位一体的な構造について述べた。しかし、国家についてのみならず、ネーションについての考察が不十分であることを認める。また、農業や発展途上国の経済と革命の問題に関する考察が不十分であることも。さらに、本書では、私はその中に育ち且つ考えてきた日本の歴史的文脈にほとんど言及しなかった。実は、私はその考察の多くを、日本のマルクス主義の「伝統」とそれに対する批判的検討から得ている。私がいう「トランスクリティーク」はそれなしには成立しない。すなわち、日本と西洋諸国、あるいはアジア諸国の「差異」と、「横断的」移動の体験なしには。だが、そうした論考を省いたのは、別の本として書いているからである。私は、本書では、それらにほとんど触れることなく、カントとマルクスのテクストに即してのみ語ろうとしたのである。

2001年5月 於ニューヨーク


>>本書を通じて、カント派マルクス主義的観点から、資本制=ネーション=ステートの三位一体的な構造を考えてみたい

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