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「政治家の見極め方」⑦



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 Ⅳ 等身大政治家の可能性

  第七章 なぜ2016年参院選で政治の潮目が変わるのか
 
  守勢に立たされる安倍政権


 2016年7月には参議院選挙があります。安倍さんにとって最初の2012年の総選挙、13年の参議院選、14年の総選挙に次いで、16年の参議院は四つ目の選挙になる。

 「アベノミクスだ」「三本の矢だ」と言っても、もうさほど信用はされません。いくら「異次元緩和」とか「黒田バズーカ」とかコピーを工夫しても、これ以上の日銀金融緩和策による日本経済へのカンフル剤は効かないと思われている。2016年1月末に、マイナス金利政策の導入が決まりましたが、これとて効果は未知数です。

 安倍政権は、選挙権を新たに持つ若い世代を含めて国民に、国の政策をきちんと届けることができるのか。たとえば、本当に安保法制を進めるのなら、どれだけ説得的に展開できるのかが問われることになります。

 一方、安保法制に反対している民主党をはじめとする野党の側も、これまでのように「違憲だから反対」というところに留まっていては国民を説得できません。

 軍需産業では技術官僚が明らかに喜んでいます。技術研究本部が装備施設本部などと統合されて大きくなり、2015年10月には防衛装備庁が発足しました。

 安倍さんはあまり考えていないと思いますが、今後、技術者たちが独創して文民統制が危うくなる局面が出てくるかもしれない。政権が「自衛隊員が死ぬ」という事態をリアルに想定しているとも思えません。私たちが目を開かせるべき政策は少なくありません。


  組織を固定化しないSEALDs

 こうした安倍政権の動きに反対する学生団体「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)」をどうとらえたらいいか、ここで検討しておきたいと思います。

 
 SEALDsの可能性は、その組織の柔軟性にあります。もともとは安倍政権が制定を進める特定秘密保護法に反対して学内勉強会をしていた大学生たちが中心となって組織化された団体です。2014年末の同法施行とともに解散し、その後続団体としてSEALDsが設立され、安保法制反対を訴えました。

 そして懸命なのは、来るべき参院選後には解散を示唆したことです。会見したメンバーは「緊急アクションとして立ち上げたものだから、解散後、個人でやりたい人がいればまた集まればいい」と語りました。自然発生的に誕生し、役割を終えれば解散して、必要が生じればまた別の違う組織を立ち上げる。一定の色が付くことを避けて、組織を固定化せずに、次から次に変えていくスタイルです。


  ネットで政治を引き寄せる

 インターネットの世界で言論活動を展開している人たちは現在、政治とは一定の距離を置いています。でも政治を自分たちの思いを実現する一つのツールとしてみなすことができれば、やがて政治の世界に出て行くという動きにつながります。そのとき、彼らはネットを自在に使って選挙運動なり政治活動なりを展開するでしょう。すでにネットを使って自分の言葉で情報とメッセージを発信し、日本の政治文化を根底から揺さぶる新しい選挙スタイルも登場しています。


 ネットを駆使する世代はネット世界に自足し、異なる世界と交わらないために思考の領域が限られている。彼らにとってネット世界はあまりにも普通になっていて、既成の文化や価値観を塗り替える可能性については意外と意識されていません。だからこそ、ネットに通じていない私たちのような旧世代が、その可能性を指摘することが必要です。「あなたたちがゲーム感覚でやっていることで、今の政治がすごくおもしろくなるかもよ」


  新時代の政治家の見極め方

 異人政治家の時代から等身大政治家の時代へ。時代が変われば当然、政治家の見極め方も異なってきます。 新しい時代に即した政治家の見極め方を身につける必要があるのです。

 等身大政治家の資質をいかに見極めるか。この問いは、新しい政治の可能性をどこに見出すべきか、と言い換えることができるでしょう。
 
 まず、旧態依然たる世界と、新たに生起しつつある世界をどうつなぐか。政治はとくに新旧世代の分断が著しい。相互に排他的で、それぞれが自分の世界だけで通用する議論しかしていません。

 両者をつないでいくには、まず相互交流をすることです。お互いに気になりながら「知らない世界だから」と無視したり諦めたりしていたことに、とりあえず目を向けて見る。そして気づいたことを口にしてみる。


 次に、これまで政治と関わりのなかった分野の人間と政治の世界をつなぐこと。起業家やアーティスト、学生も大歓迎。新しいセンスと価値観を政治の世界に持ち込むとともに、元の世界に政界で得た情報や人脈を生かす。異業種をつないで人材交流を測れば、双方の世界が息づくはずです。

 そして、地域と政治をつなぐことです。民間レベルで政治に関わる議論を吸収できる組織をつくってもいいし、カフェのようにリラックスできる場で気軽に意見を交わす場をつくるのもありです。言ってみれば「ポリティカルカフェ」。

 とにかく政治に参加するハードルを低くして、政治家や元政治家を隣人とする。政治家を等身大にとらえることのできる社会の実現です。


  あとがき

 昨年(2015年)には二冊の新書を上梓した。安倍政権の構造的特質を語った『安倍政権は本当に強いのか』(PHP新書)、そして、安倍政権内外の政治家に着目した政界人物評論『政治の眼力』(文春新書)である。しかし、この二冊を刊行してなお、課題が残されていることにはたと気がついた。それは、国民にとって近くて遠い、あるいは遠くて近い政治家の存在そのものに焦点を定め、彼等の実像に迫ること、である。

 政治家の過去・現在・未来を映し出しながら、国民が政治家を見極めるための、そして生身の政治家にアプローチするためのキーワードを提示してみた。

 例によって、「講談政治学」の手法をとった。

 本書は独立した構想とテーマを基につくり上げた。しかし結果として、偶然的必然のなせる業と言うべきか、先に挙げた二冊とあわせて現代日本政治をしるための“三部作”となっている。そうなったことがとてもうれしい。


>>ネットを駆使する人たちを政治に引き寄せ(政治に参加するハードルを低くし)て、地域と政治をつないだ社会の実現が重要であろう

「政治家の見極め方」⑥



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 第六章 なぜ政治家はケータイにすぐ出るのか


  情報感覚を変えたケータイとメール


 ケータイの普及が政治家に与えた影響は計り知れません。たとえば、それもあでの肉体や肉声を使った身体系コミュニケーションが目に見えて減ってきています。

 昔の政治家は要件を受ける際は必ず秘書を通したものでしたが、今では政治家本人に直接電話がかかってきます。

 情報を媒介に多数とつながりながら、逆に政治家自身はアトム化する。結果的に、総体としての政治力は落ちているように思います。


  「情報の館」になった別荘

 私は今も、戦後の歴代総理や政界要人の別荘を訪ね歩き、そこで繰り広げられた「政治の意思」を考察しています。

 その成果は著書『権力の館を歩く』(ちくま文庫、2013年)にまとめました。さらに、2016年の4月から6年間、放送大学で「権力の館を考える」という45分番組を15回放送する予定です。見てくださいね。

 かつての政治家は、基本的にいろいろな人が押しかけてごった返す、猥雑さと賑わいにミニた「ワイガヤの世界」にいました。だからこそ、逆にそうした喧騒から逃れるために別荘を構え、深山幽谷の空気に浸ったり山紫水明を味わったりして、ゆったりした時間を確保しました。


 今はどうか。政治家が別荘にこもっても、おそらく始終ケータイがかかってくるでしょう。メールだって来ます。パソコンがあれば、最新情報につねにアクセスできるので、どんどんググって、とりあえず必要な情報と知識を仕入れると思います。わからないことがあれば、ケータイやメールで即座に確かめることも可能です。


 だから別荘は「権力の館」ならぬ「情報の館」。だったら、別に別荘でなくてもかまわないでしょう。空間を移動することで人には邪魔されなくなるかもしれませんが、情報に邪魔されるという逆転した状況になっています。


  小泉進次郎が駆使する言語戦術

 若手の政治家の中でも突出した言語センスを持っているのが、抜群の人気を誇る自民党の小泉進次郎さんです。


 折々の寸言がけっこう正鵠を射ています。選挙が終わった瞬間、自民党の勝利を「熱狂なき圧勝」と呼びました。誰かを批判しているようで、批判していません。

 ただの人寄せパンダと思いきや、「客寄せパンダと言われたっていいんです」と先手を打つ一方で、「人気があると言われるのは、実力がないからです」と自分の置かれている立場を相対化する。とにかくありとあらゆるところで自分を客体化して、反論を許さないような発言で「進次郎語録」はできています。

 父親の小泉純一郎さんが突然、脱原発を訴えたときには「父は父、私は私」。親子でも判断が違うことを一般論につながる言葉で伝えました。


  政治家のホメオスタシスが失われている

 父親を反面教師にしながらも、父親の強いところは受け継いでいます。しかも彼の場合はたんに世襲ということではなく、小泉又次郎から始まって、純也、純一郎、進次郎と続く四世議員です。これが二世となると必ず親に反発します。「親父と比較するな」「自分は父とは違うことをやる」と父親との違いを言いたがる。三世も同様です。

 ところが四世ともなると、もはや家業として政治家を生きている。いわばDNAの中に政治が組み込まれています。地盤もたんなる地盤ではなく、それをリッシャッフルして若い支持者、新しい票を呼び込んでいる。でなければ、あれほど票を伸ばせません。

 しかし、彼に不足しているのは、明らかに実務と経験。

 その意味で「雑巾がけをしたい」といって、2015年、TPP大筋合意後というタイミングで、自民党の農林部会長という難しいポストに就いたのは、彼にとってひとつの試練となるでしょう。

 彼はバブル以降の世代の代表として「少子高齢化社会への備え」を強調しています。前世代との違いを前提に、リアルに少子高齢化社会を見つめる。世代の代表として発言し、アイデアや構想を出せるようになったときに、もう一皮剥けると思います。


 完全に政治家の育成機能というか、政治家自体が生存していくホメオスタシスが失われているのです。もはや日本の政治は恐竜が倒れて絶滅するかのような世界になってきています。

 となると、これからの政治を担う人材は従来型のスタイルではなく、今までの構造や機能を変えていくような試みから生まれてくるはずです。どこに変化の可能性が見いだせるのか。第Ⅳ部ではそれを考えてみます。


>>小泉進次郎の今後の活躍に期待したい

「政治家の見極め方」⑤



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 Ⅲ 新旧政治家の生態拝見

  第五章 なぜ政治家は上座と下座にこだわるのか


 政治をテーマとする週一回の座談会番組「時事放談」(TBS)は、2007年から司会を続けています。2016年からは10年目に入り、放送回数はほぼ450回になりましょう。毎日新聞紙上の月1回連載「政界人物評論」は2年続けて、安倍政権周辺の政治家たちにインタビューを重ねました。

 その中で本章では、私が直接見聞きした異人政治家にまつわるエピソードを紹介し、政治家の実情に迫ります。


  どちらが上座に腰かけるか

 たとえば、野中広務さんは、いかなる場所であろうが、下座を取ることで知られています。これだけは絶対に譲らない。番組でも例外ではありません。

 この位置取りは、野中さんの人生観を貫く気配りの現れであると同時に、自分の存在感をにじみ出すための一種の戦術ではないかと、私などはひそかに思っています。


  「長幼の序」がない政治家たち

 私や番組スタッフが上座・下座や、先に歩く順番に気を遣うのは、そもそも政治家がそれをすごく気にするからです。上下関係を守る自民党の政治家は先を譲り合う作法をまだ身につけていましたが、これが見事になかったのが民主党の政治家でした。

 これから仕込んでいこうと思っているうちに選挙になって、あっという間に現職議員がごっそり落ちて、また新人がどばっと入ってくる。礼儀作法を含め、政治家が鍛えられてゆく期間が極めて短縮されたのです。

 上座と下座だけでなく、政治家は話す時間や回数の損得感情にも敏感です。番組終了後に出演者からいろいろなことを耳打ちされます。

 「向こうがしゃべったのは九回で、私に当てたのは八回。一回少ないですよね」

 司会者ならば出演者は対等に扱うべし、ということです。政治家はいくらざっくばらんだったり、一見穏やかだったりしても、見るべきところはきちんと見ているし、自分が損をしないようにコントロールすることも忘れません。


  隣の私にしゃべらせないのか!

 「時事放談」の良さは「討論」ではなく、「放談」というところです。人が言ったことに対して「あなたの主張は間違っている」という意見を戦わせる場ではありません。

 CMを除いて正味40分、出演者二人だけで自分のいいたいことを途中でいっさいさえぎられずに存分に話せる場所は、テレビ界広しといえども「時事放談」しかありません。

 そのほかの番組は途中で司会者にさえぎられて、コメンテーターに賢しら顔に批評される。あるいは出演者が何人もいて、思っていることを一割も離せないうちに欲求不満で終わるケースが少なくありません。


 あるとき、ずっと語り続ける長老の隣にいたもう一人の長老が、
 「ちょっとあんた、いつまでしゃべっているの。隣にいる私にしゃべらせないのか!」
 と声を挙げたことがありました。「うわ、これはすごいことになった。このまま続けられうかな」と思ったら、しゃべっている長老は平気なもので、「ん」と横を向いて、相手もまたすましてそれを引き取って話しはじめ、一応事なきを得ました。

 あとでプロデューサーに「あれ、いいの?」と念のために確認したら、
 「いいんですよ。視聴者が求めているのは、ああいう“事故”なんです。うまく進んだら進んだとおもしろくないと思うのが視聴者なんです」

 なるほど。テレビというメディアは、何が起ころうと吸収してくれるんだな、と妙に納得しました。


  「おれがおれであることの所以」を語る

 中曽根さん、塩川さん、野中さんといった長老たちにある人間的な奥行きが、現在では自民や民主を問わず中堅や若手議員にはほとんど感じられません。娑婆っ気が多すぎて、そのときそのときの問題で必死。現役の勢いはあっても、深みのある話や記憶に残るエピソードがなかなか聞けません。


 長老政治家たちは勉強したことなんかしゃべりません。彼らは現在の政治状況を語っているようでいて、いつの間にか自分の過去を語っています。「それはさておき」と文脈を外して自分の話をはじめる。最終的には「おれがおれであることの所以」をちゃべっています。だから、番組でいつまでもしゃべり続けるには、語るに足るだけの過去を持っていなければダメだということになります。


 突然、こちらが振っている話題とまったく関係ないことを口走るのです。すごく怖い顔をしてカメラを睨みつけながら。

 その部分だけ全くトーンが違う。不審に思いましたが、何回かその様子を見ているうちに、やがて私は気づきました。「これは彼が全国のどこかにいる自分の政敵、あるいは特定の勢力に対して、テレビを通じて自分の言い分なり主張なりを伝えているんだな」と。とんでもないことです。でも、とんでもないと思うようなことが、おもしろいのです。人の名前も年月も間違えて話す。その間違いに人間性がにじみ出る。だから、番組ではちょっとした言い間違いとか不規則発言は訂正しません。


>>長老政治家たちのように、(勉強したことではなく)「おれがおれであることの所以」を語れるような人になってみたい

「政治家の見極め方」④



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 第四章 なぜスポーツ紙の一面に政治家が登場するのか


  全身パフォーマンスの中曽根康弘


 田中角栄のあとに三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸と続き、次にメディアを意識したパフォーマンスを全身で繰り広げたのは、中曽根康弘(総理在任期間1982~87年)です。

 
 盟友の渡邉恒雄さんが読売新聞社内で力を付けるにしたがって、メディア的には読売と親しい関係になっていきます。総理で特定の新聞社の社主と刎頚の友となったのは、中曽根さんをもって最初で最後。それも総理になる前、1955年の保守合同のころからの仲です。


 外交でもレーガン大統領と「ロン」「ヤス」と愛称で呼び合う関係を、メディアを通じて流通させました。レーガンを日の出荘に招いて、お茶を点てたり法螺貝を吹いたり。同じ画面で友人のように映ることによって、アメリカの大統領と自分が対等の関係にあるかのごとくアピールしました。中曽根さんは国際政治という舞台で自らのパフォーマンスを演出したはじめての総理ということになります。


  演出家による「振り付け」
 
 佐藤時代から自民党のメディア戦略に関わっていたのは、劇団四季の演出家、浅利慶太さんです。その浅利さんを全面的に起用した中曽根さんは、スピーチの仕方から身振り手振り、足の組み方、所作振る舞いに至るまでを習いました。

 ただ私に言わせれば、安岡正篤なる陽明学者が精神的指導者として吉田茂ら歴代総理の指南役を任ずるのはまだ理解できても、佐藤時代から中曽根を経てその後の総理まで、浅利さんがコーディネートしたというのはいかにも古い感じがします。


 70年代型の田中角栄によるメディアコントロールと、80年代型の中曽根康弘によるメディア演出はどこが違うのでしょうか。

 中曽根さんは自分をよりよく見せるために徹底的に演出をする一方で、それが裏目に出て批判にさらされたときは、一切弁明しなかった。リクルート事件で未公開株の譲渡が発覚したときもまったく言い訳をせず、ほとんどノーコメントで通しました。1950年代、いち早く日本の原子力政策の旗振り役を務めましたが、2011年の福島原発事故が起こった際、メディアの取材に対してはやはりひと言も発言しませんでした。


 その点、田中とは対照的。田中はロッキード事件で窮地に陥った際に、必死に弁明を尽くそうとしたり、メディアを脅かしたりしました。その意味では、田中はメディアの怖さを本当には理解していなかったと言えるでしょう。


  なぜ田中は竹下を嫌ったか

 田中の政治は総合開発計画などをどんどん積分して大きくしていく政治です。これに対して竹下は微分する。小さく微分していって、その部分に関して「これはちゃんとできますよ」というお金と権限の付け方をしていく。


 しかし、それは田中にとって政治ではないのです。政治は夢をバラまけなけばいけない。「おまえがやっていることは、行政がやっていることと同じだ。おれがやっているのは、そんなせせこましいことじゃない。おえはおれの夢とロマンを矮小化するのか」ということになります。


  ポスト中曽根の戦国乱世

 竹下から二人おいて宮澤喜一、さらに二人おいて村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三。戦後は少なくともこのあたりまで、政治家あるいは総理大臣は、それぞれ名前と存在感が一致する、言ってみれば幸福な時代でした。どうしてそれが代わったのか。


 竹下も「小渕のあとが見えない」と言った。総理の後継がないということは、その器を育てなければいけない連中がどこかでサボタージュしたわけです。

 吉田のあとは佐藤、佐藤のあとは「三角大福中」(三木、角栄、大平、福田、中曽根)と五人、中曽根のあとは「安竹宮」三人でした。

 自民党主流の基本的な発想は「中曽根が五年続いたから、これからの総理は五年はやれる」。中曽根のあとは安倍と竹下、どちらが先かわからないけど二人併せて10年。90年代の10年間は二人で凌ぐ。宮澤はその間に老いてそこでおしまい、というのが基本的な戦略だったのです。

 ところが、リクルート事件で竹下があっという間に倒れ、安倍は病死し、宮澤は選挙で敗れて初の野党転落です。つまり1993年でストップ。中曽根政権が五年だから、あとの総理も五年などという神をも恐れぬ算段をしたのが誤算の原因です。

 しかも、必ず後ろで保証人のように人事の裏書きをしていた田中派、そして竹下派が割れてしまった。すると竹下が人事の裏書きをしようと思っても、まず自派を守るために直系の小渕、橋本の尻を叩いて、竹下派に反旗を翻した小沢一郎・羽田孜一派と戦わなくてはいけません。つまりはポスト中曽根の戦国乱世に近い状況が、そのあとにすぐれた武将が立ち現れることを阻んだのです。

 とにかく場当たり的に連れてきて、間に合せで総理の席に座らせたというのが実情でした。かろうじて橋本と小渕は総理の器になるだけのものを持っていたと思います。ただ残念ながら、支える派閥が弱体化してきたこともあり、橋本は人事で失敗して参院選で敗れ、激務で脳梗塞を起こした小渕は生命の炎がふっつり消えて、結局回復しませんでした。


  「政治のショー化」が進んだ90年代

 宮澤は出演したテレビ番組で、司会の田原総一朗さんに迫られて、つい「私は政治改革関連法案をなんとしても成立させたい」と口走り、これが1993年の解散から政界再編への引き金となります。宮澤はまさにメディアに破れたのです。

 「椿発言問題」はその象徴です。自民党が野党に転落した93年の衆院選で、テレビ朝日の椿貞良報道局長が「反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようとデスクらと話し合った」ことが表面化して、「偏向報道だ」「世論操作だ」と紛糾しました。

 ニュースもワイドショーも大きく変わりますが、なかでも報道番組はひとりのキャスターが政治を報道するというかたちになります。久米宏さんの「ニュースステーション」や筑紫哲也さんの「ニュース23」。とりわけ田原総一朗さんの「サンデープロジェクト」における各党幹部発言は、ニュース番組や新聞記事などで報道され、ときに現実の政局を左右することさえありました。


  政治内容と支持率との乖離

 1990年代のメディアの変化をじっと見つめて、自らの戦略に全面的に取り入れた政治家がここで登場します。小泉純一郎です。

 機を見るに敏な小泉さんは、このころから新聞が世論調査を頻繁に実施したがっていることを知り、それを最大限利用しようと考えます。つまり世論調査が行われる時期に向けて新しい政策をぶつけるのです。すると、新聞は必ず世論調査でその政策の是非を東洋になる。
 
 小泉さんはとにかく定期的に話題を提供する。ファッションにせよ、立ち居振る舞いにせよ、皮相的な部分もすべてさらけ出すことでメディアへの露出を続けて、国民とメディアの注目をつねに集めます。小泉政権になって、世論調査は芸能人よろしく好感度ちょうさとなり、支持率は視聴率のようになりました。


  絵になる対決の構図

 彼の政治劇に入らないような政策は取り上げられません。それはつねに敵と味方、善と悪が対決するようなかたちでなければならない。そこで郵政三事業民営化が話題になり、道路公団民営化が焦点になります。彼が投じた政策課題は、すべて「支持者」か「批判者」という敵味方に分けられます。

 というのは、それが「絵になる」からです。絵になるものは映しやすい。しかも、映し出されたときに、必ず小泉さんは改革する側にいる。それに敵対する守旧派は野党ではなく、むしろ自分を支えるべき自民党の中にいる、と小泉さんは言った。この古臭い体質をぶっ壊すとこぶしをあげたら、これまた国民に大ウケしたのです。

 野党にいじめられている与党総裁ならば、従来と同じ構図です。そうではなく、改革を進めんとするリーダーを邪魔する敵は味方の中にいる。となれば、対決を見守る国民としては「純ちゃん、頑張れ」となる。小泉さんはそこまで見抜いてやっていたという気がします。


  中身なしのパフォーマンス

 選挙のときに小泉さんは郵政民営化に反対した与党候補を公認せずに、その選挙区には「刺客」と称して、自分を支援する候補を数多く送り込みました。政治的手腕の期待できないような候補者も少なからずいましたが、メディアはそれにも完全に乗せられました。

 本来の選挙報道ならば、日本各地の注目区を選んで俎上を載せてしかるべきなのに、当時ほとんどのテレビ局は、刺客候補が送り込まれた地域だけを重点的に報道し、刺客候補が当選すると、あたかも小泉さんによる革命が成立するかのように報じました。つまりは郵政選挙の報道そのものが、「劇場的」になったのです。

 小泉さんという政治家は今や知られる通り、確たる政治理念や一貫した思想・信条があるとは思えませんが、とにかくパフォーマンスをさせれば右に出る者はいませんでした。


  弱者を切り捨てる強者の政治

 小泉さんのやり方で非常にはっきりしているのは、それまでの自民党の意思決定システムを完全に無視したことです。政務調査会の部会に下りていた重要案件をすべて官邸で取り上げ、自分の支配下でやらせるよう改革し、事前審査で政務調査会に下ろすこともやめました。「党にいちいち下ろすから族議員が威張るんだ」とばかり、そうした権限を奪いとったのです。


 規制改革にしても構造改革にしても、総理大臣自らがその権限をもって、邪なことをしている族議員をやっつけるという構図ですから、国民はこぞって喝采を送りました。こうして小泉さんは公的な文脈に乗せながら、私怨を晴らすことに成功したのです。

 一方、経済政策は新自由主義的な方針です。信賞必罰で勝ち残れるものは勝ち残るけれど、そうでないものは切り捨てる。だから小泉政治は全体として見ると、基本的に「強者の政治」です。

 国側が一審で負けたハンセン病訴訟において国が控訴を断念するという異例の措置も、「弱者救済」のイメージを演出するために下した決断であり、小泉さんが本当に弱者の立場に心を寄せていたとは思えません。

 みんなが救われる政治ではなく、ダメなものは切るという政治の始まりは小泉政治にあります。しかも、小泉さんは悪びれることなく、堂々とそれを主張しました。それはその後の自民党政権に色濃く反映し、現在の安倍政権がまさに強者の政治を推し進めています。


  説得せず、調整せず、妥協せず

 経済が膨らみ、国内総生産(GDP)が伸びた時代、自民党政治とは「配分の政治」でした。拡大するパイを配分するために政治には調整が必要であり、多数派の田中派を支持する限り、配分されるパイは増えていました。

 しかしバブルが崩壊した90年代に起こったのは、そのパイが増えないという事態です。むしろパイは減るかもしれない。減った部分をどうするかという調整は、実は田中派にはできません。問題が起きた際の田中派の調整方法はパイを大きくすることだったからです。「でもやっぱり減らさなくちゃいけないんじゃないの?」と言い出したのが小泉さんでした。ただし小泉政治は、強者のパイを大きく減らすのではなく、弱者のパイを減らして間に合わせる手法でした。


 「説得せず、調整せず、妥協せず」の三無主義。私が小泉さんを「ニヒリズムの宰相」と呼ぶゆえんです。強者たる田中派の長期支配に対して、国民に鬱積した恨みつらみを逆手にとって「悪の派閥を正義の小泉が退治している」という構図を見事に演出しました。

 
 戦後の政治家は年季をかけて自分をつくり、良く出れば威厳、悪く出れば不気味さとして、ある種の奥行きを醸し出していました。私は彼らを「異人政治家」と称しましたが、やはり今の政治家はどこか薄っぺらくて平均的。「等身大政治家」と呼ぶゆえんです。

 では、異人政治家たちの「奥行き」とはいかなるものか。第Ⅲ部では私が直に接した近過去の異人政治家たちの生態をのぞき、それを現在の等身大政治家たちと比較してみることにしましょう。


>>(拡大する)パイの配分から、弱者のパイを減らす手法に変更された(バブル崩壊後の)政治を見直す必要があるように思う

「政治家の見極め方」③



「政治家の見極め方」(御厨貴著、NHK出版新書)より


 Ⅱ かつて政治家は異人だった


 第三章 なぜ昔の政治家はキャラが立っていたのか


  戦後的状況にふさわしい政治家


 大衆民主主義の時代を迎えた戦後日本で、吉田はもっとも民主主義に向かない総理として生き延び、しかも日本自由党から民主自由党、自由党の総裁として、その後の日本の保守政治の礎を築く政党を率いました。

 逆に言えば、GHQが間接統治した戦後の大混乱期のリーダーは、周りの意見を素直に聞いていたら何もできなかったということです。GHQに対してもの申す態度をもって、下を従えるというアナログな独裁者、反議会主義、反民主主義の吉田でなければ当時の政治は動かせなかったでしょう。

 その意味で、吉田は戦後的状況にまことにふさわしい政治家だったと言えます。反時代的な宰相を演じることで時代を大きく動かした。これは政治の大いなる皮肉です。


  悲運の鳩山一郎への判官びいき

 「吉田茂のところに寄ってくる人なんかいやしない。鳩山さんは自然に人が寄ってくる。これこそ大衆政治家だという感じがしたな」

 鳩山率いる日本民主党と、吉田後継の緒方竹虎率いる自由党が戦った1955年の選挙では、メディアは鳩山を応援して勝利に導きました。

 映像を通じて浮かび上がった二人の総理の対立的状況が、当時の政治にある種のダイナミズムを与えたことは間違いありません。それは必ずしも実像ではなく、映像によって誇張された虚像を国民が見ることによって生じたダイナミズムでした。


  岸信介の極悪人イメージ

 吉田・鳩山の最終決戦が終わって、1955年に保守合同で自民党が誕生。鳩山政権の下で幹事長をやっていた岸は、日ソ国交回復を花道に鳩山が引退を決めたあとの総最公選を石橋湛山と争ったときに、はじめてメディアに大きく取り上げられました。

 総裁選に勝利した石橋は二ヶ月後、病に倒れて、タナボタ式で岸内閣(1957~1960)が誕生します。しかし、岸に対する国民のイメージは、日米開戦の詔勅に署名したA級戦犯容疑者ながら結局無罪放免となったダークな存在。しかも拘置所出処から、わずか8年余りの総理就任。

 そこからメディアは岸の人物像をつくっていきます。反米だった岸はいつの間にか親米になっていて、安保改定、警職法(警察官職務執行法)の改定を密室で進めようとします。この秘密主義に加え、理路整然と語る切れ者エリート官僚の言動、眼光鋭くウェルカムではない御面相とが相まって「極悪人」のイメージが形成されます。


 1960年の安保闘争で、浅沼は安保闘争の前面に立って戦い、NHKをはじめ映像メディアは明らかに反安保、反岸に染まります。一方の岸はメディアを使って国民を説得していくという発想はありません。帝国日本の最優秀官僚であっただけに、安保なんて国民、わけても女子どもにはわからなくてよろしい、エリート男性だけがりかできればいい、という意識だったのでしょう。

 その国民無視の姿勢によって、メディアや野党、自民党内からも集中砲火を浴びて、新安保条約批准後、退陣へ追い込まれることになります。


 今の政治家を見慣れた世代が、当時のニュース映像を見たら仰天するでしょうね。戦後の政治に国民を完全に無視した時代があったなんて思いもよらないでしょうから、戦前の映像だと思うかもしれません。

戦後から岸内閣が終わる15年間はそんなかたちで続きましたが、その中で戦後復興と高度成長への助走は着実に進んでいきました。


  演出された池田勇人の大転換

 池田は国家の経綸をまったく語れない人だった。日本のトランジスタ製品をフランスに売り込んで、ドゴール大統領から「トランジスタの商人」と揶揄されましたが、とにかく朝から晩までソニー製トランジスタラジオで株価の値動きを追うことが総理の一番の仕事だと思っていたような人です。

 周りとしては困った存在ながらも、いちおうは親分です。しかも戦後はずっと大蔵省を率いてきたから財界としては応援したい。そんなふうに周りの条件は整っているけれども、当の本人が総理の器かどうかということになると、相当に物足りない。

 しかも吉田内閣の経済閣僚時代には、「中小企業の一つや二つ、倒産もやむをえない」とか「貧乏人は麦を食え」という上から目線のタカ派的発言で一般にはイメージされています。池田が総理になったとき、佐藤栄作いわく、

「よくあんなヤツが総理になれたもんだ。昔だったら無理だった」

 池田の登場のおもしろさは、「お粗末な素材」を周りすべてが支えようとした点にあります。その中心が前尾繁三郎、そして大平正芳、宮澤喜一らの「秘書官グループ」、さらに大蔵省を中心とした官僚出身の若手政治家たちです。彼らは吉田が政権ぐくりをしたときの中核メンバーでした。

 1957年、池田を支えるための初の派閥「宏池会」が誕生します。これはのちの派閥と違って議員集団ではなく、下村治や大蔵官僚を中心とするいわば政策勉強会で、のちに政治家も勉強のために参加します。こんな摩訶不思議な集団を背負って出てきた総理は日本政治史上ほかにおりません。

 1960年に総理大臣になったとはいえ、池田自身に格別の統治論や政策論があるわけでもないから、丸裸の総理をとにかく演出しなければならない。最初の演出が、大平と宮澤で合作した「寛容と忍耐」というキャッチフレーズです。


 タカ派からハト派へ、上から目線から低姿勢へ、暴言からニコニコ笑いへ、料亭から家庭へ。プレモダンで旧制高校の学生を絵に描いたようなとっちゃん坊やふうのバンカラおじさんが、モダンなことを構想した宏池会グループによって過剰に演出されます。それによって、国民の目には日本の政治が岸時代から池田時代に大転換したように見えました。このころからメディアを意識した確固たる演出の下で政治が動きはじめます。

 同じ自民党内での政権交代ですから、本質はさほど変わってはいません。しかし、混乱の極みに達した安保問題はたちまち潮が引くように忘れ去られ、1960年7月に成立した池田政権は、同年の12月に約300議席の圧倒的な議席を確保して安定政権となったのです。


  国民のちょっと先を行く

 自民党はなぜ勝てたのか。ズバリ池田が「月給を二倍にする」と言ったからです。いわゆる「国民所得倍増計画」です。

 「高度経済成長」という気取った言葉に対して「月給二倍」なら庶民にもピンとくる。エリートのインテリ総理が「豊かな生活」と宣言しても信用できないけれど、酒好きのバンカラ総理が国会で笑われながらもガラガラ声で「10年後には月給を二倍にする」と言った。この月給二倍論の、メディアに対するイメージ効果は絶大でした。歴代内閣で経済政策を政治課題として前面に打ち出したのは、この池田内閣と第二次安倍内閣くらいですが、。同じ経済政策でも、アベノミクスにかけているのは明確な数値目標です。

 結局、行動経済成長の猛烈な勢いにより、月給は10年間で二倍どころか三倍、四倍になります。

 池田以降はブレーンを含めた人材などを自分の周りに引き寄せる資質が問われるようになった。いかに優秀で有能なブレーンを持っているかということです。


 「政治は、ある程度国民の先を行かなくてはいけない。国民に寄り添ってもダメで、かといって岸政治のようにあまり先に行ってもいっけない。国民のちょっと前にいて率いていくのが池田政治だ」

 宮澤が気の利いた言葉でそう語れば、メディアがどんどん増幅する。逆に言うと、メディアに取り上げてもらえそうな言葉をどんどん彼らが発していくわけです。


  振り子を右に振らなかった佐藤栄作

 「いよいよ弟が出てきたからには、戦前的な価値観に戻すべきところは戻し、憲法改正もやってくれるだろう」

 しかし、あに図らんや佐藤政権(1964~72年)はそうした岸の価値観を継承しなかった。佐藤は池田政治をいちおう継承し、基本的には寛容の姿勢で臨みます。政権が岸から池田政治を挟まずに、佐藤へと兄弟間で直接受け継がれていたら、そうはいかなかったでしょう。

 
 佐藤政権は戦前の流れを汲んではいますが、池田という戦後派をすでに通過した以上、それより前には戻れません。佐藤自身、自民党政治家たちに不祥事が相次いだことによる1966年の「黒い霧解散」を経て、まさに霧を払うように戦前的なものを切り落としていきます。もちろん、憲法改正などやりません。佐藤が戦前派に尽くしたのは2月11日の紀元節を祝日にするところまででした。


  退陣会見で化けの皮がはがれる

 吉田内閣末期の1954年、自由党幹事長だった佐藤は、政官財界に及ぶ贈収賄事件「造船疑獄」に巻き込まれ、逮捕寸前まで行きますが、法務大臣の指揮権発動によって逮捕をま逃れます。当時のニュース映像を見ると、佐藤のメディアへの無防備ぶりがわかります。


 さて、総理になってからの佐藤は、自身の顔と体から発するある種の「風圧」、沈黙による威圧感を一般国民には封じるべく、ソフトなイメージを演出します。

 たとえば、ミニスカートをはいた開放的な雰囲気の奥さんと二人でいる場面を、ことあるごとに映像に撮らせて、家族思いという人物像を演出することにある程度成功しました。ところが、退陣表明の記者会見で化けの皮がはがれます。

 
 カメラは新聞記者をにらみつけて怒鳴るような調子で「出て行ってください」と言い放つ佐藤の素顔をそのまま映し出した。この瞬間、造船疑獄の際に「終わりと言ったら終わり!」と言った佐藤の本質が国民に暴露されました。

 確かに映像はありのままの佐藤を伝えました。しかし、それは佐藤の意図とは違っていました。やはり佐藤も、本人が意図しない本質を映し出してしまうという映像の本当の怖さを知らなかったのです。


  書籍で勝負した田中角栄

 いわゆるポスト佐藤の時代。佐藤以後、総理になった順番からいうと、田中角栄・三木武夫・福田赳夫・大平正芳・鈴木善幸・中曽根康弘です。最初にその中でメディアを意識したのは田中角栄(総理在任期間1972~74年)です。

 田中の場合も実はブレーンがいました。麓邦明と早坂茂三ら何人かの新聞記者グループが田中をつくり変えようとします。

 田中は拝金主義者の「土建屋」であって、発想がそこから一歩も出ません。当然、メディアは警戒します。そこでブレーンが中心になり、下河辺淳ら先験的な開発官僚を集めた「陰のグループ」ができあがり、田中が自民党内に立ち上げた都市政策調査会で、日本の産業・経済構造を分析した国土ビジョンが構想されます。

 これは田中の思想をまとめたということになっていますが、田中は第1回目に出て、最後に答申を受け取るまで関与していません。ブレーンの官僚たちの話はほとんど聞かず、田中が一人で一気にしゃべった開発論を多少入れながら、国土ビジョンは1968年に「都市政策大綱」として発表されたのです。

 これは東京の過密と過疎の解消を扱うことが前提でしたが、できあがったものには「公共の利益が私的所有権に優先する」という趣旨の、いわば公益優先主義が高らかにうたわれていました。これを最初に評価したのが朝日新聞です。当時のリーディングメディアだった朝日に評価されたことで、「自分たちは勝ったと思った」と麓たちは証言しています。


 福田赳夫を後継と考えていた佐藤栄作はそこで焦ります。しかし福田は田中に対抗するようなメディア戦略を立てることはできず、結局田中にしてやられました。

 ポスト佐藤をめぐる「田中vs. 福田」の総裁選でも、二人の戦略は対照的です。典型的な大蔵官僚の福田は「福田、福田の声が澎湃と起こる」と、自分がやってきたことは黙っていても皆わかるはずだから、支持は自然に集まるはずだとタカをくくっていました。エリート官僚ゆえの自信でしょう。

対する田中はなんと書籍で勝負した。「東大法学部出身の福田に対して、高等小学校しか出ていない自分は活字メディアに訴える」。そして1972年に『日本列島改造論』を出版します。

 この本は都市政策大綱とは実は似て非なるものでした。日本列島のどこにどういうプロジェクトを実施すればいいかという行動計画であり、具体的な地名が頻出します。これが結果的に土地高騰を招きます。

 『日本列島改造論』ははたして大ベストセラーになりました。本で勝負するという先見性。この時点でメディア戦略からすれば、明らかに田中の勝ちでした。


  演説におけるストック言語

 田中はこれからの時代、社会はどんどん大衆化するので、政治は庶民の心に届かなければやっていけないことを本能的にわかっていました。

 自分は庶民にウケる。それもかっこよくウケるのではなく、ちょびヒゲを生やした田舎のとっつぁんふうの人間としてウケる。浪花節の世界そのものです。そのことを田中は十分に認識していたいと思います。

 
 それまでストックだった言葉が、田中になってからフローの言葉になった。言い換えれば、「読むための言葉」ではなくて、「聞くための言葉」です。

 ストックの言葉で政治をやったのは、佐藤栄作が最後でしょう。

 佐藤までの政治家は、自分の発する言葉が一つひとつ政局に影響を与えると思っているため、早口でぺらぺらとはちゃべりません。吟味された言葉だけを口にします。そこでは絶えず流れ続けるフローの言葉でなく、蓄積された内容が出てくるストックの言葉になる。

 田中の言葉はまったく違います。全国の総合開発をぶつ彼の演説はこんな感じです。

 「いくらなんだかんだと言ったって、そんなに広くないこの日本の都市を道路で結べば、それから鉄道で結べば、さらには飛行機で結べば、大したことはたいじゃありませんか」


 彼の話は、こうした表現を織り交ぜながら次につながっていくので、聞く側も次に出てくる言葉に引っ張られ、「そうなんだ。角さんに任せたら道路も鉄道もみんなできて、都市はつながって」というふうに思ってしまうのです。

 これはゆっくりしゃべったら、たちどころにウソであることがバレてしまいます。

 しかもそれが、全国総合開発計画となれば、聞いているほうにも見えやすい。

 聞いていて飽きない。親しげに明快に語る。しかし理路整然としているわけでも、起承転結があるわけでもない。一方的なおしゃべりの連なりです。


  掌を返したメディアと国民

 列島改造論をぶち上げて、日中国交正常化を実現するまで、田中の政治は順風雨満帆でした。しかし、列島改造ブームによる地価暴騰と石油ショックによる狂乱物価で、日本は低成長への転換を余儀なくされます。あわせて、田中の金脈問題も浮上しました。
 
 メディアは掌を返したように田中バッシングを始めます。今太閤と呼ばれた異例の出世の過程でいかにあくどい不正を働いたか。それは実のところ表裏の関係にあり、それまで一切、表に出なかった裏側が次々に暴かれました。メディアの残酷なところです。


 退陣後の1976年に戦後最大の疑獄「ロッキード事件」が起こります。米国のロッキード社が全日空に旅客機を売り込んだ際、巨額の工作資金が政府高官に渡ったことが発覚し、田中にも疑惑が浮上します。


 田中が総理を辞めるとき、山口瞳が「下駄と背広」という有名なコラムを書きました(『旦那の意見』中央公論社、1977年収録)。

 「私は、ずっと昔から、背広でネクタイ、靴下をはいたままで庭下駄を突っかける奴は胡散臭い奴だと信じてきた」

 田中には背広に靴下で、下駄を履いた写真があります。そこに田舎から出てきて都会人になろうとする成り上がり者の哀しい習性が見える。背広に靴下という近代を身に着けながら、前近代の下駄を履く姿のなんたる不細工なことか――。

 田中が良かれと思った平均的な庶民を装った姿が、最後には裏目に出ることになったのです。


>>メディア戦略の重要性をしっかり認識できた政治家のみが生き残れる時代になりつつあるようだ

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