「考える人」
「考える人」(2015年冬号No51、新潮社)より
親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ。
――小津安二郎 「映画の味・人生の味」『小津安二郎「東京物語」ほか』田中眞澄編 みすず書房
人にはどうして家族が必要なのでしょう ロングインタビュー 山極寿一
ゴリラ研究の第一人者であり、
ゴリラから探る家族の起源論や
父性論で知られる山極寿一さんだが、
意外なことに若いころは
「家族をつくりたくなかった」という。
いったいどんな変遷があったのでしょうか。
山極 私が高校紛争を体験したからだと思うのですが、家族というものがあるために個人が自立できないと考えていた。家族のような、生まれながらにして負荷されたような思いを個人が背負って生きていくのはとても耐えられないと思っていたので、子供はつくりたくなかったし、特定のパートナーを選んで、互いに重荷を背負って生きていくのはバカらしいと思っていました。子供にしてもパートナーにしても、自分の存在を押しつけるべきではない。そういう押しつけみたいなものは嫌だと思っていました。自分自身に責任をもって、いつでも自由な選択ができる身軽な存在でいたかった。家族をつくってしまえば、自分の責任が家族の責任になるし、自分のしたことが、どうしても家族の中で強い影響力を持ってくるでしょう。
例えば戦争責任のように、子供は親の世代が死ぬと自分が生きていない時代のことまで背負わなくてはならない。そういうことを自分が引き受けるのは嫌だし、子供に引き受させるのも嫌だ。それより、人間の自由に焦点を合わせて行きたいと思っていました、若いころは。だけど、ゴリラの社会に行って、考えが変わったのです。
――女は一人で生んで、小さな家族をつくることができますから。
山極 相手がいなくても、精子バンクなどいろいろ手段がありますからね。でも子供は欲しい。そこが問題だと僕は思う。果たして、子供にとって母親だけでいいのか、あるいは父親だけということもありますから、片親だけでいいのか。しかも地域コミュニティもない非常に限られた人間関係の中で育つことが、果たして子供にとって幸福なのか、ということです。
僕は子供であるときの自分を思い返したとき、あるいは今一般に育ってくる子供を見るとき、親というのは世間に通じる関門だと思うのです。そのときに、常に一対一で親と向き合うのは辛い。やはり、親は複数であってほしいし、親以外のコミュニティもあってほしい。たとえば父親と喧嘩してどうしようもなくなったときに母親が助け舟を出してくれたり、姉貴が慰めてくれたり、あるいは近所の人たちがとりなしてくれたりするでしょう。そういう緩衝材がなければ、世間を知っているわけではない子供は非常に辛い。
仮に父親はいらないとしても、少なくともコミュニティは必要だと思います。そういうものがあって初めて、子供は信頼に足る世界をつくることができる。信頼に足る世界というのは、背後に常にいてくれる母親だけではだめなのです。もう少し広い世界が、自分を常に見つめていてくれるという安心感が必要だと思うのです。それが今の子供にはないのではないかという気がする。子供には無条件に信頼できる世界が必要です。
そのためには、母親、父親だけでなく、言うなれば先ほどの老人ですね、老年期にある人たちが非常に重要です。まだ十分に体力のない子供は、体力の衰えた動きの鈍い老年期の人たちによく合うわけです。もちろんエネルギーは子どものほうがあります。でも老年期の人たちは許してくれる、許容力がある。時間を無駄に使ってくれる。子育てしたらわかるけれども、忙しいときに限って子供に何か起こる。そのために時間を快く差し出してくれる老年期の人たちは、子供にとってすごくありがたい存在だと思います。それが、安心という壁をつくってくれるものです。それが今ないことが非常に問題だという気がします。
>>老人を含めた地域コミュニティが子供の幸福に必要なのは間違いない