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「中央銀行が終わる日」⑤



「中央銀行が終わる日 ビットコインと通貨の未来」(岩村充著、新潮選書)より 


  おわりに

 中央銀行にせよ市中銀行にせよ、彼らがその預り金にどの程度のマイナス金利を付すことができるかを考えてみよう。それを解く鍵になるのは、彼らの相手方にとっては、現金つまり銀行券をしまい込んでおくという選択肢が残されていることである。したがって、そうした現金保管にかかる費用を超えてマイナスの金利を預金者から徴収することはできない。これが金利ゼロの金融資産である銀行券の存在をそのままに、銀行がその預かり金にマイナス金利を課そうとするときの限界である。だから、この種の制作の有効性あるいは限界を考えるときには、銀行券を文字通り「現物」として保管すると、どの程度のコストがかかるか、それが預金に課されるマイナス金利に見合うものなのかどうか、それについての見極めが必要なのである。

 金額が百万円ぐらいまでなら、財布やロッカーにしまい込んでおくのも、あり得る話である。だが、百兆円となるとそうはいくまい。専用の保管施設が必要になるはずだ。ちなみに、現在の日銀のバランスシートでは、銀行券と預金の合計が約三百兆円だから、この議論はそのくらいの金額を意識して行う必要がある。ところで、これは数字遊びのような話なのだが、そもそも百兆円というのは生半可な量ではない。一万円札一枚の重さは約一グラムだから、一億円は十キログラム、一兆円なら百トン、百兆円は実に一万トンという途方もない物量になる。これほどの「量」の現金を保管するとなると、あの007シリーズにも登場したような米国のフォートノックス並みの要塞のような施設が要るはずだ。

 問題はそうした施設の運営にどのくらいのコストをかけられるかだが、その上限を画するのがマイナス金利の程度である。金利のマイナス幅が0.1%で新規預入分だけというような話だったら、無理することもあるまい、おとなしく金利を払っておくかと考えそうである。日銀が狙っていることは、要するにそれだろう。しかし、金利が同じマイナス0.1%でも、既存新規を問わずに適用などということを日銀が言い出したら、百兆円を預金すれば年間で千億円もの金利負担が発生してしまう。それなら、日銀に預けて金利を支払う羽目になるより、元気な起業家にでも頼んで「現金保管業」を始めてもらい、それにも日銀がうるさいことを言ってくるようなら、大事なお客様にはそうしたサービスをご自分で利用するようお勧めしまおうか等という話が出てくる可能性もある。要するに、大規模な量的緩和とマイナス金利とは、そう簡単には共存できないのである。

 改めて話を整理しておこう。マイナス金利と言っても、その大きさはコンマ以下の数パーセント程度が限界、対象の預金も異次元緩和が作り出した程の量を相手にするのはやめた方が良い、無理して突き進めば、その先には「流動性の罠」が待っているというのが、この文脈での「落ち」ということになる。行き詰まった通貨システムの未来を本気で切り開きたいのなら、預り金にマイナスの金利を付しますなどという小手先の手段ではなく、銀行券そのものに金利を付すこと、マイナスにもプラスにも金利を付すこと、それができるようにする方法を考えた方が良いはずなのだ。そして、それは、通貨の未来を考えようとした本書で、あえて「ゲゼルの魔法のオカネ」を検討の軸に据えた理由でもある。


>>将来、「流動性の罠」に陥らないないような「電子マネーby日銀」の時代が来るのかもしれない
 

「中央銀行が終わる日」④



「中央銀行が終わる日 ビットコインと通貨の未来」(岩村充著、新潮選書)より

 ハイエクの描くところの通貨間競争の世界とは、民間の銀行が各々の通貨単位を自ら決め、その単位での銀行券を発行する世界です。その競争を動機付けているのは各発券銀行の企業利益追求です。ハイエクはそうすれば通貨価値は自然に高まるだろうと考えたわけです。まさに慧眼と言うべきです。貨幣発行を競争に委ねれば、貨幣価値を高めるというインセンティブが貨幣発行者に働くということは、変動相場制以降後の各国が繰り広げた通貨価値維持競争と、それによる世界的な物価の安定からもうかがい知ることができます。しかし、だからと言って、競争というルールだけで未来の貨幣の世界の全部をデザインするわけにはいかないだろうと私は考えています。

 貨幣には「決済手段」と「価値保蔵手段」そして「価値尺度」としての役割があると言われます。この文脈から議論すれば、ハイエクの発想は貨幣の「価値保蔵手段」としての役割に眼を付けたものと整理してもよいでしょう。そして、私たちが考えた「ゲゼルの魔法のオカネ」を仮想空間の世界に提供するということは、「決済手段」と「価値保蔵手段」としての貨幣を供給する役割を中央銀行の独占から取り上げて競争に付すことを意味します。これは、未来の貨幣制度として優れたデザインのはずです。ただ、それだけで貨幣が提供すべき役割の全てが揃うわけではありません。それだけでは、「価値尺度」としての貨幣が良く維持できるとは限らないからです。通貨間競争が始まれば、それに参加するだれもが効率的な決済手段にして有利な価値保蔵手段であることに特化した通貨を提供しようと競い合う世界が始まるでしょう。それが競争の担い手である発券銀行たちにとって多くの顧客を獲得することにつながるからです。しかし、そのとき、価値尺度としての貨幣はどうあるべきでしょうか。

 通貨の発行を民間銀行による競争に委ねたとしても、そこには様々な外的ショックがやってきます。災害もあるでしょうし政治の不安定もあるでしょう。思いもよらぬ技術進歩ということもあるかもしれません。そうした不確実な世界の中で、貨幣の外の世界から来るショックをできる限り柔らかく受け止めることを是とする発券銀行はあっても良いし、また少なくとも一つはあるべきだと私は思います。その存在は経済と社会の安定に不可欠の条件のはずだからです。

 そして、その役割を果たすと宣言し、その宣言を人々から最も信じてもらいやすい位置にいるのは、やはり現在の中央銀行のように私には思えます。そうした役割を果たすことになった彼らを、引き続き「中央銀行」と呼ぶべきかどうか、それはどちらでも良いことでしょう。ただ、そのときの彼らは、金融政策という名の景気政策にすっかり軸足を移したかに見える現在の中央銀行たちよりも、かつて「物価の番人」などと呼ばれていたころの彼らに近い行動原則を復活させた存在になっているでしょう。銀行券の価値を安定させて、それが金融契約の基盤として役割を最大限に果たせるよう努力することこそ、今は中央銀行などと呼ばれている彼らの最後の残る使命になるし、また彼らに最も向いた役割になるのではないでしょうか。

 江戸期の日本には「秤座」という団体がありました。度量衡の一つである重量、それを測る「秤」を統一し、当時の活発な経済活動を支えた団体です。もちろん、秤座にも様々な事件があり人間模様もあったようです。しかし、彼らが提供する「秤」は常に人々に安定した基準を提供し続けていました。それは目立たないながらも日本の経済を支えた不可欠の基盤だったのです。

 中央銀行たちもやがては「秤座」のようになるべきかもしれません。安定した尺度の提供は、昔も今も人々の前向きな経済活動になくてはならない役割のはずだからです。でも、彼らがそのことに気付かず、金融政策を担うのだと言って物価や景気を操ることをいつまでも夢見ていれば、本当に「中央銀行が終わる日」が来てしまうこともあり得ないことではないでしょう。そんな日が来ることのないよう私は願っています。


>>貨幣の「決済手段」と「価値保蔵手段」そして「価値尺度」としての役割が変わることはないに違いない

「中央銀行が終わる日」②



「中央銀行が終わる日 ビットコインと通貨の未来」(岩村充著、新潮選書)より


 第四章 対立の時代の中央銀行

  ゲゼルの発想から


 20世紀の初頭にゲゼルという思想家がいたこと、その彼の議論のなかに、貨幣にマイナスの金利を付けるという提案があることは前著でも紹介しました。

 ゲゼルが提案したのはスタンプ付紙幣と呼ばれる方式です。これは、紙幣の保有者に保有期間に応じた枚数のスタンプを購入させ、そのスタンプを貼り付けておかなければ貨幣としての価値が維持できないと定めておくという仕組みです。たとえば、一週間が経過するたびに表示額の千分の一に相当する金額のスタンプが必要であると定めるとすれば、紙幣の価値を維持するのに必要なスタンプの総額は一年間(約52週間で券面の5.2%になりますから、その分だけのマイナス金利を貨幣に付すのと同じことになります。

 
  魔法のオカネの作り方

 貨幣を作る技術がアナログの印刷技術からデジタルの電子技術に進歩したらどうでしょう。ゲゼルの「魔法のオカネ」は簡単に実現できてしまいます。それどころか、ゲゼルが求める範囲を超える「高性能」のオカネを作ることも難しくありません。状況においうじて利子率を柔軟に変更でき、プラスにもマイナスにもなるようにプログラムすることができるからです。利子の計算も精緻にできるでしょう。

 実現の方法としては、銀行券をICカードのような「耐タンパー性」のある電子媒体に収容して、金額表示や支払いのつど利子込みの金額を計算するという方法でもよいですし、思いきって仮想空間上に展開されたP2Pネットワーク上に移行してしまって、そこで第三章の最後に考えたように、プロトコルで制御して仮想空間上でプラスあるいはマイナスの利子を発生させるというような方法でも実現できるはずです。そうした仕掛けの組み合わせまで考えれば、デジタルの世界でのアイディアは限りないほどに豊かになります。デジタルの世界では、銀行券は、今すぐにでも「魔法のオカネ」になれる、ゲゼルを超えた「魔法のオカネ」になれるのです。

>>全ての銀行券を紙幣から電子媒体に変えることができたら、より効果的な金融政策が実施できるに違いない

「中央銀行が終わる日」①


「中央銀行が終わる日 ビットコインと通貨の未来」(岩村充著、新潮選書)より
2016年3月25日発行


  はじめに

 「われわれの自由社会によっての問題は、たとえいかなる犠牲を払っても失業が発生することは許されず、その一方で強権を発動する意志もないとすれば、あらゆる種類の絶望的な方便を採用しなければならない羽目に陥ってしまうだろう、という点である。それらのどれ一つを取り上げてみても、長続きする解決をもたらすことは不可能であり、すべてが、資源の最も生産的な活用を深刻に妨げるまでに到るだろう。とりわけ注意すべきは、金融政策はこのような困難に対して、何ら本当の解決策を提供することができない、ということである」

 1944年の初版刊行依頼、フリードリッヒ・A・ハイエクの代表作とされ続けている『隷属への道』(西山千明訳・春秋社・2008年)からの引用です。現代の通貨システムの悩みは、この最後の一文に要約されているのではないでしょうか。


  第1章 協調の風景――良いが悪いに、悪いが良いに

 1 協調か競争か

  なぜ協調なのだろう


 一国だけで金融緩和に突き進むと「失業の輸出」という批判を受けやすいわけですが、歩調を合わせて緩和に進めばその心配はありません。ですから日本や米国あるいは欧州などの大国たちが金融緩和を進めるためには強調と相互理解が大事なのです。

  かつてハイエクがいた

 ハイエクが通貨のあり方について主張したのが、通貨を国家のコントロール下に置くな、通貨の発行と流通に「競争」を導入すべきであるということでした。彼の書いていることを引用しておきましょう。出所は彼の1978年の文章です。「あまりにも危険でありやめなければならないのは、政府の貨幣発行権ではなくその排他的な権利であり、人びとにその貨幣を使わせ、特定の価格で受領させる政府権力である(ハイエク「通貨の選択」池田幸弘・西部忠訳『貨幣論集』春秋社『ハイエク全集Ⅱ-2』より)とあり、続けて「責任ある金融政策をとる国の通貨は、次第に信頼できない通貨にとって代わるようになるだろう、というのがおそらく結論である。金融的高潔さの評判があらゆる貨幣発行者が用心深く守ろうとする資産となるであろう」(同上)とあります。

 ハイエクの貨幣についての考えは、この二つのフレーズに尽きているように思えます。見落として欲しくないことは、彼が異議を唱えているのは、政府あるいは中央銀行による貨幣の発行そのものではなく、その「選択」に関する政府の介入であり、具体的には自国の造幣局や中央銀行が発行する貨幣しか使用させないという法的手段による強制だということです。


>>通貨を国家のコントロール下に置くな、通貨の発行と流通に「競争」を導入すべきであるというハイエクの考え方を学びたい


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