「赤ヘル1975」
「赤ヘル1975」(重松清著、講談社)より
そんな広島を舞台にした、春から秋にかけての物語である。
時代は、1975年--昭和50年。
広島カープの帽子が濃紺から赤に変わったこの年は、広島に原爆が投下されて、ちょうと30年目にあたっていた。
間違いない。面長の顔に、スッと通った鼻筋、太い眉、豹やチータを思わせる鋭く細い目、そして髪は、気合の入ったアイパー。紛れもなく山本浩二そのひとである。
「去年までずーっと最下位じゃったカープが、なしてこがあに強うなったか、わかるか?」
ひととおり答えが出尽くしたあと、コージさんは噛みしめるように、誰も言わなかった正解を口にした。
「軍団になったからじゃ」
赤ヘル軍団の「軍団」--戦う男たちの集団である。誰が名付けたのかは知らない。中國新聞かRCCラジオか、それともスタンドに陣取る応援団だったのだろうか。夏場の新聞記事にはまだ「赤ヘル集団」と書いてあるものも多かったが、今や「赤ヘル」といえば「軍団」だった。
横からカントクさんが「団結力いうやつじゃ。チームワークよ」と補足する。
「プロも中学生もおんなじじゃ。野球は一人じゃあできん。そうじゃろう?チームとチームの戦いは、結局、どっちのチームが一つにまとまっとるかで決まるんよ」
「・・・・・・オッス」
「ほいでも、仲良しこよしでもいけん。野球は実力の世界じゃ。年上が年下に負けることも、なんぼでもある」
その言葉に、相生中の先輩たちは、気まずそうに下を向いた。
「後輩に負けて悔しかったら、もっと練習すりゃええんよ。野球の悔しさは、野球でしかはらせんのじゃけえ」
ほんまじゃ、とヤスはグイッと胸を張りかけたが、そこにコージさんの声が降りそそぐ。
「レギュラーの選手は、補欠の選手に支えられとるいうんを忘れたらいけん。オノレ一人の力で試合に出られた思うとったら、大間違いじゃ」
ヤスはうつむいて「オッス」と応えた。
「試合中もそうじゃ。野球は団体スポーツじゃけえ、どがあにすごい選手でも、一人ではなんもできん。チームは『軍団』にならんといけんのよ」
>>「軍団」になることができれば、会社も強くなれるに違いない。