「時代を変革した男たち」
「時代を変革した男たち」(監修:会田雄次、PHP研究所)より
明智光秀
ときはいま あめのしたしる 若葉かな
天正十年(1582)、明智光秀は安土における徳川家康饗応の役を解かれ、備中出陣のため丹波亀山城へ帰った。その途中愛宕社に参り、翌朝西坊にて恋歌を催した。これは光秀の発句である。参会した一同、光秀の句に息をのんだと伝えられる。
明智光秀は土岐十三流の筆頭、美濃国可児郡の名族明智家の直系である。
斎藤義龍に攻められて敗死した明智光継の長男光綱の子として大永六年(1526)に生まれた。道三の正室小見の方は彼の叔母、信長の正室お濃とはいとこ同士にあたる。
光秀は明智家滅亡の後、諸国を流浪したが、土岐家につながる名流意識は消えなかった。
頼山陽が評するように、
「人となり文深、喜んで自ら修飾し、在芸を以て自ら高ぶる」
ふうがあったようである。
彼は信長に背く決心をしたとき、心のどこかで主家土岐家の再興を考えたのかもしれない。
とき(土岐)はいま あめのしたしる(天下領る)若葉かな
>>叔母が道三の正室、いとこが信長の正室の光秀の名流意識が本能寺の変を生んだに違いない