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やむを得ない国家の密約?


【 自民党政権における密約の解明 】


 2024/8/23、日経新聞の「私の履歴書」に、以下内容が掲載された。

 以下は概要の一部抜粋。

 


北岡伸一(22) 密約解明
日米安保の裏 明らかに 民主党政権から調査依頼
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO82943660S4A820C2BC8000/

 


岡田外相からの4つのケースの調査依頼

 

1.1960年の日米安保条約改定時の核兵器持ち込み

 

核兵器を日本に持ち込む場合は協議を行う約束があったが、実はひそかに持ち込まれているのではないかという疑惑

 

「持ち込み」の定義のずれ
日本:核兵器搭載艦船の一時帰港も
米国:核兵器を地上に据えつけること

定義にずれがあると知りながら、追及しないという暗黙の了解が存在

→ 合意文書のない密約であると判断

 


2.朝鮮半島有事には在日米軍は事前協議なしに出撃可能

→ 文書が見つかり、明らかに密約があった

 


3.72年の沖縄返還の際、核兵器は撤去するが、再持ち込みはありうる

 

若泉敬氏が準備し、佐藤・ニクソン会談で署名した文書は、外務省にも閣議にも示されていない

佐藤栄作首相個人はともかく、のちの内閣まで拘束する力はない

→ 密約ではないと判断した

 


4.米国が支払うべき返還地の復旧費の日本が立て替え

→ 可能性は高いが、外務省文書だけでは確認できず


当時、米国は海外に核兵器を置かない方針だったので、非核三原則は実際には2.5原則だった。民主党政権内にはこの際、「持ち込ませず」原則を明確にすべきだという声があった。岡田外相は慎重に考え、それは国際情勢を判断して、ときの内閣が決めるべきことである、とするにとどめた。賢明な判断だった。

 


<感想>
外交においては「密約」があっとしても、ときの内閣が国益の観点からやむを得ないと判断した場合は、問題ないと考えざるを得ないものと思われる。

 

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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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「国家経営の本質」⑤


「国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ」(戸部良一、寺本義也、野中郁次郎 編著、日本経済新聞社)より


 理想主義的プラグラマティズムと歴史的構想力


  現代日本へのメッセージ


 国家指導者の方法論として、われわれ理想主義的プラグマティズムと歴史的構想力を挙げた。これは、現代の日本に何を示唆しているのだろうか。

 まず、国家指導者は、自らが目指す「共通善」と、それを実現する「戦略」を語らなければならないだろう。目指すべき「共通善」は、抽象的なお題目であってはならない。それは、指導者が過去・現在・未来を見据えた国家像から抽出すべきものである。したがって国家指導者は、自らの歴史観から物語らなければならない。

 言うまでもなく、その歴史観とは、いまや過去を悔い改めるという意味しか持たなくなった「歴史認識」とはまったく異なる。国家経営のリーダーは、今がどんな時代であり、その時代にわれわれは何を要請され、いかなる歴史的な役割を果たすべきかを、物語らなければならない。

 かつて近代日本が生んだ傑出した国家指導者たち、例えば大久保利通、伊藤博文といった明治国家をつくったリーダーや敗戦からの復興を成し遂げた吉田茂は、自らが目指す「共通善」や「戦略」を必ずしも公には語らなかった。

 もちろん彼らは、自国とそれを取り巻く過去・現在・未来を見据えて、そのなかでの自らの歴史的役割を自覚し、歴史に根ざした理想の実現のため自己の役割をプラグマティックに実践した。しかし、彼らは「共通善」や「戦略」を公に語る必要がなかった。明治初期も敗戦直後も、「共通善」や「戦略」はほぼ自明であり、単純明快で、多くの人に共有されていたからである。少なくとも、自分の周囲の同志たちだけに自らの理想と戦略を語れば、それで十分であった。

 しかし、21世紀の現在には、そうした条件は存在しない。それゆえ国家指導者は、理念とヴィジョンを語り、その実現に向けて現実を直視しプラグマティックな実践を重ねなければならないが、そのためにはまず、国家を指導する役割を獲得し保持していく必要がある。言い換えれば、民主制のもとでは指導者は国民によって選ばれなければならず、国民が指導者を選ばなければならない。

 ところが、マス・デモクラシーにおいては、多くの人は、リーダーの歴史的構想力などには無頓着である。リーダーの掲げる「共通善」にも関心を寄せず、その実践行動を吟味しようともしない。目先の利害を言い立て、架空の「害」を除き、目に見える「利」をもたらすことを約束する政治家に、どうしても支持を与えがちとなる。


 自らの歴史にプライドを持って国家観を語ることは、過去のナショナリズムに傾斜することではない。過去の歴史の誇るに足る部分をきちんと継承し、その継承のうえに新たに歴史をつくるという気概を示すことである。一部には、国家権力を「悪」と見なすことがリベラルであることの証明でもあるかのように振る舞う政治家も見受けられるが、それでは国家経綸、国家経営の資格などありうるはずがない。権力の「悪魔性」を自覚しながら、それを善用することこそ国家経営の前提である。そして、そのためには、古今東西のすぐれた国家経綸の実例を歴史から学ぶことが、最も効果的であろう。


 以上のことは、国家指導者にのみ要請されるわけではない。われわれ国民も、指導者が物語る歴史的構想力に支えられた理想とそれを実践する「戦略」に耳を傾け、理解しなければならない。複雑で変転する現実の只中で、指導者が「共通善」の実現を目指して実践する一連の行動を観察し、監視しつつ支持しなければならない。そうすることによって初めてわれわれは、歴史的構想力と理想主義的プラグマティズムとを具備するリーダーを持つことができるようになるだろう。


>>国家指導者はもっと積極的に目指すべき「共通善」とそれを実現する「戦略」を物語るべきである、というのは間違いない


「国家経営の本質」④



「国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ」(戸部良一、寺本義也、野中郁次郎 編著、日本経済新聞社)より


  命題④  「知略する」ことへの取り組み--知略する


 最後となる第四のモードは「知略する」、すなわち戦略的物語りを機動的に実践するプロセスである。国家指導者は、国家レベルの知的機動戦を展開するために、パワー・マネジメントを駆使して変革を起動し、相互作用の場をつくってこれらをつなぎ、どのレベルや階層においても自己完結的な判断力と実行力を有する機動的組織を構築して指導者の個人知を集合知に変換し、国民の潜在能力を解き放つ。


 核兵器をめぐる米ソ間の競争が消耗戦的様相を帯びていたなかで、レーガンはSDIをぶち上げたが、それは核兵器廃絶を目指し、ソ連の虚を衝いて精神的に動揺させる間接戦略的な効果を持った。その意味でSDIは、消耗戦と機動戦を組み合わせた巧みな知略であったとも考えられよう。そして、レーガンは、政権内のSDI賛成派と消極派をうまく噛み合わせ、ソ連との交渉に臨んだのである。

 東西ドイツの統一を実現したコールの知略も見事だった。最終的には関係諸国首脳の共感を勝ち得たとはいえ、ドイツ統一に対して戦勝四ヵ国は当初、いずれも反対か、少なくとも消極的賛成であった。四面楚歌ともいえる状況のなかで、コールは2+4の協議方式に持ち込み、東ドイツを吸収するという形での統一に成功する。


 コールは、十六年にもわたって長期政権を維持したことに表れているよう、パワー・マネジメントに秀でた政治家でもあtった。ドイツ統一交渉を含む外交面では、連立与党の党首ゲンシャーにその能力をフルに発揮させ、両者の協力と磐石な政権基盤とによって、ドイツ統一を実現したのである。

 サッチャー内閣の第一期は、党内基盤の弱さを反映して、サッチャー支持派は少数であった。ヒース支持派を中心とする人々が大半の閣僚ポストを占めていたため、政策を策定し実行するうえで閣内の支持を取り付けるのに苦労した。


 1983年の二度目の総選挙で圧倒的に勝利すると、老練な古参幹部の穏健派に代えて野心的な改革派を新たに入閣させた。多くは金融界や実業界の出身であり、マネタリズムの哲学と現実主義的な思想の持ち主であった。閣内規律のさらなる強化と自らの権力基盤の確立によって、サッチャー革命の新たな展開を実行しうる理想の「チーム・サッチャー」の構築を目指したのである。

 中曽根は、歴代の首相に見られるような調整型の政権運営ではなく、日本の政治家としては異色な大統領型首相と呼ばれる強いリーダーシップを志向した。しかし、中曽根は自らの率いる派閥が党内第四派閥にすぎず、党内基盤が脆弱であった。

 問題は、いかにして党内派閥や官僚機構による制約や制限を抑え込めるかである。そのためには、政権運営の要となる内閣機能の強化が必要であった。「風見鶏」と言われたほど派閥力学の文脈力にすぐれた中曽根は、まず党内最大派閥の田中派に所属する後藤田正晴を補佐役の官房長官に起用し、次に内閣官房に内政・外交に関わる統括機能を担う新たな組織を設置、それぞれに有能な官僚を配置した。


 ゴルバチョフは、54歳というソ連としては異例の若さで共産党書記長に就任したとき、当時無名のグルジア党第一書記のシュワルナゼを外相に大抜擢し、経済政策の総括責任者である国家計画委員会議長に若手のタルイジンを抜擢したほか、軍や党幹部の大幅な人事の刷新を行なった。


 鄧小平もゴルバチョフ同様、二つの勢力からの圧力を受けていた。ひとつは毛沢東路線を熱烈に支持する右派であり、もうひとつはよりいっそうの民主化を要求する左派である。三度にわたる失脚と復活という苦難の時代を経験した彼は、毛沢東の理論を全面的に否定することはしなかった。毛沢東の思想を聖天視するのではなく、それが現実の改善や改良にどのように役に立つかを最優先すべきであるという態度を貫いた。

 また、毛沢東路線を忠実に受け継ぐ華国鋒国家主席を形式上のトップに据えながら、実質的な権力を掌握するという離れ業をやってのけた。さらに「四つの基本原則を堅持する姿勢を打ち出すことによって、左派や若者の間の生き過ぎた民主化への傾倒を牽制した。「毛沢東の言葉で毛の路線に反対し、華国鋒と強調しながら華国鋒を倒していった」と評されるよう、鄧小平はソフト・パワーを巧みに駆使した「政治の芸術家」であった。


>>レーガン、ゴルバチョフ、コール、鄧小平、サッチャー、中曽根等が同時代を生きたことで、今の世界の枠組みが創られたとも言える


「国家経営の本質」③



「国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ」(戸部良一、寺本義也、野中郁次郎 編著、日本経済新聞社)より


  命題③ 「物語る」ことへの取り組み--戦略を物語る


 第三のモードは、「物語る」である。リーダーは、現実直視から自らの信念を国家ヴィジョン、政策コンセプト、そして実践のプロセスへと体系化し、それを物語りとして人々に示していく。それが戦略である。


 イギリスの威信を回復させようとするサッチャーの大志は、経済の戦いとフォークランドの戦いを結びつけると同時に、これを歴史に根ざした物語りとして、紡ぎ出されたのである。


 レーガンは、スターウォーズの物語を暗示させつつ、SDIの実現可能性を本当に信じ、過去と未来を平和でつなぐものとして、全身で語ったのである。

 中曽根の外交戦略の基軸は、日米同盟関係の強化にあった。従来の対米依存関係を改めて日米同盟体制を強化し、西側陣営の一員として応分の責任を負い、国際的な役割を果たそうとしたのである。このような外交戦略は、「日本の自主性の確立」とそのための「戦後政治の総決算」という点で、内政との一貫性と歴史的な整合性を持った物語りとして展開されたといえる。


 ゴルバチョフの基本戦略としての物語りは、「ペレストロイカ」「グラスノスチ」に集約される。それはあくまで改革の途上で「西欧流の社会民主主義」への変革を志向した。


 鄧小平は、改革を実現するにあたって、長期的な目標達成のために優先順位をつけながら、大衆の納得を引き出すため、「南巡講話」などに見られるように、状況や背景と具体的政策を大衆に率直に語りかけた。それは、現実に役立つものだけが価値を持つという「白猫黒猫論」のメタファーを含む一貫した物語りであった。

 
 「絶えず経験を総括し、間違ったらいち早く改め、小さな過ちを大きくしないようにしています」という鄧小平の政策実行プロセスは、プラグマティックな実践を重視する文脈力を駆使した大衆を巻き込んだ物語りの創造プロセスでもあった。


>>戦略的物語りには、論理、感情、そして精神が必要である。


「国家経営の本質」②


「国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ」(戸部良一、寺本義也、野中郁次郎 編著、日本経済新聞社)より


  命題②  「共感する」ことへの取り組み--現実を共感する

 第二のモードである「共感する」は、目指すべき共通善に照らした目の前の現実の深い洞察と状況判断、そしてそれに基づく他者との共感である。

 
 レーガンは、高い理想を掲げながらも常に現実を見据えた判断を重視した。政治家に転身する前、テレビで活躍したレーガンは、ゼネラル・エレクトリック(GE)社がスポンサーだった番組のホストを務めたことから、GEの移動親善大使として、全米各地のGE工場を訪れ、講演を行い、工員たちと語り合った。人々との共感の場を通じて、現実直視とスピーチの能力と技術を磨いたのである。これが後年大統領として、専門家が展開する結論や方針をできるだけわかりやすく国民に語るために役立った。


 コールも持ち前の率直さと誠実さによって、首脳外交を共感獲得の場とした。首脳外交の場で、コールは相手が抱いている懸念や感情を理解し、また自らの願いや理想を相手に理解させ、共感を生み出した。

 第一次世界大戦の激戦地跡に建てられた無名戦士の納骨堂の前で、ミッテランとコールが手をつないだ写真は、独仏和解のシンボルとして世界に発信されたが、これは演出ではなく、ミッテランが手を差し伸べた瞬間にコールが自然に握り返したものである。二人の間に共感があったからこそ生まれたシーンであった。また、コールが関係諸国の首脳との間にこうした共感を培っていなければ、その後のドイツ統一はより困難なものとなっただろう。国民の間に生まれた統一を望む共感を、コールが指導してさらに強化したことは言うまでもないだろう。


>>首脳外交でも可能な「現実を共感する」ことは社内でできないはずがない


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