「偉人たちのブレイクスルー勉強術 ドラッカーから村上春樹まで」
「偉人たちのブレイクスルー勉強術 ドラッカーから村上春樹まで」(齋藤孝著、文藝春秋)より
2010年11月30日 第一刷発行
本田宗一郎の「押しかけ学習法」
本田宗一郎は、そんな自分のやり方を「耳額と経験の総合」と語っています。
僕の人生は、いわゆる見たり聞いたり試したりで、それを総合して、こうあるべきだということで進んできた。
もし分からないことがあって、そのために本を読むんだったら、そのヒマに人に聞くことにしている。
5百ページの本を読んでも、必要なのは1ページくらだ。それを探しだすような非能率なことはしない。うちにも大学出はいくらもいるし、その道の専門家に課題をだして聞いたほうが早い。そして、それを自分の今までの経験とミックスして、これならイケルということでやっているだけで、世の中の人は、本田宗一郎はピンからキリまでやっていると思っているようだが、とんでもない。
結局、僕の特徴は、ざっくばらんに聞くことができるということではないかと思う。つまり、学校にいっていないということをハッキリ看板にしているから、知らなくても不思議はない。だから、こだわらずに誰にでも聞ける。
(『本田宗一郎 夢を力に』日経ビジネス人文庫)
本田宗一郎は、必要な知識を持っている人のところに行って教えてもらい、それらの知識の集積をどんどん自分のビジネスに活かしていったのです。
夏目漱石の「個人主義マイペース学問」
日本人が英文学を理想とする必要はないのではないか。自分は自分のやり方でやってみよう、自分の基準で、もっと「自己本位」で文学というものに取り組んでいこう――こういう考えに変わっていくのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。(中略)私は軽快な心をもって陰鬱なロンドンを眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。
(『私の個人主義』夏目漱石著、講談社学術文庫)
内省してそこから突き抜け、開き直ることで、発想の原理的転換を図ることができた。
ゲーテの「自分を限定する技術」
ゲーテはイギリス文学を非常に高く評価しており、エッカーマンにもよけいな仕事をするくらいなら、イギリス文学を研究したほうがいい、とアドバイスしています。あるいは、何をおいても大事なのはギリシア語だろう、とも言っています。
それでも、書くことにおいてはドイツ語で貫いた。
現代のドイツ語の基礎を築いたのはルターとゲーテといわれています。ゲーテは近代ドイツ語の父なのです。
「人間のもっているさまざまの力を同時に育てることは、望ましいことであり、世にもすばらしいことだ。しかし人間は、生まれつきはできていないのであって、実は一人ひとりが自分を特殊な存在につくりあげなければならなのだ。」
(『ゲーテとの対話』エッカーマン著、山下肇訳、岩波文庫)
自分の専門領域への知識を深め、『洞察』を鋭くするためには、世界を狭く制限してはいけない。自分の専門に欠くことのできない知識を制限したり、一方的な見方に陥ることを警戒しなければならない。
しかし、一人の人間としての「活動」のためには、他者と一線を画すべく自分を限定する技術を身につける必要があるのです。
吉田松陰の「教え合い学習法」
松陰の教えにこんな言葉があります。
「志を立てること、これがすべての出発点である。そして、交友する友を選び、自らの仁義の実践の助けとすること。書を読み、古今の聖賢の教えを考え、身につけること」『(『野山獄文稿』)
これはいまも昔も変わらない不変の原理でしょう。
渋沢栄一の「マイ古典」勉強術
『論語』で重んじている仁義道徳に則って経営にあたれば、むやみな私利私欲に走ることはない。経営の要諦は「経済と道徳の一致」、いかに『論語』の精神に即してやっていけるかというところにあるという点を強調ました。
この「経済と道徳との一致」という考え方が失われてから、日本は進むべき方向を見失ってしまったところがあります。
もし実業家がわれ勝ちに私利私慾を計るに汲々として、世間はどうなろうと、自分さえ利益すれば構わぬと言っておれば、社会は益々不健全となり、嫌悪すべき危険思想は、徐々に蔓延するようになるに相違ない。
(『論語と算盤』角川ソフィア文庫)
これはまさに現代社会の姿です。
「自分たちが利益を上げられればそれでいい、資本主義とはそういう社会だ」と開き直って、公共への貢献、社会全体がよくなるための経営という視点をなくしてしまったことで、経済活動に倫理観がなくなってしまった。
企業のコンプライアンスが問われるような事件や問題がしばしば起こるようになり、人々が企業経営のありように疑問を投じるようになった。
村上春樹の「頭脳のためのフィジカル強化」
問題はそあれを息長く継続できるかどうか。そのヒントを村上さんはいろいろ語っています。まずは、リズムをつかむことが大事だという。走り込み期間のコツについて――。
黙々と時間をかけて距離を走る。速く走りたいと感じればそれなりにスピードも出すが、たとえペースを上げてもその時間を短くし、身体が今感じている気持ちの良さをそのまま明日に持ち越すように心がける。長編小説を書いているときと同じ要領だ。もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる。アーネスト・ヘミングウェイもたしかにたようなことを書いていた。継続すること――リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。
『走ることについて語るときに僕の語ること』という本の面白さは、村上春樹という当代随一の人気小説家が、自分の性格をずいぶんと語っているところにもあります。
他人を相手に買ったり負けたりすることには、昔から一貫してあまりこだわらなかった。そういう性向は大人になってもおおむね変わらない。何ごとによらず、他人に勝とうが負けようが、そんなに気にならない。それよりは、自分自身の設定した基準をクリアできるかできないか――そちらの方により関心が向く。そういう意味で長距離走は、僕のメンタリティーにぴたりとはまるスポーツだった。
>>私も、今後は、ゴルフの都度、自分自身で基準を設定し、それをクリアできるかできないか、により関心を向けるようにして行きたい