「アドラーを読む」--共同体感覚の諸相(岸見一郎著、アルテ)より
第八章 勇気づけ 教育と治療
他者に関心を向ける
治療は再教育であるというのがアドラーの考えだが、教育の目的は共同体感覚の育成にあるということの意味は、自分への関心を他者への関心に向け変えるという意味である。
仲間として対峙する
教育、育児、治療において、もっとも必要なことは、信頼を得ること、一人の人間、仲間として向き合うことである。アドラーは甘やかされるのになれている患者を甘やかせば、容易に患者の愛情を得ることはできるが、そのような関わり方を否定する。他方、患者を軽視すれば、敵意を招くことになる。甘やかすことでも、軽視することでも患者を援助することはできない。性的な意味合いを離れれば、フロイト派のいう転移は共同体感覚にすぎない(『人はなぜ神経症になるのか』P91)。権威者として向かい合ったり、依存と無責任の一に患者を置くのではなく、「一人の人間としての関心」を示さなければならない。
第九章 人生の意味を求めて
人生を楽しむ
この瞬間、遊びながら楽しむ。この瞬間に過去を手放し、今を生き切る。今しか幸福になれなのでである。「生きていて、よかった」。そう思える瞬間においては、過去も未来も存在しない。そのような瞬間に生は完成する。
「もしも子どもがすべての人にとって親しい友になり、[長じて]有益な仕事と幸福な結婚によって社会に貢献することができるのであれば、他者より劣っているとか、負けたとも感じないだろう。自分が好きな人に出会い、困難に対処する仕事に耐えることができ、自分は、この友好的な世界でくつろいでいる、と感じるだろう。また、『この世界は私の世界だ。待ったり、期待しないで、私が行動し作り出さないといけない』と感じるだろう。そして、現在という時は人類の歴史におけるただ一回きりの時であり、人類の歴史--過去、現在、そして未来の全体に属している、と十分確信するだろう。しかし、今こそ自分が創造的な課題を成就し、人間の発展に自ら貢献できる時だ、とも感じるだろう。たしかにこの世界には、悪、困難、偏見はある。しかし、それがわれわれの世界であり、その利点も不利な点もわれわれのものである。われわれはこの世界の中で働き、進歩していくのであり、誰かが自分の課題に適切な仕方で臆することなく立ち向かうならば、世界を改善するにあたって自分の役割を果たすことができることを希望していい」(What life coule mean to you P217,cf.P305)
アバディーンで忽然と亡くなったアドラーは、われわれを残して逝ったけれども、アドラーなら、こんなふうにいうのではないか、と次のプラトンの対篇中のソクラテスをアドラーに変えていつも思う。
「君たちは、もしぼくの言葉にしたがってくれるなら、ソクラテスのことはあまり気にしないで、それよりもずっと真理のほうを気にかけてくれたまえ。そしてぼくの説くところに、真実があると君たちに思えたら同意すればよし、もしそうでなければ、あらゆる議論をつくして反対してくれたまえ」(プラトン『パイドン』91c)
>>自分の関心を他人への関心に向け変えるという共同体感覚を失わずに今を生き切りたい
「アドラーを読む」--共同体感覚の諸相(岸見一郎著、アルテ)より
第六章 優越性の追求
普遍的な欲求としての優越性の追求
アドラーは、全体としての個人が、優れていること、優越性という目標を追求して行動する、と考える。 まったく無力な状態から脱したいと願うという意味で優れていようとすることは誰にでも見られる普遍的な欲求であり(『個人心理学講義』P68)、「すべての人を動機づけるのは優越性の追求であり、われわれの文化にわれわれがなすすべての貢献の源泉である。人間の生活の全体は、この活動の太い線に沿って、即ち、下から上へ、マイナスからプラスへ、敗北から勝利へと、進行する」。
この優越性の追求と対になるのが、劣等感である。これも誰にでもあり(『個人心理学講義』P50)、「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である(P68)。
この劣等感と優越性の追求の過度な状態のことは、それぞれ劣等コンプレックス、優越コンプレックスと呼ばれる。いずれのコンプレックスも、人生の有用でない面にあるという点で一致し、劣等コンプレックスがさらに高じると、神経症になる(P198)。優越コンプレックスは、優越性の追求の過度な状態であり、個人的な優越性の追求、あるいは、神経症的な優越性の追求といいかえられる。
正しい方向での優越性の追求
正しい方向の、共同体感覚を伴った優越性の追求
(1)他人を支配しない
(2)他人に依存しない(自立する)
(3)人生の課題を解決する
共同体感覚を持たない人は、自分を世界から切り離し、他人を敵と考える。当然、そのような敵である他人に貢献しようとはしない。
ここで注意すべきことは、共同体感覚は利己的な目標追求に拮抗することになる第二の要因、利他的な動因として考えられてはならないということである。むしろ、アドラーは共同体感覚を規範的な理想として優越性追求に方向性を与えるものとして考えている。
第七章 神経症について
神経症的ライフスタイル
神経症的ライフスタイルは次のようにまとめることができる。
(1)私には能力がない
(2)人々は私の敵である
この場合の能力というのは、人生の課題を解決することができ、他者に貢献できるということである。人々は私の敵であるということについては、アドラーは「敵国の中にいる」(敵国の中に住んでいる)という表現をしばしば使う(『個人心理学講義』P89、96、67)。
未来に向けた原因論
ただ症状だけを除去すればすむわけではない。根本的に自分や世界についての見方を変えていかなければならないのである。自分については人生の課題を解決する能力があるということを知ってほしい。世界については、この世界は、危険なところではないことを知ってほしい。決して、自分を中心にこの世界は回っているわけではないけれども、この世界の中に自分の居場所があることを知ってほしい。
>>共同体感覚を持って、他人を支配せず、他人に依存せず(自立して)、人生の課題を解決し続けて行きたい
「アドラーを読む」--共同体感覚の諸相(岸見一郎著、アルテ)より
第五章 甘やかされた子ども
愛情不足ではない
子ども時代の愛情不足が問題行動の原因であるとされることがあるが、今日問題なのは、愛情不足ではなく、親の側でいえば愛情過多、子どもの側でいえば、愛情飢餓である。アドラーは甘やかされた子どもについて次のようにいっている。
「(他方)母親があまりに度を越して子どもを甘やかし、態度、思考、行為、さらに言葉において協力することを子どもにとって余分なものにすれば、子どもはすぐに『パラサイト』(搾取者)になり、あらゆることを他の人から期待するようになる。常に注目の中心に立ちたいとせがみ、他のすべての人を自分に使えさせようと努める。自己中心的な傾向を示し、他者を抑圧し、常に他者に甘やかされ、与えることでなく取ることを自分の権利と見なす。このような訓練を一、二年も続ければ、共同体感覚と協力する傾向を発達するのを止めるのに十分である。
このような子どもたちは、ある時は他者に依存し、ある時は他者を抑圧したいと願うが、共同体感覚と協力を要求する世界からの克服できない反対にすぐにぶつかることになる。幻想を奪われると、甘やかされた子どもたちは、他者を責め、常に、人生において敵対的な原則だけを見出す。彼らの問いは悲観的なものである。『人生は何か意味を持っているのだろうか?』『なぜ私の隣人を愛するべきか?』と彼らはたずねる。もしも積極的な共同体理念の合法的要求に従うとしても、拒絶されたり、罰せられることを恐れるからにすぎない。交友、仕事、愛の課題に直面した時、共同体感覚の道を見出すことができない。ショックを受け、身体と心にその影響を感じる。敗北したと意識する前か後に退却する。しかし、いつも悪いことが起こったという意味のなじみの子どもじみた態度に固執する」
エディプス・コンプレックス
アドラーは隣人愛について次のようにいっている。
「宗教によって課せられた最重要な義務は常に『汝の隣人を愛せよ』だった。ここでもわれわれは、また違った形で、仲間への関心を増すという同じ努力を見る。このような努力の価値を今や科学的な見地から確かめることができるのも、興味深い。甘やかされた子どもはわれわれに『なぜ私は隣人を愛さなければならないのか?私の隣人は私を愛しているのだろうか?』とたずねるが、このようにたずねることで協力の訓練を欠いており、自分自身だけにしか関心を持っていないことを明らかにしている。
人生において最大の困難にあり、他者に最も大きな害を与えるのは、仲間に関心を持っていない人である。人間のあらゆる失敗が生じるのは、このような人の中からである。共同体感覚をそれぞれ独自の仕方で増やそうとする多くの宗教や宗派がある。私自身は、協力を最終目標と認めるすべての人間の努力に賛同する。互いに闘ったり、評価したり、過小評価する必要はない。われわれは誰も絶対的真理の所有に恵まれていないのであり、協力という最終目標に導く道は多くある」
「仲間」は、「隣人」とほとんど同じ意味で、アドラーは並べて使う。「なぜ私は隣人を愛さなければならないのか」とたずねる人は、協力の訓練を欠いていて、自分自身にしか関心がない、とアドラーはいっているが、その協力や自分ではなく他者に関心を持つことについて話すとよくこんな質問を受ける、という。これに対するアドラーの答えは、単純明快なものだった。「誰かが始めなければならない。他の人が協力的ではないとしても、それはあなたには関係がない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考ることなく」。
>>仲間に関心を持ち、共同体感覚と協力して行きたい
「アドラーを読む」--共同体感覚の諸相(岸見一郎著、アルテ)より
第四章 ライフスタイル
目標へ向けての動き
アドラーは目標へ向けての一貫した動き、人生の課題への個人の独自の対処の仕方をライフスタイルと呼んでいる。アドラーはライフスタイルということで、自分と世界についての見方という定義を与えているが、これでは静的に聞こえるので、目標への一貫した動きという動的な意味をも反映されるように、「運動の法則」という言葉も使っている。
個人の主体性
このようにアドラーは、人がどの方向に向かっているか、どのような目標を達成しようという見地から言動を見ていくのであり、このような見方を目的論と呼ぶことは既に見た通りだが、この目標、目的を人は自由意志で決定する。先の引用では、言葉が並んで使われている創造力と問題解決能力が自由意志に相当する言葉である。運動の法則を創造力が決めるのであって、人は外からの刺激や環境に機械的に反応するわけではない。
アドラーは次のようにいっている。
「同じ家族の子どもたちが同じ環境の中で育つと考えるのは、よくある間違いです。もちろん、同じ家庭のすべての人にとって共有するものはたくさんあります。しかし、それぞれの子どもの精神的な状況は独自なものであり、他の子どもの状況とは違っています」(『人はなぜ神経症になるのか』P117)
このようなライフスタイルの違いは、子ども自身がライフスタイルを決断して選んだと考えるのでなければ説明することはできない。ライフスタイルは普通には性格という言葉でいわれるものだが、なぜ性格という言葉を使わないかといえば、ライフスタイルは生まれつきのものではないということ、そして、もしもその気になるならば、ライフスタイルを自分で決断して選んだわけだから、再決断すればそれまでとは違うライフスタイルを選び直すことは可能だからである。
現代アドラー心理学ではこの決断は十歳前後にされたということになっているが、アドラーがいっているように、二歳には必ず認められ、遅くとも五歳には選び取られたとすれば、まだこの時期は必ずしも言葉の発達は十分ではなく、ライフスタイルは、抑圧された無意識というよりは、ただ端的に理解されていないだけというのが本当のところだろう。先の引用では、「子どもの人生の意味づけ--これが子どもの人生への態度の基礎であるが、言葉にもされないし、思想としても表現されることもない--は、子ども自身の作品である」といわれている。
後に長じて、本人にとってあまりに当たり前すぎて、ライフスタイルを通じてこの世界を見て、その中に生きているということすら知らなかったことに気づかされれば、無意識だった自分のライフスタイルが意識化されることになる。
ライフスタイルを変える
特定のライフスタイルを選択する決心をする前はいろいろなライフスタイルを試してきているはずなのである。それなのにいつのまにか自分のライフスタイルを固定してしまう。一度身につけたライフスタイルを変えることは容易ではない。不便であり、不自由でもあるので、可能ならこんなライフスタイルではなく別のライフスタイルであればいいのにと思っていてもである。今のなじみのライフスタイルであれば、次に何が起こるかを想像できるが、それまでとは違うライフスタイルを選べば、たちまち次に何が起こるか想像もつかなくなる。そのような現実を引き受けるのは勇気がいる。
そこで慣れ親しんだライフスタイルを変えないでおこうと決心を不断に行っているといっていい。この決心を止めさえすれば、ライフスタイルを変えることは可能である。
>>慣れ親しんだライフスタイルを変える勇気も時には必要だ
「アドラーを読む」--共同体感覚の諸相(岸見一郎著、アルテ)より
第一章 アドラー 人と著作
世界の変革
アドラーは当初社会主義に強い関心を持っていたが、政治の現実を目の当りにしてマルクス主義に失望したアドラーは、政治改革による人類の救済を断念した。以後、育児と教育による個人の変革を目指すようになったが、ウィーン精神分析学会で活動を共にし、後に学説上の違いを理由に離れていくようになったフロイトとは違って、当初とは形は変えたとはいえ、世界を変えるという実践的な目標を立てて、生涯にわたって研究よりは治療、育児、教育に専念し、世界各地で精力的な講演活動を行った。
第二章 他者の存在をめぐって
一人で生きているのではない
カウセリングのテーマはそのほとんどが対人関係にまつわるものである。アドラーは「人間の悩みはすべて対人関係の悩み」(『個人心理学講義』P26)であり、「究極的には、我々の人生において対人関係以外の問題はないように見える」といっている。人は一人で生きているのではなく、他の人の間で生きている。一人では「人間」になることはできない。「個人はただ社会的な(対人関係的な)文脈においてだけ個人となる」(『個人心理学講義P180』)のである。
後に見るように、アドラーは原因論ではなく目的論を採るが、行動や症状の目的は対人関係的なものである。後に見るように神経症も他の人との関係を離れて起きるのではない。
理想主義者アドラー
しかし、アドラーにとって、このような「万人の万人に対する闘い」は先に見たように、一つの世界観ではあっても、普遍的に妥当するものではなく、闘いや競争ではなくて協力こそが本来的なあり方だと考えるのである。アドラーは、後に見るように、人生は目標に向けての動きであり、「生きることは進化すること」であり、人が追求するべき目標は、永遠の相の下の人類全体の完成に導かれるような方向にあるのでなければならない、という。
第三章 目的論
目的論と原因論
ある動きが機械的、あるいは、因果的に捉えられるできごとではなく、「行為」であるといわれるためには、まず、行為に先立って「意図」を抱き、「目的」を立てなければならない。
このような行動の意図や目的は必ずしも自明ではなく、意識されていないことはある。しかし、究極的な目的としては「善」が目指されていることは説明すれば理解されるだろう。
ここでいわれる「善」はプラトンがいうように必ずしも道徳的な意味はなく、「ためになる」という意味である。ソクラテスが死刑の判決を受け、脱獄することなく、獄に留まって刑に服することを選択したのは、そうすることをソクラテスが善である、と判断したからであり、もしも、そうでなかったら、必要な手段を講じてさっさと脱獄していただろう。
また、衝動や本能は起動因である。アドラーは次のようにいっている。
「所有の心理学がしているように、何かの問題のある症状を不確かな遺伝の暗い領域や一般には適切ではないと見なされている環境に帰そうとしても個々のケースにとっては意味はない。たしかに子どもはこれらの影響を自由意志で受け入れ、消化し、それに応答しているのであるが。個人心理学は使用の心理学であり、これらの影響のすべてを創造的に身につけ、利用することを強調する。人生の様々な問題を変えることのできないものと見なし、それぞれのケースにおける一回性を認めない人は、容易に衝動や本能のような起動因を悪魔のように運命を左右するものと信じるようになる」
さらに、妹が生まれなかったら兄は問題のある子どもにならなかったかもしれないが、妹が生まれたからといって、必ず、兄が問題のある子どもになるとは限らない。石は必ず一定の方向に一定のスピードで落ちるが、心理的な「下降」においては厳密な因果律は問題にならない(『子どもの教育』P33)。
このように人が「善」を目指し、それを目的としているという観点から行動や症状などを捉える理解の仕方を「目的論」という。
アドラーは、プラトンでいえば真の原因ではない副原因、アリストテレスでいえば、目的因以外の原因である質量因、形相因、起動因を扱わなかったというわけではないが、主たる原因として目的を考えたのであり、他の原因は目的に従属している、と考えた。例えば、脳や臓器の生理生化学的な状態や変化は心身症の質量因ではあるが、目的論の立場では、これがただちに症状を引き起こすというわけではないのである。
症状ではなくても、我々に与えられたものをどう使うかが問題だといわれる時、感情も我々を支配するのではなく、ある目的のために使うということを意味する、「大切なことは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかだ」(『人はなぜ神経症になるのか』P10)とアドラーはいう。感情は人を支配しない。ある目的のために使っているにすぎない。激情、激怒、情熱を意味する英語のpassionは「被る」(patior)というラテン語が語源である。passionは受動的なもので、それに抵抗することはむずかしいと考えられている。しかし、「使用の心理学」といわれるアドラー心理学では、人が感情、激情に支配されるのではなく、それらを使うとされる。感情は意志によって現れたり、消えたりする。例えば、怒りは相手に要求を伝え、それを受け入れてもらうという目的のために創り出される。実際、相手は恐れをなして要求を受け入れるかもしれない。
以上見た目的論に対してプラトンなら副原因、アリストテレスなら質量因、形相因、起動因によって行動や症状などを説明する仕方を「原因論」と呼ぶ。目的は、先に見たように、各人の創造力によって創り出されるが、人間の行為は原因によってすべて説明し尽くされるわけではなく、人の意志は必ず原因をいわばすり抜けてしまう。自由意志で行為を選択したように見えても、実はそのような行為も本当の原因が知り尽くされていないだけで、すべては必然の中に解消されうると考えるには自由意志はあまり自明でヴィヴィッドであるように見える。
エピクロスは逸脱という概念を導入することによって、本来的な必然の動きの中に例外を認めたのだが、もともとは必然しかありえない中で、自由意志を救うために逸脱という現象を認めてみても、大系としての一貫性を考えるならば破綻としかいいようがない。
原因論の立場を採る限り、意志の自由の存在余地はない。逸脱の概念はいわば取ってつけたものであるという感は否めない。
科学としての個人心理学
アドラーは次のようにいっている。
「人がどこからくるかということしか知らなければ、どんな行動が人を特徴づけるか知ることは決してない。しかし、どこに向かっていくかを知れば、どちらに踏み出すか、目標に向けてどんな行動をするか予言することができる」
「どこから」ではなく「どこへ」を見ていくことが、「目的論」であり、人がどこへ向かうかがわかれば、人の行動を予言することができるのである。
アドラーは以上見てきた目的論や、人間を分割できない全体として捉える全体論を採ったので、フロイトとは決定的に違ってしまった。その違いはフロイトから訣別せざるをえないほど決定的なものであり、両者が相容れる余地はなかった。
>>「どこから」という原因論でなく、「どこへ」という目的論の立場を採って、意志の自由を存在させ続けて行きたい
「嫌われる勇気」自己啓発の源流「アドラー」の教え(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
第五夜 「いま、ここ」を真剣に生きる
交換不能な「このわたし」をありのままに受け入れる自己受容。そして対人関係の基礎に懐疑を置かず、無条件の信頼をおくべきだとする他者信頼。
行動面の目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
この行動を支える心理面の目標
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識
哲人 こちらのメモも、先ほどの話と重ね合わせればより深く理解できるはずです。
つまり、①にある「自立すること」と「わたしには能力がある、という意識」は、自己受容に関する話ですね。一方、②にある「社会と調和して暮らせること」と「人々はわたしの仲間である、という意識」は、他者信頼につながり、他者貢献につながっていく。
哲人の主張をまとめると、こういうことだった。人は「わたしは誰かの役に立てている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる。しかしそこでの貢献は、目に見えるかたちでなくてもかまわない。誰かの役に立てているという主観的な感覚、つまり「貢献感」があればそれでいい。そして哲人はこう結論づける。すなわち、幸福とは「貢献感」のことなのだ、と。
人生とは連続する刹那である
哲人 すなわち人生とは、連続する刹那なのです。
そう。「いま」という刹那の連続です。われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。
計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。
「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ
哲人 人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。
人生最大の嘘
哲人 人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。あなたはこれまで、「いま、ここ」から目を背け、ありもしない過去と未来ばかりに光を当ててこられた。自分の人生に、かけがえのない刹那に、大いなる嘘をついてこられた。
過去も未来も存在しないのですから、いまの話をしましょう。決めるのは、昨日でも明日でもありません。「いま、ここ」です。
無意味な人生に「意味」を与えよ
哲人 そこでアドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、こう続けています。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。
わたしは長年アドラーの思想と共に生きてきて、ひとつ気がついたことがあります。
それは「ひとりの力は大きい」、いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということです。
つまり、「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、ということです。アドラー心理学を知ったわたしの目に映る世界は、もはやかつての世界ではありません。
>>「いま、ここ」で「わたし」が始めなければいけない。
「嫌われる勇気」自己啓発の源流「アドラー」の教え(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
第四夜 世界の中心はどこにあるか
対人関係のゴールは「共同体感覚」
哲人 ここでもう一歩踏み込んだところを考えてください。もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たち--つまり共同体--のために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。
哲人 自己への執着(self interest)を、他者への感心(social interest)に切り替えていくのです。
叱ってはいけない、ほめてもいけない
哲人 ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。夕食の準備を手伝ってくれた子どもに対して「お手伝い、えらいわね」とほめる母親がいる。しかし、夫が同じことをした場合には、さすがに「お手伝い、えらいわね」とはいわないでしょう。
哲人 誰かにほめられたいと願うこと。あるいは逆に、他者をほめてやろうとすること。これは対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠です。あなたにしても、縦の関係に生きているからこそ、ほめてもらいたいと思っている。アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。ある意味ここは、アドラー心理学の根本原理だといえるでしょう。
自分には価値があると思えるために
哲人 たとえば、どうすれば人は“勇気”を持つことができるのか?アドラーの見解はこうです。「人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる」。
哲人 いたってシンプルです。人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。これがアドラー心理学の答えになります。
共同体、つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。いままで議論してきた「共同体感覚」や「勇気づけ」の話も、すべてはここにつながります。
>>確かに、「横の関係」を築きながら、自分が誰かの役に立っていると思えたら、自らの価値を実感できるだろう。
「嫌われる勇気」自己啓発の源流「アドラー」の教え(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
第三夜 他者の課題を切り捨てる
「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない
哲人 あなたは大きな勘違いをしている。いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
青年 なんですって?
哲人 あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです。
哲人 ニヒリズムではありません。むしろ逆です。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。
青年 どういう意味です?
哲人 承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。
そして、覚えておいてください。もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。
「課題の分離」とはなにか
哲人 勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
青年 分離して、どうするのです?
哲人 他者の課題には踏み込まない。それだけです。
青年 ・・・・・・それだけ、ですか?
哲人 およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと--あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること--によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。
哲人 誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」と考えてください。
ほんとうの自由とはなにか
哲人 何度もくり返してきたように、アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。つまりわれわれは、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。ここまで考えれば、「自由とはなにか?」の結論は見えたも同然でしょう。
青年 なんですか?
哲人 すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。
青年 な、なんですって?
哲人 あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。
哲人 きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないです。
>>他者から嫌われることを怖れず、自分の生き方を貫いて行きたい
「嫌われる勇気」自己啓発の源流「アドラー」の教え(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
第二夜 すべての悩みは対人関係
すべての悩みは「対人関係の悩み」である
青年 しかしですよ、先ほどの言葉は、言い換えるなら「宇宙のなかにただひとりで生きることができれば、悩みはなくなる」となるわけですよね?
哲人 理屈の上ではそうなります。なにしろアドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とまで断言しているのですから。
哲人 個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しません。どんな種類の悩みであれ、そこにはかならず他者の影が介在しています。
>>対人関係を怖れるあまり、自分のことを嫌いになり、その結果、対人関係を避けることがないようにしたい。
「嫌われる勇気」自己啓発の源流「アドラー」の教え(岸見一郎、古賀史健著、ダイヤモンド社)より
第一夜 トラウマを否定せよ
トラウマは、存在しない
哲人 アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。ここは非常に新しく、画期的なところです。たしかにフロイト的なトラウマの議論は、興味深いものでしょう。心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考る。人生を大きな「物語」としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックな展開には心をとらえて放さない魅力があります。
しかし、アドラーはトラウマの議論を否定するなかで、こう語っています。「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗でもない。われわれは自分の経験によるショック--いわゆるトラウマ--に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」と。
人は怒りを捏造する
青年 じゃあ先生はわたしの怒りを、どう説明するおつもりです?
哲人 簡単です。あなたは「怒りに駆られて、大声を出した」のではない。ひとえに「大声を出すために、怒った」のです。つまり、大声を出すという目的をかなえるために、怒りの感情をつくりあげたのです。
青年 なんですって?
哲人 あなたには大声を出す、という目的が先にあった。すなわち、大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことをきかせたかった。その手段として、怒りという感情を捏造したのです。
>>「人は過去の原因に突き動かされるのではなく、自らの定めた目的に向かって動いていく」という考えは新鮮だ。
「読書について」(小林秀雄著、中央公論新社)より
読書の工夫
文学青年或いは文学少女という言葉がある。今日文学と言えば、小説の異名とも言えるほど、小説は盛んに書かれ読まれているが、小説というものを享楽しているものの大部分が、若い人達である事は確かである。例えば、トルストイの「アンナ・カレニナ」という大小説を若い人で読んだ人は沢山あるだろう。併し年とってから又読み返すという人は、非常に少いであろう。処が、トルストイは、勿論若い人に読ませる為に、あの小説を書いたのではない。従って若い人達が、あれを読んであの小説のほんとうの面白さが理解出来る筈はないのである。
無論どんな種類の芸術作品でも、人生と関係のないものはないわけだが、小説というものは人生の直ぐ隣にあるという事を、広津和郎氏が書いていたのを読んだ事があるが、そうも言えると思う。世間知らずの画家にも美しい画は描け、別に人間通でなくても、美しい音楽の書ける作曲家もあるだろうが、小説というものは、何んと言っても世間の観察、人間の観察が土台となっているもので、世間を知らない小説家なぞあるものではない。
そういう事を考えると、世間を知らぬ若い人達にとって小説というものほど、苦手な芸術はないわけである。いい小説は、世間を知り、人間を知るにつれて、次第にその奥の方の面白みを明かす様な性質を必ず持っているからだ。具体的な例を挙げれば、例えば石川達三氏の「結婚の生態」という小説は、世間を知らない人にでもわかる程度の面白さだけしかないが、徳田秋声氏の「仮装人物」という小説は、世間を知らない人には全く解らぬ面白さを隠している。
前に、いい小説には、実際の世間をよく知った人でなければ、解らぬ面白さがあるものだ、と書いたが、それなら、世間を知って小説を詰らなくなる理由がどこにあろうか。要するに、小説の読み方が拙い為に、世間を知ったら忽ち破れて了う様な夢想しか小説のうちに読みとれずに済んで了うからである。
立派な作家は、世間の醜さも残酷さもよく知っている。そして世間の醜さも残酷さもよく知っている様な読者の心さえ感動させようとしている。これが作家の希いであり、夢想である。こういう夢想が、結婚した為に嘗て恋愛小説から得ていた夢想が、今は馬鹿々々しくなったという類の夢想とは、凡そ異るのは言うまでもなかろう。だが、一方から考えると、こういう大小説家の夢想を、しっかりと抱き、これを実現するという様な事は僕等には出来ないとしても、こういう夢想の在る事を知り、これに幾分か与する事は、誰にでも出来るのである。大小説の味読によって、これに与る事は出来るのである。そこに読書の工夫がある。
大小説家の夢想といったが、大小説家の思想と言ってもよかったのである。思想というと直ぐ何々主義という様な、理論的なものを思いたがるが、そういうものは思想というより寧ろ知識というべきもので、ほんとうに生きた思想をそういう読んで覚えられる知識と誤解しなければ、上述の様な小説家の夢想こそ小説家の思想に他ならぬと言ってもよいのだ。
高遠な思想も、無邪気な夢想と異なった材料から出来上がっているわけではないのだ。小説の読者は、小説から得る無邪気な夢想を、工夫によって次第に鍛錬し、豊富にし、これを思想と呼べるものにまで、育て上げねばならない。育つにつれて、大小説は、次第にその深い思想を読者に明かすであろう。
これは小説ばかりではない、いろいろな思想の書物についても言える事だ。読書というものは、こちらが頭を空にしていれば、向うでそれを充たしてくれるというものではない。読書も亦実人生の経験と同じく真実な経験である。絶えず書物というものに読者の心が目覚めて対していなければ、実人生の経験から得る処がない様に、書物からも得る処はない。その意味で小説を創るのは小説の作者ばかりではない。読者も又小説を読む事で、自分の力で作家の創る処に協力するのである。この協力感の自覚こそ読書のほんとうの楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべきだと思う。いろいろな思想を本で学ぶという事も、同じ事で、自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと努めるべきで、書いてある思想によって自分を失う事が、思想を学ぶ事ではない。恋愛小説により、自分を失い他人の恋愛を装う術を覚える様に、他人の思想を装う術を覚えては駄目だと思う。
>>小説から得る無邪気な夢想を思想と呼べるものにまで育て上げられるよう努めたい
「読書について」(小林秀雄著、中央公論新社)より
作家志願者への助言
扨て、引っ込みがつき兼ねるから、私も私の助言を二三述べよう。これは読むことに関する助言だ、書くことに関する助言は私の手にあまる、助言となるより前に自戒になり兼ねない。いうまでもなく平凡な助言である。尤も平凡だから見事だとは限らない。併し断って置くが、そのなかで私の実行しなかったものは一つもない。或いは今も実行しているものだ。無論大変有益である。
1 つねに第一流作品のみを読め
質屋の主人が小僧の鑑賞眼教育に、先ず一流品ばかりを毎日見せることから始めるのを法とする、ということを何かで読んだが、いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。惟うに私達の眼の天性である。この天性を文学鑑賞上にも出来るだけ利用しないのは愚だと考える。こうして育まれる直観的な尺度こそ後年一番ものをいう。
2 一流作品は例外なく難解なものと知れ
一流作品は文学志望者の為に書かれたものではない。近づき難い天才の境地は兎も角、少なくとも成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。あわてて覗こうとしても始まりはしない。幸か不幸か、私達は同じ事実、同じ理屈を理解するのに、登ってみなくては決して見透しのつかぬ無数の段階をもっている。だから大多数の人が、名作に接して、或る段階に立ってこれを理解したに過ぎぬ癖に、何も彼もわかった顔をしたがる。再読して何が見つかるか一向気に掛けない。そこでこういえる。一流作品は難解だ、しかし難解だというそのことがまたあんまりわかりやすくはない、と。
3 一流作品の影響を恐れるな
世間で影響を受けたとか受けないとかいっているような生まやさしい事情に影響の真意はない。そういうものは、単なる多少は複雑な模倣の問題に過ぎぬ。真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。心を掻き廻されて手も足も出なくなることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない。ただ小ざかしい批評などして名作の前を素通りする。
4 若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め
或る名作家の作品全部を読む、彼の書簡、彼の日記の隅々までさぐる。そして初めて私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。実に何んでも彼でもやって来た人だ、知っていた人だと合点するのだ。世間が彼にはったレッテル乃至は凡庸な文学史家が解き明かす彼の性格とは、似ても似つかぬ豊富な人間に私達は出会うのだ。
5 小説を小説だと思って読むな
文学志望者の最大の弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。当人そんなことには気がつかないから、自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学が出来るのだと信じている。事実は全く反対なのだ、文学に何んら患わされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。巧いとか拙いとかいっている。何派だとか何主義だとかいっている。いつまでたっても小説というものの正体がわからない。
>>早く一人の名作家を択んで全集を読むようにしたい
「舟を編む」(三浦しをん著、光文社)より
「なぜ、新しい辞書の名を『大渡海』にしようとしているか、わかるか」
「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」
魂の根幹を吐露する思いで、荒木は告げた。「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」
「海を渡るにふさわしい舟を編む」
松本先生が静かに言った。「その思いをこめて、荒木君とわたしとで名づけました」
>>「舟を編む」という題名でなかったら、「舟を編む」は生まれなかったに違いない
「太平洋戦争 最後の証言」(門田隆将著、小学館)より
第六章 二十万人戦死「ルソン島」の殺戮現場
その時、廣枝は、まわりにいる部下たちに向かってこう言った。
「いいか。お前たちは生きろ。お前たちは台湾人だ。故郷には、お前たちの帰りを待っているお父さんやお母さん、家族がいる。俺は日本人だ。俺だけが責任を取ればいい。どんなことをしても、お前たちは必ず生きて台湾に帰るんだ」
そう言うと、廣枝は揚坤芳という部下の一人に形見として軍刀を渡した。捕虜になることなど絶対に許されなかった中で、廣枝は捕虜になっても「生きて帰ること」を部下たちに“命令”したのである。
「そのうえで廣枝隊長は、拳銃で自決をされました。廣枝隊長の最後の命令を聞いた揚坤芳たちが私にそのことを伝えてくれました。私たちが米軍に投降したのは、その日の夕刻のことです」
昭和20年2月23日、イントラムロスが陥落し、3月3日、マニラは米軍に、完全制圧された。
>>究極の環境下で、ベストな選択ができるよう、日頃から精進し続けたい
「文・堺雅人② すこやかな日々」(堺雅人著、文藝春秋)より
モゴモゴばなし
坪内稔典さんのエッセイ
『俳句的人間 短歌的人間』(岩波書店)は、日本人を
長嶋茂雄-野村克也
のふたつのタイプに分類している。主観的で情熱的、ときに自己陶酔的な長嶋さんタイプが「短歌的人間」。客観的で冷静、自己をも茶化す道化的精神をもっている野村さんタイプが「俳句的人間」というわけだ。ネンテンさんはまた、
森鴎外-夏目漱石
という文豪の名もあげている。この場合、鴎外が短歌タイプ、漱石が俳句タイプだ。対照的なふたりの文豪のちがい、そして、短歌と俳句というふたつのジャンルの特徴をみていくうち、近代文学のなかの日本が、すこしづつ姿をあらわす。とてもおもしろい詩歌論だ。ネンテンさんはほかに
大江健三郎-井上ひさし
曽野綾子-田辺聖子
なんて例もあげているが、俳優にあてはめてもたのしそうである。
「堺雅人は八対二のわりあいで俳句俳優」
なんてぐあいに。
この対比は、ひとや文学にとどまらず、もっとひろくつかえるかもしれない。
たとえば僕は、大抵のセリフまわしは
うたう-つきさす
の、ふたつの動詞であらわせるんじゃないかとおもっているのだが、この対比も
短歌-俳句
に似ていないだろうか。ときと場合によるけれど、僕はここぞ、というセリフは八対二くらいの割合で「あいてに突き刺す」ような気がする。こおで「うたいあげるセリフまわし」をえらぶ役者もいるから、堺雅人はやっぱり八対二の俳句型なのだ。
>>私は七対三くらいの割合で短歌的人間のような気がする
「文・堺雅人② すこやかな日々」(堺雅人著、文藝春秋)より
続、読書感想文
『1Q84』(村上春樹著、新潮社)で読書感想文をかいてみた。感想文についてかんがえていたら、自分でもかきたくなったのだ。
これから小説をよむかたは注意されたほうがいいかもしれない。
『1Q84』は、過去のいろんな村上作品をおもいださせる小説だ。
はじめは無関係にみえるチャプターが徐々にからみあっていく様子は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』みたいだし、でてくる宗教団体からは『アンダーグラウンド』などのルポルタージュをおもいだす。リトルピープルは、まるで『TVピープル』だ。物語の冒頭、ラジオからクラシック音楽がながれている。『ねじまき鳥クロニクル』はどうだっただろう?主人公の天吾はたくましい体つきをしているが、『海辺のカフカ』も筋肉をきたえていたはずだ。その天吾の母のイメージは「白いスリップ」である。『羊をめぐる冒険』にも妻のスリップがでてきた気がする。パラレルワールドをえがいた物語もあった。『納屋を焼く』だ。
もちろんストーリーにそって物語をたのしんでいる。けれども同時に、別のたくさんの物語もおもいだすのだ。まるで脚注のたくさんついた本文をよんでいるみたいに。あるいは複数のモニターで、一斉に数本の映画をみているみたいに。
こんな読書ははじめてのことだ。もしかするとこの小説は作者の集大成かもしれない。すくなくとも僕は、そうおもいたがっているようである。これまでの全ての要素がこのものがたりにながれこんでいる、と。
僕がはじめて読んだ村上作品『ノルウェイの森』のなかには、
「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している。」
という一節がある。太字でかかれたその文章は印象的で、いまでも目にやきついているくらいだ。
シロウト解釈だけれど、このテーマは、ほとんどの村上作品につうじるものではないだろうか。たとえば、この一文は、その「死と生」を
「狂気と正気」「混沌と秩序」「敵と味方」
なんてコトバにおきかえて、そのまま別の作品のテーマにならないか。この『1Q84』のなかにも、さまざまな対立がちりばめられている。大小の反対コトバは、ぶつかりあい、とけあって、一見すると収拾がつかないくらいの、もろく、ゆたかな世界をつくりあげている。
「あちら」と「こちら」は、本当は簡単にいれかわる。ふたつを分ける決定的なものなんて存在しない。この世界はそうしたあやういものだ。けれども、僕が「こちら」にたっている以上、全力でそこにとどまりつづけなければならない--村上作品(とくに長編小説)の登場人物は、いつもそんなことをかんがえ、「こちら側」にいることの責任をとろうとしているように僕にはおもえる。あるときは恋人として。またフリーランスの文筆家として、あるいは夫として。そしておそらく今度は、父として。
「BOOK3」までの三冊を一気によんだのは、ちょうど先日おわった刑事ドラマ『ジョーカー』がはじまるころだった。そのせいだろうか、撮影しているあいだ
「悪は正義の対局としてではなく、その一部として存在している」
とでもいうような、さきほどの一節の変形が、いつもアタマの片隅にあった気がする。
『ノルウェイの森』をよんだのは、十五のときだ。もしかすると僕のアタマのなかには、一連の作品からおそわった、なんらかの価値観があるのかもしれない。そうおもうと、ちょっとうれしい。自分の演技が世界的な作家の影響をうけているなんて、なんだか格好いいではないか。
ひとつの集大成をつくりあげた(と僕が勝手におもっている)村上春樹さんの作品世界。今後どのような変遷をたどるのか、こころから僕はたのしみにしている。もちろん、いち読者として。そして少々、いち俳優としても。
>>俳優堺雅人の中には村上作品の価値観があるらしい
「文・堺雅人」(堺雅人著、産経新聞社)より
訛
上京からひと月たって、僕は大学の演劇研究会に入会した。自分では標準アクセントでしゃべっているつもりだったが、どうやらひどく訛っていたらしく、よく先輩にしかられた。サークルでは「滑舌表」という早口コトバの一覧表がわたされたのだが、僕は、
「お綾や親におあやまり お綾やは八百屋におあやまりとお言い」
とか
「抜きにくい釘 引き抜きにくい釘 引き抜きにくい釘抜き」
などといった早口コトバで、標準アクセントをひとつひとつ覚えていった。外国語の例文をかたっぱしから暗記していくようなものである。
そのあいだ、ほかの寮生とはほとんど口をきかなかった。稽古や作業でいそがしいこともあったのだが、意識的に宮崎アクセントを避けていたのだとおもう。深夜にこっそり帰ってきて、翌日だまって出てゆく生活がしばらくつづき、二年後、市ヶ谷のリトルミヤザキをあとにした。
いまでは僕は、宮崎コトバをはなせない。しゃべろうとしても、ひどくわざとらしいアクセントになる。「ここぞ」という時以外、はなせなくなってしまったのだ。
あのとき寮でとびかっていたコトバは、きっと豊かなものだったにちがいない。ごちそうを食べたときの「うまい」も、うれしいときの「ありがとう」も情感があふれていただろう。うまれてからずっと使ってきたコトバだし、そのアクセントを通して出会ってきた、たくさんのヒトビトのコトバでもある。
>>故郷のコトバをはなせなくなるのは寂しいことのように思う
「小林秀雄 学生との対話」(国民文化研究会・新潮社編、新潮社)より
問うことと答えること 池田雅延
小林秀雄氏は、批評家です。1902年(明治35)、東京に生れ、1983年(昭和58)に世を去りましたが、その80年の生涯において、「ドストエフスキイの生活」「西行」「実朝」「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「本居宣長」などの文章を書き、日本における近代批評の創始者、確立者として大きな足跡を残しました。
この本には、九州でひらかれた「全国学生青年合宿教室」において、小林秀雄氏が行った講義と、講義に続いて行われた質疑応答の模様を文字にして収めました。これらの講義も応答も、すべて「私たちはどう生きていけばよいか」に貫かれています。が、読者には、その発言内容はもちろんのことですが、小林秀雄の講義を聴くため全国から集まった若者たちに、小林自身はどういう思いで接していたか、そこをぜひとも読み取って下さるようお願いします。
小林秀雄は、ドストエフスキーや西行、実朝、モーツァルトやゴッホ、本居宣長たちを、自分を写す鏡にしたと先に言いましたが、彼らを鏡にしたとは、同時に彼等に質問することでもあったのです。小林自身は、人生いかに生きるべきかの答えを、頭を使ってはいっさい出そうとせず、ドストエフスキーや本居宣長たちと何年も向きあい、その時その時の彼らの気持ちを推しはかり、彼らの身になって問いかけ問いかけするうちに、おのずと胸に浮かんできた「こうかな・・・・・・」「こうらしいな・・・・・・」という思いを、すなわち、自分のなかで自然に発芽し熟成した仮説を文章にしたのです。九州で若者たちに呼びかけた、「君たち、質問してくれよ」は、そういう小林秀雄の批評家としての一貫した姿勢に発していたのです。
しかし、質問するということは、決してやさしいことではありません。昭和49年の講義「信ずることと考えること」に続いた質問時間の冒頭で、小林秀雄はこう言っています、--質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのです。ベルグソンもそう言っています。僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる・・・・・・。「信ずることと考えること」の約十年前、昭和40年63歳の夏、世界的数学者、岡潔と京都で行った対談「人間の建設」では、こう言っています。--ベルグソンは若いころにこういうことを言っています。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば、即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろうと思いましたね。いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている・・・・・・(「小林秀雄全作品」25)。ベルグソンは、小林秀雄が高校時代から傾倒しつづけた哲学者です。
この、物を考えている人たちが、「答えばかり出そうとあせっている」さまは、現代にかぎったことではありません。「本居宣長補記Ⅰ」で小林秀雄はさらにこう言います、--先生の問いに正しく答えるとは、先生が予め隠して置いた答えを見附け出す事をでない。藤樹に言わせれば、そういう事ばかりやっていて、「活溌融通の心」を失って了ったのが、「今時はやる俗学」なのであった。取戻さなければならないのは、問いの発明であって、正しい答えなどではない・・・・・・(同28)。「藤樹」は江戸時代の儒学者、中江藤樹で、本居宣長らが後に続いた近世の学問を最初に切りひらいた人です。
この世に生れて、人間社会の一員として生きていくためには、子供のうちに人間社会の決りごとを叩きこむのが教育であるとすれば、小学校、中学校までは親や先生に正解正解とうるさく言われるのもやむをえないでしょう。このあたりについては、小林秀雄も教育は訓練だと、物理学者湯川秀樹との対談で言っています(同16)。しかし、高校生、大学生となるにつれて、ましてや社会に出てから大事なことは、一途に正解を探すことではありません。そもそもこの世には、誰の眼にも正解とされていることなどわずかしかないとは、大人になってからの私たちがさんざん思い知らされてきたことです。
誰のものでもない自分の人生を、溌剌と独創的に生きていくために必要なことは、答えを手にすることではない、問いを発明することだ、自分自身で人生に上手に質問することだ、小林秀雄はそう言います。そして、上手に質問するにはどうすればよいか、小林秀雄はそれも具体的に教えています。ひとことでいえば、上手な質問か下手な質問かは、質問する当人にとってそれが切実であるかそうでないかです。ジャーナリズムの扇動や流行に乗って、右か左か、賛成か反対かと世論調査のように訊く、これがいちばん下手な質問です、小林秀雄が最も嫌った質問です。
(元新潮社編集者)
>>人生いかに生きるべきかを自分に質問し続けて行きたい
「小林秀雄 学生との対話」(国民文化研究会・新潮社編、新潮社)より
講義 文学の雑感
歴史を知るというのは、みな現在のことです。現在の諸君のことです。古いものは全く存在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇って来る。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の働きなのです。こんな簡単なことを、今の歴史家はみんな忘れているのです。「歴史はすべて現代史である」とクローチェが言ったのは本当のことなのです。なぜなら、諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではないからです。それは史料の中にあるのではない。諸君の心の中にあるのだから、歴史をよく知るという事は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じことなのです。
諸君にとって子供の時代は諸君の歴史ではないか。日記という史料によって、君は君の幼年時代を調べてみたまえ。俺は十歳の子供の時に、こんな事を言い、こんな事を書いている。それは諸君にとって史料でしょう。その時諸君は歴史家になるでしょう。十歳の時の自分の日記から自己を知るでしょう。だから、歴史という学問は自己を知るための一つの手段なのです。
もう一つ重要なことは、歴史は決して自然ではないということです。現代ではこの点の混同が非常に多いのです。僕らは生物として、肉体的には随分自然を背負っています。しかし、眠くなった時に寝たり、食いたい時に食ったりすることは、歴史の主題にはならない。それは自然のことだからです。だから、本当の歴史家は、研究そのものが常に人間の思想、人間の精神に向けられます。人間の精神が対象なら、それは言葉と離すことはできないでしょう。宣長は『古事記伝』の中で、「事」と「意」と「言」、この三つは相称うものであると書いています。歴史というものは、そういうものです。
歴史上の出来事というものは、いつでも個性的なものでしょう。諸君の個性は、どの人もみな違うのではないか。けれども物理学者にとっては、諸君の個性などないではないか。生物学者が諸君を観察すれば、諸君の個性は消え、人類という腫が現れるでしょう。人間はみな同じことをやっていると言う。それは抽象的なことだが、そうしなければ科学は発達しないのです。だから、科学というものは個性をどうすることもできない。しかし、僕らの本当の経験というものは、常に個性に密着しているではないか。個性に密着しても、僕は生物たる事を止めやしない。だから、科学よりも歴史の方がもとです。歴史の中には、抽象的なものも入って来るし、自然も入って来ます。しっかしそれは歴史の一部です。
(昭和45年8月9日、於:長崎県雲仙)
>>自分の歴史を改めて知り直したい
「小林秀雄 学生との対話」(国民文化研究会・新潮社編、新潮社)より
講義 「常識について」後の学生の対話
家庭の教育でも、本末が転倒しているようです。子供に対する外的な影響ばかりを、やかましく言う。テレビの影響だとか、雑誌の影響だとかが、しきりに論じられている。だが、子供が一番深く影響を受けるのは、家庭の精神的、感情的雰囲気というものでしょう。親が本当に子供に深い愛情を持っていれれば、子供は直ちにこれに感応して、現実的な態度を取るものです。親の愛情をきちんと受け止める能力を、子供は完全に備えている。当り前のことだが、こんな当り前なことが、存外忘れられているのです。
もう一つ悪いのはジャーナリズムの趣味です。戦後の青年はどうだとか、いまの青年はどうだとか、騒ぎ立て過ぎるのではないですか。戦前の人と戦後の人の間の思想の食い違いというようなことなど、お互いに捨てるのがいいのです。これは一種の猜疑心です。
いくら外面的なことが変わっても、少し深い問題とか、微妙な問題に入ってみると、戦前も戦後もない大問題が人生にはたくさんあります。いまの世の中がむずかしくなったとか何とかいうけれども、敏感で利口な人には、人生がやさしかったことなど一度もありません。もっと長い時間というものを、常に念頭においておくことは大事なことです。
(昭和39年8月9日 於:鹿児島県桜島)
>>子供に対する外的な影響を排除し、深い愛情だけで子供が育つ世の中を作り上げてみたい
「小林秀雄 学生との対話」(国民文化研究会・新潮社編、新潮社)より
講義 信ずることと知ること
知るということも、熟知という言葉があるでしょう。諸君は知っているつもりでも、本当には知らないのです。本当に知るためには、浅薄な観察では駄目でしょう。あるものを観察するとか、解釈するとかいう時には一つの観点というものがいりますね。ある観点に立って、そこから観察する。しかし本当に知るためには、そんな観点などみないらなくならなければ駄目です。「人間は考える葦である」というパスカルの言葉について、僕は昔書いたことがあります。おそらくパスカルの真意は、人間はいろいろのことを考える事の出来る能力を持っているが、葦の如く弱いものなのだという意味ではないでしょう。むしろ、人間は葦の如く弱い存在だが、そういう人間の分際というものを忘れずにものを考えなければならぬというのが真意ではないか。これは勝手な僕の解釈ですが。人間は抽象的に考えるという時には、人間であることをやめます。自分の感情に従うという弱い状態を忘れます。けれども、人間が人間の分際をそのまま持って相手を考えるという時には、その人と交わるということになりはしないか。相手の心の中に飛び込むのです。子を見ること親に如かずというでしょう。親は子と長い間つき合っているから、子供について知っているのです。母親は子供を見るのに観点というものを持っていないでしょう。科学的観点に立って、心理学的観点に立って、子供を観察したりはしません。子供の内部に入りこむ直観を重ねるのです。精神感応などとやかましいことを言うけれども、僕らはみな感応しているのです。人間が分かるなどというのは、一目で分かることがあるのです。千里眼です。
<<小林秀雄の手が加えられた後>>
一口に科学というけれども、科学の発明をした人とか発見をした人はみんな、長い時間をかけて、対象を本当の意味で考えてきたのです。自分の実験している対象と、深く親身に付き合い、交わってきた。君は何かを知っているつもりでいるかもしれないが、本当には知らないのだよ。本当に知るためには、浅薄な観察では駄目です。ある対象を観察するとか解釈する時は、一つの観点というものが必要で、その観点に立って観察する、解釈する、だが、本当に知るためには、観点など要らないようにらなきゃ駄目ではないかな。
<考える葦>というパスカルの言葉について、僕は書いたことがあります。パスカルは、人間はいろいろなことを考えるけれども、何を考えたところで葦のごとく弱いものなのだと言いたかったわけではない。人間は弱いものだけれども、考えることができる、と言いたいわけでもない。そうではなくて、人間は葦のようなものだという分際を忘れて、物を考えてはいけないというのが、おそらくパスカルの言葉の真意ではないかと僕は書いたのです。
物事を抽象的に考える時、その人は人間であることをやめているのです。自分の感情をやめて、抽象的な考えにすり替えられてしまいます。けれど、人間が人間の分際を守って、誰かについて考える時は、その人と交わっていますよ。<子を見ること親に如かず>というだろう。親は子どもと長いあいだ親身に付き合っているから、子どもについて知っているのです。この<知る>というのは、子どもについて学問的に、抽象的に考えたわけではない。本当の<知る>というのはそういうことだ。本当に<考える>というのは、そういうことなのです。
母親は子どもに対して、観点など持っていません。彼女は科学的観点に立って、心理学的観点に立って、子どもの心理を解釈などしていません。母親は、子供をチラッと見たら、何を考えているか、わかるのです。そういう直観は、交わりから来ている。交わりが人間の直観力を養うのです。精神感応だとか、やかましいことを言わなくとも、僕らは感応しているのです。まるで千里眼みたいに、人間が一目でわかるということもあるのですよ。
(昭和49年8月5日 於・鹿児島県霧島)
>>抽象的でない親身な付き合いを通じて直観力を養いたい
「小林秀雄 学生との対話」(国民文化研究会・新潮社編、新潮社)より
講義 信ずることと知ること
僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間には二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。現代は非常に無責任な時代だといわれます。今日のインテリというのは実に無責任です。例えば、韓国の或る青年を救えという。責任を取るのですか。取りゃしない。責任など取れないようなことばかり言っているのです。信ずるということは、責任を取るということです。僕は間違って信ずるかも知れませんよ。万人の如く考えないのだから。僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。だから、イデオロギーは常に匿名です。責任を取りません。責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になった時に表に現れる。本居宣長を読んでいると、彼は「物知り人」というものを実に嫌っている。ちょとおかしいなと思うくらい嫌っている。嫌い抜いています。
彼の言う「物知り人」とは、今日の言葉でいうとインテリです。僕もインテリというものが嫌いです。ジャーナリズムというものは、インテリの言葉しか載っていないんです。あんなところに日本の文化があると思ってはいけませんよ。左翼だとか、右翼だとか、保守だとか、革新だとか、日本を愛するのなら、どうしてあんなに徒党を組むのですか。日本を愛する会なんて、すぐこさえたがる。無意味です。何故かというと、日本というのは僕の心の中にある。諸君の心の中にみんなあるんです。会を作っても、それが育つわけはないからです。こんな古い歴史を持った国民が、自分の魂の中に日本を持ってない筈がないのです。インテリはそれを知らない、それに気がつかない人です。自分に都合のいいことだけ考えるのがインテリというものなのです。インテリには反省がないのです。反省がないということは、信ずる心、信ずる能力を失ったということなのです。
ここで、考えるという言葉についての宣長の考えをお話したいと思います。「考える」の古い形は「かむかふ」です。宣長はこれについて次のように説明します。「か」は特別の意味のないことばです。「む」は「み」すなわち自分の身です。「かふ」は「交わる」ということです。だから、考えるということは、自分が身を以て相手と交わるということです。宣長の言によると、考えるとはつきあうという意味です。ある対象を向こうに離して、こちらで観察するという意味ではありません。考えるということは、対象と私とが、ある親密な関係へ入り込むということなのです。だから、人間について考えるということは、その人と交わるということなのです。そうすると、信ずるということと、考えるということは、大変近くなって来はしませんか。万人のように考えるということは、ある共通な方法というものがあって、その方法に従って対象をいろいろに吟味するということです。今の学問的に考えるというのは、そういう意味です。それと、信ずるということとは大変違います。しかし、宣長のやったことは文献学です。あの人のいう古学です。人間の表現についての学問でしょう。だから要するに人間を考えることです。人間というものは、死んだ物質ではないから、対象化して、こちらから観察するわけにはいかないものです。さっきも言ったように、人間というものを考えると、どうしても人間の精神の活動というものを考えなければならぬ。精神というものを科学的に考えると、前にお話ししたように、どうしてもそれを計算できる肉体にすりかえねばならぬ。科学の方法ではそういうことになります。人間をその生きているがままに考えるというようなことは、科学の方法ではできないのです。だから、これを交わるということしかないんだ。その人の身になってみるということですね。考えるためには、非常に大きな想像力がいります。科学、科学というけれども、本当の発明や発見をした人はみなそうだったのです。長い間事実と人間のようにつき合っていたのです。交わっていたのです。自分の実験しているいろんなものが、本当に親身なものになったのですね。
<<小林秀雄の手が加えられた後>>
では、<考える>という言葉について、本居宣長がどう捉えていたか、ちょっとお話したい。<考える>ことを、昔は<かむかふ>と言った。宣長さんによれば、最初の<か>には意味はなく、ただ<むかふ>ということだ、と。この<む>というのは<身>であり、<かふ>とは<交わふ>です。つまり、考えるとは、<自分が身をもって相手と交わる>ことだと言っている。
だから、考えるというのは、宣長さんによると、つきあうということなのです。ある対象を向こうへ離して、ことらで観察するのは考えることではない。対象と私がある親密な関係に入り込むことが、考えることなのです。人間について考えるというのは、その人と交わることなのですよ。そうすると、信ずることと考えることはずいぶん近くなってきやしませんか。
ある方法があって、その方法にしたがって対象をいろいろに解釈するのが、今の学問的な<考える>という意味だね。それと<信ずる>ことはたいへん違うけれども、宣長のやったのは文献学、一種の古学です。人間の書いた表現に対する学問です。それは要するに、人間を考えることですよ。人間というものは、遠くに対象化して、こちらから観察すればいいというわけにはいかない。
人間を考える時、人間の精神というものを考えなければならない。精神を考える時、どうしても科学の方法ではできない。その人と交わるしかないんだ。つまり、その人の身になってみるということだね。だから、考えるためには非常に大きな想像力が要ります。
(昭和49年8月5日 於・鹿児島県霧島)
>>まずは、身をもって相手と交わることから始めたい
「小林秀雄 学生との対話」(国民文化研究会・新潮社編、新潮社)より
講義 文学の雑感
「大和魂」という言葉が文学の上で一番さきに出て来るのは『源氏物語』で、それ以前にはありません。源氏の息子の夕霧が大学へ入ります。あの頃は大臣の息子なら、大学などへ入らなくても、出世はきまっていた。だから、大学へなど入らなくてもよいという反対も随分あった。その時源氏が「才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ」と言うのです。「才」とは学問ということです。大和魂をこの世でよく働かせる為には、やはり根底に学問がある方がよろしかろうというのです。「大和魂」と「才」とは対立するのです。大和魂とは学問ではなく、もっと生活的な知恵を言うのです。
『源氏物語』より大分あとになりますが、『今昔物語』にも「大和魂」という言葉が使われています。或る博士の家に泥棒が入り、家の物を全部取って逃げてしまった。博士は床下に隠れてののぞいていたのですが、余りに口惜しいので、泥棒に向って「貴様らの顔はみんな見た。夜が明けたらすぐ警察へ届けるから覚えていろ」と大きな声でどなった。そうしたら、泥棒たちは引き返して来て、博士を殺してしまった。そういう話があって、『今昔物語』の作者は、こういう批評を下しているのです。「才はめでたかりけども、つる大和魂なかりける者にて、かかる心幼きことをいひて死ぬるなり」と。学識がある事と大和魂を持つことは違うのです。むしろ反対のことなのです。今日の言葉でいうと、生きた知恵、常識を持つことが、大和魂があるということなのです。
(昭和45年8月9日 於:長崎県雲仙)
>>「才」と、生きた生活的な知恵のある「大和魂」を持ち続けてみたい
「ビルマ戦記 方面軍参謀 悲劇の回想」(後勝著、光人社)より
あとがき
私は、昭和19年(1944年)1月、ビルマ方面軍に赴任しました。
それから終戦までのビルマ作戦は、文字通り激戦につぐ激戦の連続でした。
当時私は、ビルマ方面軍の新任参謀として、ビルマの戦場を駆けめぐり、戦場いたるところで、見知らぬ将兵に助けられ、目に見えない天の導きにより、奇跡的な生還を遂げました。
これらの戦場では、神にも通じる崇高な人間像にしばしば接し、深い感銘を受けたものでした。またその反面では、平時では考えられないような、浅ましい場面にも遭遇し、極限状態の下における戦場の人間像は、はっきりと両極に二分された世の中を見たものです。
戦後になって私は、秘められたビルマ作戦の真相を、広く後世に伝えることを、しばしば知友に勧められていましたが、今や戦後四十六年を経て、馬齢すでに晩年を迎え、当時の記録や記憶をもとに、痛恨の回想録を執筆することにしました。
ところが、いったん筆を取ると、現代史独特のむつかしさもあり、執筆も遅々として進まなかったのですが、幸いにも前掲芳名録の方々から、貴重な証言や資料を寄せられ、また内容の正確を期するために、前掲の文献を参考として、稿を終えることができました。
ここにこれらの方々に対し、厚く御礼申し上げますとともに、ひたすら祖国防衛の一念に燃え、勇戦奮闘してビルマの山野に散華された十八万五千のご英霊に対し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
>>極限状態においても浅ましい行動を取らないよう日々精進したい
「ビルマ戦記 方面軍参謀 悲劇の回想」(後勝著、光人社)より
第二十一章 無条件降伏と戦後の世界
世界の流転
いまひるがえって、第二次大戦の結果をみるに、もっとも大きな利益を得た国は、五十八万平方キロの領土を増やし、東欧諸国を衛星国として傘下に収めたソ連と、中国大陸を制覇した中共であった。彼らが相協力して仕掛けた、大謀略の成果というべきであったろう。
ところが同じ戦勝国の中でも、自由諸国で利益を得た国は、一国も見当たらないのみならず、英国と蒋介石の国民政府は、もっとも大きな損害を受けたのであった。
顧みれば英国は、かつては世界各地に植民地を開き、過去数世紀にわたって七つの海を支配し、全世界に君臨して、空前の大帝国をつくりあげた。ところが、第二次大戦後になって、前述のように、その植民地はつぎつぎと独立し、いまやヨーロッパの一隅の島国として、その面影を残しているにすぎない。時の流れとはいえ、英国人にしてみれば、痛恨禁じ得ないものがあるであろう。
私は過日、知友とともに、マレーシアのクアラルンプールで、セランゴール州の王家に、ノンチックさんをお訪ねした。ノンチックさんは、セランゴール州の王家に生れ、戦時中、わが国の陸軍士官学校に留学していた人で、戦後、マレーシアの独立戦争に挺身して戦い、マレーシアの建国をはじめ、アセアン結成にも尽力された方であった。
そのお話の中で、「戦前の日本は非常に貧困であった。ところが、そのころの日本人は、乏しい中でもよく働き、私どもアジア民族のことに関しても、温かい配慮を示してくれ、心豊かな立派な民族であった。私どもは当時の日本人のお陰で、戦後独立を果たすことができたもので、いまも心から感謝している。
そして戦後日本は、逸早く復興を成し遂げて、いまや世界の経済大国にのし上がったことは、同じアジア民族として慶びにたえないが、いまの日本人は、もっぱら自分の経済的利益の追求に走り、戦前の豊かな心を忘れて、かえって心の乏しい人間になったことは、まことに悲しいことである」と言われ、実に耳の痛い忠告を受けたものであった。
しかしながら、その反面において、かつて私たちが、身命をかけて戦ったアジア開放の戦いに対し、感謝してくれているアジア人のあることを知り、感激したものであった。
いまや人類世界は、大きく変わろうとしているが、次代の姿はいまだ暗中模索で、世界各民族は、いかにして次代に生き残ろうかと、水面下で政謀略の限りを尽くし、鎬を削っているのが実情である。
そしてヨーロッパも北米も、いまや広域ブロックの生存圏が生まれようとしている。ひとりアジア各国は、各民族それぞれに、自国の生き残りをかけて発展に努めてはいるが、その足並みは、かならずしも揃っていない。
この流転きわまりない世の中で、私たち日本人が、将来とも絶対変わらないことは、わが国は国内に資源を持たず、アジアの一島国であるということである。私たち日本人はこの基盤の上に立ち、長期的視野の下に、民族として国際的に生き残る理念を確立し、いたずらに目前の小利を追求することなく、大所高所から、着実な努力をつづける以外に途はないと思う。
いまや共産圏の崩壊にともない、民主主義、自由主義の勢いは、全世界を風靡し尽くしている。しかしながら、民主主義も自由主義も、所詮人間が考えた人間の生き方の一方法に過ぎず、神様の目から見れば決して完璧なものではない。いま、これを歴史的に見るとき、過去の繁栄の下に心奢り、愛国心と働くことを忘れた民主主義、自由主義ほど危険なものはない。
その昔、ギリシアもローマも、ともにこの道を歩んで滅びて行ったことを、銘記して欲しいものである。
>>心豊かに、長期的視野の下に、民族として国際的に生き残る理念を確立し、小利を追求することなく、着実な努力をつづけていきたい
「ビルマ戦記 方面軍参謀 悲劇の回想」(後勝著、光人社)より
第十二章 ビルマ方面軍の再建
敗軍の将
いつの時代でも、勝てば官軍、負ければ賊軍であり、インパール作戦の失敗で、これに関係した幹部は、つぎつぎと左遷、更迭されていった。
烈兵団はかねて予想していた通り、後方からの補給は全然なく、そのうえ第十五軍は、実行不可能な命令を乱発し、佐藤幸徳兵団長は、軍の指揮錯乱を黙視し得ず、6月1日、ついに無断退却を決行した。
ついで佐藤兵団長は、7月5日、陣中で罷免され、23日、ラングーンに到着して、方面軍司令官に申告した。
昭和50年ごろであったと記憶するが、東京で佐藤将軍を偲ぶ会が催され、私も案内を受けて出席した。会場には、ご遺族をはじめ、佐藤将軍ゆかりの方が数十名出席され、つぎつぎに将軍に関する思い出話を披露した。
中でも作家の高木俊朗氏(『抗命』の著者)は、部下将兵の危急を救うため、将軍は一命をかけ、インパールの戦場から無断退却をしたが、その英断は、まさに昭和の軍神というべき名将であると絶賛した。ところが、その直後に私が指名をうけ、回想談を披露することになって当惑した。
私は高木氏のような作家と違って武人である。旧軍人として無責任なことは言えない。そしていやしくも軍人たる者が、事の善し悪しは別として、戦場において故意に命令に違反し、統帥から離れて勝手な行動をとることに、賛意を表すわけにはいかなかった。とっさの思いつきで大楠公の話をすることにした。
--私は日本の武将の中で、大楠公をもっとも尊敬し、私自身の修業練磨の鏡として参りました。その理由は、足利尊氏が、九州の大軍を率いて、京を目指して攻め上ったとき、軍議の席上で大楠公は、巧みに尊氏の鋭鋒を避けながら、これを京都におびき入れ、その糧道を断ち切って尊氏軍の戦力を消耗させ、そのうえで四方から急襲して尊氏を打ち取ることを進言した。そのとき軍事に関する知識もない公卿の反対にあい、ついに兵庫に行って尊氏軍を迎え討てと大命が下った。
このとき大楠公は、敗戦必至を覚悟のうえで出陣し、湊川でついに討死を遂げられたが、軍令に殉じた大楠公こそ、私ども武人の鏡である。生死をかけた戦場において、軍令は絶対的なものであり、軍令を下す者には絶大な責任がある。またこれを受ける者には、絶対服従の軍律があってこそ、立派な軍といえるのではなかろうか。
佐藤将軍ほどの武将が、これらの道理は百も承知の上で、無断退却を断行された事情があったと推察されるが、これを今日の平和な時代感覚で論ずるところに無理があると、話を結んだものであった。
>>無謀な死を強要する第十五軍の軍令に背かざるを得なかった第三十一師団長佐藤中将を悼む
「ビルマ戦記 方面軍参謀 悲劇の回想」(後勝著、光人社)より
第五章 友邦ビルマ
産業と英国植民地政策
私はビルマ赴任に当たり、作戦遂行のかたわら、英国の植民地政策を調べてみようと思っていた。その観点でビルマを眺めたとき、あらためてアングロサクソン民族の、異民族支配の政治謀略の、みごとというべきか、恐ろしさを痛感したものであった。
これを一口にいうと、彼らみずから、政治、経済、金融の中枢を握り、現地民族を、政治的、経済的に巧みに分断統治し、愚民政策を行って、彼らを牛耳っていたのである。
すなわち、前述のとおりビルマは多民族国家で、英国はカレン族、カチン族にはキリスト教を布教し、これらに武器をあたえて軍事訓練を行ない、特権をあたえてビルマ族に対抗させていたのである。
また、米は英植民地の穀倉とし、英商人の一手販売で、インドやマレーに輸出して、植民地政策に利用していた。また、綿、落花生などの農産物、チーク材や鉱産物などは、英国が独占的にこれを握り、英国船に積んで本国に持ち帰り、英国工業を支えるとともに、製品をビルマに再輸出し、巨利を得ていたのである。
したがってビルマの地では、一本の糸も、一本の釘も、釘さえも作ることができず、これらを作る工場も機械もなかった。
ビルマ人の中にも、上流階級の者は英国に留学し、帰国して働くものもいたが、これらはみな文科系で、下級官吏や弁護士になっており、ビルマの現地に技術を育てない愚民政策が、徹底して実行されていたのである。
戦時中のビルマ人は、私たち日本人に対し、きわめて好意的で治安はよく、これがかつての敵地であったかと、思われるほどであった。
私はあるときビルマ人に、一番好きな民族はと聞いたら、ジャパンだと答えた。これにはお世辞もあったと思うが、その理由を聞いたら、英国人は事務所も食堂も、手洗いから乗り物の車両まで、みなわれわれを別扱いするが、ジャパンはすべていっしょにしてくれる。そのうえ汽車や汽船の動かし方から、車の修理まで、なんでも教えてくれるというのである。
つぎにジャパンの悪い点はと聞いたら、撲ることと、立ち小便だという返事で、なかなか耳の痛い話であった。
またジャパンについで好きな民族は、チャイナだと答えた。中国華僑は、東南アジア全域に組織網を張り、各地ごとに団結して小企業を営み、彼らの舟艇を使って、華僑勢力圏に物資を動かし、協力して利益をあげながら、それぞれ地元の産業経済を支え、間接的に民政に貢献していたのであった。
一方、一番嫌いな民族は、いうまでもなく、英国人で、これらについでインド人だということであった。インド人はビルマ人に比べ数理に長じ、蓄財につとめて小資金を運用し、ビルマ人に高利で貸しつけ、暴利をむさっぼっていたのである。
>>日本には英国の愚民政策のような発想はないように思う