「素読読本 修身教授録抄 姿勢を正し声を出して読む」(森信三 寺田一清[編]、致知出版社)より
平成16年10月1日第一刷発行
29 人間形成の三大要素
人間というものは、これを大きく分けると、だいたい血、育ち及び教えという三つの要素からでき上がると言えましょう。ここに血というのは血統のことであり、さらには遺伝と言ってもよいでしょう。また育ちというのは、言うまでもなくその人の生い立ちを言うわけです。そして教えというのは、その人の心を照らす光を言うわけですが、しかしこの場合、家庭における躾というものは「育ち」の中にこもりますから、結局教えとは、家庭以外の教えということであり、とくに私としては、一個の人格に接することによって与えられる、心の光を言うわけです。
*一人の人間ができ上がるには、これらの三要素がそれぞれ大切ですが、とくにこのうち前の二つは、根強い力を持つと思うのです。実際私なども、年と共にこの血と育ちという二つのものが、いかに根強くわれわれに根差しているかということを、しみじみと感じるようになっているのです。
30 性欲の問題
性欲の問題についてですが、まず根本的に考えねばならぬことは、性欲は人間の根本衝動の一つだということです。すなわちこれを生理的に言っても、性欲は人間の生命を生み出す根本動力だと言えます。その意味からは、性欲はわれわれ人間にとって、最も貴重なものであって、断じておろそかに考えてはならぬと言えましょう。そこで今性欲に関する問題を結論的に言うと、性欲の萎えたような人間には、偉大な仕事はできないと共に、またみだりに性欲を漏らすような者にも、大きな仕事はできないということであります。すなわち人間の力、人間の偉大さというものは、その旺盛な性欲を、常に自己の意志統一のもとに制御しつつ生きるところから、生まれてくると言ってもよいでしょう。
*さて性欲に対する根本的な見解は、ほぼ以上に尽きると言ってよいでしょうが、しかし諸君たちの実際上の理解のために、今少し申しておきたいと思います。その一つは、性欲というものは、決してその発動期と同時に漏らすべきではないということです。
>>血と育ちの根強い力を理解しつつ、性欲を漏らさず、少しでも世の中に役立ってゆきたい
「東工大講義 生涯を賭けるテーマをいかに選ぶか」(最相葉月著、ポプラ社)より
10 人はなぜ回復するのか 中井久夫と統合失調症の寛解過程論
統合失調症という大きな壁
統合失調症というのはどういう病気であるのか。厚生労働省のホームページにあるのが最新の情報だと思いますので紹介しますと、まず、幻覚や妄想などの症状がある。誰かが自分の噂をしているとか、心の中を誰かに読まれているような気がするとか、普通の人には単なる騒音が人の声に聞こえるとか、そういうさまざまな陽性症状があります。あとは、自分と他者の区別がなかなかつきにくい。それから人と交流して生活して生活を営む昨日の障害です。これはいわゆるコミュニケーションに支障が生じているということです。それから三つ目は、これも重要な症状なんですけでも、自分が病気であるということを自覚することがむずかしい、病識というんですけども、いろんな感覚や思考、行動が病気のために歪んでいるということが自分自身でよくわからない。
患者数は、ちょっと古いんですが、2008年の日本の患者調査によると、国内で79.5万人。世界では、だいたい0.7%から1%の障害罹患率です。発症する人の多くが十代後半から三十代です。発症する人の多くが十代後半から三十代です。みなさんぐらいの年齢から発症する人たちがいるということですね。
遺伝か環境かというのも、厳密にはわかっていませんが、双生児研究によれば遺伝要因が三分の二、環境要因が三分の一。原因は今も不明のまま。ただ脳の神経情報伝達物質が関与しているのではないかといわれています。
病気の経過としては、前兆期、急性期、回復期、安定期というよに、症状が変化していきます。実はこういう変化があるということを発見した一人が中井久夫先生なのですが、今では当たり前のこととして考えられてます。決定的な治療法というのは、なかなかなくて、いまのところ薬物療法によって症状を抑えることがメイン、それからさまざまなリハビリが行われています。
精神科へ進んだ理由
おそらく、患者のそばにじっと座ることから始めるのがよいであろう。そして、沈黙している患者の傍らにいて、われわれの心の中を通りすぎるさまざまな感情を静かに見つめるのがよいだろう――。
これが最後まで中井久夫という医師を貫く、医師としての、患者に対する姿勢でした。ただただ沈黙して患者のそばにいる。もちろん、自分も心の中ではいろんあことを思ったりするわけですけど、そういうことも静かにみつめながらそこにいる。そこから始めるのが第一歩ではないかと考えたわけです。
統合失調症という病気
統合失調症に親和的な人は、かすかな兆候を読む能力が傑出している人が多く、それは狩猟民族には生き残りに有利であっただろうと中井先生は考えました。つまり、時代によっては非常に傑出した能力を持つ人たちだったのではないか、それが時代と共に有用ではなくなった、すなわち、人間にとって必要不可欠な機能の失調による病気が統合失調症である。統合失調症だけでなく今精神疾患とされているものは本来は非常に有用であった。統合失調症だけでなく今精神疾患とされているものは本来は非常に有用であった。それが時代や環境によって病とかパーソナリティーの障害として捉えられるようになってしまった、そういう支店からも精神疾患を見ようとしたのが中井先生なんですね。
心のケア活動
最後に中井久夫先生の著作をご紹介します。ごく一部なんですけれど、『精神科治療の覚書』という本は、ケアにあたる方だけでなく、学校の先生など教育者にも読まれています。PTSD、心的外傷後ストレス障害といいますが、これを日本に紹介したのも中井先生でした。『戦争ストレスと神経症』は、戦争に派遣された兵士たちが心を病んでいくことを報告したとても重要な本で、これを翻訳して紹介されました。三つ目の『日本の医者』は絶版だったんですけれど、最近新版が出ました。簡単に紹介すると、医局制度の批判をした本ですね。つまり「白い巨塔」批判です。もう一つの顔が文学者としてのものです。詩の翻訳をされました。『コロナ/コロニラ』は、フランスの詩人ポール・ヴァレリー、それから『カヴァフィス全詩集』は、現代ギリシャの詩人カヴァフィスですね。『家族の深淵』は、随筆家としてのお仕事です。2013年、文化功労者になられました。
関連して私の本も紹介します。私は、2008年頃に初めてお目にかかりまして、昨年『セラピスト』という本を出したんですけれども、ここに中井先生に私がカウンセリングを受けているシーンが出てきます。もちろん取材として受けたのですが、そのうちに私自身が実はある精神疾患をもっていることが判明します。興味のある方は読んでいただきたいと思います。それから『心のケア 阪神・淡路大震災から東北へ』は先ほどの震災の心のケアの話で、兵庫県こころのケアセンターのセンター長、加藤寛先生との共著です。これを出したのは東日本大震災のあとですけれども、こころのケアとは何かを解説したものです。
11 イリュージョンと脳の可能性 ゲスト 柏野牧夫
学生に伝えたいこと
最相 そろそろ時間も残り少なくなりましたので、最後に、みなさんに何かメッセージをいただいてもよろしいですか。
柏野 時代も違うし、置かれている環境も違うので、自分の経験がそのままてうう様するかわからないですけど、私は、これをやったら成功するだろうとか失敗するだろうということを先回りして考えていないというか、考えられないタイプで、結局、今一番何に関心があるかということしか頭にないんです。そう思っていると、偶然の出会いがあったりする。ワレンさんもそうだったし、今の職場もそうなんですけど、偶発的にそういうものが巡ってくるようなところがあります。野球野球といっていたら、今は元プロ野球のスター選手なんかと一緒に研究や試合ができたり。だから、結局好きなことをやるしかないんじゃないか。みんなそうおっしゃると思うんですけど、やっぱりそれはそうなんです。スポーツもそうですけど、やっぱり好きだからやるんです。相対的に自分がどれぐらいできるかではなく、差分がおもしろいんです。実践していくなかで、あれこれ考えて、仮説立てて試してみたら、この間よりちょっとうまくなったという、その小さい部分が一番おもしろい。わりとそういうことだけで、きています。
とはいえ、国の研究費を獲得するような場合には、何に役立ちますとか、これがどうありがたいか、ということを説明しなくてはいけない状況がたくさんあります。会社の中でもそうだし、アカデミアでもそうですが、そういう時も意外と、研究をやっている本人がすごくやりたい思っているかどうかが効いてくると思うんですよ。外発的に、これをやれといわれたからやっています、みたいな当事者意識のない人ってすぐわかる。
ところが日本企業には往々にしてそういう人が多い。アメリカでこういうビジネスが流行っているんです。だからうちでもそろそろやらないといけないと思いまして、みたいな感じで来られてもその時点で完全に遅れているので勝ち目はない。まだ世の中にはないけど、自分はこういうものが絶対欲しいと思っているというシンプルなものがあればそれでいい。たとえば、世の中のものを全部検索したい、検索できるといいですよね、と思った結果、グーグルができるわけです。ゴールというか、こういうものが欲しいという欲求があれば、あとはついてくると思うんです。だから愚直にというか、好きなことをやればいいんじゃないでしょうか。
おわりに
この講義では繰り返し、人の人生を紹介してきたわけですけれども、たくさんの人生を知るということは、自分自身を豊かにすることです。自分が何をやっているのかわからない時、自分がどこに立っているのかわからなかった時、この先どう進めばいいのかわからない時、そんな時は先人の思考のあとをたどることで自分の位置づけがわかり、次にどこへ足を踏み出せばいいのかが見えてくるでしょう。
科学を理解する手掛かりとして、伝記、評伝を非常に重要な参考資料と考えています。なぜその人がその研究をやっているか、なぜそのテーマに生涯を賭けたのか、思考の道筋がそこに表れている。そうすると、私みたいな門外漢でも、そうか、この人はこんなふうに考えたからこの技術が生まれたんだ、この発見に導かれたんだ、ということ理解d切るんですね。ライバルが登場して足をすくわれたりといった話があると、なおおおもしろい。科学も人間の営みであると実感できますし、どんな最先端の技術も、歴史の流れの中にあるということもとてもよくわかる。
いい本に巡りあうことはむずかしいのですが、まずはたくさん本を読んでみてください。そのうちに選書眼が鍛えられて、必ずいい評伝、いい人生に巡りあえると思います。もしからしたら、そこから開かれる未来があるかもしれません。
>>読書を通じて、先人の思考のあとをたどることで自分の位置づけを認識しつつ、好きなことをやり続けてゆきたい
「東工大講義 生涯を賭けるテーマをいかに選ぶか」(最相葉月著、ポプラ社)より
8 空白の天気図と観測精神 広島地方気象台と猿橋勝子
猿橋は自著『猿橋勝子 女性として科学者として』で、「科学の研究はよほど天才でない限り、コツコツとたゆまぬ努力をしつづけなければならない。したがって、誠実さ、勤勉さは科学者になるための必要な条件である」と述べています。
もう一つ、ベルリンが東西に分かれた頃に旅した時の言葉ですけれども、「科学者は、人類のしあわせに、積極的につくす義務がある。科学者の責任は重いが一方、人類への貢献が大きいことを思えば、私は科学者になったことによろこびと誇りを感じないわけにはゆかない」とも述べています。科学技術と社会の関係が問われる今に響く言葉ではないでしょうか。
猿橋勝子は1980年に女性初の日本学術会議委員になります。その同じ年に「女性科学者に明るい未来の会」を設立して、猿橋賞を創設しました。猿橋賞というのは毎年発表されるのでみなさんも報道でご覧になったことがあるかもしれませんね。女性科学者に贈られる賞で、これから大きな業績を上げてほしいという期待を込めて、若手を対象にしています。来週は、猿橋賞を受賞された地震学の石田瑞穂先生をお招きしますので、楽しみにしていてください。
9 二つの大震災から見えたもの ゲスト 石田瑞穂
最相 最後に、これから研究に入っていく人たちに向けてメッセージをいただけますか。とくに女性に向けてのメッセージがあればお願いします。
石田 いずれにしても、自分で決めないとダメです。人にいわれるんじゃなくて全部自分、できる限り自分で決めてください。魔法の方程式はないです。まず何かをしてみて、ダメだと思ったり、これが合ってないと思ったりしたら、やり直したらいいんです。これっていうのを見つけるまですごく苦労して悩んで、そして決めていく。
自分が生きている時間、目が覚めている時間は、自分で一番自分のためになるように使うということを心がけないと、あっという間に私くらい年をとりますよ。だから、とにかく自分の力、自分で決めて、あとで失敗した時に、あの人がああいったからだなんていわないためにも、自分で一個ずつ決めてください。
最相 女性に対してはありませんか。
石田 とくに思いつかないのですが、あえて申しますと、私の頃よりも今の方が女性に対して差別はなくなったと思います。ただ見かけは非常に平等ですが、女性はやっぱり対等には扱っていただけない場合があります。でも、そういうことにめげないでください。まずはあまりそういうことを気にしないで、とにかくしたいことをしてください。女性だからって自分を特別に思わないこと。性としての女性と男性、職場では一般に男性が多くて女性が少ないとかそういうことはありますが気にしないで、自分が何をしたいかを優先してください。
>>誠実さ、勤勉さを持って、コツコツとたゆまぬ努力をしながら、したいことをし続けてゆきたい
「東工大講義 生涯を賭けるテーマをいかに選ぶか」(最相葉月著、ポプラ社)より
4 原子核物理から真理の道へ ゲスト 佐々木玲仁
これからの展望・メッセージ
最相 あっという間に時間になってしまったのですが、最後に佐々木先生からここにいる学生に一言いただけますか。
佐々木 今日インタビューをしていただいて、話しながら思い出したことがたくさんあるんですが、まあ、いろいろ寄り道したけどそのつどやっていることそれぞれが、いまの仕事に直結してるなあと改めて思いました。さっき絵について話したときに、「それぞれの絵はその人にとって当たり前の絵だけれど、それぞれに全然違っている」ということをいったんですけど、それに繋げていうと、人から見て紆余曲折でも、自分にとっては必然的にとって来た道が結果的には紆余曲折のようになったということだと思うんですね。なので、あまり「自分の色を出そう」というふうに思わなくても、自然にやっていたら勝手に出てくるのがそれぞれの「色」なんじゃないかなと思うんです。色を出そうと思わなくてもまあそれなりにやっていけるものだっていうのが、いろいろなことをやってきて、いまの仕事もやっていて思うことですね。
5 遺伝子工学と知らないでいる権利
ウェクスラー家の選択
原因遺伝子発見と知らないでいる権利
アリストナンシー、ミルトン・ウェクスラーが提唱したのがこの言葉でした。「Right Not To Know」――知らないでいる権利です。これは主体的な意思表明です。無知でいたいということではなく、知らないでいるという行動を選択したのです。
これは、出征前診断などでも使われる言葉ですけど、初めていったのは彼女たちなんですね。とても大事な言葉です。検査ができるからといって、検査を強制するようなことになってはいけない、それは尊重されなければいけないということですね。検査を受けたらそのリスクは家族にも影響するということで、もし治療法があるんだったら予測するということには意味があるけれど、そうでない間にはリスキーなものでもあると。
知らないでいる権利というと、こういう問題と離れていろんなところで使われがちなんですけれども、そうではなくて、さまざまなリスクをわかって、あらゆる情報を手にして、同意するかしないかの選択をぎりぎりのところまで迫られて、そこまで追い詰められ初めて使える言葉。それくらいの大きな意味を持つ言葉だったわけですね。
6 禁断の不均衡進化説 ゲスト 古澤満
学生へのメッセージ
最相 古澤先生は子どもの頃にトンボを見た時に感じた進化への問いをずっと貫いて今も研究を続けておられてるわけですけど、最後に学生たちにメッセージをいただけませんか。
古澤 僕は生きたいように生きている気ままな人間なんですが、自分がやりたいことが決まったら、それを常に頭の中に浮かべておくことが大事なんやないかなと思っています。僕は進化の加速やるって子どもの頃から決めていたわけですけど、それをずっと頭の中に思い描きながら生活するということ。先生に怒られても、野球やっててデッドボールくらっても、頭の中ではすぐにそこに戻ってくるようにしとかないといけない。
なんか発見してやろうと思って考えてもロクなことないです。天才はそんなこと平気でできるんでしょうけど、われわれ普通の人間は無理やりに、頭にいつも目標を描きながら生活するしかない。僕の場合は遊ばないと絶対ダメなんで、昼間のスポーツから夜の遊びまでめちゃくちゃ頑張りました。今でもスキーとテニスは現役でやってるんですけどね。なんでそこまでやるかというと楽しいからですけど。でも、僕の場合、遊びと研究の切り替えがぜったに必要なのです。
7 実践ショートショート 星新一と要素分解共鳴結合 ゲスト 江坂遊
江坂 まとめのお時間ということで(笑)、最後に二つ、みなさんにメッセージです。一つ目。人と会話をするときには事前に準備をすることが必要なんですね。星さんはどんなお話をすればその人に喜んでもらえるかというのをちゃんと予習されてましたね。すごい人ですね。落語を聞く!小話を覚える!人にそれを語る!その話の先を読む!実践してみてください。次に行きましょう。二つ目です。継続、やる気の継続。これが大事かな。書き続けてください。一緒にショートショート作家をやろう、だってライバル少ないんだから、すぐにトップになれます(笑)。みなさんと一緒に頂上を目指すことができたらいいなと思います。さて、今日はこれでおしまいです。シューマイの絵がスクリーン出ましたので、おシューマイ(笑)。ありがとうございました。(拍手)
>>やる気を継続させながら、やりたいことを常に頭の中に浮かべ続けてゆきたい
「東工大講義 生涯を賭けるテーマをいかに選ぶか」(最相葉月著、ポプラ社)より
2 感染症に賭ける ゲスト 山内一也
研究者の説明責任
山内 定年になってから考えてみると、ウイルス研究の世界に入ったのが、日本ウイルス学科が発足した頃だったんです。ウイルス学の進展とともに半世紀を過ごしてきた。その経験をもとに語り部的な役割を果たした結果になったんですが、自分のバックボーンになってきたワクチンなどについても本にまとめましたので、そろそろ語り部としての役割は終えて、これからは自分の興味があるウイルスの世界を眺めていたいと思っています。一つの例だけ申し上げますと、人間の体は60兆の細胞からできているんですが、そこに腸内細菌が600兆から1000兆くらいいる。その細菌の中には、さらにその十倍くらいウイルスがいるんです。これは細菌の中で増えるウイルスです。みなさんの体の中にもウイルスがいる。みんなウイルスに取り囲まれているんですよ。
最相 ウイルスというものはそもそも病原体だと思われていたんですけれど、必ずしもそれだけではないのですね。ご著書『ウイルスと地球生命』に、ウイルスには胎児を保護する役割もあると書かれてあって大変驚きました。
山内 現役で研究していた時は、ウイルスは全部、病気の原因、病原体としてしか見ていなかったんですが、フリーになってからは広くいろんなものを考えられるようになってきました。そうすると、ウイルスというのは、本当にとてつもなく広大な世界を作っている、というかウイルスの世界の中にわれわれがいる、みたいなことがわかってきたんですね。
きっかけとなったのはインターネット講座(日本獣医学会「連続講座 人獣共通感染症」)で、ある読者から、最近に悪玉があるように、ウイルスには善玉がないんですかという質問があったことですね。今はもうすっかりそちらのほうにのめり込んでいて、ウイルスが一体どういう存在なのか、ウイルスの世界はどうなってるのかということで知的好奇心を満たしているところです。
最相 最後に、これから研究生活に入っていく学生も多いと思いますので、先生から何かメッセージを一言いただけますか。
山内 そうですね、私はやっぱり、自分の研究人生がセレンディピティというか、偶然に導かれてこんなふうに進んできたと考えています。だから自分は何をやりたいというよりも、自然にその方向が決まっていった。その中で、柔軟に、その時に応じて研究してきました。学問も進んでいきますが、世の中はどんどん変わっていきますから、それに対応できる柔軟性を持つことが必要ではないかと私は思います。
3 偉人伝から遠く離れて マリー・キュリーと弟子・山田延男
マリー・キュリーとその家族
マリー・キュリーが生まれた1860年頃のポーランドは、ロシアとオーストリアとプロイセン、のちのドイツ帝国に占領され、分割統治されていました。マリーの住んでいたワルシャワはロシア領で、ポーランド人には選挙権も被選挙権もない。マリーは物理の先生になるんですけれど、そこには祖国独立の力になろうとちう強い意志があったためだといわれています。彼女の発見したポロニウムというのはポーランドの国名から来ているんですね。
もっとのピエールとの間には娘が二人いて、長女のイレーヌは、母と同じ研究に進み、ノーベル化学賞をとります。マリーの伝記を書いた次女のエーヴはジャーナリストで、非常に長生きしました。亡くなったのは2007年、102歳でした。
第一次世界大戦中、マリーはせめて第二の祖国フランスのお役に立ちたいと思い、レントゲンを搭載した移動X線車を作って前線に行きました。負傷した兵士の体をX線で撮影すれば弾丸の位置や骨折がわかり、治療につながると考えたんですね。途中からはイレーヌを同行させました。レントゲンやMRIの技術につながる発明ですが、これに対して、マリーは特許をとりませんでした。特許をとっていたら、大変儲かっただろうにといわれたとき、人生最大の報酬は知的活動によって得られるものですと答えたそうです。
1995年に、スーザン・クインという記者が出版したマリー・キュリーの伝記は大変なベストセラーとなります。にほんではみすず書房から翻訳本が出ていて、帯文には、聖女のベールを剥ぎ取って人間マリーが躍動する、と書いてあります。娘のエーヴが書いた伝記では伏せられていた新事実がいくるか書かれているぞ、という意味ですね。
一つは、ピエールが馬車の事故で死んでしまったあとのことです。マリーは悲しみのあまり、なかなか実験も手に付かなかったんですが、数年後に、ピエールの弟子、ポール・ランジュヴァンという男性と、この人は妻帯者だったんですけれども、不倫をしてしまいました。これが大変な問題になるんです。フランスの右翼派には、まっとうなフラン人家庭を壊した悪い外国人女みたいに書かれて、男性ばかりのフランス化学アカデミーに推薦されて入会した時にも激しく批判されました。この不倫騒動の渦中に、マリーは二回目のノーベル賞を、今度は化学賞でとるんですが、授賞式に出るなということまで周囲にいわれます。いや、今こそ出たいということで出席しましたが。こんなエピソードは当然、娘たちにとっては都合の悪い事実ですから、エーヴとその孫たちはクインの評伝について非常に複雑な思いを抱いているだろうと思います。
スーザン・クインの伝記にはもう一つ、私が非常に気になっている記述があります。
「ジャパニーズ サイエンティスト ネームド ノブ・ヤマダ」についてのエピソードです。ノブ・ヤマダという日本人が帰国して二週間目に突然気を失って倒れて、その病床からイレーヌに手紙を出した、そこにはこう書いてあったとあります。「病気の原因はまだはっきりしません、長い外国生活でとても疲れているのはたしかです、でも、エマネーションからの中毒の可能性もあります。こちらでは十分な量の放射性物質がありませんので、その結果、これらの物質による中毒の報告はみあたりません」。(『マリー・キュリー』)
山田延男の死
山田は1927年、昭和二年に再入院し、手足の自由もうちなって聴力も視力も減退して容体が急変し、」11月1日に亡くなりました。31歳でした。葬儀には妻の浪江と小さな三歳の息子がいたそうです。東大総長が弔辞を読みました。総長は古在由直という農芸化学者で、足尾銅山鉱毒事件で銅の汚染を実証して農民の立場に立って支援した人です。今でいう環境化学の先駆者といえるでしょうか。弔辞にはこうあります。
「君は大正12年、官命により欧米に留学してもっぱら物理化学の蘊奥を究め、15年2月帰朝(中略)海外に於いて発表せる放射性物質研究論文は最も著明にして、このほかX線光線分析の研究あるいは天然ガスの研究論文など、その研究業績にして学会の貢献せるもの甚だ多し」
のちに東北大学の大内浩子先生が山田のパスポート・ケースの放射線汚染を確認しました。山田延男は放射線研究に従事した初めての日本人の犠牲者だったのです。
最後に、『マリー・キュリー フラスコの中の闇と光』にある、マリー・キュリーの言葉を紹介しましょう。
「偉大な発見は、いきなり完全な姿で科学者の頭脳から現れるわけではない。膨大な研究の積み重ねから生まれる果実なのだ」
>>どんどん変化する世の中に対応できる柔軟性を持ちつつ、探求の積み重ねから果実を掴み取りたい