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「回顧八十年」②



「回顧八十年」(佐藤尚武著、時事通信社)より 


  後編  第一章 日ソ関係悪化とソ連の対日参戦


 6月にはいって、戦況は日に急迫を加えているのに反し、東京からは、私のしばしばの意見電にたいし、的確な訓令をよこさないうちに、いたずらに時はたっていった。私はこれにたいして非常な不安焦燥の感じをいだかざるをえなかった。ところが、6月の末にいたって、初めて、広田弘毅とソ連大使マリクとの間に行われたいわゆる強羅会談の経緯が私のところに大臣から知らされてきた。そして、その末尾に、広田からマリクに伝えた日本側の提案にたいしてソビエト側から返事があるはずであるが、それが延び延びになっているので、貴官はすみやかにモロトフと会見し、ソ連政府の回答を督促されたいといってきた。

 率直にいって私は、この大臣のやり方にたいして非常に不満を感じたのであった。というのは、何も私の頭を通り越して、外務大臣が広田の手でソビエト側と交渉したということそれ自体にたいしては、私は何らいうところがない。もちろん私のモロトフとの直接交渉ばかりでなく、あらゆる手段をとってソビエト側との問題解決を図るべきは当然のことである。が、しかし私が最も不安に感じたのは、あの急迫した時代に、6月いっぱいもの長時間をかけてソビエト側と無益の交渉をしていた、そのことである。ここには詳述を避けるが、満州問題をソビエトの有利に解決して、そしてソビエトをわが方に引き付けようとする魂胆から出発した日本の提案のごとき、こんななまやさしい考え方でソ連をわが方に引っ張るなどは、私の目には、いかにも児戯に類したこととしか思えなかった。そして、強羅会談に引っかかり、先方に引きずられて一ヵ月ものとうとい時間を空費したことにたいし、私は満々たる不満を禁じえなかったのである。

 しかし、もはや私の不満を大臣にぶちばけてかれこれ論争する時間はなかった。大臣からのソ連側の回答を督促せよとの訓令は、ムダと知りつつも、やらないわけにはいかなかった。私は、重い足を引きずってモロトフとの会見におもむいた。それは7月11日のことであった。


>>佐藤ソ連大使の不満を感じながらのモロトフとの会見、さぞかし辛かったに違いない

「回顧八十年」①



「回顧八十年」(佐藤尚武著、時事通信社)より 


  前編  第二章 中学より一ツ橋高商時代


 私の正則中学在学中に、父は熊本県書記官となり、2年ばかり後には新潟県書記官に転じて、3、4年もいたようであるが、その後老年で退職したのであった。私は明治33年、5年間厄介になった正則中学校を終えて、当時神田一ツ橋にあった東京高等商業学校の予科に入学した。私はがんらい5人兄弟であるが、男は兄と私と二人きりであった。5つ年上の兄は一高から東京帝大法科に進んでいた。私は道を変えて、実業界にでもはいろうという気持ちから高等商業を選んだのである。また私の父は東北の僻陬津軽の貧乏士族の出で、長く官吏を勤めていたので、資産なぞというものはもちろんない。だから私は学校を出たら、実業界にでもはいり、金もうけをして、両親を安心させようという気持ちをばくぜんと持っていたのである。

 私は高商の予科にはいったときから、同じ正則を出ていっしょに高商にはいり、後に有名になった内田信也や伊地知虎彦などという連中とともに、ボートの方に熱中して予科選手のトップをこいだり、本科1年になってからは全校の選手競漕でS組(赤)のカジを引き校内赤組の全勝をしたりした。またその年には不思議に外国語学校、学習院、一高、帝大なども赤組が全勝したので、これら赤組連合祝勝会を催して、墨堤に優勝旗の漕艇分別式とでもいうような示威運動をやって相手を憤慨させたこともあった。これは私の学生生活の中では非常に大きな出来事であった。ところが本科2年になってからもS組第一選手のカジを引いていたものの、もはや、選手たちの意気込みもあまりあがらない。ことに私は、後述するような一身上の大変化などあったためにさっぱり気のりがしない。その春、桜花満開の1日、墨堤競漕会の日、しかも私の両親や婚約したばかりの娘姉妹を招待したその目前でまんまと敗北を喫したのであるから、当時の私にとっては非常な悲劇となってしまった。


 高商時代は、前述のように、ボートをこいだり、あるいは英語会に出たりして、私はともかく愉快に勉強していた。ところがある日、まるっきり思いがけなく、私の一身上に大変化が招来されることになった。


 高等商業の予科以来、ボートばかりこいでいたり、級の世話役などをしていたため、私はあまり学業の方に力を入れなかった。そこで本科2年のころからこんどは方針を立て直してボートの選手も断り少しまじめに勉強を始め、そして本科3年になってからはいよいよ心を引き締めることにしていた。明治37年6月の卒業試験のため、当時赤坂新坂町に住んでいた佐藤家の二階の一室に閉じ込もって、しきりに試験準備をしていたある日のことである。

 養父愛麿が思いがけなく私のへやにはいってきて、机のそばにすわって、ふだんにないまじめな顔つきで、全く思いがけない話をしたのである。それはほかでもない。学校を卒業したら、私に外務省の試験を受けてみないかということであった。なるほど、私は外務省に勤めている人のところへ養子としてきたのである(当時養父は、メキシコの弁理公使として帰朝中であった)。しかし私はもともと学校を出たら商売人になるつもりでいた。もっともどこに就職しようというメドとてなかったのであるが、ただばくぜんとそう考えていたので、いまの養父の話には文字どおりびっくりさせられた。しかし、「どうだ。おまえは外務省の試験を受けてみないか」といわれて、「いやでござる」と後ろを見せるのは、いかにも奮発心のない意気地無しのような気がしたのである。そこで、とっさの間に自分の心を決めて、養父のいうままに「それでは、一つやってみましょう」ということになった。これが私の、外務省生活が始まった最初の動機である。


>>終戦当時の佐藤ソ連大使の思いを共有したい

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