【 吉田茂のサンフランシスコ講和条約に至る信念 】
以下は、「昭和の怪物 七つの謎」(保坂正康著、講談社現代新書)より。
第七章 吉田茂はなぜ護憲にこだわったか
吉田の投獄体験
結局、吉田は5月25日まで監房に閉じこめられていたが、該当する罪名はないと釈放になっている。
「御感想はいかがですか」と吉田に尋ねると、「いや、人間一生に一度は入って見るのもよい処だよ」と笑ったと書いている。
吉田のこの投獄事件は、GHQの占領政策のもとでは勲章でもあった。これほど軍に対抗したのだから、この男はわれわれの味方にないうると、GHQのG2(参謀第二部)のウィロビーなどには信頼されたのである。むろん近代日本の歴史上にあっても、吉田はこれを勲章として利用している。吉田の周辺の人びとは、こういうときの吉田の肚の据わった態度には尊敬の念を抱いている。
私が麻生和子に話を聞いたときも、「戦後は彼とその同志の時代になるとの考えはあったと思いますよ」と明かしていたが、まさにそれは現実となったのである。
帝国議会の憲法論議の中で、吉田が最も強調したのは、天皇の地位である。そのうえで主権在民、基本的人権の尊重、民主政治の確立、そして戦争放棄について、この憲法の特徴を説明している。吉田は、9条の戦争放棄についてさほど詳しく答弁はしていない。自衛権を否定しているわけではなく、自衛の名のもとに行われる戦争そのものを否定しているのだ、との枠内での答弁であった。
「今日わが国に対する疑惑は、日本が好戦国であり、何時復讐戦をして、世界の平和を脅かすかも知れぬということが、日本に対する大きな疑惑となっている。先ずこの誤解を正すのが、今日われわれとして為すべき第一のことである」
素朴な非戦思想が凝縮
9月14日に、吉田は日本に戻ってきて政府声明を発表した。その中の一節である。この部分が最も重要な意味を持っていた。
「国民は一致団結して講和条約の履行はもちろん、ますます民主自由主義に徹して列国との理解を深め、世界の平和、文化、繁栄に努力して列国の期待に背かないことに注意することが新日本再建に資する所以であると信ずる」
講和条約の発効は、調印から8ヶ月後の昭和27(1952)年4月28日であった。つまるところ日本はこの講和条約と引き換えに戦争の清算を行い、国際社会に復帰することになった。
<感想>
サンフランシスコでの「対日講和条約締結調印会議」に至る吉田茂の信念なかりせば、今日の日本はないに違いない。
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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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「回想十年 新版」(吉田茂著、毎日ワンズ)より
負けっぷりをよくする
私が終戦後の東久邇宮内閣の外務大臣に就任したのは、9月17日であった。この日はマッカーサー元帥が、新たに総司令部事務所として接収された東京の第一生命保険相互ビルに入った日でもあった。
私はそれから間もないある日、鈴木貫太郎海軍大将を大森の仮寓先に訪問した。鈴木大将は人の知る如く、終戦時の内閣総理大臣であるが、長いこと陛下の侍従長をしていたので、義父牧野伯の関係で、私も懇意の間柄であった。私が訪ねて行った当時は、鈴木大将は、自分の家が空襲で焼かれて、知人の家に厄介になっていた。そのとき、「私は今度外務大臣になりましたが、何かお気づきのことがあったらお教え願いたい」といったところ、鈴木大将は、
「戦争は、勝ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりもよくないといけない。鯉はまな板の上に載せられてからは、包丁をあてられてもびくともしない。あの調子で負けっぷりをよくやってもらいたい」
というのである。西洋にも「a good winner is a good loser」という諺があり、私も、もっとも千万だと思った。「負けっぷりは立派にしよう」というのが、私の総司令部に対する一貫した考え方だったのである。
負けっぷりを立派にするということは、何もかも「イエス・マン」で通すということではない。また表面だけは「イエス」といっておいて、帰ってからは別の態度をとるという、いわゆる面従腹背などは、私の最も忌むところであった。要は「できるだけ占領政策に協力する」にある。しかし時に先方の思い違いがあったり、またわが国情に副わないようなことがあったりした場合には、できるだけわがほうの事情を解明して、先方の説得に努めたものである。そしてそれでもなお先方の言い分通りに事が決定してしまった以上は、これに順応し、時来って、その誤りや行き過ぎを是正し得るのを待つという態度だったのである。換言すれば、いうべきことはいうが、あとは潔くこれに従うという態度だったのである。
かくして今日、結果から見て、日本の負けっぷりは、自画自賛でなく、世界の敗戦の歴史にもあまりその例を見ないほど、よかったのではないかと思う。降服直後には「この先何年、何十年、占領されたままに過ごすのか」というのが、全日本人の最大の懸念であった。なかには二十年、三十年、極端なのは半世紀も続くという心配性の人さえもあった。ところが、占領は6年8ヵ月で終わった。6年8ヵ月の星霜、その間の労苦を思い返すと、私にとっては長い長い年月のようでもあるが、前記のように降服直後の国民の懸念を顧みれば、以外に短期間で済んだというほうが本当であろう。われわれ日本人の「負けっぷりのよさ」を示す証拠ではないか。
>>大戦直後の「負けっぷりのよさ」のお陰で今日の日本がある
「評伝 吉田茂 下」(猪木正道著、読売新聞社)より
何といっても一番重要なのは、(昭和22年)4月25日に行われた衆議院議員の総選挙だ。開票の結果、吉田茂自身は高知県で9万8千票を獲得して、第一となったが、自由党は140議席から131議席に減って第二党にとどまった。解散の直前145議席にふくれあがって第一党の座を占めた民主党は124議席の第三党にしぼんだ。第一党にのしあがったのは、社会党であって、解散前の98議席から143議席に躍進した。国民協同党が63議席から31議席への半減したことも注目されるが、共産党が6議席から4議席に落ちたことは、もっとも目立つ変化といえよう。
「そのようにして、自由党は社会党に渡し、わが国民主政治のルールを確立したいと意を決めていた。ところが、そのうち社会党の片山委員長と西尾書記長とが私を訪ねてきた。最初片山君だけひとり総理大臣室に入ってきて、“どうせあなたは入閣してくれないと思うが、次の社会、民主連立内閣には、自由党からも閣僚を送ってもらいたい”という。つまり社会党首を総理とする各党との連立内閣で行こうという構想である。
そので私は“社会党のなかのいわゆる左派の考え方は一体どうなのか”と質した。ところが、片山君は即答せず、となりの部屋で待機していた西尾君を呼んで答えさせた。西尾君はいろいろ説明したが、結局“容共とでも考えられたい”というに帰着する。そこで私は“それじゃだめだ。われわれは最初からはっきり反共なんだ。反共と容共とが連立内閣を作ってみたところで、気の合わない二人三脚みたいなものだ。社会党のためにも、よいことではあるまい”と答えた。すなわち談判破裂である。
ところがすぐその後で、このやりとりを聞き伝えた自由党の幹部連が二、三十名も私のところへ押しかけてきて、“この際社会党の申し出を受け入れてほしい。そうでなくて、このまま野に下れば、自由党はもたない”と膝詰めの強談判である。そこで私はいった。
“一体政党というものは、政策を基にして行動進退すべきものだ。全然政策の異なる政党が政権のために連立内閣をつくるということは、政党政治を汚すものである。諸君がやりたければ、それは勝手だが、私は御免をこうむる。諸君のいうがごとく果して党がもたないかどうか、党として重大問題であるから、まず代議士会に附議すべきである。諸君の主張がよいか、私の意見が正しいか、すべては代議士会で決めようではないか”
こうして翌日、代議士会を開いて、席上私は右のような意見を演説した。どころが、パチパチと拍手が起って、そのままこの問題の幕となった。そういうわけで、5月23日の第一回国会での首班指名では、自由党の出席議員全部を挙げて、社会党の片山君に投票し、かくて片山内閣が成立した」
社会党首班の連立内閣に参画せず、下野するという吉田茂の決断こそ、1年8ヵ月後に行われた総選挙で彼の党に圧勝をもたらしたといっても誇張ではあるまい。眼前の利益に左右されないで、筋を通したところに彼の政治家としての力量と指導力とが示されている。
では、吉田茂はなぜ社会党首班の連立に参加を拒んだのか?さきの引用にあったように、反共と容共との連立はありえないという原理、原則論のほかに、感情的な要因も大きかったらしい。秘書官の福田篤泰が語っているところを聞こう。
「連立の話し合いを通じて、吉田首相は社会党に非常な不信感を持つようになった。西尾や平野が“どうしてもダメだ”とか、“それは大丈夫だ”とかいうのを信用していると、次にはそれががらりと引っくり返る。そんなことが三回はあった。僕も間に立って困ったが、吉田首相が頑固で、感情の強い人で、あいつはダメだとなったら、もう徹底的にダメなんだ。
“二度も三度もウソをついて、あんな党は信用できない”といって、おしまいには憎悪感を持っていた。だからあとでは連立の話にはケンもほろろだった。片山内閣ができたときに自由党は連立に参加しなかったが、それは吉田が“あんな信用できない党はない。絶対にいかん”といっていたところから見ると、当然の結論だった」
社会党に対する吉田茂の不信感はきわめて根が深かったのだ。
総選挙から三党連立内閣の組織に至る五週間をふりかえると、一貫しているのは、内閣総辞職をして下野し、第一党の社会党に政局の主導権を委ねるという吉田茂の決意である。彼自身は少しも動揺していない。問題は民主党との保守連立内閣や、四党の挙国一致内閣に傾きそうな党内の勢力をどのようにしてひきいてゆくかにあった。片山首班の実現のため、吉田茂は四党首脳会談に応じ政策協定にも賛成した。しかし下野の方針を貫くためには、どこかで線を引かなければならない。その手段として使われたのが容共左派とは連立できないという強硬な主張だ。
「昭和22年5月から翌23年10月までの約1年半ほどの間は、片山および芦田の両内閣、すなわち社会党と民主党の連立内閣時代であった。この間、自由党も私も野党たる経験をえた。また野党として、次の選挙に備えるため広い範囲にわたって、地方遊説を試み、私としてはじめて行った土地も多くよい勉強になった。
革新系の片山君を首班とする内閣が出来ても、わが国の諸般の客観情勢は何等特によくならないばかりか、国民生活の苦しさもまた必ずしも改まらなかった。そこで野党たる自由党では、かかる情勢は到底これを座視するに忍びずとなし、保守の大同団結を行い、以て政権を担当して、難局に当らんということで、22年11月“救国新党”の結成を提唱した。当時、民主党内にあって社会党との連立に批判的であった幣原喜重郎氏等は、この自由党の提唱を支持したが、民主党の大勢はこれに同調しなかったので、幣原氏等は遂に民主党を離党した。
かかる新党結成の胎動の頃、一方片山内閣は退陣したが、ひきつづき社会、民主両党連立の下に芦田内閣が成立した。これが“政権のたらい回し”だと当時非難を受けたことは、多くの人のなお記憶するところであろう。一方救国新党結成の機運はこの頃から急速に促進され、さきに新党参加のため民主党を脱党した民主クラブの36名と自由党とが結集することにより、23年3月15日新たに民主自由党が発足し、私が総裁に推された」
>>眼前の利益に左右されずに筋を通すことはかなり難しい
「評伝 吉田茂 下」(猪木正道著、読売新聞社)より
「私の内閣時代の文教政策について記述する前に、敗戦直後のわが世相を見て、私がつくづく感じたことを一言しておきたい。
それは戦争に敗れて、一等国民だというメッキがはげたら、日本人は、何と情けない醜態をさらけ出していることか、自分も日本人である故に、恥かしくてたまらぬという感じをもった。国家とか、軍部の力とかを笠に着て、大して内容もないのに、威張りちらすくせが、日本人の間に前からあり、戦前も戦時中も、私はそれを苦々しく、恥かしく思っていたが、今度は国家が負けたとなると、全く意気地なくなり、すっかり卑屈になって、外国人のいうことだとなると、何でも彼でも御無理御もっとも、ことあれば、アメリカ人に哀訴嘆願するという体たらくの日本人が、続々と巷にあふれた。巷ばかりではない、指導的立場に立っている人々の中にも、政界や実業界や学界や、どこでもかしこでもそういう類が少くなかった。
私はそうした状態を見聞きするにつけ、どうしても教育の在り方をやり直して、日本人の人間性をたたき直さなければならぬと思うようになった。極端な言い方かも知れぬが、今の日本人には、一個の独立した人間として見ると、国際的な社会での田舎者が、まだ多い。昭和時代の日本人より、むしろ明治時代の先輩の方が、世界のどこに出しても恥しくない人間が多かったようにさえ思う。夜郎自大のくせを直し、外国の誰からも信頼され、敬愛されるような人間に、日本人めいめいを仕上げなければならない。
第二には、日本人の一人一人を、裸一貫の人間として、自分というものによい意味のプライドを持つ人間に作り上げなければいけない。それには、世界どこに行っても通じる人間としての教養を持つとともに、日本人としての、また日本人らしい、独自の、よい素養を身につけていなければならぬ。とにかく、教養をやりかえて、立派な、世界に通じる日本人を作るということに、有識者の力を集中してもらわなければ、日本の将来は決して救われないと、敗戦後私は、特に強く思っていた。教育が大事だと、敗戦後の状態を見て、殊に強く感じつつあったわけである」
吉田茂が“一個の独立した人間としての”日本人の弱点を衝いているのは、さすがだと思う。“個”が確立していないから、“国家とか、軍部の力とかを笠に着”た場合には尊大になり、ごうまんにふるまうが、そういうメッキのあげた同胞のなかには、卑屈なものが少なくなかった。“昭和時代の日本人”より“明治時代の先輩”の方が立派だったという観察も正しい。
ここで注目されるのは、明治の先輩たちは、明治の教育よりもむしろ幕末の教育を受けた人々であり、昭和の日本人と呼ばれている人たちこそ、明治時代に整備された教育の産物だという点である。吉田茂が昭和の日本人の例外でありえたのは、耕余義塾という塾で学んだことと無関係ではあるまい。
耕余義塾で関学と英学を学び、外交官として英国に三回在勤した吉田茂は、日本人の教育がどういう点で間違っていたかを鋭く見抜いていた。極端な国家主義の教育は、個我の確立を妨げる。その結果、集団の一員としてはしばしば狂信的な闘魂を生み出すが、一個の人間という立場ではもろさを露呈する。戦争中に“滅私奉公”が高唱されているかたわらで、闇取引により巨利を泊する商人が輩出し、部下を置去りにして逃亡した将軍さえ出現したのも決して不思議ではない。この意味で、敗戦後の日本では、教育改革の必要性は厳存しており、吉田茂はこのことを的確に理解していたのである。
>>今一度、徳川末期の教育を確認し直してみる必要があるかもしれない
「評伝 吉田茂 下」(猪木正道著、読売新聞社)より
「この憲法については、それが占領軍の強権によって日本国民に押しつけられたものだとする批判が近頃強く世に行われている。それは改正議論が喧しくなるにつれて特に甚しいようである。しかし私はその制定当時の責任者としての経験から、押しつけられたという点に、必ずしも全幅的に同意しがたいものを覚えるのである。
なるほど、最初の原案作成の際に当っては、終戦直後の特殊な事情もあって、かなり積極的にせきたててきたこと、また内容に関する注文のあったことなどは、前述のとおりであるが、さればといって、その後の交渉経過中、徹頭徹尾“強圧的”もしくは“強制的”というのではなかった。わが方の専門家、担当官の意見に十分耳を傾け、わが言文、主張に聴従した場合も少なくなかった。
また彼我の議論がなかなか決しない際などには、先方としてよくいったことは、“とにかく一応実施して成績を見ることにしてはどうか、日本側諸君は、旧憲法の頭で考えるから、とかく異存があるのかもしれぬが、実施してみれば、案外うまくゆくということもある、やってみて、どうしても不都合だというならば、適当の時期に再検討し、必要ならば改めればよいではないか”ということであった。そういう次第で、時の経過とともに、彼我の応酬は次第に円熟して、協議的、相談的となってきたことは偽りなき事実である」
しかし吉田茂を他の保守政治家たちからきわだたせているのは、彼の表現を借りればすぐれた“国際感覚”にほかならなかった。国際社会から完全に阻害され、独立した日本が国際社会に受け入れてもらうためには、代償を払う必要があった。その代償こそ、総司令部が原案を書いた憲法改正案だったといえよう。天皇が日本国の象徴として、日本国民統合の象徴として厳存するかぎり、政府の形態すなわち政体は変わっても、国体そのものには変化はないと、吉田茂は確信していた。
もう一つ見落としてはならないのは、吉田茂が天皇の統帥権を悪用した軍国日本の被害者であったという事実である。吉田茂は、この悪用は決して偶然的なものではなく、構造的なものだと考えていた。だからこそ、彼は憲法改正の必要性を他の保守政治家よりも、はるかに鋭く、かつ深く理解できたのである。
>>国際社会に受け入れてもらうための代償としての現憲法が一度も改正されていないのはいかがかと思う。