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久しぶりの宇多田ヒカルのラブソング?

 

【 君が心をくれたから:宇多田ヒカル 】

 


 先日、月9「君が心をくれたから」の放送が終了した。

 

 以下は添付Webサイトからの一部抜粋。

https://plus.tver.jp/news/fujitvview_152453/detail/

 

<草ヶ谷大輔(プロデュース)コメント>
デビューしてから25年間、常に最先端の音楽を全世界に発信し続けている宇多田ヒカルさんに、主人公たちの気持ちに寄り添った曲を書き下ろしていただきました。

 

今作の企画構想段階から、「このドラマの主題歌は、宇多田ヒカルさん以外いない」と私の中で考えておりました。第1話からのストーリープロットをお読みいただき、オファーを受けてくださった宇多田ヒカルさんに心から感謝いたします。

 

主題歌は、ドラマの世界観にぴったりな、切ない物語にそっとやさしく寄り添ってくれる楽曲となっております。早く視聴者のみなさまにお聞かせしたいという気持ちでいっぱいです。1月8日のドラマ内で初解禁されますので、“世界の宇多田ヒカル”珠玉の一曲を楽しみにしていただければと思います。

 


宇多田ヒカル「何色でもない花」
https://m.youtube.com/watch?v=symoxV67btI

「こんなにストレートなラブソングを書いたのはいつ振りだろう。何かを信じることが怖い人に届いてほしいです」

歌詞:Hikaru Utada

 

君がくれたのは
何色でもない花

ああ そんなに遠くない未来
僕らはもうここにいないけど
ずっと


I'm in love with you
In it with you
In it with you
In love with you
In it with you
In it with you

 

朝日が昇るのは
誰かと約束したから

ああ 名高い学者によると
僕らは幻らしいけど
今日も


I'm in love with you
In it with you
In it with you
In love with you
In it with you
In it with you

 

だけど
自分を信じられなきゃ
何も信じらんない
存在しないに同義
確かめようのない事実しか
真実とは呼ばない

私たちの心の中身は誰にも奪えない
そんなに守らないでも平気

だけど
自分を信じられなきゃ
何も信じらんない

 


<感想>
特に冒頭パートがドラマのテーマに添った、宇多田ヒカルのラブソング。永野芽郁の演技も良かった。宇多田ヒカルの生き方はいつでも気になる。

 

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普遍的な世界に昇華?


【 宇多田ヒカル:8年半ぶりのアルバムFantome 】

 


 2013/8/22に、宇多田ヒカルの母、藤圭子が逝去されて10年。

 以下は、「宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌」(杉田俊介著、毎日新聞出版)からの一部抜粋。(その3)

 


第六章 幽霊的な友愛のほうへ

 

  幽霊的な友愛の原理

 

 『Fantome』は、全身の骨格としては、死者たち(母親/東日本大震災の死者たち)に向き合ったいくつかの楽曲が背骨としてまずあり(一曲目の「道」、三曲目の「花束を君に」、七曲目の「真夏の通り雨」、十一局目の「桜流し」)、その合間合間に、他のアーティストたちとのコラボ曲が内臓器官のように配置されている、という形になっている。そして背骨以外の楽曲たちにおいては、様々な曲調や新機軸の歌詞が試されている。

 


 愛と別離に感謝をーー「花束を君に」「真夏の通り雨」

 

 インタビューの中で、宇多田は次のようなことを言っている。

 

 これは母への思いを書いた曲である。しかし、娘として母に向き合っているだけでは、なかなか歌が完成してくれなかった(先ほども触れたように、母の死後には、もう二度と音楽を作れないかもしれない、と感じていた時期もあったし、自死遺族の会合に通っていた時期もあったのである)。

 

 そんなときに、別のイメージが重ねられていった。つまり、過去につらい恋愛をした女性が悲哀を思い返している、救えなかった人を置いてきてしまって罪悪感を抱えている、今は子どももいる、でも「あの人は、今どうなってしまったんだろう」とまだひきずっている。そのような一人の女性のイメージを、娘である宇多田自身と母の関係に重ねていくことで、ようやく、この曲は完成したのです、と(インタビュー、『ぴあMUSIC COMPLEX』vol.6)。

 


<感想>
 個人的な話を普遍的な世界に昇華させた、宇多田ヒカルの作品が好きだ。

 

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音楽の世界もフラット化?


【 宇多田ヒカル:8年半ぶりのアルバムFantome 】

 


 2013/8/22に、宇多田ヒカルの母、藤圭子が逝去されて10年。

 

 以下は、「宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌」(杉田俊介著、毎日新聞出版)からの一部抜粋。(その2)

 


第六章 幽霊的な友愛のほうへ  

 

  世界に開かれた感覚 

 

 『Fantome』は、シンプルで王道的なボップソングが中心のアルバムである。実際にはかなり複雑な試みがなされているとしても、少なくとも、そこにはポップな聴き方を許すような親しみやすさがある。  

 

 今回のアルバムでは、言葉を何より大事にしたかった、美しい「日本語のポップス」で勝負したかった、宇多田は何度もそう言っている。つまり、日本語でいう「唄」にしたいのだ、と。実際に、『Fantome』の中で、英語やフランス語のフレーズはほんのわずかに出てくるだけである。しかし、それだけではない。

 

 いろいろな状況の、いろいろなタイプの人々に当てはまるような普遍的な曲を目指した。実際に、宇多田が向き合っているテーマは、宇多田ヒカルの個人的な体験や宿命的な出自に深く根差しながらも、だれもが経験しうるような普遍的なもの(親子の別れや友達との関係など)であり、透明な純水のように、ぎりぎりまで不純物を取り除いたものである、という感じがする。  

 

 そして、現実的に『Fantome』は発売直後から売れた。 

 

 発売から三週連続、国内のアルバムのトップの売上を記録した。それは宇多田にとってすら、デビュー十八年目で初めてのことだという。

 

 国内だけではない。諸外国でもヒットした。発売日翌日9月29日のiTunesアルバム総合ランキングでは全米3位を記録。フィンランドで一位となり、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、スウェーデンなどでトップ20以内にランクイン。アジア各国においても、香港、台湾、シンガポールで一位となる。全世界のiTunesアルバム総合ラインキングでも6位を記録した。

 

 本人やスタッフは率直な驚きを表明している。

 海外に向けての大掛かりな展開や仕掛けのようなものは、ほとんどなかったという。作品の圧倒的なクオリティと洗練が、国境を超えて伝播する原動力となったのだろう。

 

 それは、すでに「海外進出」という言葉に意味がなくなり、「国内」と「海外」の間の壁が大きなものではなくなり、つまり、音楽環境として「日本という国も、英米以外のヨーロッパやアジアや南米の各国と同じように、グローバルに広まるポップカルチャーと特殊な自国カルチャーが混じりあう一つの国でしかない」という状況にふさわしいのかもしれない(芝那典「宇多田ヒカル『Fantome』、国内外で大反響-グローバルな音楽シーンとの“同時代性”を読む」、「RealSound」2016年10月3日配信)。  

 


<感想>
 『Fantome』が諸外国でもヒットしたのは、2004年に全米で勝負した『EXODUS』の時代と違い、音楽の世界の(iTunes等を通しての)フラット化が進んで、言語は関係なく、純粋に良いものは良いとする時代が来たことが要因の一つであろう。

 

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母に捧げた8年半ぶりのアルバム?


【 宇多田ヒカル:8年半ぶりのアルバム Fantome 】

 


 2013/8/22に、宇多田ヒカルの母、藤圭子が逝去されて10年。

 

 以下は、「宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌」(杉田俊介著、毎日新聞出版)からの一部抜粋。

 


第六章 幽霊的な友愛のほうへ

 母の死と向き合う-『Fantome』

 

 2016年9月28日。8年半ぶりのアルバム『Fantome』が発売される。 「Fantome」とは、「幻」や「気配」を意味するフランス語だという。母国語である日本語でも英語でもなく、フランス語を使うことが妙にしっくりきたという。

 

 <<今回のアルバムは亡くなった母に捧げたいと思っていたので、輪廻という視点から“気配”という言葉に向かいました。

 一時期は、何を目にしても母が見えてしまい、息子の笑顔を見ても悲しくなる時がありました。

 でもこのアルバムを作る過程で、ぐちゃぐちゃだった気持ちがだんだんと整理されていって。

「母の存在を気配として感じるのであれば、それでいいんだ。

 私という存在は母から始まったんだから」と。 >>

(「私という存在は母から始まったんだから 宇多田ヒカル、待望のニューアルバム『Fantome』をリリース」、『トレンドニュース GYAO!』2016年9月2日配信)

 

 これは本人による解説としてわかりやすいし、家族問題としては第三者の私たちの感覚としても納得がしやすい。

 

 2012年に発表された「桜流し」は別として、アルバム収録曲の中ではまず「真夏の通り雨」を作り、次に「花束を君に」を作ったそうである。

 

 これらの曲を作るのは、とても苦労したという。特に歌詞の面で難航した。いくつかのキーワードがぽつりぽつりと浮かんでも、題材がデリケートなだけに、なかなか完成してくれなかった。母の死後には、もう二度と音楽を作れないかもしれない、そんな覚悟をしていた時期もあったという。

 

 現在の宇多田はすでにとまどわず、何も臆することなく、『Fantome』というアルバムには自らを癒すためのセラピー的な側面があった、そう語っている。それを真っ直ぐに公然と語りうるところまで、自分をもってきた。

 

 母の生前は、いろいろなことを公にできず、「秘密」を抱え、自分を制限してきた面もあった。けれども、母の死とともに、内なる「センサーシップ(=検閲)」のようなものが解除された。それはもう恐れるものが何もない、という場所へと自分を開くことだった。母をめぐる「秘密」を公然とお天道様の下にさらすことだった。「全部裸になっちゃった、どうしよう」。

 

 そしていざ、そのことに気づいてみると、想像以上に、自分は「自由」だった。自由になってしまっていた。これほど、みんなに聞いてほしい、と素直に感じたアルバムは、これが初めてかもしれない、そうも言っている。

 

 「桜流し」「真夏の通り雨」「花束を君に」以外の、今回のアルバム収録曲の歌詞のほとんどは、2016年の4月から7月までの約3ヶ月の間に一気に書き上げた。これまでで最短記録だった。

 

 母の死は、自分に「自由」をもたらした。母を亡くしたこと、また再婚して男の子を産んで、自らが母親になったことで、急激に「大人」になった。大人にならざるをえなかった。宇多田は、そうも言っている。逆に言えば、どんなに成長し、成熟したとしても、彼女はそれ以前はまだまだ母の「娘」であり、母なるものの呪縛の中にあった。そういうことだろう。

 


ご参考1)再始動の1曲目となった「真夏の通り雨」の一節

「汗ばんだ私をそっと抱き寄せて たくさんの初めてを深く刻んだ」


 ご参考2)宇多田ヒカルと前川清はどんな関係?「今会いたい人」と発表した思惑は

https://mashikong.com/archives/3348



<感想>
 母にたくさんの初めてを教えられたこと。母になって子供を育てること。その積み重ね(輪廻)により新たな宇多田ヒカルが輝き始めた。
 「真夏の通り雨」は、亡くなった母への想いが強く感じられるアルバム(Fantome)最良の曲だと思う。

 

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最も美しい母を見い出す?

 

【 宇多田ヒカルの母:藤圭子 】

 


 2013/8/22、宇多田ヒカルの母、藤圭子が逝去されて10年。


 以下は、「流星ひとつ」(沢木耕太郎著、新潮社、2013/10/10発行)からの一部抜粋。(その3)

 


  後記


 藤圭子の死後に発表された宇多田ヒカルの「コメント」の中に、《幼い頃から、母の病気が進行していくのをみていました》という一文がある。

 

 もしそうだとすれば、宇多田ヒカルはごく小さい頃から、母親である藤圭子の精神の輝きをほとんど知ることなく成長したことになる。

 

 宇多田ヒカルは、かつて自身のツイッターにこんなことを書いていたという。

 

《「面影平野」歌うカーチャンすごくかっこ良くて美しくて、ああくそどうにかあれダウンロード(保存?)しときゃよかった・・・・・・》(追記:https://twitter.com/utadahikaru/status/220663205247197184)

 


 『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。

 

 28歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない・・・・・・。

 


 私の執筆ノートに、「あとがき」の断片ではないかと思われる文章が残されている。

 

 美しかったのは「容姿」だけではなかった。「心」のこのようにまっすぐな人を私は知らない。まさに火の酒のように、透明な烈しさが清潔に匂っていた。だが、この作品では、読み手にその清潔さや純粋さが充分に伝わり切らなかったのではないかという気がする。私はあまりにも「方法」を追うのに急だった。だからこそ、せめてタイトルだけは、『インタヴュー』という無味乾燥なものではなく、『流星ひとつ』というタイトルをつけたかったのだ。それが、旅立つこの作品の主人公に贈ることのできる、唯一のものだったからだ。


2013年秋 沢木耕太郎

 


本文)四杯目の火酒

「あの <面影平野> がヒットしなかったのは、あたしが詩の心がわからなかったから・・・だけじゃないんだよ。そう思いたいけど、やっぱり、藤圭子の力が落ちたから、なのかもしれないんだ」

「喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの・・・」


<感想>
宇多田ヒカルには、『流星ひとつ』に、最も美しく、輝いていた母を見い出して欲しいと思う。

 

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