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「日本人と天皇」


「日本人と天皇 昭和天皇までの二千年を追う」(田原総一朗著、中央公論新社)より


  あとがき


 戦争の最高責任者は昭和天皇である。私は、当然占領軍は天皇を裁判にかけ、天皇制を廃止するのだろうと考えていた。ところが、マッカーサーは天皇を裁判にかけず、天皇制を存続させた。本文でも触れたが、昭和天皇がマッカーサーを訪ねたとき、「政治、軍事両面での全ての責任」は自分にあり「全てを諸国の裁決にゆだねる」と言ったことにマッカーサーが感動したためだとされているが、それ以上に、占領軍は占領政策をスムーズに進めるために天皇を利用することにしたのである。

 確かに、もしも天皇を裁判にかけ、天皇制をなくしていたら、日本国内は混乱し、収拾のつかない事態となっていたのではないか。その意味で、マッカーサーたちは、日本人というものを非常によく掴んでいたと言える。

 それにしても、日本人にとって、天皇とはいかなる存在なのか。敗戦後、二十八人のこの国の幹部たちがA級戦犯という形で厳しく裁かれるなか、天皇は不可触的な存在でありつづけ、日本人の多くが天皇が最高責任者だとわかっていながら、そのことに違和感を抱かなかった。

 話が飛躍するが、源頼朝、足利尊氏、織田信長、徳川家康など、天下を取った権力者たちは、天皇をなきものにすることが容易だったはずなのに、なぜ天皇を権威として掲げつづけたのか。そればかりではない。明治維新のように各権力者たちがこの国を変革するときは、ほとんど例外なく天皇を担いでいるのである。マッカーサーによる日本変革も、天皇を担いだ、いわば「戦後維新」である。日本では革命は起きず、いずれも「維新」である。そして二千年近く、兵力も財政力も持たない天皇が途切れることなく君臨しつづけている。


>>戦後のアメリカの「天皇を利用する」という国家戦略、今日に通じるものを感じる


「自省録」



「自省録」(中曽根康弘著、新潮社)より



 天皇退位問題


 1952年1月31日、衆議院予算委員会で、私は天皇について質問しました。

 このときは、対日講和条約の発効を目前にして、一度は質しておく必要があるだろうと思い、吉田茂首相に質問したのです。その論旨はこうでした。

「過般の戦争について天皇には責任はない。しかし、人間天皇として、心の痛みを感じ道徳的呵責を感じておられるかもしれない。そういう場合、内閣はその天皇の自然な人間性の発露を抑えてはいけない。もし天皇が退位を考えておられるなら、内閣はそれを抑えるべきではない。天皇の退位という問題は、あくまで天皇が自ら考え自ら行動されるべきものではあるが、もしそのようなご決断が万一あれば国民や戦争遺族は感涙し、天皇制の道徳的基礎はさらに強まり、天皇制の永続性も強化されるであろう」

 すると、吉田さんは、

「昭和天皇はこのままぜひ仕事を続け、日本再建に努力していただきたい。天皇の退位を言うものは非国民であります」

 こう答えたのです。マッカーサー元帥が占領成功のために天皇退位に反対で、首相自身も昭和天皇擁護論であったため、吉田さんは、退位論が人の口に上ることさえ嫌がったのです。私も、それ以上、議論を続けることは避けました。

 その頃、元内大臣の木戸幸一や東大総長の南原繁などが、やはり天皇退位を唱えています。それ以前には、高松宮か三笠宮も、退位を進言したようです。天皇は、非常に悩んでおられたと思います。

 私は、大臣として、また総理にもなって、昭和天皇に長いことお仕えする立場に身を置きましたが、人間的な深み、責任感と思慮の深さという点で、百二十四代続いていた天皇家のなかでも最高の天皇だったと思います。天皇学、帝王学というものを完全に会得した本当に立派な天皇でした。もう、こういう天皇は出ないかもしれない、そんな印象すら抱いたものです。

 ですから、若い時分に、天皇退位に関して行った私の質問は後々、再点検するところとなりました。首相になって天皇に内奏申し上げ、親しくお人柄に接したときには、あの質問は必要なかったと強く感じたものです。



 政権が汚職で倒れても、日本には超越的存在としての天皇がおられます。俗界の飛沫は天皇には及ばない。否、及ぼさせてはならないのです。この二重構造によって、日本の伝統と民主主義との調和があり、求心力と遠心力の均衡、いわば歴史的知恵の作用で、日本の自由民主主義は維持されていることを認識すべきなのです。

 ひとつ、陛下のエピソードを記しておきます。私が第二次佐藤改造内閣の運輸大臣に就任したのが、1967年11月。まもなくして、職務の内奏で、宮中に出向いたことがあります。一通り、話も終わったところで、私は年来、陛下に確かめたく思っていたことをどうしても抑えることが出来ませんでした。

「陛下、たいへん失礼とは存じますが、年来お聞きしたいと思っていたことがあるんでございます。お尋ねしてもよろしゅうございますか」

 直接、天皇陛下に質問することは、禁を破るようなものです。通常、首相でも、天皇からのお尋ねに答えるだけです。当時、私は四十九歳。思い切ったまねをしたものです。

 昭和天皇は、

「ああ、いいよ」

 と応じられました。

「実は、司馬遼太郎が書いた『殉死』という本がございます。その中で、学習院長だった乃木希典大将が殉死される前日、宮中で皇孫殿下三人を集めてお別れをやりました。しかし、お別れなど言わないで、山鹿素行の『中朝事実』の話をしましたが、難しいものですから、秩父宮と高松宮はプイと表へ飛び出してしまわれた。陛下だけが我慢して最後までお聞きになった、と書いてあります。たいへん恐れ多いことですが、そういうことはあったのでございましょうか」

 天皇は、

「記憶が定かではないけれども、もしそういうことが書いてあるならば、あったのかもしれない」

 と、答えられました。私は、持参した『殉死』を「この本でございます」と差し上げて、おいとましました。『中朝事実』にはところどころ乃木希典の朱注が入っていたとも書かれているので、その後富田朝彦宮内庁長官に、その本はあるかと訊ねてみたことがあります。調べたところ、宮中の書陵部にあったとのことです。

 乃木大将がやろうとしたことは「帝王学」でした。幼いお二人はその場を逃げ出したのも当然です。昭和天皇だけがじっとお聞きになったのです。たいへんな我慢強さ、聡明さといわざるを得ません。

 昭和天皇は、どちらかというと不器用なお人柄で、国民もそれを良く承知していました。同時に、誠実で純潔なお人柄も良く理解していたのです。

 帝王学を完璧に体得されていて、個人的意思表示は徹底して避けておられました。ただし、食事に入るときには、「皆の者、食事にしよう」といわれました。今上天皇なら、「みなさん」と言われるでしょう。



>>昭和天皇のことを知らない国民が増えているのは残念でならない


「軍事基地提供」


「昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著、文藝春秋)より



 寺崎英成・御用掛日記(寺崎英成資料による)


 
 昭和二十二年九月十九日(金)

 拝謁

 〔沖縄島 
 〔皇后陛下の服    大努力大成功の日


 シーボルトニ会ふ 沖縄の話 元帥に今日話すべきと云ふ 余の意見を聞けり 平和条約にいれず 日米間の条約にすべし


<注>
 二十二年九月、芦田均外相は特別協定を結んで、日本の安全保障をアメリカに依存するかわりに、米軍へ日本本土のどこかに基地を提供し、日本も警察力を増強するという案を、一時帰国する第八軍司令官アイケルバーガー中将に託した。マッカーサーがこれを受けつけてくれる気配がないので、反ソ・反共の中将をとおしてワシントンへの直訴を試みたのである。

 ところがこの日、寺崎は重要な天皇の意見をシーボルトに伝えている。それは九月二十二日付のマーシャル国務長官あての手紙として残されている。

「天皇は、アメリカが沖縄をふくむ琉球列島を軍事占領しつづけることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることになる」

 つまり、具体的な軍事占領の形態として天皇が考えているのは、日本に主権を残す形で、沖縄の利用をやむなく許す、ということである。

「この方式は、アメリカが琉球列島に恒久的な占領意図をもたないことで、日本国民を納得させることができよう」

 これが寺崎日記の内容であると思われる。軍事基地提供という点は同じとしても、芦田の日本本土を想定しているのにたいして、天皇は対象を沖縄に限定する。結果論的になるが、アメリカは沖縄限定案のほうに動いた。天皇の卓抜な政略観にびっくりさせられる。


>>しばし陛下のご意見に思いを馳せる


「結論」



「昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著、文藝春秋)より



 結論


 
 開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。

 終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまゝその裁断を私に求めたのである。

 そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いたのである。

 今から回顧すると、最初の私の考は正かつた。陸海軍の兵力の極度に弱つた終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起つた位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行つたとしたらば、一体どうなつたであらうか。

 日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ち乍ら愈ゝと云ふ時に蹶起を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段ゝ石油は無くなつて、艦隊は動けなくなる、人造石油を作つて之に補給しよー(ママ)とすれば、日本の産業を殆んど、全部その犠牲とせねばならぬ、それでは国は亡びる、かくなつてから、無理注文をつけられては、それでは国が亡〔び〕る、かくなつてからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。

 開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であつたのだから、私が若し開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつ〔た〕であらうと思ふ。


>>昭和天皇の終戦のご裁断無くして、今日の日本はなかったに違いない


「敗戦の原因」


「昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著、文藝春秋)より



 敗戦の原因



 敗戦の原因は四つあると思ふ。

 第一、兵法の研究が不十分であつた事、即孫子の、敵を知り、己を知らね(ママ)ば、百戦危うからずといふ根本原理を体得してゐなかつたこと。

 第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事。

 第三、陸海軍の不一致。

 第四、常識ある主脳(ママ)者の存在しなかつた事。往年山縣〔有朋〕、大山〔巌〕、山本権兵衛、と云ふ様な大人物に缺け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であつて部下統率の力量に缺け、所謂下克上の状態を招いた事。


<注>
 ごく最近になって公表された昭和20年9月9日付、皇太子(現天皇)宛ての天皇の手紙と、この発言を対比してみると興味深い事実が浮かび上がってくる。「敗因について一言いわしてくれ」と前置きして、つぎのように昭和天皇は記している。

「我が国人が あまりに皇国を信じ過すぎて 英米をあなどったことである
 
 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである

 明治天皇の時には 山縣 大山 山本等の如き名将があったが 今度の時はあたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考えず 進を知って 退くを知らなかったからです」

 天皇のいわば不動の太平洋戦争観が、この二つの文書からはっきりとみてとれる。



>>しばし陛下の戦争観へ思いを馳せる


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