「角川映画 1976-1986 日本を変えた10年」
「角川映画 1976-1986 日本を変えた10年」(中川右介著、KADOKAWA)より
(1975年(昭和50))11月6日、角川書店の社長には長男で編集局長だった角川春樹が就任し、次男の歴彦は専務となった。敗戦から三ヶ月後の1945年11月10日に、当時に28歳だった角川原義によって創立された角川書店は、ここに新しい時代に突入した。
二代目社長角川春樹(1942~)は33歳、専務となった角川歴彦(1943~)は32歳と若い。角川書店そのものも創業30年目であり、大手出版社ではあったが、岩波書店、新潮社、講談社などに比べると歴史は浅かった。
ともあれ、『日本の詩集』失敗の責任を取らされ、角川春樹は窓際で、何も仕事のない日々を送ることになった。そんな時に、映画『卒業』とその主題歌、そして小説の大ヒットを知る。それは、彼自身が思いついた、活字と映像と音楽の三位一体によるベストセラーそのものではないか。自分の方法論は正しい--角川春樹はそう確信した。そして復権の日を狙っていた。
1976年1月8日、角川春樹は満34歳の誕生日を迎え、この日、株式会社角川春樹事務所を創立した。父・角川原義の死により角川書店社長となってから二ヵ月。角川書店とは別に自分自身の会社を立ち上げたのだ。目的は映画製作のためだった。資本金は6百万円、そのうちの2百万円を角川春樹が出し、残りは友人たちに出資してもらった。
薬師丸ひろ子の85年の正月映画として『Wの悲劇』が決まったのは2年前だった。
薬師丸ひろ子は女優を続ける決心をするのと同時に、もうひとつの決断をした。角川春樹事務所からの独立である。間に人を入れるとかえってこじれると考えた彼女は単身、角川との面談を求め、独立したいと告げた。角川は了承し、トラブルとならずに薬師丸ひろ子は独立した。
原田姉妹と渡辺典子も、1986年をもって角川映画を離れた。角川春樹事務所は芸能マネージメントから撤退した。角川春樹は彼女たちの次の女優を見出そうとしなかった。そこが芸能プロダクションとの違いだった。
その後の角川映画はアニメが多くなる。
1988年、角川春樹は、それまで角川書店とは別会社だった角川春樹事務所を角川書店に吸収合併した。どちらも角川春樹が社長であり、世間からは同一視されていたので、それほどの混乱はなかった。以後、映画製作は角川書店として行なうことtになった。
角川書店はコミックや「東京ウォーカー」などの都市情報誌を出すなど出版事業を拡大していった。関連会社だった富士見書房も角川書店が吸収合併した。こうして角川書店を大きくしていたのは株式の公開を目論んでいたからだった。
1992年9月、副社長の角川歴彦が退社した。
1993年、『REX 恐竜物語』公開中の8月29日、角川春樹は麻薬取締役法違反・関税法違反・業務上横領被疑事件で千葉県警察本部により逮捕された。マスコミはこれを大々的に報じた。角川は千葉刑務所に拘留され、角川書店社長の辞任届を提出、取締役会で受理された。
こうして、角川春樹は失脚した。
9月6日、角川源義の夫人、春樹・歴彦にとって義母にあたる角川照子は角川書店取締役会に対し、歴彦の復帰が角川家の希望であると伝え、取締役会での協議などがあった後、歴彦は28日に特別顧問に就任、10月19日に代表取締役社長となった。
一方、逮捕された角川春樹だが、容疑を否認しつづけたために拘置期間は1年3ヵ月に及び94年12月に釈放された。裁判では無罪を主張し、最高裁まで戦ったが2000年11月に懲役4年の実刑判決が確定した。その間の95年9月に出版社として角川春樹事務所を設立した。角川春樹は角川書店の株式はすべて歴彦に売却し、現在のKADOKAWAグループとは関係がない。角川春樹が93年までに制作した「角川映画」の権利は、現在のKADOKAWAグループが所有している。
角川春樹は97年に自らの監督で『時をかける少女』をリメイクし、映画界にも復帰した。その後も何本か制作しているが興行的に成功したのは、2005年の『男たちの大和 YAMATO』だけだ。
薬師丸ひろ子、原田知世はいまも第一線で女優として活躍している。
>>角川春樹は今どうしているのだろう