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「酒とバカの日々」③



「酒とバカの日々」(赤塚不二夫著、白夜書房)より


 第3章  バカはバカでも、ただのバカじゃダメなのだ

  思いきりバカを楽しみたいならいまのうちだよ


 第4章  カッコつけてないで、どんどん女を口説こうよ

  カッコつけずに、自分をさらけ出しちゃえば女も寄ってくる


 第5章  ほんと、酒は奥が深いよね

  何十年やっても飽きないのが、人生と酒だよ

  死ぬのは人並みにこわいけど、だからといって生き方を変えるつもりはない

  飲み助ほど、仕事の達人になれるのだ




 あとがき  もう欲なくなっちゃった・・・・・・いつ死んでもいい

  家庭もいらない。お金もいらない。地位も名誉も、なんにもいらないって気になった時、人間なんでもできるんだなぁと思った。人間てのは、いろいろ変わらなきゃいけない。真面目な時があったり、そうでなかったり。だから、ぼくも生き方が、いろんな風に変わったから、十七年間、漫画描いてこられたと思うんだよ。俺は、短時間でも変わっちゃうからね。だいいち俺のいうこと、矛盾だらけだよ・・・・・・今だって。変ってきたってのは、社会に対しての順応力があるからだよ。変えられない漫画家っていうのは全部消えていってるよ。

 人間はね、飯食って、酒を飲んで、暮らしてけるだけ金があればいいんだよ。・・・・・・残したって、仕方がないんだよ。・・・・・・日本は終りだって・・・・・・もうすぐ。

 怖いもんでっていうか、不思議なもんでっていうか、いつ死んでもいいやとか、漫画なんていいやなんて思うと、メチャクチャな漫画描けて、かえってウケちゃったりして、おかしいね。


>>何にもいらないって気になって、今のうちに思いきりバカを楽しみたい







「酒とバカの日々」②



「酒とバカの日々」(赤塚不二夫著、白夜書房)より


 第2章  若者よ、もっと酒を飲みに行くのだ


  仲間うちで同じような飲み方してないで、ゲイバーに行こう 

  酒は他人と肌を接することができちゃう潤滑油

  酒はすすめられて飲むもんじゃない

  楽しくて、自然に量を飲んじゃった、というのが酒なのだ

  映画の話で酒を飲もう


 昔のいい映画、いくつか挙げておくから、チャンスがあったらぜひ見てよ。今のドンパチでも楽しめるんだろうけど、見てよかった、生きててよかったって思わせてくれる昔の映画がたくさんあるんだ。

 まず、見て楽しいジョン・フォード監督の西部劇。『駅馬車』『アパッチ砦』『荒野の決闘』などいろいろある。『怒りの葡萄』『わが谷は緑なりき』など、挙げていくときりがないな、この人は。
 ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』『友情ある説得』。
 ビリー・ワイルダー監督なら『サンセット大通り』『アパートの鍵貸します』『第十七捕虜収容所』。
 フェデリコ・フェリーニなら『道』とか『カビリアの夜』だね。オレわかりにくい映画は好きじゃないから『フェリーにの81/2』とか『甘い生活』は疲れちゃうんだ。
 デビッド・リーンは『アラビアのロレンス』が有名だけど、『逢びき』という地味なヤツが印象に残っているな。ごくふつうの人妻が買い物に行ったときに出会う軍人と恋に落ちるんだ。最後、恋に破れて家に戻ってくると、すべて知っていた夫がポツリという。
 “キミは遠回りしたね”って。いいだろう、大人の雰囲気がただよっていて。オレ私生活でずいぶん使わせてもらったよ、このセリフ。
 ヒッチコックはどれを見ても“さすが”と思うよ。キャロル・リードの『第三の男』もきちんと見たらシビれると思うよ。

 小津安二郎の『東京物語』がお正月映画だったんだから。「嫁いかんのか」「ええ、お父様」なんてのを一番お客がはいる正月にやっていたんだよ。
 『怒りの葡萄』も、貧乏農夫が中西部からカリフォルニアに逃げ出して、安住の地までは行かないけど、そこでなんとか暮らすようになるという地味な話だ。それだけの話なのに途中にいいエピソードがたくさん出てくるんだ。
 農夫一家が途中でドライブインに寄ってな。その店のオッカアがケチで気の強そうな女なんだ。で農夫のジイさんが孫にキャンディを買ってやろうとするんだけど、一本数セントもする。ジイさんのふところ具合を見て、その店のケチのオッカアが“一本一セント”って言うんだよ。その店の中も、映画見ているヤツもフワッと温かくなるんだ。


>>酒を飲みに行って人と肌を接するのだ


「酒とバカの日々」①



「酒とバカの日々」(赤塚不二夫著、白夜書房)より
  

  まえがき

 ぼくは漫画家という自分のしたい仕事を見つけ、友だちをつくり、酒を飲んで、女を抱いて、バカをやりながらも、思いどおりの人生を送ってきた。

 どうして若者たちは、自分だけのカラにとじこもりたがるのだろうか。友だちをたくさんつくって、仲間と酒を飲んで、バカをやっていれば、将来大成できる。これがぼくの「生き方」である。


 第1章  酒とバカのススメ!

  思いきり遊んで楽しくやることにくらべたら、金を貯めるなんて考えられない

  薄い人間関係でほんとうに満足してたらつまらない

  飲み屋とか社交場で人と接することが“心の栄養”になるんだ


 人生勉強ってのがあるじゃない。学校の勉強だけしてたってダメなんだ。ただ自分が学んだことだけを自分が守っていればいい、なんて思っていたら、いつまでたったって人間のことなんかわかんないよ。人間のことをよく知らなくて一人遊びしていたって、人生ちっとも面白くない。

  大人になりたければ、一回ハチャメチャやって自分の力を知るところから始めなきゃ

  志をもっていれば何したっていいよ


 オレが酒を飲め、ハチャメチャをやれと言っているヤツらは、自分はいかにもお勉強ができますよ、自分の人生は安定していますよと、小利口に振る舞っているヤツらなんだ。そんな小さいところで安定しているなよ、そんな小っこい城だいじにしててどうするんだ、お勉強できますよって言ったって、おまえの知っていることなんて、ほんのすこしのことで、人生もっといろいろあるんだ、って言いたいんだよ。

 たとえば、オレたちの若いときの心の栄養というのはこうだった。手塚治虫先生が、ちゃんとした漫画家になりたかったら、一流の映画を観て、一流の音楽を聴いて、一流の舞台を見ろと言ってくれた。

  手塚先生からの教え--漫画から漫画を学ぶな

  食うもの食えなくても“心の栄養”だけはいつもとらなきゃいけない

  自分の小さな殻を破ってしまえば、パッと世界が広がっておもしろくなる

  人生、なんとなくフラット、というより大波小波があったほうが楽しいよ

  とにかく、一度ためしにバカやってみなよ。
  新しい世界が見つかるかもしれないよ



>>金を貯めることなどやめて、一度ためしにハチャメチャバカやって思いきり遊んで楽しくやってみようかな

 

「これでいいのだ」


「これでいいのだ  赤塚不二夫自叙伝」(赤塚不二夫著、文藝春秋)より


  解説にかえて  武居俊樹

 赤塚は『これでいいのだ』の冒頭に、
 “おやじとかあちゃんに感謝のココロを捧げるのだ”
 と書いている。
 赤塚家では、夫婦・親子が一つ屋根の下で暮らせた日々は驚くほど短い。時代=戦争に翻弄され家族は引き離される。貧乏と飢えにさらされながらも、一緒に暮らせる日を夢見ている。
 赤塚にとっては幸せと家庭が同義語なのだ。後に赤塚は、『母ちゃんNo.1』という漫画を描いている。赤塚は、マザコンだと夫人も前夫人も証言している。薪ざっぽうで撲られても、赤塚にとって、母ちゃんはNo.1だった。
 赤塚のギャグ漫画『おそ松くん』『天才バカボン』で描かれる家庭には、母親が出てくる。だが、この二人の母親は、笑いの対象にはなっていない。赤塚にとって、母親というのは聖域。ギャグにはできない。赤塚ギャグにとって、母親は邪魔な存在なのだ。『もーれつア太郎』『レッツラゴン』にも家庭が出てくるが、この二家族では、母親は死んだことになっている。母親がいないから余計母の存在が意識される。それでも、母親があってもなくても、まだ家庭のある登場人物は幸せ者だ。
 チビ太にも、イヤミにも、ハタ坊にも、ニャロメにも、家庭はない。どうやら住居もない、これが赤塚ギャグの本質である。

 赤塚は、家庭をつくるのに失敗した。きっと理想が高すぎたのだ。だが、意識はできなかったが、夫人と前夫人に先に逝かれ、二人の後を追う気になったのではないか。これはやはり、自分で演じたホームドラマのオチとしては、とっても上手い。

 「ただ馬鹿っつったって、本当の馬鹿じゃなきゃ駄目なんだからな。知性とパイオニア精神にあふれた馬鹿になんなきゃいけないの。立派な馬鹿になるのは大変なんだ。だから、馬鹿になる自信がなかったら、ごく普通の利口な人でいたほうがいいよ。要するに、馬鹿を直す必要はない。利口を直したほうがいいのだ」

 赤塚は、馬鹿を理想としていた。赤塚ギャグの中の良いキャラクターは、バカボンのパパに代表されるように全員が馬鹿だ。
 赤塚ギャグは、人生の教科書だ。馬鹿が馬鹿と戦う漫画だ。馬鹿くらべ。本当に面白くて、タメになる漫画だ。
 それは、赤塚不二夫が筋金入りの馬鹿だったから描けた作品だと思う。
 くだらない漫画を、ひたすら描き続ける情熱。これは馬鹿にしかできないこと。赤塚だからできたこと。
 “馬鹿であること”これは、人間の永遠のテーマだから、赤塚ギャグは、ちっとも古くならない。
 
 昭和を代表する三人。美空ひばり、黒澤明、赤塚不二夫。
 この三人は、ひばり、平成元年、黒澤、平成10年、赤塚、平成20年。ほぼ10年おきに亡くなった。
 
 宴会好きの赤塚は、今天国で、好きな人々と酒を酌みかわしているに違いない。おやじとかあちゃん、女房と前女房、ひばりと黒澤と。
 六年間も病院で禁酒してたんだから、さぞ酒が五臓六腑に 沁みわたることだろう。  (元編集者)


>>知性とパイオニア精神にあるふれた立派な馬鹿になる自信を持ってみたい。


「バカボンのパパよりバカなパパ」③



「バカボンのパパよりバカなパパ 赤塚不二夫とレレレな家族」(赤塚えり子著、徳間書店)より


  エピローグ  全身ギャグ漫画家

 わたしのなかでは、本物の表現者とは、自分の表現と自分の言動に矛盾がない人だ。そうみると、赤塚不二夫は本物の表現者だったと、わたしは思う。
 死んで、パパ自身と漫画とがつながった。生き方と作品との間に矛盾も落差もない。パパはできることの極限まで、真正面からきちんと向きあい、自分の信じる道を最後まで貫き通したと思う。
 パパは自分に真面目だった。自分自身に真面目に取り組んで、生きた誠実な人だった。
 「もっと真面目にふざけなさいよ」
 わたしの大好きなパパの言葉だ。
 パパは、面白いことのためなら本当に命懸けだった。

 自分の極限まで仕事をして、自分の極限まで遊んだ。
 読み切りも含め約540作品、六万枚の原稿を遺した。そして、みんなの心に、たくさんの忘れられない楽しい思い出を遺した。

 創造と破壊をくり返した。ギャグの爆弾を自分自身へも投げつけ、全身で受け止めた。赤塚不二夫は「全身ギャグ漫画家」であり、「ギャグ漫画家全身」なのだ。
 「最後に辻褄があってりゃ、何やってもいいんだよ」
 パパはわたしの前で呟いた。
 これは、パパがバカボンのパパに言わせた「これでいいのだ」ということなのかもしれない。あるがままの自分を肯定する。それは、パパ自身の生き方そのものだったのだと思う。
生き方に、嘘も、矛盾もない。言い訳もない。清々しささえ感じる。父親に対しても、母親に対しても、そう思う。
ふたりの娘で本当によかった。心の底からそう思っている。


  あとがきにかえて

  もしも今、パパとママと眞知子さんに声が届くなら、わたしは伝えたい。
  「安心してね。あなたが愛した人たちに、私はとっても大切にしてもらってるよ。ありがとね」と。
  いつも心に赤塚を、唇にギャグを--。
  この本を最愛のママとキータン、眞知子さん、そして偉大なるバカパパ、赤塚不二夫に捧げます。

   2010年6月吉日  赤塚りえ子


>>赤塚不二夫のように真面目にふざけ続けて行きたい


「バカボンのパパよりバカなパパ」②


「バカボンのパパよりバカなパパ 赤塚不二夫とレレレな家族」(赤塚えり子著、徳間書店)より


 第六章  激震! ゆれる家族


  「くれぐれも“秀頼”を頼む」


 眞知子さんの机の中から、「遺言書」と表に書かれた一通の封筒が出てきた。

 「私、赤塚眞知子が赤塚不二夫より先に死んだら以下のようにお願いします」として、平成16年(2004年)3月6日付けで、次のようなことが記されていた。

  もし自分がパパより先に死んだ場合、
  パパを今の病院の今の病室にずっと入れていてあげてほしい。
  自分の財産は全部りえ子に託すので、パパのお金が足りなくなったら、
  それをパパの入院費にあててほしい。
  りえ子を社長にして、フジオ・プロを存続させてほしい。
  周りの人は、りえ子を助けてあげてください。

 パパは、これほど愛されているんだ。眞知子さんにとって、パパは生きる証なんだ。私のパパをこんなに愛してくれた眞知子さんに感謝の気持ちでいっぱいだった。
 そして、文末は、

  私は何か、豊臣秀吉が秀頼のことを五奉行にくれぐれも頼むという心境です。

 と結ばれていた。


 第七章  わたしの中で生きている赤塚不二夫


  パパとママが教えてくれた


 一人でも多くの人に知ってもらって、一人でも多くの人に見てもらう。それこそがパパ、初期の作品のいくつかはママも含めて、ふたりが永遠であり続ける道だから。わたしはそのためにも、一生懸命パパの作品を伝えていかなければいけない、そして、ふたりのDNAをわたしを通してかたちにしていかなければいけないと強く心に思う。

 私のこの身体の中に流れている血が、それを感じさせた。

 「パパもママもおまえの身体の中で生きてるから。いつも一緒だから。大丈夫だから」

 二年間に最愛の人を三人も喪った。死を身近に経験して、生と死について深く考えるようになった。

 パパとママが教えてくれるメッセージを、わたしはこれから一生かけて、ひとつひとつ拾い集め続けていくだろう。


>>眞知子さんとりえ子さんの関係がとても羨ましく思う


「赤塚不二夫120%」③



「赤塚不二夫120%」(赤塚不二夫、小学館文庫)より


  アカツカフジオ再婚す

 ある時期から、メチャクチャ女性と遊ぶようになった。どうしてそうなったのかなぁ。とにかく、毎日のように違う女性を連れ込んでいたもの。200人や300人じゃきかないよ。見栄張って言ってるんじゃなくて、これ、本当の話。


 そんな生活をしていたある日、モトニョーが突然うちにやってきた。なんと手には、婚姻届を持っているのだ。

 「これにサインしなさい」

 「なんだい? また僕と結婚しようって言うの?」

 「何バカなこと言ってるの。違うわよ。眞知子さんと一緒になりなさいッ」

 眞知子とは、ずっと昔から顔見知りだった。カメラマンのアシスタントをやっていた女性で、そのカメラマンと僕が友達だったからだ。

 昭和45年に『もーれつア太郎』が終了すると、気分転換のためにニューヨークに行った。結局、2ヵ月滞在したんだけど、そのカメラマンとは向こうで知り合ったんだ。で、帰国してからもつきあいが続いたんで、眞知子のことも知ってたわけだ。時々みんなで、一緒に飲みに行ったりしていたしね。それでモトニョーに紹介したら、なんか二人が仲良くなっちゃったんだね。

 でも僕は眞知子とは、なんともなかったんだ。もちろん、ぜんぜん結婚する気なんてなかった。彼女は僕より14歳も下で、身長は8センチも向こうのほうが高いし。そんなことはどーでもいいんだけど、僕には別に恋人がいたから。それをモトニョーは知ってたんだ。で、彼女を気に入ってないわけだ。絵描きさんでね。今でも彼女とは電話でしょっちゅう話してるけど、確かに彼女と一緒になったら家庭は成立しなかったと思う。とぢらも、ものを創る仕事だったし、そういうのってなかなかうまくいかないから。

 それでモトニョーはこう言ったんだ。

 「あんた、毎日こんなだらしのない、バカな生活してる場合じゃないでしょう。いい加減にしなさい。眞知子さんと一緒になって、ちゃんと生活しなさい」

 「ハイ」

 僕はすぐに、サインした。なぜだろう。

 とにかく僕は、こうして再婚したのだった。不思議だがほんとうの話なのだ。

 ここでいきなり話が遡るんだけど、僕がまだモトニョーと中野の家で暮らしていて、そんなに忙しくなかった頃、一軒おいて隣のキヨちゃんという男の子がよく遊びに来ていた。中学3年生か高校生か、そのくらい。僕たちになついて、毎日のように来ていたんだ。『おそ松くん』のアニメ見せたり、いろいろなことして遊んでいた。

 僕が離婚して何年か経って、キヨちゃんはさる大会社の社長令嬢と結婚することになった。で、結納まで交わしてから、急に「この結婚はイヤだ」って言い出したんだ。

 「僕は登茂子さんが好きだ。登茂子さんと一緒になりたい」

 登茂子さんて、僕のモトニョーのことだよ。これにはキヨちゃんのお母さんも、びっくりだよ。もう怒っちゃって、大変だった。でもキヨちゃんは我を通したんだね。社長令嬢との結婚を破談にして、8歳年上のモトニョーと一緒になっちゃった。キオちゃんのお母さんは怒って家を出て、原宿にマンションを買って住むようになったんだけど。

 このキヨちゃんというのが、実はたいへんな人なのだ。お祖父さんは日活を設立した人で、お父さんは日本テレビを作った人のうちの一人。キヨちゃんは、その一人息子なのだ。お祖父さんが亡くなって、お父さんは莫大な財産を相続した。ところが、そのお父さんも亡くなってしまったのだ。つまりキヨちゃんは、大金持ちになっちゃったわけ。だからモトニョーは、いまや恐れ多くも資産家の奥様なのだ。僕の娘が、「ママ、パパと別れてよかったね」って言ってるんだって。娘は今、ロンドンに留学してんだけど、費用も全部キヨちゃんが出してくれてるんだ。

 そんなわけで、キヨちゃんとモトニョー、僕と眞知子は、仲良しで行ったり来たりしている。考えてみたら、おかしな関係だよね。毎年お正月には、キヨちゃんが僕たちを、伊豆の高級旅館に招待してくれる。これが、敷地がひろーくて、部屋ごとにちゃんとした庭があって、こっちの部屋の庭からは別の部屋が見えない、すーごい広い贅沢な旅館なのだ。そこに夫婦二組で出かけて行くんだ。

 ある時、モトニョーが子宮ガンになった。その時、病院に連れていったのが、眞知子だった。病院であと数ヵ月の命だと宣告されて、手術しましょうって言われたけど、モトニューは手術は絶対に嫌だって言い張った、民間療法で治したいって意志があったんだ。で、民間療法で、治っちゃったんだよ。不思議だね。いまは、前より太ってるもの。

 僕がガンになって入院した時、本人への告知の前に、まず家族への告知があった。聞きに行ったのは、眞知子とモトニョー。眞知子が声を掛けたんだ。「登茂子さんも、一緒に話を聞く責任がある」って。僕の子供の母親だし。

 そんなふうに、僕のまわりにいる連中って、どういうわけか、みんな仲良くなっちゃう。これは本当に不思議なのだ。


>>眞知子さんと登茂子さんの関係がとても羨ましく思われる


「バカボンのパパよりバカなパパ」①



「バカボンのパパよりバカなパパ 赤塚不二夫とレレレな家族」(赤塚えり子著、徳間書店)より


 第四章  赤塚不二夫はやっぱり「これでいいのだ」

  パパとママの再婚 


 「眞知子さん、本当に偉いね。あんな子どもみたいな人の面倒みて」
 「大丈夫、大丈夫。わたし、おっきな犬飼ってたから」
 眞知子さんは、昔実家で大きなチャウチャウを二匹飼っていた。
 こういう明るさが、わたしは好きだ。悲壮感も大袈裟な決意も哀情の押し付けもまるでない。
 眞知子さんはかいがいしいだけでなく、若さと美貌も持ち併せている。
 ママもこの女性ならと思ったようだ。
 「眞知子さんと結婚したら!?」
 と、パパに勧めた。
 別れたとはいえ、ママはパパの生活ぶりを案じていたに違いない。
 一方パパも、ママがひとりでいるのに自分が結婚するというのは気が引けたのだと思う。
 「おまえ、本当にいいのか?」
 パパはそう答えた。

 ママは婚姻届の証明欄に署名して、86年12月、パパは眞知子さんと再婚した。
 パパと眞知子さんの結婚会見はテレビで中継された。ママとわたしも同席したので、ちょっと面白がられた。前妻が仲を取り持つというのは、一般的にはやはり珍しいことなのだろう。


 第六章  激震! ゆれる家族

  似たもの同士のお隣さん


 ふたつの家族が遊ぶようになってから、ママは、パパのことを「センセイ」と呼ぶようになった。パパはママのことを「ママ」と呼んで、眞知子さんのことは「マチ子」。ふたりを人に紹介するときは、ママを「もとにょう」(元の女房)、眞知子さんを「いまにょう」(今の女房)と言っていた。
 ふたりともパパより背が高くて、気が強くて、パパのタイプ。
 パパはふたりの仲が良いのが殊の外うれしいようだった。


 ママは眞知子さんを支えながらパパを見守ったから、いわばバカボンのママを支える「ママ」だった。


 ママも眞知子さんもパパのことを「まったくどうしようもない」と思う反面、人間的なところでは尊敬していた。だから、女性同士の嫉妬などはない。それどころか、精神的にはふたりでパパの面倒をみていたようなところがあった。口では「しょうがないわね」と云っても、いつも顔が笑っていた。


 江守家の隣の家に眞知子さんとパパが住んでいる。わたしは、そのふたつの家をあれこれと行き来する。わたしの頭の中にあるふたつの家、四人の親たちとの関係はそんな感じだ。
 それぞれの家で、面白いことが起きる。わたしは江守家に属しているが、「行ってきまーす」と軽い気持ちで隣へ遊びに行く。現実は車で十分程度の距離がある。それでも、気分は「お隣さん」なのだ。
 ふたつの家、四人の親たちはたまに集まって誕生日パーティーを開いたり、旅行に出かけたりした。そこで巻き起こる騒動を、わたしはいつも楽しみにしていた。
 親が四人もいると、こちらとしては堂々と子どもの主張をするしかない。だから、わたしはいくつになっても、ママとキータンとパパと眞知子さんの子どもという意識が抜けなかったし、それは今も変わらない。


>>赤塚家に新しい時代に相応しい新しい家族像を見る


「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」


「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」(水木悦子、赤塚りえ子、手塚るみ子、文藝春秋)より


 第5章  父の女性観

  オトコにもてない男はだめだ

--赤塚先生は、家族から「外ヅラ仮面」ってあだ名をつけられたっておっしゃってましたね。みんなと仲良くやってるんだろうなと思っていると、でも一方で、第一印象だけで「あいつはだめた」って指摘する面もあったそうですね。

赤塚 なんかね、人の悪口っていう感じではないんだけれど、でも、「男にもてない男はだめだ」って言ってました。「女友達がいっぱいいても、男友達のいないような男は絶対だめ」って。男に愛される男に・・・・・・。


 男といるほうが楽しい。女の人は好きなんだけど、でも男といるほうが好きだったし、男とお酒飲むほうが楽しくて。で、女の人にやきもちみたいなの焼かれるのが大嫌いで、だから・・・・・・。そういうところは、女はだめだと思っていたみたい。やきもちとか。


手塚 赤塚先生にとっての女性は、お母さんなんだよね。

赤塚 そうなんです。

手塚 とりあえず自分を受け入れてくれる。束縛じゃなくて。

赤塚 お母さん以外は必要ではないんだよね。

手塚 自由にさせてくれて、なおかつ受け入れてくれるっていう、そんな女性さえいればいいと。あとは人生、男同士で楽しくやっているから、みたいな。

赤塚 そう、ほんとそのとおりですよ、結局は。女の人とそういうことするっていうのはあるけど、でもそれが別に恋愛感情だからとか、そういうのが全然なくて。ほんとにだから・・・・・・女性はもう母親。


  あとがき  赤塚りえ子

 わたしの母が突然具合悪くなり、父である赤塚不二夫の隣の病室に入院させることになりました。離婚してから35年が経つふたりの出逢いは、母が女性アシスタント第1号として参入したことがきっかけでした。半年後に結婚、その後「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」が始まりました。漫画で苦楽を共にした同志のような関係は、離婚しても続いたのです。父は脳内出血で倒れ、コミュニケーションがほとんど取れないまま約6年半が経っていましたが、話しかければ聞こえているようでした。だから「ママも入院してるよ」といったわたしの言葉も伝わっていたと思います。

 08年7月末、母が先に、その3日後に寂しがり屋の父は慌てて母を追いかけるようになくなりました。最愛の両親をほぼ同時に喪ったわたしはとてもではありませんが、生き続ける気力を持つことができませんでした。多くの人に励まされましたが、皆さんの期待に応えられるような自分に戻ることは容易ではありませんでした。ふたつの葬儀も終わり約1週間がすぎた頃、わたしを心配した友人だちが「赤塚を励ます会」を開いてくれたことがあります。その席で手塚るみ子さんは「何度でもお父様のことは話した方がいいよ。気持ちの整理になるから」といって、わたしのことをとても気遣ってくれました。るみ子さんは彼女の父である手塚治虫先生を喪った時にはまだ20代前半で、そのことを受け止めるには尋常じゃない努力を要したと思います。その時の経験から学んだことをわたしに教えてくれ、そして、ふたりでお互いの父親のことを語り合いました。その日だけでなく、何度も何度も話しました。そして、るみ子さんのお話が最愛の人を亡くした悲しみときちんと向き合う助けになりました。


>>最近妙に赤塚不二夫の生き様が気になっている


「運命の選択 1940-41」⑬



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より


  解説  決断の「環境」を探る  祭文草谷[歴史研究者]

 本書を読みすすめていけば、大戦当時の指導者たちにとって--ヒトラーやムッソリーニのような独裁者も例外ではない--いかに選択肢がすくなかったかを実感させられるだろう。彼らは「真空」のなかで自由に決断できたわけでも、そのときどきの利害に応じて自在に進退し得たわけではないのである。イデオロギー、社会体制、経済の実情、官僚組織のあり方といった、さまざまな要因によって、彼らの選択肢は狭められていった。言い換えれば、カーショーは、歴史の「イフ」について奔放な空想を広げるのではなく、「なぜそれぞれの選択肢が排除されてきたか」を精緻に検証することによって、決断の「環境」をあきらかにし、実際に選択可能だった政策は何であったか、その実態に迫らんとしているのだ。


>>自分が置かれた環境により選択肢は自ずと狭くなっているに違いない

「運命の選択 1940-41」⑫



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より

  あとがき

 1940年5月から41年12月にかけて、かれらに選択をせまったことどもはどれも頭を悩ますものだった。そのそれぞれのリスクは大変なものだった。後世になって不可避だったと思える経過は、そのときはそのようには見えていなかった。ドイツ、ソ連、イタリア、日本、イギリス、アメリカの指導者たちがその19ヶ月に選択した運命の選択が世界を変えた。

 本書で研究された諸問題のあとも、ほぼ四年間、世界戦争は継続した。軍隊の戦闘とジェノサイドから途方もない犠牲者が生じ、膨大な数にのぼった。1940年夏から42年秋までの二年間にわたる期間、結果がどう転ぶかはわからなかった。ヒトラーと日本の指導部は長期戦になると旗色が悪くなることを承知していた。そしてそのとおりのことが起こった。しかしそれは、ぎりぎりで決まったことだった--一般に認められているよりかれらの勝利は近くにあった。1943年以降になってはじめて枢軸の敗北が視野に入ってきた。最初のうちは漠然と、そしてもう少しはっきりと、最後には華々しく、不屈のソ連の戦争機構と無尽蔵の資源と戦意を有するアメリカという思いがけない組み合わせが、最終的に欧州と極東における勝利を確定した。イギリスと英帝国軍の勇気と忍耐心もナチと日本軍国主義の壊滅に不可欠の貢献をなしとげた。しかしそれは打ちひしがれ破産した、列強としての英国の終幕となった。英帝国の清算がはじまった--段階的ではあったが、決定的なものだった。次の時代は新たな超大国、戦争の勝利者、合衆国とソ連のものとなった。もう一つの将来の超大国、中国の基礎は、極東における紛争に触発された大戦のすぐあとに築かれることとなった。ドイツと日本の指導者たちが思い描いたものとちょうど正反対の世の中が作られた。どれほどの犠牲が払われたとしても、かれらの望む世界がやってこなかったということを振り返ってみる価値はあるのである。


>>40-41年の運命の選択が、結果的に今日に至る第二次大戦後の世界を形づくることとなった


「運命の選択 1940-41」⑪



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より


 第10章  ベルリン/東プロイセン、1941年夏-秋  ヒトラー、ユダヤ人絶滅を決断

  ベルリンでかれらはわれわれにこう言った。
  どうしてあなたがたはこのやっかいごとをすべて、われわれに押しつけてくるのか?
  われわれはオストラント*でも国家管区**でもかれらをどうすることもできない。
  きみたちがかれらを始末したまえ!
  ・・・・・・かれらを見つけ、やってしまうことができるなら、どこででも、ユダヤ人を抹殺しなければならない。
  1941年12月16日 ポーランド総督ハンス・フランク
  * バルト諸国、ベラルーシ、ポーランドの一部などの占領地域
  **ウクライナ占領地域


 ヒトラーにとって第二次大戦は、第一次大戦の災禍を取り戻すべく戦わなければならない。歴史の流れを逆転するのである。そしてワイマールの「ユダヤ人」共和国が持ちこんだ破局に復讐しなければならない。ドイツを荒廃させた1918年11月の「犯罪者たち」がこの体制を作ったのである。その復讐とはユダヤ人の絶滅を意味する。1919年9月、かれは最初の政治宣言に、「すべてのユダヤ人の除去」は、ドイツのいずれの国家政権にとっても、「最初の目的」でなければならないと書いた。その数年後に著された『我が闘争』の巻末に向けて、「前線で数百万が犠牲になることはない」と恐るべき記述をする。戦争が始まったとき、「国民のなかにいる1万2千から1万5千のヘブライの堕落したものたちに毒ガスをあたえればよい」。このことがジェノサイドの青写真になったわけではない。ヒトラーの胸のうちに一度芽生えるや二度と離れることのなかった、戦争とユダヤ人の関連は疑いもなく、かれのジェノサイドの見方の骨格になっていたのである。そして1933年以来、こういう考えを持った人物がドイツを治めることとなったのだ。


 ヨーロッパが一世代のうちに二度目の戦争に追い込まれた主因はドイツの侵略にある。1940年の夏、決定的な引き金がひかれ、これまで見てきた一連の出来事の渦巻きが始まった。そして1941年12月、地球の反対側で起こった紛争は世界大戦に形を変えた。ドイツの侵攻の背後には、アドルフ・ヒトラーの人格に具現されたイデオロギー上の「使命」があった。そしてその「使命」があった。そしてその「使命」に内在する固有のものがユダヤ人の「除去」だった。こうして、ナチのユダヤ人に対する戦争は、第二次大戦--世界がこれまでに知るもっとも凄惨な戦い--の中心に位置し、切り離すことのできないものとなったのである。


>>日本人には、反ユダヤ感情を理解することはできないと思われる


「運命の選択 1940-41」⑩



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より


 第9章  ベルリン、1941年秋  ヒトラー、合衆国に宣戦布告を決断


  かれは日本の開戦のこのうえない意義を強調している。
  とくにわが国の潜水艦戦との関連においてである。
  ・・・・・・総統は日本の開戦がなかったとしても、
  遅かれ早かれアメリカには宣戦布告するつもりだった。
  さて、いま東アジアの戦争が贈り物のように与えられた。
  1941年12月12日、党指導者に対するヒトラーの談話としてつたえられたもの


 第二次大戦中のヒトラーの決断の数々は「判じもの」といわれている。12月11日午後、ヒトラーは国会で行なった演説のクライマックスで、独伊の戦争拡大防止と合衆国との関係維持の試みは「ルーズヴェルト大統領の我慢のならない挑発」の数年を経てついに水泡に帰した、と宣言した。したがってドイツとイタリアは、1940年9月27日の三国同盟の規定にともなって日本側につくこととなった。「ともに防衛戦を闘い、諸国民およびその帝国の自由と独立を米英から保全しなければならない」。公式の宣戦布告は、その日午後の早い時間に外務大臣ヨアヒム・フォン・リッペントロップから、ベルリン駐在米国代理大使に対して重々しく読みあげられた。会見を終わらせる素っ気ない挨拶が独米関係の終焉を告げた。


 1941年末の米国の参戦は、1917年のときと同じように局面を一変させた。英軍に加わったアメリカの兵力は、東方での情容赦のない赤軍の圧倒的な力と一緒になって、ついにドイツを打倒した。しかし1941年12月までに、ドイツの世界支配をめざす賭けはいずれにせよ基本的に負けとなっていた。チャーチルはたしかにそう思っていた--少なくともそのことを口にしたと回顧している。1941年の秋、ヒトラー自身もしばし、ドイツ国民が最後にその強靭さを発揮することができなかったら、ドイツはより強い力に征服され、破壊されて当然である、と初めて無常観にとらわれた様子がある(1945年の初頭、破局を前にしてヒトラーはこの時点に立ち戻ったことだろう)。そのときは明滅した程度のものだったろうが、まったくその通りになってしまった。ヒトラーはうわべの下で、今や完璧な勝利のチャンスが消えてしまっていることを認識していたようである。東方の計画は破綻した、そしていま、アメリカとの戦争が避けられなくなってきている。

 自ら宣戦布告することで、ヒトラーはこの不可避性の先を行くこととした。これは先んずれば人を制すの典型例となるような大胆な行動だった。これはしかし、自滅の入り口への第一歩となった。


>>ドイツの対米宣戦の政治決断がなかったとしても結果的には同じだったに違いない


 

「運命の選択 1940-41」⑧



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より


 第7章  ワシントンDC、1941年夏-秋  ルーズヴェルト、宣戦布告なき開戦を決断

  かれが議会へ戦争か平和かと持ちかけたとすれば、議論に三ヶ月はかかっただろう。
  大統領は戦争をすることになるだろうとは言ったが、宣戦布告はしなかった。
  かれはいっそう挑発的になった。
  ・・・・・・かれは戦端を開くことを正当化する「事件」の発生を期待している。

  1941年8月19日、ルーズヴェルト大統領発言に関するチャーチルの報告


 1941年秋、ルーズヴェルトはドイツに対する部分的、かつ無宣告の戦闘行為をできるだけ長く継続することを決意した様子だった。チャーチルが要望し続けてきたことを断る理由づけとして、大統領がハリファックス卿につたえた言葉がある、どのみち「宣戦布告はもう流行らなくなっているのです」。イギリス(そしてソ連)向け支援物資の大西洋横断の輸送は11月の終りから12月初めにかけて、抑制的で挑発を回避するよう行われており、大統領にはこれまでの対独関係を性急に変えようとする意思が見られなかった。

 
 「ヨーロッパのわれわれの敵を滅亡させるためには、合衆国の参戦が不可欠である」。ルーズヴェルトはその日を先延ばしすることを望んでいた。しかしナチズムが打倒すべきものであるならば、無期限に伸ばすわけにはいかない。

 勝利計画は、「日本は先の見通しがつくまで手をつけないでおく」と勧告していた。1941年11月まで先の見通しはたしかに立っていなかった。ルーズヴェルトは合衆国をがけっぷちまで導こうとしていたが大西洋を超えずにすむよう希望していた。日本は瀬戸際においておくつもりだった。1941年12月7日[現地時間]、快晴の朝、南太平洋に停泊中のアメリカ艦船の上に炸裂した爆弾で、かれの夢は打ち砕かれた。

 その朝のこの出来事はアメリカの見通しからすればおぞましいものだった。しかし、準備に怠りはしなかったものの、せまりくる世界戦争への参加に踏みとどまっていたルーズヴェルトは、ついに戦争へと国民を一体化させ得る機会を手にしたのである。


>>真珠湾攻撃が米国の参戦を決意する『事件』となった


「運命の選択 1940-41」⑦



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より

 第6章  モスクワ、1941年春-夏  
       スターリン、自分が一番よく知っているとして決断

  お前さんたちに知ってもらいたいのは、ドイツは自分からロシアに向かってくることはないということだ。
  ・・・・・・国境でドイツ軍を挑発しようものなら、許可なく軍を動かしたりしたら、
  首が飛ぶことを覚悟することだな。
  1941年5月中旬、スターリンの軍幹部への言葉と伝えられたもの


 数年のちになって、1941年当時参謀本部の作戦部次長で、1942年から45年にかけて参謀総長兼国防人民服委員だったアレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は、スターリンの何がなんでも戦争を回避するという姿勢をきびしく批判している。ヴァシレフスキーは次のように言う。

 スターリンは、そこから先にいってしまうことは不必要であるばかりか危険である、という線のあることに気がつかなかった。そのような線を正確に決めておかなければならなかった。最高速度で軍を完全戦闘態勢にととのえ、総動員を加速し、全国をまとめて一つの兵営に転換させなければならなかった。武力闘争を繰り延べるのであれば、その間に秘密計画のすべてを遂行し、より早期に完了しておかなければならなかった。ドイツが攻撃を企んでいるという証拠は充分すぎるほどにあったのだ・・・・・・。われわれの制御のおよばぬ状況によって、われわれはルビコン川に直面した。断固として一歩を踏み出さなければならなかった。

 
 1940年夏、スターリンの顧問たちは日本の指導者が南方進出に傾いていることを知っていた。したがって、東方から日本が先に攻めてくるという可能性はほとんどなくなっていた。抑止力を見せつけておけば、1941年夏の貴重な数ヶ月、ドイツの兵力増強を野放しにせず、その攻撃を食い止めることができたかも知れなかった。また、ソ連が強いと宣伝することによって、ドイツ指導部に定着していた赤軍弱しというイメージを払拭させる可能性もあった。そうすることをせず、スターリンは挑発しないという原則にこだわって、数次にわたるドイツの偵察飛行を許し、ソ連軍陣地と兵力展開の詳細を撮影させてしまった。これは赤軍兵士を片づけるのは簡単だという印象を与える根拠になった。スターリンが厳しい立場におかれていたことは疑いようもない。しかし抑止策をとらず、挑発しないことを第一としたことはもう一つの致命的な選択だったと言える。


>>2500万人もの市民が命を落とす結果となったスターリンの不作為の決断の責任は重い


「運命の選択 1940-41」⑥



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より


 第5章  ワシントンDC、1940年夏-1941年春 ルーズヴェルト、手助けを決断

  イギリスにはこう言おう。必要な大砲、船舶は送ってあげます。
  戦争が終わったとき、大砲、船舶の現物を返してくれれば良いのです・・・・・・きみ、どう思う?
  1940年12月17日、ルーズヴェルト大統領

  あなたがきちんとリードしないかぎり、実際にリードしたときついてくるかどうか、
  人々が自発的に教えてくれると期待してはいけませんよ。
  1940年4月22日、陸軍長官、ヘンリー・スティムソン


 司法長官が、該当する駆逐艦群は国家安全にとって重要ではないと証明できる-明らかにこじつけではあったが-という法務上の見解を提出したことでルーズヴェルトには自信が戻ってきた。8月17日、カナダのマッケンジー・キング首相に、問題は議会にかける必要はない、イギリスは一週間しないうちに駆逐艦を手にすることになる、と語った。これは楽観的だったことが判明した。譲渡契約の成案ができたのは月末だった。最終案の完成を遅らせたのはチャーチルの方だった。基地の貸与について英国民にあまりはっきりさせず、アメリカの全面的な好意によるものであるように内容をぼかすため、案文にあれこれ手を入れたのである。些細ではあるが厄介な問題点がようやく解決できた。8月30日、大統領が承認を与えた。9月2日の夜、合衆国を代表してコーデル・ハルが、英国を代表してロシアン卿が協定に調印した。翌日スターク提督は、獲得した基地に鑑みて、駆逐艦群は国家安全にとって重要ではないと証明した。関係艦船はノバ・スコシアのハリファックスへ向かい、イギリスの所有権の下に入った。


 参戦に対する懸念は依然として強いものがあったが、伝統的孤立主義はいまや勢いを失っていた。重要な点は、アメリカはすでに実質的な中立を放棄している、と広範に認識されていたことである。

 イギリス人にとってはそこが要だった。合衆国はもはや国際法条規のいずれに照らしても中立国ではなかった。 



 1941年の春には事情が変わっていた。兵器生産が軌道に乗ると、アメリカの軍事力は急速に強化された。アメリカ海軍が積極的に行動すれば大西洋のイギリスの損失を大幅に食い止めることができただろう。(しかし、5月にドイツのエニグマ暗号機を鹵獲し、Uボートの暗号を解読したことでその後六ヶ月の船舶の喪失は大幅に減少した。)その点でヒトラーも大西洋におけるアメリカとの海戦を極力避けることに神経をつかっていた。アメリカとの交戦は、東部で第二の戦線を開くことに対するベルリンの不安を深めたことだろう。だが幸いにもヒトラーは、東部における長期の血みどろの戦いに変わってしまう計画に固執していた。それは、まさにアメリカ-そしてイギリス-がそうなってほしいと望んでいたことだったのである。いずれにせよ、迅速かつ大規模な奇襲でソ連を転覆するというヒトラーの意図を抑制する要素は何もなかった。実際、ヒトラーはアメリカと経済的、軍事的に真正面から対決するには二、三年の余裕があると見ていたので、イギリスを和平交渉に追い込むためには、ソヴィエト連邦に短時日で致命傷を与えることが正解、と自己診断していたのだろう。

 さて、フランス陥落と「バルバロッサ作戦」発動の間の時期、アメリカ参戦問題はなんらの進展も見せず、ドイツの蛮行の予定表を変更させるものではなかった。アメリカ国内では独ソ開戦はどんな影響を与えたのだろうか? 国家を戦争に導く試みは大反対に出会ったことだろう。1941年5月の世論調査でも、国民の五分の四が参戦を拒否していた。ルーズヴェルトが戦争を唱えたとすれば、国論は分裂し、19491年12月以後に起こったことと正反対のことが起こっていただろう。

 しかしそれは無駄な議論である。ルーズヴェルトはどの時点でも戦争しようと思ってはいなかった。そんなことをしようものなら、即刻手厳しい反応に(孤立主義者陣営からのみならず)見舞われたことだろう。1940年10月、かれはボストンにおける大統領三選運動の演説で、アメリカ軍を海外の戦闘に派遣することはないと明確に発言していたのである。どのみち、国の世論の動向にかかわらず、議会が宣戦布告を了承する見込みがほとんどないことをかれは充分承知していた。

 ルーズヴェルトに密着している助言者たちのなかにもいる国内の参戦主義者、そしてもちろん多くのイギリス人はアメリカの避戦の姿勢に苛立ち、批判していた。しかし大統領の用心はどんなに頭のくるものであっても賢明だった。かれの綱渡りは成功した。とうとう戦争となったとき-それは大統領の直接行動によるものではなく、敵対勢力の攻撃の結果だった-、そのことが明確に証明されたのである。


>>駆逐艦取引によりアメリカが非中立的非交戦国となった裏にはチャーチルあり


「運命の選択 1940-41」⑤



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より


 第4章  ローマ、1940年夏、秋  ムッソリーニ、分け前獲得を決断

  ヒトラーはいつも既成事実を押しつける。今度こそお返しするのだ。
  ヒトラーは新聞でわたしがギリシアを占領したことを知るだろう。これでバランスが取れるのだ。
  1940年10月12日、ムッソリーニ

 ムッソリーニはここ数年、ファシスト国家イタリアがヒトラーの後塵を排し続けていると痛感していた。かつてイタリアはヒトラーと対峙するにあたって、先輩として振る舞ってきた。しかし1930年代の後半、ドイツが対外政策で政策で成功を重ねつつ領土を拡大していくと、その立場は逆転した。ムッソリーニは二流の独裁者になってしまうことに我慢がならなかった。そしていま、これまでにない好機が到来した、ドイツの虎の威を借るべきときである。枢軸の枠内で独自の要求を実現していくこと、これがイタリア参戦の基本的な動機だった。しかし数ヶ月でその思惑は挫折した。並行的に独自な戦いを進めていくということとはほど遠く、イタリアはヨーロッパにおけるドイツの覇権のおまけに過ぎなくなっていた。

 その二流の芝居のステージは、それから五ヶ月経たぬうちにとられた二度目の決断、1940年10月のギリシア侵攻で始また。10月28日午前六時、イタリアは占領地アルバニアの国境を越えて北部ギリシアに侵入した。ギリシア軍はたいした障害ではないとみられた。すぐに勝利が得られるだろう。ポーランドを破った1939年秋のドイツ軍のように、ムッソリーニはアテネで勝者として君臨するところを想像した。ギリシアの打倒は、かれの夢見るバルカンと地中海の帝国造りの核となる第一歩になるはずだった。しかしこの戦いは大失敗に終わった。ギリシア軍は勇敢だった。複雑な地形をよく知っており、旺盛な士気で侵入軍を撃退した。二週間のうちに、手に入るはずの勝利は、ムッソリーニ政権に対する侮蔑に取ってかわられてしまった。


 参戦とギリシア侵攻、この二つの運命の選択はムッソリーニ自身が行なった。そのかぎりでは正しい。しかしどうしてそうなったのか? どこまでがかれ一人の決断だったのか? ファシスト国家の権力エリート、とくに軍幹部の希望、関心に、独裁者の裁量はどこまで優先できたのだろうか? または、ムッソリーニの「決断主義」なるものは、体制全体の優先順位の単なる反映にすぎなかったのだろうか? 決断は基本的に、実利を目的になされたのか、思想的になされたのか、短期的損失だけを狙ったのか、長期目標に基づくものだったのか、イタリアの永年の宿望からさらに進んだものだったのか、逆にそれらの宿願を当然のこととしてみたしただけなのか? とりわけムッソリーニの決断は、実際問題、参戦して拡張主義に走らざるを得ないという限定的な状況でなされたのか? または、さまざまに好ましい選択肢があり、1940年の夏から秋にかけてそれらが現実的なものとなったというのに、ムッソリーニと彼の政権はそちらを選ぶのをやめて、西欧の制服者ドイツのお裾分けを気楽に取るとの夢を選んだのだろうか?


 ギリシア敗走の責任がムッソリーニにあるとはいえ、一人だけが責められる筋合いでもない。1940年12月、「一人、たった一人が」イタリアを「荒廃の危機に導いた」というチャーチルの非難は、正当な分析によるものではなく、戦中のレトリックにすぎない。ファシスト体制のほかの部門のパワー・エリートたちは少なくとも共犯関係にある。とにかくファシスト体制は年月をかけて、指導者を教祖とするのみならず、末端にいたるまで決定責任を放棄させ、独裁者一人の手中に決定権を委ねた。ナチ・ドイツと同じように政治的に腐敗したこの体制は、隷属、盲従、屈従、追従を生んだ。くわえて、あらゆる政治機構は門構えだけのものになってしまった。代表機関とは表向きだけで、内実はプロパガンダと、指導者に喝采するのがその仕事だった。分割統治、独裁者の恣意による昇進、報奨を原則とするシステムのもと、反対組織の構築は不可能も同然だった。独裁者は繰り返して無謬であると吹きこまれ、常に甘言を信じこんだ。ほかのものたちは、追従するか、皮肉に振舞うかにかかわらず、この政治ゲームのルールにしたがった。うまくいっているとき、たとえば1936年、弱い敵に対して安手の勝利が得られたとき、全員は喜び、勝利の果実を分け合った。うまくいかなかったとき、1940年とそれ以降、かれらは分担すべき責任を隠し合った。その結果は自分たちに跳ね返るばかりだった。ムッソリーニの愚かな決断は、かれの個人的欠陥の反映だった。しかし、それは愚かな政治システムの欠陥でもあったのである。


>>敗戦の責任をムッソリーニ一人の愚かな決断に押しつけることはできない


「運命の選択 1940-41」④



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より


 第3章  東京、1940年夏、秋  日本、「絶好の機会」を捉えることを決断


  絶好の機会を捉えよ! 何事にも邪魔されるな!
 
 1940年6月25日、陸軍大臣 畑俊六


  史上最大の好機いたれる。一層の国威発揚を図るべくただちに準備を要す。
  ・・・・・・眼前のこの好機逸すべからず。

  1940年7月4日、陸軍からの声明


 太平洋戦争が日本を破局に導いたのち、日本は再建を果たし、米国に異存しつつ、資本主義的競争および市場経済を基本とする世界貿易に参加することに成功し、空前の繁栄を享受することができた。しかし、1940年当時の日本のメンタリティは、数年のちの瓦解から立ち上がったときのものとは異なり、敗北意識でいっぱいだった。アメリカに次第に好戦的な声音で脅かされ、原材料確保のための帝国主義的拡張以外の方策は心理的にもあり得なかったのである。

 アメリカとの和解は前提から外れて(アメリカが中国政策を180度転換することは考えられなかった)、拡張主義--危険に満ちてはいるが--が採用された。1940年春のヨーロッパにおけるドイツ軍の華麗な勝利が、自ら求めていた「陽の当たる場所」を手に入れる絶好の好機到来と日本に思わせたのである。好機を逃してはならない。日本は7月の決断で自らの課した国際的孤立を破り、勝ち誇る枢軸の方向へ忠節を誓う道を選んだ。これまで見てきたように、日本のエリートのなかでこの政策に反対するものは急速に力を失った。9月初めに海軍の反対が消失すると、その月の後半には三国同盟が締結されることがはっきりしてきた。

 日本は運命の選択をした。それは必ずしも太平洋の戦争を意味するものではなかった。真珠湾攻撃の決断にいたるまではまだ道のりがあった。しかし、1941年の運命の選択の前には、その前年の夏から秋にかけて選択があった。日本は袋小路に追いこまれた。中国問題で妥協を図らぬつもりであれば、日本は太平洋で戦争のリスクを取ることしか出口がなかった。日本は南進を決意し、独伊との軍事同盟を指向した。真珠湾への道は刻々と近づいてきた。


>>大東亜戦争に至る日本の選択にはやむを得ないいくつもの背景があった


  

「経済と人間の旅」②



「経済と人間の旅」(宇沢弘文著、日本経済新聞出版社)より


  ヒューマン・キャピタル

 学校教育、というよりは教育一般について、デューイの三原則に加えて強調したいことがある。それは、教育というのは、子どもたちの一人ひとりがもっている本有的(innate)な能力をできるだけ伸ばし、発展させることだということである。子どもたちの一人ひとりは、それぞれ固有の分野について、すばらしい本有的な能力をもっている。それは、ちょうど花の蕾のようなものである。それは絵を描くことであったり、歌をうたうことであったり、むずかしい数学の問題を解くことであったり、生物の生態を観察することであったり、一人ひとりの子どもについて、それぞれ特有の分野についてである。

 教育のもっとも大切な機能は、一人ひとりの子どものもっている、この本有的な能力の蕾を大事に育てて、みごとな花に開花させることだ。子どもたちのもっている、この蕾はじつに繊細な、こわれやすいものである。しかも、子どものときに、適当な刺激を与えて、蕾が大きくなるようにしなければならない。ある程度、子どもが成長してしまうと蕾はしぼんでしまって、どんな刺激を与えても、駄目になってしまうものだからである。


  学校教育の経済的意味

 フリードマンは、各経済主体は、すべての経済行為について、自らの主観的効用を最大にするように選択するという前提の下に議論を勧めている。そして、すべての希少資源に対して、私的所有ないしは私的管理の原則が貫かれ、完全競争的な市場を通じて、希少資源の配分と所得の分配が行われるときに、「最適」な状態が実現することを強調した。ベッカーの教育経済学も、経済体制のあり方にかんするフリードマンの考え方をそのまま踏襲し、希少資源の私有制の下における分権的市場経済制度を想定して考えを進めようとするものである。

 これに対して、学校教育を社会的共通資本の一つの構成要素と考えるとき、教育の本来の目的が達成されるように、教育にかかわる専門家たちが、その職業的規範にしたがって最良の教育を行うように努力することが要請され、そのときに生じる財政的コストは何らかの形で社会的に負担しようということになるわけである。このことは、社会的共通資本一般に適用されるのである。  (初出 1998年1月1日~16日付『日本経済新聞』「やさしい経済学」)
 

>>子どものもつ蕾がしぼむ前に大きくする学校教育を本気で考えねばなるまい


「経済と人間の旅」①



「経済と人間の旅」(宇沢弘文著、日本経済新聞出版社)より


 日本経済を社会的共通資本から考える


  三つの類型

 社会的共通資本の具体的な形態は、三つの類型に分けられる。自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つである。この分類は必ずしも、網羅的でもなく、また排他的でもない。社会的共通資本の意味を明確にするための類型化と考えてもらって構わない。


  最も重要な教育と医療
 

 社会的共通資本としての制度資本を考えるとき、教育と医療がもっとも重要な構成要素である。教育は、一人ひとりの子どもたちが、それぞれもっている先天的、後天的能力、資質をできるだけ育て、伸ばし、個性ゆたかな一人の人間として成長することを助けようとするものである。他方、医療は、病気やけがによって、正常な機能を果たすことができなくなった人々に対して、医学的な知見にもとづいて、診療を行うものである。いずれも、一人ひとりの市民が、人間的尊厳を保ち、市民的自由を最大限に享受できるような社会を安定的に維持するために必要、不可欠なものだからである。


  学校教育の三つの機能

 デューイは、人間が神から与えられた存在ではなく、各自が置かれている環境に対処して常に人間としての本性を発展させようとする知性をもった主体的存在としてとらえようとする。そのとき、リベラリズムの学校教育にかんする基本的な考え方が提示されるわけである。それは、デューイがその古典的な名著『民主主義と教育』のなかで、学校教育制度が果たす機能として挙げた三つの機能に要約される。社会的統合、平等、人格的発展の三つの機能である。

 デューイが学校教育の果たす第一の機能として取り上げているのは、社会的統合だ。子どもたちが、各自の育った狭い家庭的、地域的環境を超えて、多様な文化的、民族的、社会的背景をもった子どもたちと、学校でともに学び、遊ぶことによって、お互いに人間的共感をもち、社会的存在としての意識を育てるのが、学校教育の果たす重要な機能であるとデューイは考えたのである。

 第二の機能は、平等にかかわるものである。子どもたちの一人ひとりが、その経済的、地域的、社会的集団の枠を超えて、斉しく学校教育を享受することができるようにすることが学校教育の重要な機能であるとデューイは考えた。学校教育によって、社会的、経済的体制によって必然的に生み出される不平等を効果的に是正することができるというこのデューイの理念は、公立学校の制度の下ではじめて実現することになるわけである。

 デューイが強調した学校教育の第三の機能は、子どもたちの知的、精神的、道徳的な発達をうながすという点。一人ひとりの子どもは、それぞれ異なった身体的、知的、道徳的、芸術的能力をもっていて、学校教育を通じてこれらの戦時的能力を十分に発達させることが可能になってくるとデューイは主張したのである。


>>学校教育を改めて見直す時期にきているに違いない



「幽囚回顧録」⑧



「幽囚回顧録」(今村均著、秋田書店)より


 第五章  スカルノ大統領の回想

  5 司令官を奪取せよ


 「きみらにそれを伝えたスパイの看守を通じ、独立政府に、次のように返事してほしい。“日本の武士道では、そんな奪回に会い生き延びることは不名誉のことにしている。まして私を救うための兵力と、オランダ兵との間に銃火が交えられ、双方に犠牲者を生じさせることなどは絶対に避けたい。が、私の死刑執行以前に、今やっている独立戦闘の結果このチビナン監獄が独立軍の手におちるようなことがあり、そのとき、この場所からどこかに連れて行かれる場合には、拒否などはしない。スカルノ政府の厚意には大いに感謝はするが、奪回には応じないことを諒承してください”かように伝えてください」


 (追記) 意外にも私に対する死刑求刑は、裁判長により否認され、けつきょく、蘭印総督の干渉で無罪を宣告され、従って、右の刑場に引かれて行く途中の奪回計画はその必要がなくなってよかった。が、私一個人としてはスカルノ氏の厚意を多とした。


  第六章  戦争裁判の概観(あとがき)

 ・日本陸軍で死刑になった軍司令官以上の者は、米国関係で山下大将のほか、比島攻略時の最高指揮官本間雅晴中将、日本本土を無差別爆撃したB29搭乗員の処刑事件で、東海軍司令官岡田資中将がある。その他豪州関係ではボルネオ軍司令官馬場正郎中将がラバウルにて、またジャワ島最高指揮官原田熊吉中将が、豪軍の飛行士殺害事件でシンガポールにて、スマトラの最高指揮官田辺盛武中将がオランダ・メダン裁判でいずれも処刑され、中国関係では、広東軍司令官田中久一中将が、広東裁判で処刑された。A級裁判で処刑された南京事件当時の最高指揮官松井石根大将は、有罪の訴因が南京事件だけであったから、南京裁判で刑死された谷寿夫中将と二人で、この事件の責任を負わされたことになる。

 ・海軍では、根拠地司令官たりし大杉守一、鎌田道章、醍醐忠重、原鼎三、森国造、阿部孝壮中将および岡田為次少将が処刑された。これは根拠地隊が、占領地の行政と捕虜を取扱っていた関係である。なお、戦隊司令官左近允尚正中将は香港で処刑されたが、艦隊長官以上で刑死した者はない。連合国戦争犯罪法廷の裁判は、26年4月9日豪州マヌス島において終了した。

・七ヵ国で起訴された総人員は5,487人、有罪4,370人、無罪起訴却下未決死等1,117人で有罪の内訳は死刑937人、終身刑335人、有期刑3,098人である。

 そのほかソ連政府は25年4月22日タス通信を通じて、残留戦犯または取調中の者1,487人、中共に引渡さるべき戦犯容疑者969人と発表した。中京では山西軍に参加した日本人約700人も戦犯容疑者として収容された。

・7ヵ国の裁判既決者の内地への出発場所で、おもな拘禁箇所であったところは左の通り。

 米     上海、マニラ、グアム
 中国    上海
 蘭     チビナン
 仏     サイゴン、プロコンドル
 英・豪州 香港、ラングーン、シンガポール、(北ボルネオを含む)
 比     モンテンルパ
 豪州    ラバウル、後にマヌス

 中国関係既決者は、日華平和条約の議定書によって、その運命は、まったく日本政府にまかされ、28年8月5日同条約の発効とともに全員釈放された。

 その他の六ヵ国については、逐次、釈放減刑され、昭和33年5月30日、米国関係既決者が最後に釈放され、終身刑などで仮釈放中の者もその年の12月20日を終期とする刑に軽減された。  (全国戦争犠牲者援護会調べ)


>>戦争裁判で犠牲になった人に対する今村大将の思い・・・・・・


「幽囚回顧録」⑦



「幽囚回顧録」(今村均著、秋田書店)より


  第六章  戦争裁判の概観(あとがき)

・1942年1月13日ドイツ軍によってその領土を占領されたヨーロッパ九ヵ国はロンドンに会議を開いて、被占領国でのドイツの恐怖政治は政治犯罪で、これらの犯罪に有罪で有責な者を処罰することを主要な戦争目的のうちに入れることを決議した。これがセントジェームス宮殿の宣言であり、日本のことには触れていない。もっともこの原則は、中国政府によっても受諾された。

・1943年11月1日ルーズベルト大統領、チャーチル首相およびスターリン首相によって署名された残虐行為に関する声明書が発表された。このモスクワ宣言で、虐殺に関与したドイツ人は、自己の犯罪の現場に送還される。すなわち、戦争犯罪はその犯行地で、被害国民から裁判されることが定められ、また、その犯罪が特定の地理的制限を有せず、かつ連合国諸政府の共同決定で処罰される重大犯罪人、すなわちいわゆるA級戦争犯罪人の裁判があることを明らかにしたが、その対象は、ヒトラー一派であって、日本については触れていない。

・1944年3月24日ルーズベルト大統領が声明書を発表した中に、“ヨーロッパの大部分とアジアのある部分では、ナチと日本人による一般人民に対する組織的な拷問と殺害が続いている。ワルソー、リテイス、カルコフおよび南京の虐殺--一般人民のみならず、わが勇敢な米軍人と飛行士に対する日本人の残忍な拷問と殺害”と述べて、日本人の戦争犯罪に触れている。

・連合国が日本の降伏条件を示したポツダム宣言第十条の中に「われわれの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳密な処罰が加えられるべきものとする・・・・・・」と述べている。

 これを要するに、ドイツ軍なかんずくヒトラー一派のナチによる戦争犯罪および人道に対する犯罪を処罰しようとする声が、ヨーロッパに起って、戦後処理として日本人に対しても、この種犯罪を連合国で追求することとなった。そして第一次大戦後においてドイツ戦争犯罪人に対する裁判が失敗に終ったと考えた連合国は、大がかりの戦争犯罪人の捜査と、裁判を実施することとなった。

 右の声明でもわかるとおり、日本人の戦争犯罪を採り上げたことについては、主として日本軍と決戦を交えた米軍が、主導的役割を果したと見るべきであろう。

 日本人に対する各国ごとの戦争裁判は、米・英・豪・蘭・仏・中・比国の七ヵ国のほか、ソ連および独立後の中共によって行われた。そのうちソ連の行なった戦争裁判の全貌は明らかでない。対日平和条約第十一条に示された「日本国内および国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判」とは、前述七ヵ国の裁判をいうのである。

・裁判は、五十余ヵ所で行われた、その最初は、比島方面日本軍最高指揮官山下奉文大将に対する裁判で20年10月8日からマニラで南西太平洋米陸軍司令官の任命した軍事委員会によって行われた。

 なお、戦時中、間諜行為や戦時重罪で行刑された日本軍人や一般邦人が、グアムや比島にあるが、その状況は遺憾ながら明らかでない。

 山下裁判の弁護人が、米軍将校(法務官)であったから、米最高裁所に請願等をしたため、この裁判に関して行われたいろいろの議論が、その後の裁判に引用されることとなった。


>>日本人の戦争犯罪を主導的に採り上げた米国に戦後の復興を支えられた・・・・・・


 

「幽囚回顧録」⑥


「幽囚回顧録」(今村均著、秋田書店)より


  ハ  天皇陛下

 まず新憲法だが--人伝えだから、ほんとうかどうか、責任をもって言えるものではないが--あれは日本人が作ったものではなく、アメリカ軍司令官から、こうせよ、とむりに授けられたものだそうだ。だから平和会議でもすみ、独立国家になり得たときは、必ず日本の国体にしっくりはまったものに、改められるに相違ないと信ずる。

 
 陛下ご自身が“現人神などではない”と仰せられたことは、私はありがたく考えている。われわれがついこの間まで、奉誦している勅諭には“朕は爾等の頭首”とは仰せられているが、“爾等の現人神”などとは一言もお示しがなく、教育勅語の中にも、そのような“神”などとは申されてはいない。反対に明治天皇陛下は、広く国民に信教の自由をお認めになったが、天皇を現人神としてあがめるようなどとは、決してお諭しにならなかったのである。


 わが陛下にしてもそうである。国民の一人--総家長--としての人間であらせられるから、われらは信じ尊び愛し得るので、“現人神”などと言う、国民とちがったものにすることは、国体的ではない。陛下がこのたび、みずから側近者のむりに作った天の岩戸をおしあけられ、人間として国民の内にお進みになり、民衆とともに惨苦をともにせられる御姿こそ、私は尊くかつ親しく拝される。

 前述のように、平和条約成立後、きっと憲法に再度の修正が加えられる、そのときこそ、国民の創意が反映するほんとうのものが作られると思うが、自分一個の考えでは、陛下はつねに国民精神の中軸に立たせられ、学問、体育、芸術、慈善などの御奨励におあたりになり、政治上のことは精神的のものは格別、その他は国民の推す者にお任せになられるのがよいのではないかと思う。

 ともかく私は、天皇を拝するのは、ちょうど日の丸を仰ぐときと同様、日本国家そのものを拝する気持ちであったので、これは将来も変わらない。だから日本の国体はアメリカ軍司令官のおしつけた憲法などでは、どういう形になっても、実質は変るものではないと信ずる。


  昭和23年11月  今村均


>>戦後70年経った未だに改められていない憲法を今村大将はどう思われるのだろう


「幽囚回顧録」⑤


「幽囚回顧録」(今村均著、秋田書店)より


 第三の事情は、国民全部のつきつめた気分だ。きみが、あんなにも、全国民が一生懸命になり、いっさいをささげて行なった聖戦が、なにゆえに成らなかったのか、 と私に尋ねる。同じ疑惑と不満とは、全民衆に共通したものである。真剣であっただけ、それだけ、失望は大きく、勝つと誓っておきながら、なんたる体たらくだ、いったい軍はどんな戦争をしたのだ、いつも勝った勝ったと大きく放送しながら、あれはうそだったのか、と憤慨するのはもっとものことである。英国のように、国民を信頼し、負け勝ちをなんの粉飾なしに真実を知らしめるやり方とちがい、負けはいっさいひたかくしにし、または巧みに言いつくろい、勝ちだけを五、六倍に拡大して聞かせるようにした要路の人たちの間違いから、わが同胞が、もう撃ち落としていなくなっているはずの米軍爆撃機が、日ごとにふえ、いよいよ多くの爆弾や焼夷弾を浴びせかけることを不審にし、軍部のうそつきめ、とののしったとて、どこに無理があろう。ただひたむきに、戦勝だけにいっさいをささげつくして丸裸になった国民の前に現れたものは、勝ち誇った最優良装備の米軍であっては、信頼の度が強かっただけ余計に軍に対するふがいなさが感じられ、ただこれだけにいきどおりののろいが発せられることは自然である。いな、敗戦のくやしくてくやしくてたまらないうっぷんは、せめても、こうののしっているのでなければ、たまらないのである。--がこの国民大衆ののろいは、前に述べた、いわゆる知識人たちのものとは、完全に別のものである。ちょうど試験に落第した愛児に対し、あんなにも家中かかって勉強させたのに、と愚痴ると同様、そののろいの声の下には涙がいっぱいになってい、中にはぼろぼろ泣きながら、おこっているものもあるのだ。


 昭和23年9月の“改造”誌上を見ると、一左翼評論家がつぎのようなことを言っている。

 “近来、勤労階級層の間に澎湃として起きかけている愛国の思想が、また再び誤った方向をとるようになったら、民主平和日本の発展に大きな障害となるであろう”

 これからみても、前述の国民大衆は、いつでも依然として、軍人一般を、不忠者だなどとは思っていないのだろうと推察される。もっとも私などのような大きな責任者は、国民の不満が幾分でも安まるため、もっともっと、大きく非難されることを本望としてい、実際なんと言われたって、しかたのないほどの罪過を国家に負うていることを自認している。戦勝のときに、功一級などを与えられる地位の者が、戦敗を招いた場合、罪一級をこうむることを避けようとすることは、これこそ許すべからざる厚顔無恥と言わなければならぬ。


>>どう責任を取って生き続けるか、今村大将にあやかりたい


「幽囚回顧録」④


「幽囚回顧録」(今村均著、秋田書店)より


 第二の事情は、終戦前までの長い間、思想上また能力上、時の指導階級にいれられず、野にあったか、またその下積みになり、驥足を伸ばし得ずにいた不平不満の学者、文人、思想家、政治家が、いっせいに右の米軍宣伝の波に乗り、いっさいの愛国的または民族的言論が、進駐軍により絶対に禁圧されている虚につけこみ、米軍の強力な支持と、庇護のもとに、旧指導階級排撃の論陣を張り、攻撃重点を、軍部とこれに関連をもった人々に集中し、ついに公職追放の名のもとに全部を排斥し、これにかわって権力の地位についたものは、その庇護者の旨を奉じ、みずから、日本民族は、軍閥の指導により、世界に対し、不正義を強行しようとしたものだ、と肯定するまでに隷属的となってしまった。はなはだしい者になると、もちろん、ごく少数ではあったが、数年前まで、それらのいう軍閥の高位にあり、またはその中心に近く活動し、事変に功があったと認められ、君国から大きく叙勲され、ありがたくこれを拝受した高級軍人までが、声をあわせて、そのかつての戦友、部下の死屍にむちうつような、非武士的言動をあえてして恥じなかったものさえあったのだ。

 旧軍人層の人々は、祖国をこのような敗戦に導き、八千万同胞を塗炭の苦しみに陥らしめた罪過と重責とに、ただただ恐懼謹慎し、一言も弁解することはしないで、引退し、または獄中におもむいた--これがほんとうであり、日本人である--だから、悪罵の低気圧は、周囲に中和すべきなんらの高気圧に会することがなく、一方向だけに強風疾風を吹きまくりつづけた。


>>武士的な生き方を貫き通した今村大将にあやかりたい


「幽囚回顧録」③



「幽囚回顧録」(今村均著、秋田書店)より


 第四章  霊前にそなえる
 
  3  返信

   イ  観世音の慈悲

    □ 悪罵の嵐

 つぎには、軍人の走狗になり、国をつぶした不忠もの、との世のののしり、この悪罵の嵐は、たしかに終戦直後、国の内外に吹きすさび、今でもその余勢が静まりきってはいない。これは、つぎの三つの事情によるのです。

 第一は、アメリカ軍の行なった大きな宣伝のためだ。彼らは考えたのだ。日本の天皇は終戦を決意されても、この勇敢決死の民族の闘志は容易のことでは静まるまい。現に決戦を直訴しようとした陸軍軍人もあれば、終戦詔書の渙発のあとに飛びだし、米艦隊に爆弾とともに突撃した幾多の海軍特攻隊もあったではないか。従って日本の占領は、大きい犠牲なしには出来まい。すみやかにこの国民の戦意を喪失せしめることが、最大緊急の要務だ。これがためにはまず国民の団結を破壊し、相互に争うようにしむけ、完全に弱体化しなければならない、と。そこで彼らは、第一に、日本の全新聞、雑誌、印刷所、ラジオを、その勢力のもとにおさめ、米軍は、決して日本民族を敵とするものではない。いな、反対に、長い間封建的勢力により、抑圧され自由を奪われていた不幸な境遇から民衆を解放し、民主自由のしあわせを享楽せしめようとするものだ。米軍が敵とし、処罰せんとしているものは、国民を無知にし、これをあざむき、その犠牲の上に、侵略戦争を世界にいどみかけた悪魔的軍閥と、その支持者だけだ、と呼号し、これに最大の力と金とをそそいだあらわである。


>>アメリカの国家的戦略は今も変わらないようだ


 

「幽囚回顧録」②



「幽囚回顧録」(今村均著、秋田書店)より


 第二部  ジャワ裁判の記録  昭和23年5月から~昭和25年1月まで

  第一章  オランダ軍蘭印刑務所

   1  ラバウルからジャワへ転移

 大東亜戦争の意義を銘肝していた部下約二十万の軍人は、よく私のような者の統帥指導に服し、完全に任務を遂行してくれ、敵の攻撃と、内地との交通遮断で、第一線の幾万が敵弾と飢餓とに最後まで闘い抜いて倒れた。ラバウル方面では二年間余り連日の空襲で、地上いっさいのものが粉砕されたが、部下将兵は不撓不屈、地下に大洞窟要塞を築城し、そこで生活し、医療、兵器の修繕・製造を実行した。ジャングルは切り開かれ、芋と陸稲と野菜とが育てられ、敵重戦車を爆砕する訓練は精熟の域に達し、上下一致の必死の努力と準備とは、対に敵を近づかしめず、決戦を見ずして終戦となったが、ラバウル七万の精鋭はそのまま祖国に帰還することが出来、現に国家と事業の再興にいそしんでいる。

 いま、機上から目にする大自然のジャングル内及び付近の海底には、幾万の部下が永遠の眠りをつづけている。私は衷心からこの地に骨を埋め、衆多の英霊と相会することを念願し、幾度かその機会に会いながら、遂に目的を達し得ず、また百余の部下を豪軍ラバウルの刑務所に残したまま、そこを離れなければならぬ運命にさらされている。


>>ラバウル七万の精鋭が飢餓に苦しむことなく帰国できたこと、今村大将に感謝


 

「幽囚回顧録」①



「幽囚回顧録」(今村均著、秋田書店)より


 きのうまで勝つと誓い、そのためには身も命をもささげ、なんの悔もなかった戦友の目の前には、もはや心をうちこむ目標はなくなってしまい、ただ理不尽に、無抵抗に殺されて行く。“祖国の復興に役立ちたい”という意欲のもの、または“せめて家族に一目あいたい”という哀情のもの、千差万別の思いがりっぱな最期をしめしたり、中には嘆息させる場面をしめしたりする。

 福岡の薄大尉という工学士がいた。その当番兵の鈴木富男君というのが、人ちがいで収容されたのを心配して、解決されるまでは、絶対に内地にかえれぬといい、弁護団の炊事係を買って出て、どの帰還船にも乗らず、一年をがんばりとおし、容疑がはれて、ともどもに船に乗った情景は、涙ぐましいほどうつくしいものであった。

 反対に、上官の命令とさえ言えば助かると誤解し、「それはT中尉の命令でやりました」と根も葉もないことを言いだし、おのれは死刑、T中尉を無期にしたもの。また「ぼくはどうしても早く内地に帰る必要な事情がある。気の毒だが、きみの証言のため残ってはやれない」と言い、部下を残して立ち去った将官。おのれと間違われ、収容されている人に「間違えたのは豪軍で、ぼくの責任ではない。きみはなにもしていないので無罪は確実だ。自分は名のって出ることはしない」と、身がわりを一年も収容所にとどめ、おのれは外にいて平気であったもの。終戦までは、たいした人物と思われていた部隊長が、いかにもみにくいあわてかたを暴露したことなど、幻滅の悲哀を味わわされたこともある。


>>最期に臨んで、みにくいあわてかたを暴露しないよう、日々精進して行きたい


「運命の選択 1940-41」③



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より


  第2章  ベルリン、1940年夏、秋  ヒトラー、ソ連攻撃を決断


 総統がどうしても和平交渉に乗ってこないイギリスの出方に困惑しきっていた。

 かれはイギリスがロシアを頼りにしているからだ、と見た(われわれも同じ)。

 そこで和平を強要させる奥の手をつかうことにしたのだ。

  1940年7月13日付、ドイツ陸軍軍事参謀総長、フランツ・ハルダーの日記


 「ロシアを壊滅させればイギリスの最後の望みは断たれる。ドイツはヨーロッパとバルカン半島の支配者になれる。決定--ロシア打倒がこの戦争の一部となる。1941年春・・・・・・1941年5月に開始すれば5ヶ月ですべてが終わる」。1940年7月31日、アルプスの山深いベルヒテスガーデンの山荘、ベルクホーフで開催した会議で、ヒトラーはこの驚くべき言葉を将軍たちに述べた。それは第二次大戦でかれが取ったもっとも運命的な選択だった。それは史上最大の流血を招いた戦争、ソ連とドイツの市民3000万の命を犠牲にする東欧の一大闘争、前例のない広大な地域の荒廃をもたらした。それは約4年間続き、ベルリンの防空壕でのドイツの独裁者の自殺、そしてその後45年続く欧州の半分におけるソ連の支配につながった。


 1938年、チェコスロヴァキアの犠牲のもと、英仏はミュンヘンでヒトラーに譲歩し、懸念していた戦争を回避した。ヒトラーは同じことをポーランドで期待した。ダンツィヒと回廊問題で要求を通すことはそれほど難しいものとは思えなかった。しかしこれはヒトラーの誤算だった。1939年3月、チェコスロヴァキアの残りの部分を、半年前とは異なり、西側と協議なしに占領する行動に出たことで、宥和政策の支持基盤を破壊してしまったのである。ヒトラーは8月の終わり、最後の瞬間まで、英仏は依然、譲歩の姿勢にあり、かれらの干渉なしにポーランドを屈服し得ると思っていた。しかしドイツ軍がポーランドへ侵入した二日のち、--必ずしもかれの選んだタイミングではなかったにせよ--ついに戦争が始まった。暫時、かれが本当に望んだソ連との戦争はお預けになった。



 ヒトラーはロシアとの戦争を、大陸におけるイギリス最後の潜在的同盟国を駆逐するために必要である、と正当化していた。またかれは、ソ連は「日本を睨むイギリスとアメリカの極東の剣である」と主張していた。その趣旨はこういうことである。すなわちソ連に対する勝利は、日本が背後のソ連の脅威を気にせず、南方へ進出することを許し、極東における英国の力と太平洋におけるアメリカの力を削ぎ、アメリカの大西洋とヨーロッパへの介入を阻害する複合効果をもたらす、ということである。したがって短期間の東方作戦は、ヨーロッパ大陸の完全制覇のみならず、戦争の最終勝利にもつながるのである。その後将来のどこかの時点でアメリカと対決する。ソ連侵攻についてのヒトラーの考えのなかには、イデオロギーと軍事戦略の概念相互に矛盾はなかった。この二つは手を組んだ。動機の基本には常にイデオロギーがあるものの、実際の意思決定では戦略が優先した。


 現実世界のヒトラーは、幻想や想像の世界とは異なり、1940年にミスを冒したわけではなかった。ドイツの指揮命令系統に鑑み、また1940年の夏から秋にかけて、最初にドイツが直面した戦略上のジレンマのことを考えれば、ソ連攻撃が唯一の実際的な選択肢であった。それはヒトラーの決断だった。それを咎めたとて意味はなく、戦後の色々な弁明も手遅れである。それはヒトラーを離れて、広範な影響を及ぼした。軍のエリートたちは、ほかの分野の支配層や国民の信任を得て、ドイツを世界的な大国にしようとする指導者のギャンブルを支持していた。しかし、この賭けは、長期的にはどんどんドイツの不利になっていくもので、「免責条項」などなかったのだ。1940年、ヒトラーとその体制は戦いを終わらせる目処が立たず、いつものように大胆は賭けに打って出た。今度は「雨あられのように」ロシアに進撃するというものだった。世界は「固唾をのんだ」。それは狂気だった。しかし筋道はあったのである。


>>命運を賭けた選択に誤算が生じたときは、ギャンブルでなく、より慎重に新たな決断をしなければならない


「運命の選択 1940-41」②



「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より


 第1章 ロンドン、1940年春  英国、戦争を決断


 PM[首相=チャーチル]はムッソ[ムッソリーニ]に対するあらゆる動きを嫌っている。

 われわれがこの苦境を逃れるため、マルタ島とジブラルタル、それにアフリカの植民地のいくつかを諦め、それにヒトラーがすぐ飛びついたとしても、かれが、われわれが受け入れられる条件で同意することなど信じられない。

 もっとも安全は方法は、ヒトラーにわれわれには絶対に勝てないと信じさせることである。

 ・・・・・・ハリファックスは、ムッソと交渉したとて無害だから、その結果を見てみよう、条件が合わなければそこで断れば良いのだ、という意見だった。

  1940年5月26日付、ネヴィル・チェンバレンの日記


 イギリスは戦い続けるべきか? それとも現状のまま、最良の条件を模索して解決の道にいたるのか? 1940年5月末の三日間は、イギリスのリーダーたちが、直面した命運を賭けた選択のときだった。その結果は、英国のみならず、続く数年、より広汎な戦争の過程に影響をおよぼすものとなった。


 運命がそうさせるがごとく、5月10日ヒトラーが西方攻撃の火蓋を切ったまさにその日、ヒトラーの手強い敵であることを自ら証明した人物、ウィンストン・チャーチルが、グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国首相の座についた。


 1939年9月3日、自らの古い椅子、海軍大臣の席にかれがおさまった日は、イギリスがドイツに宣戦布告をした日であった。かれの就任は、これまでの政敵を含めて、各方面から歓迎された。チャーチルは政治権力の中枢に戻った。何か安心できるものがあるようではあった。


 野党は戦時内閣でかれとは協力しないと強硬な態度をとった。5月10日、下院での信任投票に敗れ、チェンバレンは辞任した。


 予測のつかない行動を取ることもあるが、より喧嘩好きで精力的、決断力があって、意思の強いチャーチルに道が開かれることとなった。ハリファックスが自ら進んで首相の座を受諾していたとすれば、未来図がどう変わっていたかは推測不可能である。しかしこの段階でかれが退いたことは、英国のその後の戦争の遂行状況に甚大な影響を与えたと間違いなく言える。ウィンストン・チャーチルは5月10日夜までに、首相となっていた。数年後の、やや演出過剰ぎみの回顧録のなかで、かれはこのときの感情を描いている。「とうとうわたしはあらゆる場面で指示を出せる地位を手に入れた。わたしは運命の定める道を歩んでいると感じていた。これまでの人生は、いまこのときの、そしてこれからの試練の準備だったのだ」


 5月15日、フランス首相のポール・レイノーから、「われわれは負けている」と伝えられたメッセージを受け取ることを最初は嫌がったチャーチルも、翌日空路フランスを訪れ、指導者たちと会談した。そのあと、破壊の規模とパリにおける絶望感にうちのめされたことは間違いない。チャーチルはフランス首脳陣に、イギリスは、アメリカが支援に立ち上がり、ドイツが敗北するまで戦い続けると言って勇ましいところを見せた。


 チャーチルは、ヒトラーがイギリスの許容できる条件の提示をするはずはないと説得した。イギリスはまったく戦わないよりも、戦って負けたとしてもその方がましだ。チャーチルは、勇気をもって戦い、かりに負けたとしてもほとんど不利益はない、という結論に達した。そして戦いの継続は、世界中の、帝国と自治領の、そしてアメリカの英国の友人たちに道義的な激励を与えることとなる。

 この論理がハリファックスを除く戦時内閣の閣僚を最終的に説得した。そしてハリファックスも5月28日、レイノーに発信する電報の原案作りに協力した。最終案にはチェンバレンも言葉遣いにあれこれと気を配った。

 25日の午後遅くにハリファックスが会談に臨んでから、28日夜にレイノーあて文案が決まるまでの三日間は、決断をくだすための必要な時間だった。ハリファックスが最後に戦時閣僚の軍門に下った意味で、それは共同の合意だった。


 ヒトラーはイギリスの戦時内閣が5月の最後の週に重大審議を行ったことを知らなかった。フランス降伏後の7月19日、国会で行なった、最終的ではあるが曖昧な、かれの「和平呼びかけ」演説が英国政府によってただちに拒絶されたことで、気づかされたのである。イギリスが戦争終結のいかなる交渉をも断固として受け入れないことが明白となった。ダンケルクから無事に将兵を撤退させたあと、ロンドンとワシントンでは米国援助をどう具体化していくかの検討が始まっていた。ヒトラーも重大決意を迫られることとなった。それはそう遠いものではなかった。


>>「まったく戦わないよりも、戦って負けたとしてもその方がましだ」という命運を賭けた選択をし続けられたら後悔はない


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