「イギリスの智慧」(中西輝政・マークス寿子 著、中公叢書)より
私が二度目にケンブリッジへ行った時に下宿していたフラットは、労働社階級――といっても年金生活をしているおばさんたちです――が多く住んでいる地域にありました。そこでたまたま、今後の選挙では誰に投票しますかという話をしていたら、「サッチャーなんか大嫌い」と言ってずっと労働党を支持していた中年の女性が「今回はやっぱりサッチャーに投票しなくちゃいけない」と言い出したのです。私が「どうして」と反問すると、「今はやっぱり国全体がおかしくなっているのよ」と。あれを見ろ、これを見ろ、公園でこんなことがあった、スーパーマーケットでこんなことがあった、という話を始める。
イギリスでサッチャーと同年代の女性は、エリザベス女王をはじめ、サッチャーが大嫌いという人が多いのです。そのおばさんも例にもれずサッチャーが大嫌いだと公言していたのですが、ある時期を境にそういうふうに変わってしまったのです。私はその変化がとても興味深かったものですから、もっとしつこく聞いたら、「今の労働党はすべてに失敗した。彼らは破産した。国がおかしくなった時には、自分の好き嫌いを横において判断を下さなくてはいけない、と親が言っていた」と言う。彼女の親というのは、選挙民が利己的になりすぎて国力が徐々に低下するのを放置し、その日暮らしの政治の惰性を許したため、結局庶民がいちばんひどい目に逢った1930年代の経験を持っているのですね。その世代は、二つに一つのギリギリのところに来たら、好き嫌いや感情で投票をするのは、有権者の義務を果たさないことになるのだ、という自分たちの失敗の教訓を次の世代に残していたのです。
>>日本の庶民にも、いつか、イギリスと同じような智慧が身に付く日が来るんだろうか。
「敗者の条件」(会田雄次著、中公新書)より
日本の戦国時代の武将たちの争う世界を、ヨーロッパ流の、食うか食われるかという戦いの原則が支配した世界と考えたい。そして、そういう目でこれから戦国時代をながめていくことにしたい。この戦国時代の真実の姿をかえりみることは、同時に現在の私たちの社会の競争を理解することにもなるからである。日本においては、同じ言葉を話す仲間ということからか、ともかく敵味方のあいだに、互いに相手の価値を認め合う武士道という「ヒューマニズム」がヨーロッパより、もうすこし濃く流れていた。それを一つの前提とした上ではあるけれど――。
>>「武士道という『ヒューマニズム』」って、今でもあるんだろうか。
「やりたいことをやれ」(本田宗一郎著、PHP研究所)より
日本人は、とくに自分の会社のためには一生懸命に働くけど、国全体や個人の幸せのことを余り考えない。個人個人が大きな集団や会社の影にかくれてしまって、本当に赤裸々な人間性を出して、感動しながら仕事をやるということがない。社員がみな自分の幸せを求めて働けば、おのずとその会社は伸びていくはずです。
>>「自分の幸せ」って、いったい何だったんだろう。
「自分の中に毒を持て」(岡本太郎著、青春文庫)より
一度でいいから思い切って、ぼくと同じにだめになる方、マイナスの方の道を選ぼう、と決意してみるといい。
そうすれば、必ず自分自身がワァーッともり上がってくるにちがいない。それが生きるパッションなんだ。いまは、ほとんどの人がパッションを忘れてしまっているようだ。
>>自分にとっての「パッション」って、いったい何だったんだろう。
「運をつかむ技術」(澤田秀雄著、小学館)より
大企業、歴史ある企業が生き残るのではない。時代の変化についていける企業が生き残るのだ。変化に柔軟に対応できる体制がなければ、どんな大会社でもつぶれる。自動車で世界を制覇したゼネラルモーターズも、フィルムで世界を制覇したコダックも破綻したのだ。
>>コミュニティだって同じこと。高度経済成長期のように、黙って中央に頼っていれば良い時代は終わった。少子化・若者の流出による人口減少と高齢化が同時に進む中、座して死を待つ訳にはいかない。柔軟に対応して生き続けるしかないのだ。
「ストーリーとしての競争戦略」楠木建著(東洋経済)より
「顧客が動くストーリー」をどれだけ鮮明にイメージできるかがコンセプトづくりの勝負
「誰に」「何を」「なぜ(とりわけ重要)」の三つにこだわったものになっていることが大切(「どのように」という方法ばかりが先行しては優れた戦略ストーリーは生まれない)
自分なりに整理してみる。
誰に?
-地域住民一人ひとりに(みんなで一緒に)
何を?
-複数のプロジェクトを考え、発案し、参加してもらう
なぜ?
-内発的持続成長可能な地域社会をつくるため
「マネジメント」(P.F. ドラッカー著、ダイヤモンド社)より
マネジメントは起業家とならなければならない。成果の小さな分野、縮小しつつある分野から、成果の大きな分野、しかも増大する分野へと資源を向けなければならない。そのために昨日を捨て、すでに存在しているもの、知られているものを陳腐化しなければならない。明日を創造しなければならない。
成果をあげること、人を生かすこと、社会に及ぼす影響を処理するとともに社会に貢献すること、これらの課題すべてを今日と明日のバランスのもとに果たすことが社会の関心事である。しかしそのためにマネジメントが何をするかは、社会の関心事ではない。社会が関心を持つのは結果である。
>>私も「昨日を捨て、明日を創造し、結果」を出して行きたい
「人間にとって成熟とは何か」(曽野綾子著、幻冬舎新書)より
諦めることも一つの成熟なのだとこの頃になって思う。しかしその場合も、十分に爽やかに諦めることができた、という自覚は必要だ。つまりそれまで、自分なりに考え、努力し、もうぎりぎりの線までやりましたという自分への報告書はあった方がいいだろう。そうすればずっと後になって、自分の死の時、あの時点で諦めて捨てるほかなかったという自覚が、苦い後悔の思いもさしてなく、残されるだろう。
>>私も早く、「諦めることも一つの成熟なのだ」と思えるようになりたいものです。
「道楽と職業」は、夏目漱石が亡くなる約5年前(明治44年)に明石で行われた講演。
私も早く、「一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である」との境地に達したいものです。
「道楽と職業」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/757_14957.html
それで前申した己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安にして働かなければならない。要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。したがって自分が最上と思う製作を世間に勧めて世間はいっこう顧みなかったり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日のごとく要求を恣にしたりすべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭なものである。就中最も厭なものはどんな好な道でもある程度以上に強いられてその性質がしだいに嫌悪に変化する時にある。ところが職業とか専門とかいうものは前申す通り自分の需用以上その方面に働いてそうしてその自分に不要な部分を挙げて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にして云えば当初から不必要でもあり、厭でもある事を強いてやるという意味である。よく人が商売となると何でも厭になるものだと云いますがその厭になる理由は全くこれがためなのです。いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を括りつけられればどうしたって面白くは行かないにきまっています。元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識から云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕な仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。例えば新聞を拵えてみても、あまり下品な事は書かない方がよいと思いながら、すでに商売であれば販売の形勢から考え営業の成立するくらいには俗衆の御機嫌を取らなければ立ち行かない。要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。
「現代日本の開化」は、夏目漱石が亡くなる約5年前(明治44年)に和歌山で行われた講演。
私も早く、「内発的な開化」を果たしたいものです。
「現代日本の開化」より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/759_44901.html
それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化とどこが違うかと云うのが問題です。もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾(つぼみ)が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。
「私の個人主義」は、夏目漱石が亡くなる約2年前(大正3年)に学習院で行われた講演。
私も早く、「ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!」という感投詞を叫んでみたいものです。
「私の個人主義」より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定(かんてい)しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫(さけ)び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊(こわ)されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡(もた)げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄(もや)のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲(ぎせい)を払(はら)っても、ああここだという掘当(ほりあ)てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰(ふみつぶ)すまで進まなければ駄目ですよ。
「未来の働き方を考えよう」(ちきりん著、文藝春秋)より
現在、1961年4月2日以降に生まれた男性と、1966年4月2日以降生まれた女性に関しては、国民年金、厚生年金とも65歳からの支給開始が確定している。
>>「ああ、そうだったんだ」と改めて実感する。
まずは自分が心から手に入れたいと思える人生を、具体的に明らかにしましょう。そして市場から稼ぐ力を身につけ、複数シナリオの中から、自分の行く道を主体的に選ぶのです。
>>「『コミュニティの再生』が自分のやりたいことかな」と改めて実感する。
「サンデルの政治哲学 <正義>とは何か」(小林正弥著、平凡社新書) より
サンデルの理想-「正義と共通善」
サンデルにとって重要なのは、コミュニティにおける多数派の信念ではなく、あくまで「善」との関係における「正義」であり、このような「善」と「正義」は特定の時代の特定のコミュニティの多数派の考え方を超えたものである。
だから、特定のコミュニティの枠を超えて、私たちは対話によって善を探究し、それとの関係において正義を探究することが必要になる。これは新しい思想的挑戦に他ならない。対話的・弁証法的論法は、サンデルの提示する政治哲学の方法であり、それによる「善ありし正義」の探究こそ、その新しい政治哲学、本来の政治哲学の目指す道なのである。
>>コミュニティーも、対話によって「善ありし正義」を求めながら、プロジェクトを推進して行く必要があろう。
「共通価値の戦略」(出所:「Harvard Business Review June 2011」ダイヤモンド社)より
「競争の戦略」のマイケル・E・ポーター教授が、経済的価値と社会的価値を同時に実現する「共通価値」の創造の重要性について述べている。
「共通価値」とは?
・企業が事業を営む地域社会の経済条件や社会状況を改善しながら、みずからの競争力を高める方針とその実行と定義できる。
>>ここで着目すべきは、「地域社会の経済条件や社会状況を改善しながら」という部分であろう。「国」ではなく、「地域社会」
「共通価値」の原則とは?
・社会のニーズや問題に取り組むことで社会的価値を創造し、その結果、経済的価値が創造されるというアプローチである。
企業競争力の源泉は、企業を取り巻く地域社会の健全性と切っても切れない関係にある。
企業には、健全な地域社会が必要である。なぜなら、製品への需要を生みだし、重要な公共資産や支援環境を提供してくれるからである。
地域社会には、健全な企業が必要である。なぜなら、地域住民に雇用と富を創造するチャンスを提供するからである。
>>地域社会(コミュニティ)の健全な発展には「共通価値」の創造が不可欠であるようだ。