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「ザ・ビートルズ 解散の真実」⑥



「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT


  Afterwords by the Translator  訳者あとがき


 本書で特に強調されている、ジョンに認められたいというポールの願い。うっすらと気づいてはいたけれど、これだけ本人の言動を通じてその証拠を挙げられると、もはやポールが音楽をやっている動機は、それしかないような気がしてくる。ちなみにリンダとの関係も、本書を読めば、当初はジョンに対する意趣返しでしかなかったことが確信できるはずだ(それにしてもヨーコとリンダは実によく似ている。たとえばどちらもブルジョア家庭の出であること、アメリカからやって来たこと、年上で娘がいること、ぱっと見にはわかりにくい美しさがあること・・・・・・)。


 最後に本書の大きなテーマである「金」。本文にはポールの「ぼくからすると古いビートルズ音源の出し直しは全部、ちょっと搾取のにおいがする」という発言が引用されているが、その言葉を知ってか知らずか、近年、「音源の出し直し」には拍車がかかっている。


>>ポールのレノンに対する思い、「なるほどね~」と思う

「ザ・ビートルズ 解散の真実」⑤



「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT


  Chapter 4


 レノンが脱退しておよそ半年が過ぎたこの時期になっても、ビートルズは相変わらす稼働中のユニットを装っていた。実情は異なるのではないかという懸念も、間近に迫った映画『レット・イット・ビー』の公開と、四人はまもなく一緒に仕事をするというスターキーとハリスンの発言によって鎮められた。

 1970年の2月26日にアメリカでアルバム<<ヘイ・ジュード>>がリリースされたのにつづき、映画『レット・イット・ビー』は4月28日にニューヨーク、そしてその一週間後にはロンドンでのプレミア公開が決まっていた。3月6日にはシングルの<レット・イット・ビー>が臨時発売されるが、なにかを物語るかのように、全英チャートでは首位獲得を逃している。にもかかわらずマッカートニーのエレガントでゴスペル色が濃いナンバーは、いまだに未完成だったサウンドトラック・アルバムに対する期待を、全世界的にかき立てた。


 過去五年間、作者の承認抜きで、ビートルズの曲に新たな要素がつけ加えられたことは一度もなかった。そして今、レノン、マッカートニー、ハリスンの曲に大きく手が入れられているおいうのに、その三人はだれひとり、現場に顔を見せていなかった。

 中でもマッカートニーの< The Long and Winding Road >にリチャード・ヒューソンがほどこしたアレンジは、ほかをはるかに圧っして過激で物議をかもすものだった。オリジナルのレコーディングは自意識過剰の感傷的な仕上がりで、あまりにも女々しかった。だが無調性をひと足ししてこのムードを覆す代わりに、ヒューソンは大胆にも、それを強調することにした。


 確かにレノンはすでにグループを脱退していたが、その決断を公表せず、それによって妥協の余地を残していた。マッカートニーは四人のビートルズの中で、最後にグループを脱けたメンバーだった。だが彼はグループの解散を、自分の手柄にする--あるいは自分の責任にすることにしたのである。


>>解散に関する、レノンとマッカートニーの真逆の行動が全てを物語る


「ザ・ビートルズ 解散の真実」④



「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT


  Chapter 3


 アップルは誇らしげに、1969年1月の不快なセッションでレコーディングされたアルバムが、もうじきリリースされると発表した。タイトルは<< Get Back >>。ジャケット写真は彼らのデビュー・アルバム<< Please Please Me >>をなぞったものだが、かなり健全なルックスだった前作に大使、今回のビートルズは四人中三人が髭を生やしていた。

 たびかさなる予告にもかかわらず、<<ゲット・バック>>というアルバムは、ついにリリースされなかった。


 7月9日に復帰した彼は、一瞬、ひとりで姿をあらわしたに見えた。だがその数秒後には、ヨーコ・オノがよたよたとした足取りでスタジオに入り、つづいてハロッズ百貨店から派遣された四人のポーターが、ガラガラとベッドを運びこんだ。


 それからの四週間、グループはささいないさかいをわきにやり、集合体としてのアイデンティティを取り戻すことに成功する。おかげでレノン作品の< Because >では、彼とマッカートニーとハリスンがほぼ12時間を費やし、そのキャリア史上もっとも完璧な、聖歌隊風のハーモニーをレコーディングすることができた。

 しかしこの一体感はうわべだけのもので、グループの中心的なメンバーふたりの方向性は、完全に異なっていた。マッカトニーが常人離れしたメロディ作りの才を発揮しつづけたのに対し、レノンは感情をありのままに表現した音楽にしか関心がなかった。その違いを端的にあらわしているが、技巧が鼻につく、なんとも軽々しいマッカトニーの<マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー>と、容赦ないほど直接的なレノンのラヴ・ソング< I Want You >だろう。

 一方でこのふたりは、開花しつつあったジョージ・ハリスンの才能を意図的に過小評価していたが、彼のもっとも優れた作品は--たとえばこのアルバムに提供した<サムシング>と<ヒア・カムズ・ザ・サン>の二曲のように--年上の同僚ふたりのもっとも魅力的な資質を合体させていた。


 さいわい、彼はアヴァンギャルドに対する情熱を、<<アビイ・ロード>>と題されるこの最後のアルバムが完成するまで隠し通すことができた。


 1969年8月8日の朝、彼らはスタジオの外の横断歩道を行きつ戻りつし、それだけで史上もっとも有名なアルバム・ジャケットのひとつを生み出してしまう。

 ビートルズが足並みをそろえていられるのは、せいぜいシャッターが一度切られるあいだぐらいだった。


 1969年8月22日、レノン夫妻は誇らしげに、ほかのビートルズたちをこの邸宅に招いた。カメラマンのモンティ・フレスコがその模様を撮影し、これが結局、グループ最後のフォト・セッションとなる。当然のようにオノも、しばしばフレームの中に収まっていた。これが歴史的な出来事になることを察知していたのか、パティ・ボイドは以後二度と、こうしたかたちで人前に出ることがなかった四人のミュージシャンの姿を、サイレントのフィルムで撮影した。


 イーストマンは9月15日に到着し、その翌日か二日後には、四人のビートルズ全員が議決権や自社株購入権に関する仰々しい抗議を拝聴していた。そのうちにハリスンが将来的なビートルズのレコードには自分の曲も平等に収録してほしいと言いだし、それをめぐって彼とレノンが、とりとめのない口論をはじめるひと幕もあった。当時はだれも気づかなかったものの、これは歴史的な瞬間だった。レノン、マッカートニー、ハリスン、スターキーがひとつの部屋で同席するのは、この時が最後となったのだ。ロックンロールに対する情熱的な思い入れとともにはじまった物語は、その情熱の後始末をめぐる、生気を吸い取られそうな議論とともに幕を閉じたのである。


 1970年1月3日の午後、ビートルズはアビイ・ロードのスタジオ2という、おなじみの場所に集まった。・・・7月に上々の首尾を上げた三人組のグループだった。

 レノン抜きのビートルズは、ハリスンの< I Me Mine >をレコーディングした。映画『レット・イット・ビー』の劇中で披露される曲だったため、クラインがどうしてもサウンドトラック・アルバムに収録したいと言い張ったのである。翌日、このトリオはマッカートニーの<レット・イット・ビー>にさまざまなオーヴァーダビングを加え、リンダ・マッカートニーも彼に説得されて、ナイーヴな歌声をバッキング・ヴォーカルにつけ加えた。レノンがはじめてオノをビートルズのセッションに招いてから18か月、マッカートニーはようやくむなしい復讐を遂げることができた。


>>いよいよ解散に向けたクライマックスへ


「ザ・ビートルズ 解散の真実」③



「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT


  Chapter 2

 ぼくらのビジネスの主軸はエンターテインメント--コミュニケーションだ、アップルは主として、楽しさを追求している・・・・・・ぼくらはすべてのエネルギーを、レコード、映画、そしてエレクトロニクスの冒険に注入したい。ぼくらが本気で楽しめることに照準を合わせるべきだと思ったし、ぼくらは生きていること、そしてビートルズでいることを楽しんでいる。
  --ポール・マッカートニー  1968年7月

 話せない・・・・・・下手なことを言いたくないんだ。
  --ポール・マッカートニー  1969年1月


 確かにアニメーション映画の『イエロー・サブマリン』は、広く批判を浴びたかもしれない(イギリスのある新聞は、「露出過多の四人組」による「失敗作」と酷評していた)。だが、<ヘイ・ジュード>のリリースは、グループが音楽とおたがいに対して、かつてなく本気になっていることを示唆していた。次第に盛り上がるコーラスをフィーチャーしたマッカトニーの曲は、西洋の若者たちのあいだで広まりつつあった、政治的敗北にも自分たちの団結はゆるがないという信念をみごとにとらえきっていた。


 彼らの関係は、マッカトニーがうたう< Get Back >のコーラスを、レノンがヨーコ・オノへのあてこすりではないかと邪推するほど悪化していた。ビートルズがレノンの作品< Accross the Universe >にトライしたあと、マッカトニーが音楽について語っているふりをしながら、「無用な東洋からの影響がある」とコメントしたこともあった。


 和解をうたったマッカートニーのバラード<レット・イット・ビー>をレコーディングした翌日、アップルに戻ったビートルズは、アレン・クラインおよびジョン・イーストマンとともに、グループの将来を話し合った。


 より実際的なマッカートニーは、自分のフラストレーションを < You Never Give Me Your Money >と題するメロディアスな曲に注ぎこんだ。彼は1996年にこの曲は「バンドのほかのメンバー」に向けたものではないと説明している。

 「本気であの三人が悪いと思ってたわけじゃないからね。ある意味、全員が同じ船に乗ってたわけだし、ぼくらが本気で敵対して、それぞれに弁護士とかを雇いはじめたのは、アレン・クラインがあらわれてからのことだ。あいつにバラバラにされたせいさ。基本的にはあいつがぼくらをバラバラにしたんだ」。


 1969年5月にはまだ、ビートルズには四人のメンバーがいた--たった四人のメンバーが。だが過去10年間にわたって彼らを結びつけてきた絆は、永久に消え去っていた。


>>解散に向けた下地が整いつつある


「ザ・ビートルズ 解散の真実」②



「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT


 「アヴァンギャルド・シーンにいたわたしはロック・ミュージックにあまり共感できず、興味もさほどありませんでした。むしろ、その正反対だったんです。ロック・シーンの一員にならないことが、大きな誇りにもなっていました。あまりに商業的すぎたからです。フルクサスはあの当時、群を抜いて実験的なグループでしたし、一方でロックはただの・・・・・・」。彼女はお話にならないというように手をふった。

 ひとたび関係ができると、オノとレノンは流動的だが中身の濃いつきあいをつづけた。彼女はシンプルでパワフルなところがとりわけ魅力的なプランやマニフェストやコンセプトを次々に彼に吹きこみ、レノンも熱烈に反応した。ビートルズがインド遠征の準備を勧めていた1968年2月、レノンは自分の妻だけでなく、ヨーコのことも知的な伴侶と見なすようになっていた。


 「これで決まりだ。オレが一生待っていたのはこれだった。なにもかもクソくらえだ。ビートルズもクソくらえ。金もクソくらえ。なんならクソったれなテントで彼女と暮らしてもいい」。詩的な誇張を勘定に入れても、オノとの関係が彼の人生における、大きな節目になったことは間違いない。オノにはエロティックな魅力(現に彼が翌年書く曲は、からまで、性的なイメージに満ちふれていた)だけでなく、レノンの創造性を解き放つ力もあった。


 自分の気持ちを言葉遊びやシュールレアリスムで覆い隠すたびに(意図的に愚かさを装った< I Am the Walrus >のように)、彼は本能的に罪悪感を覚えた。

 
 ・・・自分とオノの関係をシンシアに表明することだった。彼はケンウッドのキッチンでオノと一緒にいる姿を、彼女にもしっかり目撃させた。その後の数日間、彼はシンシアとの直接対決を避け、ふたりの結婚にはまだ救いがあるふりをしていた。そして外国に旅行して、気分をリフレッシュするように勧めたあと、オノを同伴して、自分の本を戯曲化した舞台のオープニングに出席した。


 オノは既婚男性とつきあう既婚女性だっただけでなく、一般の人々には「ヌード」を連想させる存在で、イギリス的な美の基準には合致せず、しかも最悪なことに「日本人」だった。それはそのままほんの20年あまり前に、戦場で捕虜たちが受けたむごい仕打ちを意味していた。自分は寛容だと考えるイギリス人の多くが、日本人だけは例外扱いし、細い目をした情け容赦のないサディストだと決めつけていたのである。


 両親に捨てられたレノンにとって、ミミ伯母さんは安定の象徴だったが、十代に入った彼が反逆的なロックンローラー、そして風刺的なアーティストとなっていくにつれ、拒絶すべき存在になっていった。対照的にオノは方向性を彼に与え、彼の言い分を聞き入れた。そしてレノンは、奇跡的に家への帰り道をみつけたかのように反応したのである。


 レノンとマッカトニーのパートナーシップを支えていたのは、もっとも広い意味での兄弟愛だった。確かにこの二人のうち、レノンはより攻撃的で皮肉っぽく、マッカトニーはより如才がなかったかもしれない。だがこのパートナーシップが保たれている限り、ビートルズは存続可能だった。そんな1968年5月30日、グループはアビイ・ロード・スタジオに再集結し、最終的には半年にわたる、混沌と創造のプロセスをスタートさせた。

 その結果生まれた二枚組アルバム<< The Beatles >>(通称『ホワイト・アルバム』)は、彼らのもっとも多様な、そしておそらくはもっとも聞き応えのある作品だった。ヴォードヴィルからアヴァンギャルドまで、20世紀のポピュラー音楽史としても機能する、無鉄砲な折衷主義の万華鏡的なコラージュ。だが聞く限りにおいてはとても熱意にあふれ、アナーキーなエネルギーすら感じさせる音楽は、実のところ、ビートルズから集団としてのアイデンティティをすべて搾り取ってしまうほど陰々滅々としたセッションの産物だった。

 
 1968年5月以降は、15か月後におこなわれるビートルズの最後のセッションまで毎回スタジオに入りつづけたのも、オノによるとレノンが決めたことだった。


 アップルの第一弾リリースには、ビートルズ最大のベストセラーとなる<ヘイ・ジュード>が含まれていた。グループの内外で不安と怒りが燃え盛っていた夏を経て登場した、マッカートニーによる、楽天主義で輝かんばかりのアンセム的なナンバーである。

  
>>『アビイ・ロード』の裏側では様々なドラマが繰り広げられていたことを初めて知った


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