「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT
「アヴァンギャルド・シーンにいたわたしはロック・ミュージックにあまり共感できず、興味もさほどありませんでした。むしろ、その正反対だったんです。ロック・シーンの一員にならないことが、大きな誇りにもなっていました。あまりに商業的すぎたからです。フルクサスはあの当時、群を抜いて実験的なグループでしたし、一方でロックはただの・・・・・・」。彼女はお話にならないというように手をふった。
ひとたび関係ができると、オノとレノンは流動的だが中身の濃いつきあいをつづけた。彼女はシンプルでパワフルなところがとりわけ魅力的なプランやマニフェストやコンセプトを次々に彼に吹きこみ、レノンも熱烈に反応した。ビートルズがインド遠征の準備を勧めていた1968年2月、レノンは自分の妻だけでなく、ヨーコのことも知的な伴侶と見なすようになっていた。
「これで決まりだ。オレが一生待っていたのはこれだった。なにもかもクソくらえだ。ビートルズもクソくらえ。金もクソくらえ。なんならクソったれなテントで彼女と暮らしてもいい」。詩的な誇張を勘定に入れても、オノとの関係が彼の人生における、大きな節目になったことは間違いない。オノにはエロティックな魅力(現に彼が翌年書く曲は、
からまで、性的なイメージに満ちふれていた)だけでなく、レノンの創造性を解き放つ力もあった。
自分の気持ちを言葉遊びやシュールレアリスムで覆い隠すたびに(意図的に愚かさを装った< I Am the Walrus >のように)、彼は本能的に罪悪感を覚えた。
・・・自分とオノの関係をシンシアに表明することだった。彼はケンウッドのキッチンでオノと一緒にいる姿を、彼女にもしっかり目撃させた。その後の数日間、彼はシンシアとの直接対決を避け、ふたりの結婚にはまだ救いがあるふりをしていた。そして外国に旅行して、気分をリフレッシュするように勧めたあと、オノを同伴して、自分の本を戯曲化した舞台のオープニングに出席した。
オノは既婚男性とつきあう既婚女性だっただけでなく、一般の人々には「ヌード」を連想させる存在で、イギリス的な美の基準には合致せず、しかも最悪なことに「日本人」だった。それはそのままほんの20年あまり前に、戦場で捕虜たちが受けたむごい仕打ちを意味していた。自分は寛容だと考えるイギリス人の多くが、日本人だけは例外扱いし、細い目をした情け容赦のないサディストだと決めつけていたのである。
両親に捨てられたレノンにとって、ミミ伯母さんは安定の象徴だったが、十代に入った彼が反逆的なロックンローラー、そして風刺的なアーティストとなっていくにつれ、拒絶すべき存在になっていった。対照的にオノは方向性を彼に与え、彼の言い分を聞き入れた。そしてレノンは、奇跡的に家への帰り道をみつけたかのように反応したのである。
レノンとマッカトニーのパートナーシップを支えていたのは、もっとも広い意味での兄弟愛だった。確かにこの二人のうち、レノンはより攻撃的で皮肉っぽく、マッカトニーはより如才がなかったかもしれない。だがこのパートナーシップが保たれている限り、ビートルズは存続可能だった。そんな1968年5月30日、グループはアビイ・ロード・スタジオに再集結し、最終的には半年にわたる、混沌と創造のプロセスをスタートさせた。
その結果生まれた二枚組アルバム<< The Beatles >>(通称『ホワイト・アルバム』)は、彼らのもっとも多様な、そしておそらくはもっとも聞き応えのある作品だった。ヴォードヴィルからアヴァンギャルドまで、20世紀のポピュラー音楽史としても機能する、無鉄砲な折衷主義の万華鏡的なコラージュ。だが聞く限りにおいてはとても熱意にあふれ、アナーキーなエネルギーすら感じさせる音楽は、実のところ、ビートルズから集団としてのアイデンティティをすべて搾り取ってしまうほど陰々滅々としたセッションの産物だった。
1968年5月以降は、15か月後におこなわれるビートルズの最後のセッションまで毎回スタジオに入りつづけたのも、オノによるとレノンが決めたことだった。
アップルの第一弾リリースには、ビートルズ最大のベストセラーとなる<ヘイ・ジュード>が含まれていた。グループの内外で不安と怒りが燃え盛っていた夏を経て登場した、マッカートニーによる、楽天主義で輝かんばかりのアンセム的なナンバーである。
>>『アビイ・ロード』の裏側では様々なドラマが繰り広げられていたことを初めて知った
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