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まず問題制作者の意図を理解する?


【 国語:入試で役立つ心構え 】

 


 友人の子供が早稲田大学の文学部志望と聞いたので、2023年の過去問をさらっと確認してみた。
https://www.waseda.jp/inst/admission/other/2023/02/28/13732/

 

 どの科目もとても難しく感じられた。そんな折、芥川賞作家の平野啓一郎さんの「本の読み方 スローリーディングの実践」(PHP新書)に、国語の受験に役立ちそうな文章を見つけた。以下は一部抜粋。


P30
 国語のテストをスロー・リーディングするとしたら、作者とは誰だろうか? 先の例で言えば、決して本文の作者である小林秀雄ではない。当然のことだが、問題制作者である。学校の国語の教師、予備校の模試制作者、大学の入試制作者である。

 

 そこで、あるときから私は、本文と設問を一続きの文章として読むことにした。本文として小林秀雄の文章があり、それを読解することが、設問を通じて求められているというのではなく、問題制作者が、小林秀雄を引用しながら彼の主張をしている、と発想を転換したのである。これに気がついてから、私の国語の成績は、瞬く間に上昇した。

 

 なぜ、小林秀雄が選ばれているのか(読書経験豊富な人は、テストで小林秀雄を取り上げたくなるような人物として、問題制作者のイメージを大雑把に把握するだろう)、なぜ、この部分があえて取り上げられているのか、なぜこの場所に線が引かれているのか、それは要するに、受験者にどういう解答を期待しているからか・・・・・・。そうして徹底して制作者の視点でテスト問題を読んでいくと、何を答えるべきか、非常にはっきりしてくるのである。

 

 仮に、どうも、設問者の小林秀雄の解釈が間違っているように感じたとしても、自分が正しいと思う小林秀雄の解釈を答案で書いてみたところで仕方ない。×をもらうのがオチだ。国語のテストとは、そういう性格のものではないのである。あくまで、問題制作者の理解がどういうものであるかを考える。

 


< ポイント >
国語は、1)問題制作者の視点でテスト問題を読んで、2)制作者がこの問題を引用しながら、何の主張をしているのか、3)制作者の意図を汲み取った上で、4)何を答えるべきかを考えること、が必要

 


<感想>
制作者等の意図を汲み取って考えることは、国語の入試のみならず、どんな場面でも必要なように思われる。

 

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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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これからの本当の自由?


「自由のこれから」 (平野啓一郎著、ベスト新書)


 以下は、掲題書(「はじめに」)からの一部抜粋。

『 「自由」について考えることか多くなった。
 一つの理由は、今世紀に入ってから、しきりに耳にするようになった、あの「新自由主義」と呼ばれる経済思想のせいだろう。
 昨今では、ほとんど市場原理主義と同義的に用いられているこの言葉の意味するところは、いわば競争の自由であり、個々人の貧富の差は、すべてその結果だと見なされている。
 富める者は努力を惜しまず、貧しい者は怠けているといった自己責任論を公然と口にする政治家さえいるが、もちろん、そんな世界観には到底同意できないという人も少なくない。私もそうである。
 そもそも私たちは自由なのか? 何に対して? あるいは、何から?

 奴隷的拘束を受けていれば、明らかに自由ではないだろう。では、たとえば、日々の買い物はどうか? 私たちは、本当に自由に「自分が欲しいもの」を買っているだろうか?
 アマゾンを利用して、ネット上で買い物をするときには、「レコメンド機能」がついている。

 このとき、私たちは、「自分が欲しいもの」を自由に選択して買っていると言えるだろうか?


 他方で、社会は人間の自由を「リスク」として管理する方向に向かいつつある。

 昨今では、この新しい医学の発想に完全に無自覚に同化して、病気になるのは、健康管理不行き届きの自己責任であり、医療保険の対象とすべきではないなどという呆れた暴論まで目にするようになった。

 リスク要因として疑われないためには、私たちは絶えず、不安に怯えながら、自身の言動を検閲し続けなければならない。違法行為をしない、という心がけではなく、違法行為をしそうな人間に見られないようにする、という心がけである。しかし、その自由の抑圧の代償として、本当に犯罪のリスクの管理は可能なのだろうか?
 リスク管理とは、「まだ何も起きていない」状態の中に、「何か起きそうな予兆」を見出して、予防することである。しかし、病気や犯罪然り、地震のような自然災害然り、その予測システムと対処方法は、どの程度信頼できるものだろうか?

 分人主義とは、人間を「個人」という「分けられない」一つの単位としてではなく、複数の人格──分人──の集合体として捉える考え方だ。
 当然のことだが、私たちは、接する相手によって言動や行動、態度、感情の動きや思考が異なっている。複数の顔を持っている。複数の「分人」を生きているからこそ。精神のバランスが保たれている。もちろん、そのどれもが「本当の自分」だ。
 分人主義の視点からは、人間の自由とは、自分の分人の厚生とその比率をコントロールし得ることだと、ひとまず言えるだろう。
 私たちにとって理想的なのは、自分にとって心地よい分人だけを、心地よい比率で生きることであり、不快な分人を生きることを押し付けられないことだ。
 私たちはたった一つのコミュニティに拘束されることに不自由を感じる。複数のコミュニティに多重参加しながら、自分の好きな、さまざまな分人を生きるところにこそ自由がある。
 そこから、今し方語ってきたような現代における自由の状況は、どのように関連づけられるだろうか?

 自由のこれからは、一体どうなってゆくのか? 本書がその困難な思考の一助となるのであれば幸いである。』


 以下は、第5章「分人の自由」からの一部抜粋(最後の部分)。

『 「はじめに」で、私はいま、「新しい運命劇の時代」が来ているのではないかと述べた。

 だが、分人という発想を導入すれば、自由もまた複数化・多様化される。

 ある分人にとっては、何らかの自由が損なわれるにしても、別の分人にとって異なる自由が手に入ることもある。運命的に見える分人もあれば、かなり自由意志が発揮されているように見える分人もあるだろう。繰り返しになるが、そのためには、基盤となる基本的人権が尊重されているという前提が重要である。

 過去に対して運命論はある種の慰めになるが、未来の運命論には閉塞感を感じる。その狭間で、私たちは最大限、自由に現在を生きようとしている。

 膨大な選択の可能性に対して、私たちは複数的な人生を同時に生きることで、リスクに過剰に自己抑制的になることもなく、一つの分人の失敗を他の分人の持続で支えながら、日々を過ごしてゆくことができる。

 私たちは、死の瞬間まで自由に分人の種類と数、構成比率を変化させ続けることになろう。それが、私たちとこの世界との関係の有り様であり、何歳で死を迎えようと、それは変化し続ける個性の過渡的な姿しかないのである。』


<感想>
 京大在籍中の芥川受賞(「日蝕」)から早18年。人工知能、自動運転、ドローン、ビッグデータとレコメンド機能──技術の変化によって、私たちの生活からは「自分で選択する機会」が失われつつある今日、人間の自由意志はどこに向かうのか?予測不可能な未来と、その過渡期を乗り越えるための、新しい自由論の答えを「分人」に見出す著者、発想の着眼点が素晴らしい。

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