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「歴史家の心眼」


「歴史家の心眼」(会田雄次著、PHP研究所)より


「日本のビスマルク」がめざしたもの――大久保利通


 ドイツと同じく後進の、それもはるかに遅れた日本が生き残るためには、ドイツを手本として、強大な政府のもとに一刻も早く富国強兵、殖産興業を貫徹しなければならない――大久保はここで初めて具体的な目標をもったのである。明治6年(1873)、欧米視察から帰国すると、大久保はすぐに勧業と内治整備を主務とする内務省を設立し、自ら内務卿に就任、農業の近代化、官営工場の設立・運営、輸出の促進、軍事力の充実など、積極的に富国強兵、殖産興業政策を実践していく。


>>出でよ、実行する大久保的リアリスト政治家!


「帝国としての中国」


「帝国としての中国」(中西輝政著、東洋経済新報社)より


新版へのまえがき

 「政治主義」という中国文明の一大契機に忠実に、「政治」の必要に応じて「真実」は操作されるべきであり、もしそれが許されないなら道徳や秩序はいっさい成立しないのではないか、という確固たる価値観がある。日中の歴史論争の根底にも、それが横たわっている。一方、日本人にとって、それに応じるには深い呵責――ときには耐え難い――を背負うことになり、内面のカオスに陥ってしまう。ここに日中関係に独特の困難、つまり「文明の衝突」という構造があるのである。


>>「政治」の必要に応じて操作された「真実」には注意が必要だ


「商店街再生の罠」


「商店街再生の罠」(久繁哲之介著、ちくま新書)より


 商店街の再生策は、生活インフラ機能の強化を基本コンセプトに据えて、大型店やコンビニ等との差別化を図りながら「地元市民を相手に、リピート客を創る」ことが求められます。これは何も商店街再生に限った話ではなく、ビジネスが持続・成長するには「一見客でなく、リピート客を創る」事が基本です。商店街の再生策も、ビジネスの基本に立脚して考えることが当然に必要です。


>>「一見の観光客を狙った観光地化」から脱する必要がありそうだ


「歴史家の心眼」


「歴史家の心眼」(会田雄次著、PFP研究所)より


絶大なる時人気の秘密――西郷隆盛


 勝は、「今までに天下で恐ろしいものを二人見た」としてその一人に西郷をあげ、次のように述べている。

「(自分が)西郷に及ぶことができぬのは、その大見識と大誠意にある。おれの一言を信じて、たった一人で江戸城に乗り込む。おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠は、おれをしてあい欺くことができなかった」


>>西郷の至誠の心に触れてみたい


「未来をつくる企業内イノベーターたち」


「未来をつくる企業内イノベーターたち」(服部篤子編著、近代セールス社)より


組織内において、社会起業家精神をもった人々が経済的・社会的両面でインパクトを与える事業を推進する場合、欧米では彼らをソーシャル・イントラプレナー(組織内社会起業家)と呼び、独立した社会起業家と区別して着目している。

 
 複雑化する問題を解決していくには、経済的にも社会的にもインパクトのある事業が必要となる。その担い手として、社会との関係性を高めたソーシャル・イントラプレナーが、組織の、さらには社会の変化を促していく力をもっていると確認している。


>>ソーシャル・イントラプレナーの活躍が期待される

「くにこism」


「くにこism」(猪口邦子著、西村書店)より


パールハーバーの授業

 そこにはきのこ雲の写真とともに、日本が悪魔的な世界征服の野心と狂気で、パール・ハーバーに奇襲攻撃をし、いかに愚かで野蛮な戦争を仕掛けてきたか、その野望をくじくために原爆が投下されたと、自由と正義の国アメリカと、野蛮で卑怯な国日本というわかりやすい構図が描かれていた。善悪がはっきりした物語のようであった。


 先生が黒板になにかを書いている・・・・・・日本は資源に乏しいこと、発展するために外国から資源を輸入しなければならないこと、どんなに資源の乏しい国でも、貿易によって発展する権利があること、しかし、欧米諸国は、アジアの国が発展しすぎることは許せないと思っていたこと、そこで、日本の資源の輸入を困難にしていったこと・・・・・・しかもなんとアメリカは、実は、欧州戦に参戦する契機をつかもうとしていたこと・・・・・・違う!教科書と全く違うことを先生は授業でしゃべっている!


>>昔は先生の影響が大きかったようだ


「音楽は自由にする」


「音楽は自由にする」(坂本龍一著、新潮社)より


 ロンドンで、夏目漱石のことを考えたりもしました。日本を代表してロンドンに来て英語の勉強をして、2年ほど悶々として帰って行った漱石はどんな気持ちだったのだろう、と。漱石と自分を重ね合わせるのは大げさですが、国を背負っているような息苦しさを、ぼくも確かに感じていた。

 使命感みたいなものはなかったと思います。もちろん、自分に対する使命感、YMOや音楽に対する使命感はありますが、日本に対する使命感は感じなかった。いや、実際たぶん感じていたんでしょうが、できるだけ感じないように努めていた。精神的に複雑な調節をしていたんだと思います。
 

>>自分に対する使命感とは何だったのだろうか


「日本人のための世界史入門」


「日本人のための世界史入門」(小谷野敦著、新潮新書)


 連合国軍総司令官はのちの米国大統領アイゼンハウアー、英国の司令官はモントゴメリー将軍、極東方面司令官はマッカーサー元帥である。『パットン大戦車軍団』という映画で、ヨーロッパ方面の米軍司令官パットンは、最後に「われわれは戦う相手を間違えた」と叫ぶのだが、実際そうで、本当に戦うべきなのはソ連だったのである。ヤルタ会談でスターリン、ルーズヴェルト、チャーチルが会合し、蒋介石も加わって、中国は本来日本の交戦国ではないのに、いつの間にか加わっていたが、これは蒋介石が米国留学したことがあったせいでもある。だが結局、それ以後の内戦で共産党が勝ち、極東はソ連、中華人民共和国、北朝鮮という社会主義勢力が支配して、日本と韓国がその防波堤になった。


>>米国はいつ間違いに気付いたのだろうか


「アーロン収容所」


「アーロン収容所」(会田雄次著、中央文庫)より


文庫本のためのあとがき(昭和48年中秋)

 アメリカの直裁さに比しイギリスの植民地経営の方が遥かに老獪、したがって悪質、フランスの方が残虐だったこと、アメリカは黒人問題をかかえているから人種差別が深刻に現れるが、ヨーロッパ人の差別感の方がはるかに徹底したものであることはほとんど自明のことである。しかし、それがいえるような世の中、いえても通るような世の中ではない。そんな世の中へ、いかに手痛い歴史実証的体験とはいえ、イギリス収容所の実感にふれ、それを通じてイギリスを告発するというようなことを呈示しても無駄ではなかろうか。そう感じていたのである。


>>ヨーロッパの差別感は自明だったのだろうか


「知識創造企業」


「知識創造企業」(野中郁次郎+竹内弘高著、東洋経済新報社)より


 米軍のガダルカナルでの勝利は、太平洋戦争の転換点であると見なされているが、同時にそれは、米軍の日本軍に対する「組織的な」勝利の始まりでもある。官僚的な日本軍は、銃剣突撃と白兵戦を使いつづけたが、柔軟な米軍は、太平洋に散在する島々への上陸を敢行するために、新たなタスクフォース組織、艦隊海兵隊(Fleet Marine Force)を創り出した。そして、海兵隊が占領した中部太平洋の島々に基地を作った米軍は、そこから飛び立った陸軍の大型爆撃機による日本本土への空襲を開始したのである。


>>日本には民間人への大規模な空襲という発想はないだろう


「海賊とよばれた男」


「海賊とよばれた男」(百田尚樹著、講談社)より


 アメリカはもともとモサデク政権打倒を目論んではいなかった。イランとイギリスの争いにおいても比較的中立の立場を取っていた。イランの石油国営化によって、むしろそれまでイギリスに独占支配されていたイランの石油利権を手に入れるチャンスと見ていたからだ。一方イギリスはイランの石油国営化が国際的に認められ、既成事実となってくるにしたがって、焦り始めた。そこで秘密裏にアメリカと交渉した。それはアメリカがモサデク政権を打倒する代償に、イラン石油の40%の利権を譲渡するというものだった。もっともこれらがあきらかになるのは何年も後の話だ。


>>日本の動き方とは明らかに違うようだ


「ニッチを探して」


「ニッチを探して」(島田雅彦著、新潮社)より


 地球上には生物の多様な生息環境があり、それぞれの生息に適した場所を占める。その場所もしくは条件を「ニッチ」と呼ぶ。


 生物界に起きることは人にも当てはまるし、多くの人口を抱える都市でも見られる。都市生活者たちは誰しも自分に適ったニッチを見出し、ハッピーに暮らしたがっているが、誰もが似たような欲求を追求し、同じような生活スタイルを求めるので、競争が激しい。しかし、多少好みをずらせば、まだまだ空きニッチはある。元のニッチを追い出された人も、新たなニッチに潜り込み、別種の生き物に変わり得る。たとえば、環境の変化や排除を受けた者は、移住したり、転職したり、出家したり、ドロップアウトしたり、リセットしたりして、別のニッチに進出しようとする。


>>これからどんなニッチを探すことになるのだろう



「歴史家の心眼」


「歴史家の心眼」(会田雄次著、PHP研究所)より


バサラの化身――織田信長


 古い体制を打破するために武士を土地から切り離し、官僚組織による統治を行うという政治プランと、国内外の商業交易を盛んにして国力を上げるという経済プランは、信長の革命思想の根幹をなす二大方針であったが、そのヒントはやはり宣教師たちから得た情報にあったと見るのが自然であろう。

 だが、信長以外の誰にもこの新しい社会の輪郭は見えなかった。その点家来たちはみんな秀吉ほどの男でも難儀な思いをしたはずである。そしてとうとう家康によって歴史は逆の方向に進んで行くのである。


>>信長が長生きした場合の今日に至る日本の歴史を考えてみる


「歴史家の心眼」


「歴史家の心眼」(会田雄次著、PHP研究所)より


もう一つの明治維新――福沢諭吉


 福沢諭吉がいくら「学者は野にあるべきだ」といったところで、官僚主導型の官尊民卑の世の中になれば、帝国大学に優秀な学者がどうしても集まる。秀才連中も、東京大学、京都大学などの帝大へ行くか、海軍大学校、陸軍大学校、高等師範学校へ行くか、いずれにしろ、官立の卒業生が政界、官界、財界、軍隊、教育の中枢部の大半を占めてしまうことになる。私立大学の自由な学風の中で指導者を育てるとした諭吉の夢は、圧倒的な官僚制の前に後退せざるをえなかった。

 それはとりもなおさず、福沢諭吉と慶應義塾の役割の相対的な低下を意味する。諭吉の活躍が脚光を浴びたのは明治10年ころまでで、その後は、官僚や官学出身者が巨大なパワーを持つようになったがゆえに、諭吉が社会の先頭に立って活躍するような場はほとんどなかった。むしろ、諭吉が考えていた社会改革を、一部都合のよいように変質させて、国家が取り上げ、官僚の手で推し進めてしまった。むろん諭吉が描いていたものとは違っており、むしろ苦々しい気持で社会の変化を眺めていたに違いない。明治維新という政治革命によって手にしたかに見えた理想が、同じく政治の力で遠のいてしまったのである。


>>今、諭吉の理想とした開かれた民主主義が望まれる


「歴史家の心眼」


「歴史家の心眼」(会田雄次著、PHP研究所)より


龍馬とは何であったか(その2)


 幕末を彩る数多の人材のなかで、龍馬は特異な存在である。「幕府を倒して、新しい日本を作らなければならない」ということは、多くの志士たちの頭のなかにあったが、「新しい日本」がどういうものなか、彼らにははっきりと見えていなかった。だから、地面を這いまわる連中は「とにかく戦って幕府を潰そう」と躍起になった。そういうなかにあって、龍馬は「近代国家・日本」というものを見つめ、考えていた。世界全体を視野に入れ、大所高所から50年先、100年先の日本をいつも見ていたのは龍馬だけだった。

 龍馬が日本の未来像を描けたのは、「観念」に生きられた人物だからである。未来というものの実物を見ることができる人間はいない。したがって、的確な未来像を描くには「完全な観念像を描ける能力」が必要なのだ。この能力は、下を見て生きる米作農民、つまり普通の日本人にはない。あの当時、遠くを見て生きられた数少ない人物である龍馬だからこそできたことだった。

 では、龍馬だけがなぜ、そういう日本人としては特異ともいえる性質をもったのだろうか。一つには大海に面した土佐という土地に生まれ育ち、「海」というものを見ていたことが影響していたのかもしれない。龍馬の銅像が立っている桂浜に立つと、水平線がまっすぐではなく弧を描いていることに気づく。その広さ、開かれた雰囲気に接していると、わずかばかりの土地を耕し、維持していくことがバカバカしく思えてくる。


>>大海に面した土地に生まれ育ってみたかった


「歴史家の心眼」


「歴史家の心眼」(会田雄次著、PHP研究所)より


龍馬とは何であったか(その1)

 まず、武士としての気位と山内家および上士への反発心が根底にある。彼の場合は他の郷士のように貧しくはないから、その思いはそれほど強いものではなかったろうが、藩主に対する忠誠心など全くといってよいほどなく、藩というものの束縛からも自由な立場にあったと思われる。ということは、当時の武家の規範である朱子学の倫理観からも自由、それに対する反発からさえも自由であった。このことは、龍馬の性格を考える上で極めて重要である。他方、裕福な家に育ったことから、彼には小心翼々たるところがない。本家は商売で大をなしているものの、基本的には武家であり誇りをもってきびしく育てられたから、商人としての卑屈さもない。それでいて、単なる小売商ではなく酒類の卸など遠隔地商業の家に育ったのだから、カネの力などはもちろんのこと、カネとモノの動きとその働きをも全身的に把握していたはずである。

 こうした背景からは、小事にとらわれないで本質を見抜く自由でおおらかな精神と行動性が生まれるか、さもなければ逆に、どっちつかずの優柔不断で日和見的な精神が形成されるのか、のいずれかの可能性が強い。龍馬の場合は幸いにして前者であり、激しい時代の動きがそうした龍馬の内面を揺り動かさずにはおかなかったのであろう。そして、龍馬の持つ個人的資質が次第に発揮されることになる。
 

>>生まれ育ちは精神に影響する


「里山資本主義」


「里山資本主義」(藻谷浩介、NHK広島取材班著、角川ONEテーマ21)より


 里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである。

 ここで注意すべきなのは、自己完結型の経済だからといって、排他的になることではない点だ。むしろ、「開かれた地域主義」こそ、里山資本主義なのである。

 そのために里山資本主義の実践者たちは、20世紀に築かれてきたグローバルネットワークを、それはそれとして利用してきた。自分たちに必要な知恵や技術を交換し、高め合うためだ。そうした「しなやかさ」が重要なのである。


>>里山資本主義で、経済再生、コミュニティー復活を果たす


「社会起業家になりたいと思ったら読む本」


「社会起業家になりたいと思ったら読む本」(デービッド・ボーンステイン、スーザン・デイヴィス著、ダイヤモンド社)より


社会起業家になるための25のステップ
より4つをピックアップ

1 目的を持ってスタートしよう
5 取り組もうとしている問題の背景を学ぼう
6 どう現状を変えていくか作戦を練ろう
9 新しいつながりを生み出そう


>>目的を持って、問題の背景を学び、現状を変える作戦を練り、新しいつながりを生み出して行きたい


「社会起業家になりたいと思ったら読む本」


「社会起業家になりたいと思ったら読む本」(デービッド・ボーンステイン、スーザン・デイヴィス著、ダイヤモンド社)より


社会起業家になるための12のマインド
から4つをピックアップ

誰かが問題を解決してくれるのを待つ
→①自分(たち)で何とかしてみせる

ヒーローだけが変革者になれる
→⑧誰もが変革者になれる

問題の原因ばかりにとらわれる
→⑨いまできる変革に乗り出す

過去からの継続
→⑫絶えざる進化


>>自分が今日から変わる


「松本幸四郎 私の履歴書」


「松本幸四郎 私の履歴書」(松本幸四郎著、日本経済新聞出版社)より


 我々兄弟の東宝入りを発表してから10日後、父が一門を率いて東宝に移籍することを表明、歌舞伎界を大きく揺さぶった。父は新聞のインタビューで語った。「歌舞伎は曲がり角にきている。その行き詰まりを誰かが解決しなければならぬ。それを私がやるというのは、おこがましいことだろうか・・・・・・」と。

 母方の祖父、初世吉右衛門が54年に亡くなり、これまでの歌舞伎を背負ってきた大黒柱がなくなってしまう形となった。昭和30年代にはテレビ放送が急成長するなど、歌舞伎の将来が危ぶまれる状況にあった。これからの歌舞伎界の行方を考えた父は危機感を募らせていたに違いない。

 高麗屋一門を招いたのは、東宝の演劇担当重役で劇作家・演出家の菊田一夫さんだった。菊田さんも父を軸に東宝独自の歌舞伎を作っていきたいという夢を抱いていたのだ。父も私たちのことで菊田さんと何度か会っているうちに、人生を賭けてみようと決心を固めたのかもしれない。

 東宝は父を迎えるに当たって、大劇場を舞台とした新しい娯楽大衆時代劇、新歴史劇の確立、古典としての歌舞伎劇の上演、という三項目のビジョンを掲げた。

 父は、菊田さんが他界(73年4月4日)した翌年に東宝を離れてフリーになり、その後、松竹に戻った。弟の吉右衛門も歌舞伎に専念するため東宝を去った。父が東宝専属だったのは11年間。父が東宝入りの決意を固めた理由の一つは「帝劇再建の基礎工事から協力してもらいたい」と依頼されたことだった。旧帝劇は、祖父の七世幸四郎が幸四郎を襲名し、専属俳優として活躍した劇場であり、十一世團十郎、父、二世松緑の三兄弟も帝劇で初舞台を踏んだ思い出の劇場でもあった。

 大河ドラマ(78年放送の「黄金の日日」)終了を機に、東宝から松竹に復帰することになった。今も私は歌舞伎と現代劇を仕事の両輪にしている。これはひとえに東宝、松竹両社の幸四郎への信頼と「演劇人としての良心」のおかげといつも感謝している。


>>行き詰まりという危機感から脱するために、組織を去って新しい人生に賭けてみるような夢を見る


「藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?」


「藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?」(藻谷浩介、山崎亮著、学芸出版社)より


 経済成長の「経済」という言葉は、そもそも「お金」だけを意味する言葉ではなかったはずだ。経済の元となった「経世済民」という言葉は、「世の中をうまく治めて人びとが幸せな生活を送ることができるようにすること」というほどの意味だった。だから、お金をたくさん得ることというわけではなく、多様な方法で人びとがより幸せになることが本来的な意味での「経済成長」であり、お金がたくさん手に入ることはそのうちの一つの指標でしかなかったはずなのだ。

 ところが、お金が入ればその他の指標もすべて満足させられるだろうという考え方が広がり、いつのまにか経済成長といえばお金がたくさん手に入ることを意味するようになり、他の指標を犠牲にしてでも金銭的な指標を高めることが大切だという発想になってしまった。このことによって、上記のように「ゆっくり語らう時間」や「自分がつくったものを贈るという行為」や「感謝の気持ち」が経済の指標から抜け落ちてしまったのである。


>>経済成長がなくても幸せになれるような生き方を探してみたい。


「孔子 人間、どこまで大きくなれるか」


「孔子 人間、どこまで大きくなれるか」(渋沢栄一著、三笠書房)より


 現在の境遇に不平を鳴らすよりも、現在の境遇にいて、自分がはたして役に立っているかどうかを考え、その仕事に全力を傾注するがよい。そうでなければ何年経っても、真の安心立命は得られない。毎日を不安、不安の念に駆られながら生活しなければならないことになる。

 これが孔子の「位なきを患えずして立つ所以を患えよ」という教えである。

 人はいかに自分を世間に認識させようとして、自己を吹聴して歩いたところで、世間はそう簡単に認めてくれるものではない。それよりも、平素の修養によって着実に実力を養成し、実行によって実績をあげるようにするがよい。こうすれば、あえて自ら求めなくても、その人の力は世間に知られるようになるものである。


>>現在の境遇に不平を鳴らすことなく、仕事に全力を傾注して行きたい


「渋沢栄一 Ⅰ算盤篇」


「渋沢栄一 Ⅰ算盤篇」(鹿島茂著、文藝春秋)より


 明治14年に東京府会で廃校が決議されてから3年、明治12年の予算半減から数えれば5年の長きにわたって、渋沢は商法講習所の存続を訴えて、あらゆる努力を続けてきたわけである。これ一つとっても、彼が商業教育というものに注いだ情熱のほどを理解することができるだろう。商業教育の充実こそが、日本の「官」と「民」の間の溝を埋める唯一の方策であると彼が考えたためである。こうした渋沢の努力は、翌明治18年、さらなるかたちで報いられることになる。この年、内閣官制の改正に伴って、商法講習所の創始者である森有礼が文部大臣となり、東京商業学校が文部省の管轄に移されることが決まったのである。神田一橋に新校舎が建設され、経費も大幅増額となって、面目が一新された。文部省管轄に移転後、東京商業学校は高等商業学校、さらには東京高等商業学校と改称された。これが現在の一橋大学の前身である。

 東京高等商業学校を大学に昇格させるということは、渋沢にとっては、己の奉ずる義利合一主義の国家的な商人であり、自己の存在理由の確認なのである。たんに、「官」が「民」に歩み寄ればいいというのではなく、「民」が「官」にいささかのコンプレックスもなく、己の存在に誇りを持って対等に接するようにしなければいけないのだ。だから、当時の文部大臣である小松原英太郎が、帝国大学の法科の一部として商科大学を置き、東京高等商業学校は専門学校として存続させるという方針を打ち出したとき、渋沢はこれに強く反対した。それでは、「官」による上からの「民」の承認にすぎなくなる。必要なのは、「民」が矜持を持って、自分たちこそが国家の礎であると主張し、「官」と対等の意識で上昇することなのだから、東京高等商業学校が大学に昇格することをなんとしても実現する必要があるのである。


>>渋沢翁あってのわが母校。人格、知識 信念、思想。「論語」と「算盤」の調和。自己の利殖ではなく、先ず国家社会の利益を考える。晩年は、大半の役職を辞任し、外交に力を注ぎ、『徳川慶喜公伝』に心血注ぐ


「オレたちバブル入行組」


「オレたちバブル入行組」(池井戸潤著、文春文庫)より


「一寸のネジにも五分の魂だ」
「ロボットみたいな銀行員になるなよ、直樹」

「夢を見続けるってのは難しいもんだ」
「それに比べて夢を諦めることのなんと簡単なことか」


>>半沢直樹の父の言葉が身に沁みる



「安倍内閣の研究」


「安倍内閣の研究」(岩見隆夫著、朝日新聞社)より


 岸が57年2月、首相官邸入りした直後、秘書官の晋太郎が、

「治安立法なんかやるよりも、専門の経済で勝負したほうがいいのじゃないですか」

 と進言したことがあった。記者出身の晋太郎にはまだ岸のハラがまったく読めていなかったのだろう。岸はこう答えている。

「総理大臣というのはそういうものではない。経済は官僚がやってもできる。なにか問題が生じたら正してやればいいのだ。総理であるからには外交や治安にこそ力をいれなければならんのだ」

 たしかに、戦前の商工官僚時代、岸は旧満州の経済開発を手がけ、実績を挙げた。首相になってからは、警職法、小選挙区制、憲法改正、そして安保改定と打ち上げる政治イシューのすべてが、岸の徹底した政治主義で貫かれていた。

 安倍も祖父が敷いた路線の上を走ろうとしているようにみえる。第一次でやり残したことをやると安倍は言ったが、その象徴が憲法改正による、

<「国防軍」の創設>
 
を政権公約に明記したことだった。


>>やっぱり、血は争えない。


「経営の行動指針」


「経営の行動指針」(土光敏夫著、産能大学出版部)より


 ある雑誌社から「期待される社員像」を求められた。私は次の時代を担う社員の特性として、①頭脳を酷使する人、②先を見て仕事のできる人、③システムで仕事のできる人、④仕事のスピードを重んずる人、⑤仕事と生活を両立させうる人――をあげておいた。これを一つに要約すれば「変化に挑戦しうる人」といえようか。


>>いつまでも、変化に挑戦し続けていきたい。


「失敗の本質」


「失敗の本質」(野中郁次郎他共著、ダイヤモンド社、初版昭和59年)より


 戦後の企業経営で革新的であった人々も、ほぼ40年を経た今日、年老いたのである。戦前の日本軍同様、長老体制が定着しつつあるのではないだろうか。米国のトップ・マネジメントに比較すれば、日本のトップ・マネジメントの年齢は非常に高い。日本軍同様、過去の成功体験が上部構造に固定化し、学習棄却ができにくい組織になりつつあるのではないだろうか。

 日本的企業組織も、新たな環境変化に対応するために、自己革新能力を創造できるかどうかが問われているのである。


>>「新たな環境変化に対応するために、自己革新能力を創造」できているか、自分に問い続けているだろうか。




「戦略の本質」


「戦略の本質」(野中郁次郎他共著、日本経済新聞社)より


戦略は「義(ジャスティス)」である


 戦略という知は真・善・美を希求する。プラトンは善を最上位に置いたが、善の典型は正義である。毛沢東の農村革命と救国・救民、チャーチルの民主主義文明の守護、スターリンの共産主義体制の維持、サダトのエジプトの尊厳回復など、それぞれの存在を賭したビジョンの背後には、戦争目的を正当化する大義があった。

 チャーチルは断固ヒトラーと戦う決断をした。かれはそれに耐える資源をイギリスが保有していると信じていた。ヒトラーと和平協定を結ぶほうが、イギリスのパワーを維持できる点では合理的であったかもしれない。しかしチャーチルは、彼の歴史観から、正義は邪悪な全体主義に抵抗するイギリスにあり、それゆえ勝つと信じていた。


>>「義(ジャスティス)」のない決断は、無意味である。


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