「証言記録 生還 玉砕の島ペリリュー戦記」(平塚柾緒著、学研パブリッシング)より
手紙は前記した澄川少将の「三月三十一日付」のものであった。皆の前で手紙が読まれた。
「これはニセ物だ、だまされるな。これはスパイのだ」
塚本さんは言った。誰かが「いやになっちゃったなあ」とつぶやいた。日本が負けたことに「いやになちゃった」のか、それとも投降しなければ犯罪者集団として討伐するということに対して「いやになっちゃった」のか、聞き返す者はいなかった。
しかし、土田さんは手紙を見たとき<これは本物だ>と思った。海軍の上等水兵である土田さんは、文書が日本の海軍様式で書かれているのを知ったからである。
「私は、これは考えなくちゃいけんじゃないかなぁと思ったとですが、口に出したらすぐ殺られるから、決して口に出すものじゃないと黙っとったですばい。それ以前にも犠牲者が出ていたからね」
そこで土田さんは意識的に明るく、冗談めかしていった。
「自分は日本は負けていると思うとですたい。ここにおっても仕方がないけん、何とか考えないとウソだと思う。自分に連絡に行けというなら生命がけでも行くとですがねえ・・・・・・」
だが、話し合いの結論は、状況が悪いから一ヵ月ぐらい壕の中にじっとしていて、様子を見ようじゃないかということになってしまった。事ここにいたって、土田さんは決意した。このままでは全員が自滅してしまう。日本は間違いなく負けたのだ。残る道は、脱走以外にないと--。
>>自分が土田さんと同じ立場に置かれたら、どう行動していただろう
「戦いいまだ終わらず 終戦を知らずに戦い続けた三十四人の兵士たちの物語」久山忍著、産経新聞出版
序文
昭和19年9月15日。
ガダルカナル島を攻略したアメリカ第一海兵師団(約2万8千名)が、パラオ諸島の小島、ペリリュー島への上陸を開始した。
日本軍は、これを陸海軍約1万1千人の兵力でむかえ撃った。わたしも海軍の兵士としてこの闘いの中にいた。
米軍の指揮官は三日間で攻略すると宣言した。しかし、激戦がつづき、米軍は多くの犠牲者を出した。
指先でつまめそうなほど小さいこの島で、二ヶ月以上にわたる戦闘がおこなわれたのである。
それはまさに、死闘というにふさわしい戦いであった。
この戦闘を生き残った日本兵が70名ほどいた。生存兵たちは鍾乳洞にたてこもり、連合艦隊の反撃を信じて抵抗をつづけた。
やがて米軍の攻撃を受け、生存者はちりぢりとなり、それぞれ別々に行動をすることになった。
その後、わたしは数人の者と苦心さんたんして生きつづけた。われわれは、生きることが「抗戦」だと命令され、それを信じていた。
この島で生きることは、過酷なサバイバルであった。
生き残った日本兵も一人二人と減り、最後には三十四人となった。この三十四人は日本の敗戦を知らず、「終戦した」と言われてもそれを信じず、投降勧告を拒否しつづけた。
昭和22年(1947年)4月24日、紆余曲折のすえ、その三十四人は武器を捨て、米軍に帰順した。わたしも紙一重の運命をくぐり、九死に一生を得て生き抜いた。
今回、この希有な体験を本にした。
いまを生きる方々のなにかの参考となれば幸いである。
元海軍上等兵 土田喜代一
>>「硫黄島」の前に、全島を要塞陣地化したパラオ諸島の「ペリリュー島」の戦闘があったことをこの夏初めて知った